Goodby my …

 

 

          「少しだけ……私に時間を下さいっ」

          深夜、閑静な住宅街の一角にある高層マンションでその声は発せられた。

          六階のベランダでは、二人の男女がいる。

          男性の方は女性より少女と言う方が正しい彼女の顔を覗き込んだ。

          「何をお悩みなのですか?」

          紳士的な仕草に目を泳がせながら胸の前で握った両手をぎゅっと握り締めた。

          青年は、仕事帰りなのか、白のスーツを着ており俯く一回りも違う彼女の肩に

          手を乗せる。

          「さん。何をお迷いになられているのか、私にどうか仰って下さい」

          一瞬、自分と目を合わせてまた俯こうとする少女の細い肩を軽く揺すった。

          「私…」

          口篭もった顔を上げてもう一度彼を見ると、その掌には小さな赤い包みが合った。


          二月は一年で最も寒い月である。

          正月気分も吹き飛んだ街中では、バレンタイン一色である。

          当日が近づくたび、フェア―を催している店内からはそれを求める女性客が

          増える一方だ。

          中には、自らチョコを求める男性諸君もいた。

          それを見かけた者は、何やら妄想してみたり、哀れんだり、誰かに頼まれたのか

          とこれも様々な思想を巡らす。

          だが、バレンタインに誰かに想いを伝えようとするのに、男も女も関係などない。

          寧ろ、誰が同性だそうでないなんて気にする余裕などなかった。

          どれを選ぶかによって、相手の心が決まるとでも言うように皆、真剣な目をしている。

          物を選ぶのも女性特有の快楽ではないだろうか。

          皆それぞれではないが、その顔つきはどこか喜びを感じさせるものがある。

          見ている側にさえそれは伝わってきて、何故だか幸せな気分になってくる。

          それは、既に作られたものに止まらず、自らの力を信じる者が集う場所が合った。

          しかし、世の中が浮かれ気分でいるというのに一人の少年はそれさえ邪魔だという

          ような顔をして いた。

          彼の名は、伊武深司。

          不動峰中学校の二年生である。

          肩まで伸ばしているストレートな髪と他人を貶すようなぼやきが特徴である。

          だが、それは彼が正直であるが故のことであって、本人には相手をどうにかし

          ようと思って発しているわけではなかった。

          それは、伊武が所属している硬式テニス部の仲間達は良く知っている。

          だが、ほとんどと言っても良いほど、彼の周囲の人間はとにかく誤解をしてしまう。

          時々、その仲間達にも呆れられてしまう時が合った。

          しかし、それは本人も理解していた。

          自分の言ったことで相手をへこませたり、貶したりしてしまうことが解っていても

          やはりそれが癖になってしまっているのだ。

          こんな伊武深司という人間を誰か心の底から好いてくれるのだろうか。
 
          生まれ出てから何年の少年はそう考えていた。

          「深司!今日、何の日か知ってるか!?」

          朝からハイテ―ション気味に教室のドアを開けたのはチームメイトである神尾だった。

          「何って…………何?」

          知っているくせにわざと惚けた振りをする。

          朝からこんなことで自分のペースを崩されたくないものである。

          「バレンタインだぜ!あぁ、何だかドキドキしてきてリズムが狂っちまうぜ」

          だが、彼の行動パターンを知っている彼はそのことに何の怒りも覚えず、

          本題を切り出した。

          「じゃあ、体制立て直したら?それに、期末の事忘れてない?今日が最終日だか

           らって気を抜いていて良いの?」

          「解ってるって。でも、誰がくれるのかと思うとわくわくしねー?」

          「さぁね。俺はそんなことには興味ないから」


          …………ウソツキ。

          本当はどうしようもないくらいに、今日と言う日を感じている。

          誰かに恋焦がれている神尾の気持ちが痛いほど解ってきた。

          しかし、こんなことを彼や他の人間に話すことが出来ず、結局、「いつもの

          伊武深司」を被っている。

          HR中、ずっと頭の中であることを思い出していた。


          あれは、この不動峰に入って間もない頃だった。

          中学に入ったらやろうと思っていた硬式テニス部に入部届を提出してから地獄の

          毎日が続くとは、この時は想像もしていなかった。

          「っ!!」

          コートの隅でボールを拾っていた彼の背中に激痛が走った。

          思わず倒れそうになるのを堪えると、後ろから笑い声が聞こえてきた。

          理由は、解っていた。

          わざとだから…。

          「悪い、悪い。サーブ打ったら、こいつ取らなくてよ」

          「……いえ、…大丈夫……ですから」

          「そうかい。でも、お前も悪いんだぜ?コート、使っている時にそんなトコに

           いるから球に当たるんだよ」

          「すみません………………以後、気をつけます」

          怒りを抑えてぺこぺこ頭を下げて部室に戻り、整理整頓をする。

          この中学校では、一年の内は先輩の行動を見てそれの補助をして学んでいく

          校風があった。

          だが、この部はろくに練習もせず、人生を舐めきったヤツラばかりが入部していた。

          気晴らしに殴られたり、今のようにわざとボールをぶつけられたりする。

          束の間の安息が取れるのは、自宅とこの部室くらいだった。

          勿論、一年には専用のロッカーなどない。

          だが、この場は同じ志を持った同士が瞬時の交流をするところだった。

          ここで、今のメンバーと巡り逢った。

          元々は新入部員十何人もいたが、この部の本性を知ってから恐れをなして

          今の人数に治まったのだ。

          彼も含めて皆の胸の内には熱く燃え滾るものがあった。

          それは、無能なヤツラへの恨みではなく、大会に出場することである。

          自分の力を信じてそして、更に磨きたい欲望は誰にも負けない。

          そんなある日だった。

          あの人と出会ったのは……。

          「おらっ!立てや、こらっ!!」

          「っ!?」

          いつものように、一年生達は部室裏で並ばせ、不良どもに殴られていた。

          何もしていないにも関わらず。

          だが、彼らにとってはそんな理由は吐いて捨てるほどあった。

          ただ、ムカツいたから。

          そんなどこにでもあるようなストレスさえ、まだ、幼い少年達を標的にする。

          「何だっ!その目は!!気に喰わねぇな」

          別に睨んだわけではないが、ただ不良の誰かと目が合うとそう評されてしまう。

          それは、アンタらが殴って顔を引きつらせているからだろうと言いたくても、既に、

          限界に来ていて何も言う気にもなれなかった。

          「深司っ」

          地面に這いつくばっている同士たちは、辛うじて意識を取り戻したようだ。

          だが、体の自由は利かないようでこちらをじっと見ていた。

          「何だっ!まだ、口が利けるのかよ!?なら…」

          「止めて……下さいっ!俺を……俺を殴って下さいっ」

          自分の胸座を掴んでいた男の手首を掴み、自らの顔を差し出す。
 
          その瞳には、この少年にしては珍しく仲間を庇いたいと言う意思がはっきりと

          映っていた。

          「なっ!?何だよ。…よし、お望み通りお前を殴ってやるよ。光栄に思えっ!!」

          「深司っ!」

          害を与えていると言うのに、それを恐れずこちらをずっと見ている後輩に圧倒され

          ながらも握りこぶしを高く天に翳した時だ。

          「やめなさいっ!」

          「っ!?」

          彼が疲労で重たくなった瞼を下ろした頃だった。

          背後からいきなり誰かに声を掛けられたらしく周囲の空気が瞬時に固まったのが解る。

          すっかり重たくなった瞳を開くと、底には自分と大して変わらない小柄な少女が

          立っていた。

          だが、その表情にはどこか覚えがあった。

          一見、大人しそうだが、意志の強そうな眉が本来の彼女の意味を伝えている。

          「あ…」

          「カイチョー…」

          伊武が者を発する前に硬直しながら後退りしている不良が応えた。

          少女の名前は、

          この前の学内選挙で見事、生徒会長になった二年生である。

          「あら?私の顔は知っているようね。なら、話が早いわね。ここで何をやって

           いるのかしら?事によっては、どうなるかわかっているわよね?」

          彼女はそう言って彼を睨みつけた。

          生徒会は、学生の中でも一番教師の信頼が篤い。

          それも、その会長ともなれば、絶対命令的であった。

          「チクショ……覚えてろよ!!」

          その瞳で見つめられた少年は柄にも無く蒼白になって走り去っていった。

          後ろ姿が見えなくなるのを見計らって、スカートの裾を気にしながらその場に
 
          しゃがみ込み、無残な少年達を見回す。

          「大丈夫だった?ごめんね、来るのが遅くて…」

          先程まで吊り上げていた眉を一遍で下げて、自らのポケットからきれいな

          ハンカチを取り出した。

          「っ!?」

          何をするのかと見ていた伊武の口元に痛みが走った。

          もう、回数は覚えてはいないが、大分殴られた。

          それによって、口の端を切ったようで彼女が見せてくれたハンカチの生地には

          赤い液が染みを作っている。

          「待っていて。ちょっとそこの水道で冷やしてくるから」

          「ちょっ、ちょっと、待って!」

          痛みを堪えながら彼女を呼び止めようと唇を動かした。

          「ダメよ、動かしちゃ」

          振りほどけば崩れ去ってしまうかもしれないその手を自らのもので包み込むと、
  
          かすかに微笑む少年と目が合った。

          は一瞬の内に顔を赤らめ、戸惑うようにぎこちなく笑い返す。

          「先輩。どうかこのことは……誰にも言わないで下さい」

          「どうして?あなた達こんな目に遭ったって言うのに、「先輩」の資格も無いアイツ

           を庇う気なの!?」

          「……別に、庇うわけ…………ないです」

          「じゃあ、どうして?私はこのことを生徒会の議論として告訴し、硬式テニス部を

           廃部に…」

          「やめて下さいっ!それだけはやめて下さい!!お願いします!!!」

          力尽きたはずの体に鞭打って彼女の両肩を強く揺する。

          伸ばせば彼と大して変わらないであろう黒いゴムでまとめた髪が激しく動いた。

          そんなことをされてしまえば、自分達が今まで我慢してきた苦労全て、水の泡と

          化してしまう。

          彼達新入部員たちは、少ない交流で来年まで待つことを選んだ。

          来年の春には、今の二年生は受験との肩書きで引退することが校則で決まっている。

          そしたら、新硬式テニス部を作り上げることを志に今まで耐え忍んできた。

          先程の伊武とは明らかに違う姿に、目を丸くしてこちらを見ている彼女に気づき

          慌てて手を放す。

          すいません、と聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

          こんなことを言っても女性のには解ってもらえないかもしれない。

          いつかのTVでたまたま聞いた話だが、男性はプライドや出世欲の強い生き物だと

          中高年の男性キャスターが言っていたことをふと思い出した。

          それに対して、女性は協調性が強い生き物で仲間意識が高いそうだ。

          お互い違う人間でしかも異性と来れば、価値観や思想が一致することはあまり

          多くは無い。

          ふわっ…

          彼が口篭もっていると、急に頭部に柔らかい感触があった。

          「うん……解った。だけど、これからは生徒会とか忙しくない時に来させて

           もらうわよ」

          その声と共に見上げると、校内に続く渡り廊下を駆けて行く後ろ姿があった。

          それからと言うもの、少女は本当に時々だが、荒れに荒れている硬式テニス部を

          視察に来るようになった。

          彼女を恐れる先輩達はどこかへ逃げ去り、それを慕う新入部員達はまるで先生に

          甘える幼稚園児のように群がった。

          彼らのいないコートで試合をし、誰もがかっこいい所をに見せようと独自の個性や

          特徴を生かした技を編み出していった。

          もちろん、伊武もその中の一人だった。

          彼女がいつもそばで応援してくれると思うと、どんな辛いことでも苦には感じなかった。

          しかし、それが初恋だと気づいた頃には、もう、は硬式テニス部には来なくなった。


          「深司。今日は橘さんの送別会だから時間になったら来いよ」

          「わかってる」

          期末テスト最終日も無事に済み、神尾の声を背後に感じながら昇降口へと歩みを進める。

          今日は、全くの無名校だった不動峰を支え立ち上げた男、橘桔平の送別会を部室で

          行うことになった。

          時間は、五時。

          勿論、本人にはそれを伝えていない。

          ただ、神尾が彼の妹と上手くセッティングをしていると聞いていた。

          橘が硬式テニス部に入ったと同時に姿を見せなくなった少女へ憧れの眼差しは何時しか

          同い年の娘に変わっていった。

          だが、彼のは単に「憧れ」であって、「恋」ではないのだろう。

          多分、自分以外のメンバーも同じだろう。

          彼らの瞳には橘 桔平と言う男と全国への熱い思いしかないからだ。

          あれから彼女と逢ってはいない。

          公式の場ではそうだが、あの頃のようにプライベートに逢うことは無くなった。

          現在は遠くから見ていることしか出来ない。

          あの時、何故真っ先に、どうして来ないのかに問い詰めなかったのだろうか。

          そう、この一年間、ずっと悩んでいた。

          だが、実際は聞けなかった。

          怖かったからだ。

          こんなことを他の人間に話してしまったら笑われるかもしれない。

          しかし、伊武は至って真剣だった。

          もしも、今までが単に同情だとか言われてしまったらどうしようか。

          体に傷をいつも負って頑丈になれたと思っていたが、肝心な所は微風でも靡くレースの

          カーテンのように弱かった。

          今もこうして下駄箱の前に来て深呼吸をしている。

          彼女からチョコがもらえますように…と。

          「…っ!?」

          少年がその歳では色っぽすぎる切れ長の瞳を開けると、そこには小さな白い封筒が

          入っていた。

          丁寧に置かれたそれは、泥がつかないように乗せられている。

          鷲掴むようにそれを自分の方へと引き寄せ、たった一枚の便箋を開いた。
 

          “伊武深司様へ

          お久しぶりです。

          いつもあなたの姿を生徒会室から拝見していました。

          身勝手な私ですが、元気そうでとても安心しています。

          これからもあなたらしくいて下さい。

           より

          追伸

          あなたに渡したいものがあります。

          今日、学校が終わったら、あなた方が一番思い出のある場所で待っています。”

          彼が帰ろうとした時は確かに真上に合った太陽が少しずつ西へ傾いている。

          BGMには生徒達の無邪気な笑い声が響いてきた。

          なぜ、彼女は今日になってこんな手段を取ってきたのだろうか

          あの頃より成長した伊武は今では軽くを追い越して、今度は逆に彼女を見下ろ

          せるようになった。

          力だって、ある。

          そんな自分にでも厭きられてしまったのか、これまで鉢合わせになっても無視

          され続けていた。

          もし、この手紙を書いた主があの少女だったらどうだろうか。

          逢いたい

          逢って聞きたいことがあった。

          なぜ、自分達を捨てたのかではない。

          手にした紙切れをクシャっと軽く握りつぶすと急いで裏校舎に向かって走った。



          「久しぶり」

          「……はい」

          あの頃より小さくなった少女は、彼を見上げるように呟いた。

          裏校舎はただの砂地で特に変わったものはない。

          むしろ、何があるかなんて他の生徒や教師達には理解できないだろう。

          ここに、彼らの足跡があるなんて誰が知っているだろうか。

          関係者には一発でここだと思うこの場所が、今ある硬式テニス部の原点である。

          深く線が掘られているお蔭でどうにか残っているが、後十年と言われたらあるか

          どうかの保障はどこにもなかった。

          彼女はそれを背景に佇んでいる。

          まるで、何もかもさらけ出しているように無防備だった。

          小さな掌の上には赤い包みがある。

          「私、……あなたにこんな言をいえる義理じゃないことは解っている。でも……

           どうしても今日、深司君に伝えなくちゃ……私…」

          思いを言葉にすればするほどの目には、涙が溢れてきた。

          いきなりのことで何が何だか解らない彼は体を固まらせ、それをじっと見る。

          やはり、本人に逢ってしまうとなかなか素直になれない部分があった。

          ずっと、待っていたあの日々。

          彼女の笑顔が見たくて、磨いた技。

          すれ違っても赤の他人。

          崩壊寸前の恋は、胸を締め付け余計にを求めている。

          逢いたい。

          たとえ、断れても非難されたって良い。

          「……俺」

          「私っ!」

          同時に放った言葉は二人の間を流れる沈黙によってかき消された。

          こんな時、何を口にすれば良いのだろうか。

          又、いつものお前らしくもないと言われそうだが、確かに、他人に気を使うこと

          なんてしない。

          それは、自分とて同じことだった。

          そんなことは人生に余裕のある人間がやるべきだと思っていた。

          だが、こうして俯いたまま黙っている彼女を見ていると、不思議にそんな気分をに

          なってしまう。

          思わず顔が緩んでしまう。

          こんな表情を浮かべるのはあの頃以来であろうか。

          それもこれも全ての所為だ。

          「あっ…」

          急に、彼女が何かに気づいて伊武を指差した。

          「?…………どうかしたんですか?」

          「深司君の笑顔、久しぶりに見た」

          そう言って、少女は自分のことでもないのに、笑って答える。

          「先輩だって、あれから一度も笑っていませんよ」

          「そうだったけ?」

          「そうですよ」

          暫くお互い笑いあった後、彼女が気を取り直したように口を開いた。

          「私ね、本当は怖かったの」

          「何がですか?」

          「…あなたを……きになること…」

          「はっ?」

          小さな声で何を言ったのかわからず、顔を思わずしかめる。

          その声を聞いて気を悪くしたのか肩を強張らせ、身を縮めた。

          「あっ…………その、聞こえなくて。別に、否定じゃありません」

          わなわなと奮わせた少女がどこかに消え去りそうで、怖かった。

          「好きなのっ」

          「えっ」

          今度は、ちゃんと聞こえた。

          しかし、それを信じて良いことなのか解らない。

          言葉が出てこない。

          目の前では頬に雫を流す年上の彼女。

          ずっと想い焦がれていたが、今、自分を受け入れるような言葉を発した。

          こんな時、浮かれた熱にヤラレてしまって、俺も、と言う簡単なことさえも

          口に出来ない。

          いきなり脳裏に浮かんだ行動を取ってみる。

          ふわっ…。

          「っ!?」

          頭が真っ白で何の考えも浮かばないと、彼女と初めて出会った時のことを

          思い出した。

          まだ、荒れに荒れていた硬式テニス部では、地獄のような日々が続いていた。

          気晴らしに殴られている時、生徒会長になったばかりのと言う少女に出会った。

          彼はその登場に怯えて立ち去り、残された一年生達はその看病を受ける。

          その時、彼女は今、伊武がしているように、頭をそっと触ってくれた。

          「深司君……もしかして…」

          「忘れるわけ無いじゃないですか。初めて好きになった人からされたことなん

           ですから」

          やっと、伝えることが出来た。

          そう思うと体がいきなり軽くなり、少女に凭れ掛かるような形になってしまう。

          だが、それでも彼女は優しく受け止めた。

          これは、夢ではない。

          頭の中で何回もまき戻して見た妄想ではなく、ちゃんと背中に回された腕の

          感触があった。

          「ごめんねっ……ごめんなさい」

          胸の中で泣きじゃくる彼女が同じ気持ちなんだ、とこちらまで目頭が熱くなり

          そうだった。

          暫く抱き合うと、お互い黙ったまま歩き出した。

          一年間のすれ違いを上手く埋められないと言うこともあるが、半信半疑だった。

          実際に想いを伝え合ったのだから何の迷いも生じないだろう、と誰かが聞いたら

          そう言うだろう。

          だが、二人は今こうして想い続けていた相手とこうして歩いていることさえも

          信じ切れなかった。

          いっそ、これは出来すぎた夢だという方が良かったのかもしれない。

          「あっ…」

          十四歳の少年は震える手で彼女の掌を触った。

          それは、今、自分が出来る好きだという証。

          彼女も短く叫ぶがそれから逃れるわけでもなく、数分後、それは一つになった。

          途中までと思っていたはずが、結局、自宅前まで送ることにした。

          なぜだろうか、先程から嫌な胸騒ぎがする。

          このまま手を離してしまえば永遠に自分の下に戻ってこない気がした。

          「深司君……もう、私、帰るよ?」

          「……」

          先程からそう言っている彼女の掌を離さずに、じっとその瞳を見つめる。

          そうすることによって何かが見えてくるかもしれないと思ったが、の目は以前と

          変わらず自分だけを映していた。

          「先輩。これ、本当に俺が貰って良いんですよね?」
 

          「どうしたの?何度も聞いたりして」

          彼女は瞬きさせながら不思議そうな顔を浮かべる。

          何度だって確かめたかった。

          彼女が不満とかそう言う領域ならまだ、良い方だ。

          問題は先程から続く嫌な予感だ。

          この家に着てから何故かそれが強くなったように感じた。

          「先輩。もう一度、言って下さい。……「好き」って」

          「えっ!?」

          突然何をいうかと思ったらそんな恥かしい言葉が出てきた。

          顔中を赤く火照らす彼女を見ていると、もっと困らせたくなる。

          自分の事で悩んだりするをもっと、見ていたくなる。

          「…きだよ。深司君のことが好き」

          その続きはわざと言わせなかった。

          勢いに任せて彼女の唇を奪う。

          だが、幼すぎたそれは瞬時に離れた。

          「好きです」

          「……」

          彼の代わりに黙ったを残してその場から駆け出していった。

          それをあの時とは反対ね、とくすくす笑い、哀しい顔をして呟いた。

          「Good by my sweet heart…」

          そう呟いたの瞳から涙が零れていた。

          「……もう、宜しいのですか?」

          背後から近づいてくるのは、白いスーツを着たサラリーマン風の男性だった。

          「えぇ…もう、私は大丈夫だから」

          涙を指先で拭っては見るが、なかなか止まらない。

          彼は首を左右に振り、自らの胸ポケットから白地の薄いハンカチを差し出した。

          「今は気が済むまで泣いて下さい。あなたはもう、この世にいられないのですから」

          「はい……」

          彼の冷静な声が氷の刃となって彼女を突き刺す。

          そう、彼女は既にこの世の者ではなかった。

          期末試験一週間前のある日、出題範囲に夢中だった彼女は信号が赤になったのにも

          気づかず、足を踏み出して無免許運転をしていた大学生に轢かれてしまったのだ。

          しかし、妙なことに体に異常は見られなかったので、そのまま歩いて家に帰ると、自室

          の窓を叩く音が聞こえ、恐る恐る開けるとこの青年が立っていたというわけである。

          「本当にあれで宜しかったのですか?」

          「えぇ。それに早く私を天国に連れて行かないと、ミカエルさんが神様に怒られる

           でしょ?」

          「…お優しいですね。あなたは」

          「わっ私は、特別なことなんてしていませんからそんなこと言わないで下さいよ!」

          「どうしてですか?私は本当のことを述べたまでですが…」

          彼は人間の思考が理解できないとでも言いたそうな顔をして首を傾げた。

          この一見、天然に思える青年はミカエル。

          天使の中で最も偉いらしく、神の側近である。
 
          彼と初めて会ったあの日、手にしていたあの赤い包みの中に入っていたものは、手作り

          チョコレートだった。


 
          「あっ!これなんか良いかな」

          クッキングコーナーで一人の少女が手にしたものを見て微笑むと、緑の買い物カゴ

          の中に入れる。

          ここは商店街の一角にあるスーパーである。

          さすがに、手作りは余りいないのか、きれいに並べられているものより人数は限られ

          ていた。

          今、このコーナーに足を踏み入れているのは、彼女しかいない。

          買い物カゴの中は数種類の材料があった。

          ブラックチョコ、無塩バター、生クリーム、蜂蜜、ココアパウダー。

          それを確認し、気合を入れて会計を済ませる。

          本当は、レシピでは、ブラックチョコではなくスイートチョコになっていたが、伊武は

          恐らく甘いものは苦手だろうと思い敢えてこちらを選んだ。

          「これでガナッシュが出来るネ♪」

          鼻歌を口ずさみながら夕飯が過ぎたキッチンでは甘い匂いを漂わせた。

          チョコを湯銭で溶かしやすいように包丁で細かく刻んでいる時は父親に冷やかされ、

          仕上がった半分は愛する生涯の伴侶にとせびりに来た母親に押収されてしまった。

          彼と初めて出会ったあの日、新入生を助けようと必死だった。

          それなのに、あんな大人のような微笑を浮かべられてしまったら意識せずに入られなかった。

          あれから彼達硬式テニス部を訪問するようになって段々、伊武深司と言う少年を本気で

          好意を抱いてしまった。

          今までのように「可愛い後輩」として見ていられない自分の弱さに気づいたは、橘の登場も

          手伝って足を踏み入れることをやめた。

          だが、何度も忘れようとしても目で彼を追ってしまっていた。
 
          しかし、ミカエルのお迎えもあり、このまま天国に逝ってしまうのなら、気持ちだけはどう

          しても伝えたかった。

          自分は恨まれても仕方が無いことをした。

          だから、軽蔑されているものかと覚悟していた。

          だが、返ってきた答えは意外なものだった。

          (深司君…)

          心の中で彼の名を呼ぶ。

          不意打ちだった口づけ。

          唇にはまだ感触が残っていた。

          何故だろうか、こんな時にまた彼に逢いたくなる。

          「逝きましょう、ミカエルさん。ここにずっといたら決心が鈍るわ」

          そんなものなど元から無いくせに、出来るだけの平静を装ってみた。

          見栄だけは一応、残っているようだ。

          彼は少し困ったような顔をしたが、解りました、と言って何かの呪文を唱え始める。

          これが、この世からのカウントダウンかと思うと、脳裏に伊武の顔が浮かんできて声を

          立てないように泣いた。


          (深司君……ごめんね……)

          「…………んぱいっ!………………っ!!」

          閉じていた瞳を勢い良く開けば、そこには一番逢いたかった彼がこちらに向かって

          走ってくる。

          彼女の頭の中はパニックを起こした。

          何故、先程別れたはずの伊武が走ってくるのだろうか。

          その前にミカエルをどこかに隠さないと話が余計ややこしいことになる。

          「ちょっと待って!…って、あれ?」

          今まで自分の背後で呪文を唱えていた青年の姿はどこかに消えていた。

          代わりに優しい風に頬を撫でられる。

          「っ!大丈夫か!?」

          「えっ…と、何が?」

          いきなりそう聞かれても何を応えて言いの戸惑ってしまう。

          その答えを聞いた彼はへなへなと、道路に座り込んだ。

          「さっき…お前と別れた後、声を聞いたんだよ」

          「声?」

          「あぁ。「彼女のことが本当に好きだったら今すぐ、彼女の家の前に戻ってきなさい」

           って言ったんだ。だから、俺はこうして走ってきたっ!?」

          思わず、体力も精神力も尽きた伊武に抱きついてしまった。

          逢いたかった。

          良く出来たゲームのシュミレーションでも良いからもう一度、逢いたかった。

          「くっ……深司っ…………深司っ」

          涙が再び溢れて彼の制服を濡らしてしまった。

          だが、本人は全く気にしていないのか、強く抱きしめ返す。

          「もう一度、言って?」

          「……深司」

          「…」

          二人は見つめ合うと、二度目の口づけを交わした。



          †おまけ†

          「ミカエル…何故、あの娘を蘇生した。そんなことをすればどうなるかわかって

           おるだろう?」

          天上界に再び戻った彼を待っていたのは、神の逆鱗と言うよりお説教だった。

          いくら不死の存在である天使でも寿命はある。

          それにも関わらず、ミカエルはほんの少し彼女に分けたのだった。

          だが、天使にとってほんの少しという命は人間にとって何十年をも指す。

          「あはは。少し、勉強になりましたからね。その代金というものです」

          「しかしなぁ…」

          「それに、今日はバレンタインですよ。一年で世界中の女の子に勇気を与える大切

           な日ですからこそ、私はあの二人を二度と放したくは無かったのです。勝手な

           行動してしまい申し訳ありません」

          「……よかろう」

          彼が深く頭を下げると、神と呼ばれた存在は深くため息を吐いて何処かへ行ってしまった。

          「私の命より尊い愛の息吹を守りたかったのです」

          誰もいない場所でポツリと呟いた。


          ―――…終わり…―――

 

 

 


          ♯後書き♯

          クリスマス企画(だから、違うって)の次に出来ましたバレンタイン企画「Goodby my・・・」は如何なもの

          でしょうか?

          今月はそうでもないのですが、来月はイベントが三つもあってちょっと、忙しくなりそうで怖いです。(汗)

          何の作品にしろどうぞこれからも「光と闇の間に・・・」を宜しくお願い致します。