僕の願いと君の…


     …ねぇ、アンタは覚えてる?

     見つめた先の暗い夜空。

     そこには厚い雲が何層も掛かっている。

     白い帽子を深く被ったまま一人の少年だけが立っていると、その後ろから別の影が

     近づいてきた。

     「越前」

     テノールの声で彼を呼ぶ声は優しくて…それでいて哀しそうだった。

     それに共鳴するかのようにザァーっと、雨が降り出した。

     今日は七夕。
      
     去年とは違って晴天に恵まれたためか商店街や人々の賑わいは例年では見られないもの

     である。

     それはここ青春学園中等部にも言えることだった。

     朝、目覚めたばかりの登校時、今年こそはと意気込んでいる生徒の会話があちらこちらから

     プールに靴下を脱いだ両の足を突っ込んだまま青空を寝そべって見上げる少年の耳にも

     届いた。

     「不二先輩…」

     すっかり夏服も着慣れた七月、シャツのボタンをラフに二つ開けて着崩したまま少年はそう

     言って唇を噛んだ。

     彼の名は青学二年、越前リョーマ。

     男子テニス部所属の期待の星である。

     昨年まで在学していた六人の三年生の穴は思ったよりも大きかったが、今はその残りで

     あるレギュラー陣の三人組でどうにか保たれていた。

     そう、彼は一年にしてレギュラーの座を獲得するほどの実力者である。

     成長期とは怖いもので、当時とは151cmという可愛いサイズだったのだが、

     現在では156cmになった。

     昨日までは梅雨の抜け切らない日々が続いていたのだが、今日は何故か予報とは打って

     変わった晴天に恵まれ、プール開きも既に始まった青学としては嬉しい誤算である。

     なるべく太陽は見ないようには努めてはいるが、夏と言う季節を手に入れたそれは、まるで

     オレンジのように強大になってはジリジリと地上を照らした。

     「……あつっ」

     白い帽子を深く被るが、半袖で晒している両腕がプールに投げ出している足以外の部分が

     悲鳴を上げてようやく唇からその短い言葉が静かに零れる。

     昼食後、久しぶりに外で昼寝をしようとこの場所を選んだわけだが、逆に熱くて目が冴えて

     しまった。

     それ以前に今日は七夕。

     そんな因縁の日に呑気に昼寝が出来るほど単純ではない。

     去年は例年並の雨天だった。

     しかも、……夜から。

     叶えて欲しい願いがあった。

     泣いて欲しくなかったのに、でも……やっぱりダメだった。

     自分が叶えたいことがバレてしまったから。

     こんなものは願いではなく願望だから。

     そんなことは当の本人だってよく解っていた。

     だけど、迫られた期日。

     追いかけられた想い。

     見送る時間の少なさ。

     そのすべてが越前から自信を失わせた。

     「越前……」

     揺らめく水面がまるであの人ように思えてしまって逃げたくても逃げれないもどかしさが

     少年の胸を焦がす。

     だが、それは時間が経てば経つほど哀愁に包まれ、気を張っていなければ泣いて

     しまいそうになる。

     …情けない。

     結局、伝えることができなかった。

     きっと、これは年に一度きりの逢瀬を邪魔した罰なのだろう。

     短冊に願った言の葉が脆くも雨に晒されてしまった瞬間、そう察した。

     伝えることも伝わらないことも覚悟しようと。

     瞳を閉じてから再び開くと、勢い良く立ち上がり、プールの水で濡れた足も拭かず靴下を

     履いた。

     もう直、短い昼休みも終わってしまうだろう。

     こんな時に限って五時間目は現国である。

     きっと、担当教師が気を使って七夕を題材にした文献を漁ったことだろう。

     暗い気持ちを引きずって彼はフェンスを飛び越えて校舎の方に駆けて行く。

     残されたプールはそれでも何も言わず、風に揺れていた。


     アレは去年の七夕だった。

     今年は新入生にしてレギュラーの仲間入りを果たした自分のためだと言って不二が大会前に

     願掛けも込めて大会前に七夕をやろうと言い出したのだ。

     「昼間晴れてたからちょうど七夕には都合が良いからね。皆、遠慮しないで家に来て大丈夫

      だよ。それにその方が母さんも姉さんも喜ぶしね」

     部活終了後レギュラー陣を集めて彼が皆を見回してそう言っていたことを帰宅途中の越前は

     思い出していた。

     集合時間は19時。

     不二の家にて直行することとなっているため一時自宅に帰宅することにしたのだ。

     普段は気にはしないくせに、せっかくだから母親が下ろしてくれた浴衣を着ていくべきかなど

     とまるでデート前の女の子のようなことを小さな胸をときめかせながら真面目に考えていた。

     いつからだろうか越前はあの微笑の下に隠れている本当の不二周助という人物が気に

     なっている。

     こんな感情を抱いてはいけないと思いながらも目は時折見せる彼の華麗なる技を目で

     追っている自分に気づく。

     「ねぇ、越前は今日何をお願いするんだい?」

     帰り際、彼が呼び止めて自分に聞いた事が脳裏を掠める。

     「お願いって……何すか、それ?」

     「やだな、越前。今日は七夕だよ?短冊にお願いを書いて笹にぶら下げるんじゃないか」

     そんなことは知っていた。

     彼が尋ねているのは何故そんなことを自分に訊くのかだ。

     しかし、その応えはあっさりと用意されており、目の前に薄い桃色の短冊が差し出される。

     「はい、越前用の短冊。あ、大丈夫だよ。無くしたりお願い事が増えたりしても良いように

      毎年短冊は多めに作る事にしているんだ」

     「……」

     「あはは、もしかして呆れた?中三になっても七夕なんかやってるって」

     「そ、そんなことないっす!」

     「ありがとう。でも、大事なことだと思うんだ。文化って残して置かないとあっという間に

      廃れちゃうし、皆忘れるだろうしね。それに文化って浪漫があって素敵な行事だと

      思わないかい?」

     「浪漫すか?」

     「そう」

     そんなことを急にふられてもどう返答して良いものか悩んでしまう。

     越前はそう言うものには疎い。

     好きな科目が化学のためかそう言う目に見えないものは何かと信じ難い部分があった。

     だが、何故だか不二が言うとそんなことも肯定したくなるし素敵なことだとも思えてしまう。

     「……うぃす」

     「本当かい?嬉しいなぁ」

     「って何で喜んでるんすか?不二先輩が訊いたんすよ」

     「ん。だけど、やっぱり誰かに自分の思っていることを理解してもらうのって

      嬉しくないかい?」

     「べ…別に……」

     不二が自分に向けて微笑んできて思わず頬が熱くなって帽子と一緒に顔を俯かせた。

     こんな所を見られるのは恥ずかしいし、それにヤバイだろう。

     今、頬を染めてときめいてるのは男でその傍で笑っているのも男なのだ。

     彼から逃げるように別れて数分後の今、少年の中にあったのはそんな言葉だった。

     諦めなければならない。

     諦めるのが当たり前なんだ。

     こんな初恋なんて気づかなければ良かった。

     一端飛び出したパンドラの箱には希望しか残らない。

     きっと、越前の心の中でも泣いていることだろう。

     出して…私を出して、……と。
      

     「っ……」

     その声が胸に染みたのか彼の大きすぎる瞳に涙が溢れてきた。

     こんな思い気づかなければ良かったのに、現実は選んでしまう。

     不二に出会うことは必然で仕組まれた道を歩まされている。

     その先で自分を待ち受けているものはなんだろうか。

     頭を強く振って中から湧き上がったものに気づかないフリをすると、ズボンの左ポケットに

     手を突っ込み先程彼から手渡された短冊を取り出した。

     越前にはこれと言って願いと言うものはない。

     普通ならばもっとテニスが巧くなりたいとか頭がよくなりたいとかあるのだろうが、彼は全く

     冷めていた。

     そんなことは自分でどうにかするものであって神頼みするものではない。

     あれは今から考えると、淡い期待に化けた悪魔だったのかもしれなかった。


     「越前」

     それは部活終了後の帰宅途中に起こった。

     背後からいきなり懐かしい声が自分を呼んだことに喜びと躊躇いが同時に湧き上がる。

     振り返っても良いのだろうか。

     自分にそんな資格があるのだろうか。

     しかし、そんな躊躇いは逢いたいと願っていた恋心にいつだって負けてしまう。

     「不二先輩!」

     「久しぶりだね、越前」

     振り向いた先には中等部とは明らかに違ったデザインが施されている制服を着こなした

     不二がいた。

     少し短く髪を切ったのだろうか、最後に見た時よりも大人びて見える。

     「どう?少しはテニス巧くなったかい」

     「…誰に言ってるんすか」

     「勿論、君にだけど?」

     「……」

     彼のこの口調は相変わらずである。

     「そんなことより高等部ではどうなんですか?」

     仏頂面のままそう尋ねた少年に気づかれないように笑うと、さらにこちらに向かって

     歩み寄った。

     「相変わらずだね、越前は」

     「それはお互い様じゃないすか」

     「僕かい?」

     そう言われたかと思うと、次に不二を瞳に宿す頃は至近距離だった。

     「なっ!?」

     「僕は変わったよ。君が思う以上にね」

     彼が何かを言うたび息が頬に当たってそれが煽るように感じられる。

     顎を持ち上げられた指先は思うよりも強くてパニックを起こしている彼には抜け出すことな。

     どできない頬は次第に熱くなり、その温度から赤くなっているのだと解ってさらに動揺した。

     「ふ、不二先輩!」

     「何だい?」

     「「何だい?」じゃなくて、離して下さい!」

     これ以上こんな体制を取られてしまっては誰かに見られてしまったらかなり危ない。

     不二を密かに想っている自分としてもどうして良いのか解らない。

     悪戯の類でこんなことをされても哀しいだけだ。

     「君は……越前は……本当に離して欲しいかい?」

     「えっ?」

     いきなり先程とは違った声色で尋ねられて少年の中の熱が少し下がった。

     それは、いつかのものと同じだった。

     見つめた先の暗い夜空。

     そこには厚い雲が何層も掛かっている。

     白い帽子を深く被ったまま彼だけが立っていると、その後ろから別の影が近づいてきた。

     「越前」

     テノールの声で彼を呼ぶ声は優しくて……それでいて、哀しそうだった。

     それに共鳴するかのようにザァーっと、雨が降り出した。

     濡れた竹。

     雨に晒されるたくさんの希望。

     『神は死んだ』

     歴史で誰かがこんな台詞を言っていたことを思い出していた。

     期末後だから誰の名文句なのか覚えてはいない。

     ただ、その言葉はこんな時に使われるのではないかと思った。

     この雨は自分が降らせてしまったのだ。

     ……『本当の不二先輩を知りたい』と願ってしまったから。

     今夜の空をこんなにも泣かせてしまったのは自分の所為だ。

     「すみません、不二先輩。俺…、帰ります」

     「っ!?越前」

     「さよなら」

     「まっ!」

     それは身勝手過ぎる別れだった。

     だが、このままこの家で呑気に時間が来るまで過ごすことはできなかった。

     他でもならない願望の前では……。

     年に一度の好天気に恵まれたと言うのにそれを何の考えもなしに踏みにじったのだ。

     そんな自分があの場所に留まることなど許されるはずがない。

     駆け出した足に鞭打ってスピードを上げれば、次第にこみ上げてくるのは雨と一緒に頬を

     滴り落ちた。

     それは、彼を想い始めていた恋の欠片だったのかもしれない。


     「僕はね…ずっと、君に言えなかったことがあるんだ」

     越前の顎を捉えたまま不二の青く澄んだ瞳を開いた。

     「えっ…」

     その美しさにどんな言葉も邪な気も失せてしまう。

     それほどキレイだった。

     「僕が去年の七夕を台無しにしてしまったんだ。越前には悪いことをしたと思ってる」

     「台無しって?」

     もしかして、と高鳴るのは淡い期待かそれとも名ばかりな偽善か。

     「『本当の越前を知りたい』……って書いちゃったんだ。……短冊に。だから、二人を

      怒らせちゃったんだね。年に一度の逢瀬を邪魔しちゃったから」

     「そんなの不二先輩だけじゃありません!」

     目の前で苦笑する一人の青年を独りにさせたくなかった。

     「越前?」

     至近距離でそんなことを叫んでしまった所為で彼は目を大きくしてしまう。

     それは、一瞬で終わった。

     自由だった両腕を自らと同じく華奢な不二の体を抱きしめて勢いで唇を吸った。

     「越っ……前?」

     時は再び流れ出した。

     青年の瞳には今にも泣き出しそうな己の姿しか映っていない。

     まるで、あの日の雨が一年後の越前の瞳に宿ってしまったかのようだ。

     「違うんです。あれは……あの時の雨は……俺が呼んだんです」

     「どういうこと?」

     「俺が…短冊に …『本当の不二先輩が知りたい』って書いたから」

     もう、隠し切れない。

     彼から動き出されてしまったから。

     自分はズルイから。

     「じゃあ、お願いしなくても良かったんだね」

     「えっ」

     その声はあの場所で少年の名を呼んだ時よりも優しく、愛しさが感ぜられる。

     「大好きだよ……リョーマ」

     顎から熱く火照った頬に指を移動させると、感触を楽しむかのようにつぅーと滑った。

     「んっ、不二先輩…」

     「でも、もう、短冊の効果は無効だよ。僕はもう、君に隠し事をできそうにないから」

     再び青年が微笑むと同時にその唇が重なる。

     互いに理解していなかった願いは現実へと姿を変え、短冊は黄昏と共に西の空に消えて

     いった。

     気がつけば闇の中に数えられるくらいの星しかないがそれでも天の川を隔てて二つの光が

     共鳴し合っている。

     それは、あの時、彼らが目にしているはずだった古よりの二人だった。



     ―――…終わり…―――



     ♯後書き♯

     『僕の願いと君の…』はいかがだったでしょうか?

     不二リョ作は初めてでしたが、皆様にお楽しみ頂けましたでしょうか?

     今作は私のお友達の星月 蘭様のサイト「MY☆LOVE」との相互記念で作成させて頂きました。

     BL作は何作もupしているのですが、献上するに当たって作成するのは初めてでしたので、

     少々緊張してしまいました。

     ですが、自分の妄想には自画自賛と言いましょうか呆れています。(笑)

     何かと言いますと、今作を書き始めましたのは七夕の四日前でほとんどノンストップで

     書き上げたんですよ。

     これはこれで読者の方々のお陰です。

     それでは、こちらまでご覧下さり誠にありがとうございました。