ガラスのシンデレラ‡第三章 涙の約束‡

        「ふぅ...やっと、終わったぁ〜」

        玄関の前で力無くしゃがみ込む割烹着姿のの姿があった。

        今日は七月十二日、次第に近づいてくる夏休みの訪れを感じさせる

        心地よい風が 家の窓と言う窓を吹き抜けてくる。

        アレからすでに六ヶ月の時間が経ち、ようやく穿き慣れたジーンズの

        ポケットに歯磨き粉やらメンボウやらの小道具をしまった。

        掃除は結構マメにしていたつもりだが、こうして退屈凌ぎにやって

        みれば意外と細かい部分に届いていないことが判明し、こうして

        掃除のオバサン紛いなことをしているわけである。

        「おい、本当に行かなくて良いのかよ。今日なんだろ?関東大会の

         一回戦って、さ」

        そう言って彼の背後に杖を着きながら近づいてきた京一が不安そうな

        面持ちで尋ねた。

        彼の言うとおり今日は地区予選や都大会でかなりの消耗戦を余儀なくして

        掴んだ関東大会の一回戦である。

        それにも関わらずこうして呑気に自宅の掃除をしている妹に兄としては

        まだおぼつか無い足取りで声を掛けてやらねばと気を使っているのだろう。

        が男として生活し出してから半年、双子の兄である彼の容体は良くなっている。

        今日もリビングの白いソファーに腰を下ろして早朝からノートパソコンに

        向かっているのをキッチンから見ていた妹は、これで良いんだと苦笑を

        浮かべていた。

        彼女を彼に変えた悪魔との契約は後半年。

        それまでに京一に必要な雄雄しい生気を集めなければならない。

        四月には退院できるまでになったとは言え、まだまだ油断ができない時期で、

        杖を着くことで歩行可能にまで回復したがまだ激しい運動をすることが

        できなかった。

        「うん。その条件で青学のコーチを引き受けたんだもん。それに、

         あの子達なら大丈夫だって私は信じてるから」

        そう言って、は笑った。

        少なからず双子の兄弟である彼には伝わってしまうだろう。

        六ヶ月も経っても慣れない剃刀で所々傷だらけの頬にえくぼが浮かんで

        いないことに。

        もっとも、この二十二年間、同じ家でずっと一緒に育ってきた京一なら瞬間

        的に彼が本心から笑っていないことぐらい容易に解ってしまっただろう。


        『竜崎先生。少しお話があるのですが、宜しいでしょうか?』

        アレは、青学のコーチを引き受け始めた日にまで遡る。

        部活終了後の暮れ時、彼は応接間に通され顧問の竜崎スミレと向かい

        合って座った。

        今日は、男子テニス部の練習とレギュラー陣のメニューそして、部室を

        軽く見物させてもらった。

        彼らには顧問の先生と話しがある、と言って先に帰らせた。

        契約に第三者は必要ない。

        もっとも、周りから煩く言われることが嫌いななら当たり前である。

        『それで、話と言うのは何だい?』

        『はい。男子テニス部のコーチの件は、私には身に余る大役ですが、

         是非ともやらせて下さい』

        『それは良かった。あの子達も喜ぶと思うよ。何せ、あ奴らは曲者揃い。

         今日見ても解ったと思うが、向上心の塊のような部員がごろごろしとる』

        『本来なら顧問である私がやるべきことなんだが、なかなか忙しくてな。

         ほとんどあの子らに任せきりという情けない話だよ』

        『いえ、そんなことは...』

        『はは、優しいね。だが、これは事実。そんな時、アンタの噂を聞いてあの

         子達が私に頼みに来た。「あの人と戦ってみたい」と目をきらきらさせて、な』

        意味深に目配せをした竜崎に内心ドキリとしながら「戦ってみたい」かぁと

        彼女が口にした言葉を復唱した。

        テニスの腕の方は先日の件でイヤと言うほど思い知る結果になってしまう。

        事実、だった頃、男も寄せつけないくらいの強さだったことは否定しない。

        しかし、それを確かなものにしたのは他ならないあの悪魔のおかげである。

        身長がそのままなのは気に入らないが、一応男性としての力はあるようで

        今までの何倍も疲れを感じなくなったことが大きく影響していた。

        『あの子達は本当にテニスに一途な奴らだ。それを教師として大人として

         守ってやりたいがために さんをコーチにする許可を出した。だから、

         私からもお願いするよ。どうかあ奴らの夢を見せてやってはくれないか』

        『竜崎先生......解りました。ただし、条件と言いましょうかこちらからお

         願いしたいことが一点あるのですが、宜しいですか』

        彼女のあまりにも真剣な視線に生唾を飲んでしまったが、も引くことは

        できない理由がある。

        『条件とは?』

        『大会当日、私は不参加することをお許し下さい』

        『そりゃ、構わんが・・・何か事情があるのか?あ奴らもアンタに観て

         欲しかろうに』

        『兄が...病気の兄が一人おりましてその介護で...』

        彼は唇を噛みながら心の中で笑った。

        確かに、まだまだ病院から退院をしていない京一のことを思ってしたこと

        だが、それ以上にどうしてもその場に立ちたくない理由がある。

        それはの身勝手過ぎる都合。

        初めから彼らにコーチの話を持ちかけられてから既にその条件は飲んで

        もらおうと決めていた。

        だが、何故だろうか。

        地区予選、都大会と消耗戦が続いた所為だろうか、胸騒ぎがこの所彼を

        支配している。

        何かをしているにせよ、ため息が出て悩み事が頭の中を渦巻くのが

        しょっちゅうだった。

        「すべては最後の審判に委ねられる。その時、本当に一人だけ守りたい

         者を選べ……」

        三ヶ月前、桜の樹に言われたことを思い出す。

        あの日から本当の意味での……いや、の人生は動き出したのかもしれない。

        桜の樹の下で目覚めた瞬間に飛び込んできたものは、言葉だけで彼を彼女に

        戻してしまう八人のテニスプレイヤーだった。

        「この三ヶ月間、俺たち夢を見るんです。とても寂しそうな女の人が

         消える夢を…」

        いつもは感情を表さない手塚が珍しく熱い目線を寄せたまま唇を開いた。

        「訊けば皆、同じ夢を毎日のように見ているって話が合って」

        「そして、全員その人に心を奪われている」

        手塚の言葉を不二が繋げ、それを終着駅まで送り届けたのが乾だった。

        「話し合った結果、その女性はあなたではないかと言う結論になりました」

        疑問でも況して仮定でもない発せられた言葉は確信と言うある種の解放だ。

        いつもはさわやか少年である大石が、急に見知らぬ男性のように見えたのは

        言うまでもない。

        いや、何処までも真剣な眼差しを自分に送ってくるのは、彼だけではない。

        ここにいる男性の卵達が視線を絡めては呼吸一つさえすることを許さない

        凄みさえ感じられた。

        「あ、あのっ」

        何かを口にしようとするが、言葉にしようとしたものが唇を動かしただけで

        すべり落ちてしまって一体、何を発声させようとしたのか解らなかった。

        頬は次第に赤く火照り、彼は慌てて黒いヘアゴムで一つに束ねた長い髪を

        下ろして顔を隠す。

        こんな時、幼い頃からこの髪型を守り続けていて良かったと思ったことは

        恐らくないだろう。

        両親に見捨てられた時、何かを隠したい時、こうしてどす黒い簾の中から

        世界を見ていた。

        『何でよ!?どうしてはあんなに元気なのに京一はっ!』

        あの人達は脆過ぎた。

        カッコウのようにほとんどマネージャーやADに子供の世話を任せた

        くせにいざと言う時は親だ親だと変に主張するくせ肝心のことが

        何も解らず辺りに叫き散らす。

        しかし、そんなことはどうだって良かった。

        例え、瞬きを一つしてしまったらすべてが終わってしまっても良いから、

        両親の愛情が欲しかった。

        「......俺はだよ。性別は正真証明の男。何なら脱いでもいいよ、勿論

         部室でだけど」

        顔を覆う黒髪を強く左右に振って掻き分け、再びレギュラー陣の前に現れた

        のはいつもの彼だった。

        哀しくなるほど白い頬にはガラスの涙が伝う。

        本当は助けて欲しいと言いたかった。

        だが、そうしなかったのは、それが唯一彼女に残った優しさだった。

        こんな自分のために誰かを傷つけるマネはしたくない。

        それが、大切な存在なら尚更...。

        この六ヶ月、彼女は完全に彼らに惹かれ始めているのに気づいた。

        遅すぎる初恋である。

        思えば今まで京一や両親のことで頭がいっぱいだったには淡いも濃いも

        一通り体験した覚えが全くなかった。

        しかし、必要以上に自分を求めてくる視線に甘味を感じ始めたのは

        やはり六ヶ月前からだ。

        背筋から何かを察して振り返ればレギュラー陣の誰かと瞳がぶつかった。

        「しかし!」

        何事もなかったかのように笑うに食い下がった大石の背後にも同じく

        何か言いたそうな少年達がじっと前を見つめている。

        微笑むのが精一杯だった。

        そうしていなければ、今にもガラス細工のように壊れてしまいそうだから。

        「じゃあ、俺に一度でも良いから1ゲーム取ってごらん。そしたら、女装して

         君達とデートしてやる」

        「じょ女装って!」

        零れ出したガラスの涙は誰にも見えはしない。

        それの正体はの中で眠ると言う名の本音なのだから。

        「だから言っているだろう?俺は男なんだよ」


        もう、誰も失いたくなかった。

        「物的証拠でもあるのかな?それなら見せて欲しいね」


        兄以外に大切に思える者が在るという希望は道端に捨てたつもりだった。

        「ないのなら速やかに戻ってもらおうか。コートにレギュラー陣が

         いなくちゃ話にならないし」

        それならば敢えてガラス越しから見ていよう。

        閉じ込められたつもりでいるもう一人の自分が泣いていても...。


        「はい?ですが。えっ......あぁ、いますが、どちらさまですか?」

        時刻は、17時。

        が夕飯の支度をする前に日課としている夕刊に目を通している時、それは起こった。

        グレーの電話から小鳥のさえずりが突発的に流れ始め、彼が新聞紙を置く前

        にリビングにいた京一がその子器を持ち上げて右耳に押し当てた。

        この着信音に設定したのはほとんどこの家に匂いを残さない父である。

        元々、幼い頃からバードウォッチングが趣味だったらしく、かすかに覚えて

        いる記憶では鳥類図鑑を買ってもらったり海外のどこかの森で鳴き声当てゲーム

        をしたりした。

        だからだろうか、道端に落ちている羽根を何の迷いもなく拾い、気づけば

        机の引き出しの中には巣同様に羽毛が何層も敷き詰めてある。

        『京一とはこの羽根のようなものだ』

        懐かしいあの声が今も耳に残っている。

        だが、それは幼すぎた日々のことではっきりとは覚えていない。

        彼が何と続けたのかと今も時々ぼんやりと思うことがある。

        しかし、浅い衣が何層も重なり合っているような記憶は忘却したと同然で

        容易に思いだせるはずがなかった。

        それは無意識に忘れようとしているのか、それとも灯台下暗しなのか。

        「おい、。お前に電話だ」

        「私にっ?!」

        久しく大分昔のことを回想してしまったと自身厭きれていたら、いきなり

        呼ばれて思わず目を丸くしてしまった。

        持っていた新聞紙をラップしていない昨日炊いたご飯の上に落としてしまった。

        今日の夕飯はインクの味がするけど我慢してねと心の中で思いながら誰からと

        訊くと彼は黙って保留中にしたままの子機をに手渡した。

        「もしもし?ですが…」

        訳の解らぬままオンにした耳に飛び込んできたのは聞き慣れた少年の声だった。

        『さん、大変です!手塚がっ!』

        受話器越しの彼はいつもより切羽詰っていてそれでいて歳相応な少年らしいだ。

        こんなに慌てることがあるんだなと、素で思ってしまったことに頭を強く

        振り、今、何を自分に伝えようとしているのか落ち着いて聞き入る。

        「その声は不二君?一体、手塚君がどうしたって言うんだ!」


         『今日の氷帝戦で無理をして左腕を痛めてしまったんです!』

        「なっ!!」

        以前にも聞いた事がある。

        彼の練習量は馬鹿にならない量で、それが手伝って左肘を痛めてしまったのだと…。

        「それで手塚君は大丈夫なのか!?」


        『はい、念のため大会が終わってから掛かりつけの医者に応急処置はしてましたが、

         一応コーチである さんに連絡をした方が良いかと思い、僕が代表で電話したんです』


        「ありがとう。適切な連絡をしてくれて。これから俺もそっちに向かう。場所は?」

        そばにあった水色のメモ用紙に走り書きをすると、受話器を乱暴に切った。

        彼は無事だろうか。

        安堵と一緒に深いため息が出たのは今後の予感が胸を過ぎったからだ。

        青学の柱としてのプライドの高さと少年らしい意地で成り立っているような手塚だ。

        きっと、今頃どうするべきか考えていることだろう。

        の予想では何日もしない内に彼は自ら選んで姿を消す。

        テニスプレイヤーとしては致命傷である左腕の怪我を治療しに。

        行かないで欲しいという気持ちも確かにあるが、それ以上に手塚を

        もう我慢させたくはない気持ちの方が大きかった。

        彼は今まで十分に辛さも悔いも味わったのだ。

        それに手塚国光と言う存在のもっとも少年らしい場面を見てみたい。

        許される期限があるならば、もっと……。

        泣きそうになった自身の両の頬を勢い良く叩く。

        やめよう。

        こんなことを考えている場合ではない。

        「京兄。ごめん、今夜はインスタントにして」

        だが、やっぱり先走りで溢れていた涙が先程の弾みで頬に流れたらしく、

        冷たい感触が久しい。

        思い起こせば、あの件以来彼女は一度も泣いたことはなかった。

        それなのに、この半年で随分変わってしまったものだ。

        「おう。俺のことは気にしなくて良いから早く行ってやれ…よ?」

        まだ体の身動きも杖なしでは自由に取れないと言うのに、それでも妹を

        送り出そうとする兄の顔が彼を見たまま止まった。

        「京兄?」

        その表情に瞬きを何度も繰り返したが、求める答えは返ってきそうもない。

        仕方なく彼の傍に駆け寄ろうとすると、人差し指をこちらに向けて叫んだ。

        「か…かか…鏡を見ろっ!!!」


        「不二。本当にさんだったんだろ?」

        「ん。そうなんだけど、どうしたのかな」

        黄昏時の青春台駅前はご帰宅ラッシュで賑わう。

        疲れ果てたと言うのに相応しいスタイルを誇る中年サラリーマンや

        上司の愚痴をぶつぶつと言っているOLなど様々だ。

        その中に黒地の学ランをラフに着こなしている少年達はその雑踏の中に

        紛れないように白いガードレールの傍で固まっていた。

        乾は肩に担いだテニスバックを気にしながら両腕を胸の下で組んで

        手塚の隣にいる少年に目を向ける。

        時刻は17時53分。

        彼が青学のコーチに就任する際、竜崎に提出した連絡先に彼が電話して

        から大分経った。

        以前、かなりの方向音痴とは聞いた事はあるが、まさか自分が住んでいる

        場所で迷うとは考えにくい。

        「わざわざさんに連絡をしなくても、俺は大丈夫だ」

        「そんなことを言って。彼だってお前の怪我を知っていたし、心配している

         一人だぞ。それにさんはもう、俺達の仲間なんだ。その仲間に隠し事が

         できるわけがないだろう」

        「……」

        先程からこの調子で手塚と大石の部長副部長の対立が続いている。

        一方、不二は何かを考え込んでいるようで、53分前からすぐ顎に

        手を当てる姿が続いていた。

        「どうしたんすか?先輩。ずっと黙って」

        そのすぐ傍で排気ガスや埃や錆で原色を失いつつあるガードレールに

        腰掛けながら大好物なPontaグレープを唇に押し当てたまま越前が尋ねた。

        タフなのか見栄っ張りなのかそのあどけない顔からはもう、先程の疲労は

        消え失せている。

        彼と似て華奢で彼より小柄な体からは想像が出来ないほどのプレイを誇る

        生意気なルーキーは、大きすぎる瞳をこちらに向けたまま黙って応えを

        待っていた。

        本来、現在の青学の柱と変わらぬ性格の持ち主である少年は、口数が

        大して多い方ではない。

        不二はいつかの彼と同い年だった少年を思い出してからもうすぐ一時間

        経過する心の内を語りだした。

        「僕がさんの連絡先に電話した時、一人の男の人が出たんだ」

        「それって、身内の人じゃないっすか?兄貴とか弟とか」

        彼の言葉を制するかのような桃城の言葉に笑顔のまま首を左右に振った。

        「彼は、こう言ったよ。『です』ってね」

        「それって!?」

        「今は、まだ分からないけど、やっぱり、彼は僕らに何か隠していることが

         あるみたいだね」

        「何かそーいうのヤダにゃ〜」

        「でも、さんだって言いにくいことだってあるんじゃないかな?

         プライベートなことだし」

        「タカさんの言う通りだよ、英二。気にならないってのは嘘になるけれど、

         俺達はそれに惹かれたわけじゃないだろ?」

        「……そだね」

        唇を窄めて首を傾げていた菊丸は何を思ったのか急に頬を赤く染めて

        俯いてしまった。

        「どうした?菊丸。何故、赤くなるんだ?」

        生まれつきの顔かはたまた15年間の積もり積もった性格故か無表情のまま

        手塚が重たい唇を開いた。

        「へへ……ちょっと、今朝の夢思い出しちゃって」

        「菊丸先輩も見たんすか!?」

        それまでガードレールに凭れる体制をしながら皆の話を聞いていた

        海堂の表情が一段と険しくなった。

        一見、怖そうに見えてしまうのが偶に傷だが、根は心の優しい少年である。

        「「も」って海堂も見たの!?」

        「うぃす」

        「って、そうだよね。俺達全員何故か同じ夢で繋がっているんだもんね」

        めんごと、後頭部に手をやりながら片目を軽く閉じた。

        彼ら9人の共通点、それはテニスだけに留まらず、睡眠中の夢を幾度も

        繰り返して見るという現実離れしたものである。

        初めて全員が見始めたのは、あのという男性の噂を聞いてコーチに

        なるよう頼みに行った日からだった。

        玉林中から訊いた話では遠くから見ると女性のような体格なのだが、

        プレイはなかなかのものでストリートテニス場に居合わせた誰にも

        1ゲーム取らせない無敗の男性らしい。

        今年こそは全国大会に行きたい青学としては無くてはならない逸材かもしれない。

        それ以前に、向上心が異常にも高い者ばかりが多い男子テニス部だ。

        噂の張本人と是非とも対戦してみたいと思わないわけがない。

        稽古と評して彼にシングルスで試合をしてみたが、想像したとおりの

        無残なものだった。

        あの日、あの場所に居合わせた誰もが決意した。

        この人とならば全国に行けると…。

        「マラソンしていたら…」

        「俺、遊園地でデートしている夢なんて初めてでさぁ…」

        「ちょっと待てよ、二人とも。海堂も英二もばらばらじゃないか!」

        「えっ?」

        「はっ?」

        大石の声と同時に先程耳に入った互いの見た夢に述べた言葉の違いに

        顔を見合した。

        「どう言う事だよ!?ねぇ、不二はどんな夢見た?」

        「植物園でサボテンを見ていたよ。タカさんは?」

        「俺は町内の夏祭りで浴衣姿の彼女と夜店周りしていたよ。手塚は?」

        「珍しくあの桜の樹の下ではないと思ったら登山をしていた。頂上に

         着いたと思えば彼女がいた。
大石、お前は?」

        「水族館だよ。俺もいつも夢じゃないと思ったら隣に彼女がいたんだ。

         乾はどうなんだ?」

        「俺は新しい乾汁を開発しようと研究をしていると、彼女が助手で

         随分良い試作品ができたんだ。成分は大体覚えているから良かったら……」

        「わぁ〜!!!やめて下さいよ、乾先輩。俺は二人乗りでサイクリングに

         行きました。おい、越前。お前は?」

        「……知り合いの坊さんのテニスコートで練習していたらあの人が…」

        「笑っていた」

        九人の声は見事に重なり、すれ違った老若男女も振り返らずにはいられな

        かった。

        しかし、少年達にはそれよりも今一番感慨深い事実がこの胸の中にある。

        そんなことを気にしていられるはずがなかった。

        この半年間立て続けに見ていたものはどれも同じ場所、同じ人物、

        同じ泣き顔だった。

        それなのに昨夜の夢だけは皆別々のものを見ているのだ。

        それも、ずっと思い続けていた笑顔で…。

        「あ、あの!」

        皆が思い思いに考え込んでいると、いきなり聞き慣れたおずおずとした

        声が九人の少年達に向かって掛けられた。

        「さん?……っ!!あなたは!?」


        「…というわけなの」

        カウンターに座った白地の半袖パーカーに黒のサブリナパンツと言う

        さわやかな姿の はこれまでの経緯を彼らに話した。

        理由は分からないが、彼が指差した先のは今年の一月二十一日を最後にした

        姿に戻っていたのだ。

        今、合計10名となった集団は仕事で両親の帰りが遅くなるかわむらすしに

        身を潜めていた。

        彼女が一時間も遅刻したのは、大体兄である京一の所為だ。

        これを本人よりも喜んでいたのが他ならぬ兄で、せっかく年下の彼氏達に

        会いに行くのならばめかし込んでいけと、急いでいる彼女を病人の特権を

        使って邪魔をしたからだった。

        もう、一つは少年達に近寄る勇気がなく五分以上物陰に隠れ、何年か

        前には流行ったストーカーのような真似をしていたからだ。

        恐らく、彼らはこの半年で名こそ知らないが、姿も声も知ってしまっている。

        あの青学の桜の樹が本人に了解も取らずにSOS信号を発してしまったため、なか

        なか登場しにくいものがあった。

        「皆には酷いことを言って、本当にごめんなさい。竜崎先生には電話でコーチの

         件は辞めることに…」

        「何でアンタが辞めなくちゃいけないの?」

        隣のイスに横座りをしたまま今までの話を聞いていた越前が口を開いた。

        「何でって、私は君達に今まで嘘を吐いてきたのよ?」

        「別に誰も傷ついてなんかいないよ。むしろ」

        「逢いたかった」

        背後から不二と菊丸がチェリードロップのマニュキアをした爪に掌をそっと被せた。

        女性として暮らしていた時も大して化粧をしたことなどない妹のために自分専用

        のメイクを呼びつけて半ば強制的に拘束された末に出来上がった作品である。

        元々、肌の白いにはチークとマスカラをほんのり加えただけで、ピンクの

        アイシャドウとリップで統一された。

        二十歳を超えたと言うのに外見は未だに学生が通じる童顔である。

        メイク担当の三十代半ばの彼も何故こんな子にと思ったことだろう。

        「ふ、不二君、菊丸君!」

        「ねぇ、桜の樹が言ったって言う「最期の審判」って分かる?」

        「分からないけど、神話に出てくるものとはまた違ったものだと思う」

        「不二、「最期の審判」って?」

        「亡くなった人を事前に調べて天国に逝かせるか地獄に落とすか決めることだよ」

        「うげっ!だって、まださん、生きているじゃん!!」

        「英二!そんな生死を簡単に口に出すんじゃない!!」

        顔面蒼白になっている彼を現実に戻したのはやはり、同期でゴールデンペアの

        大石だった。

        彼女を挟むような形で左隣に腰を下ろしていた少年は、河村が用意した上りから

        立ち上る湯気に視線を落としてから短くごめんと呟く。

        彼は真面目すぎるほどに優しい。

        それがこの少年の良い所でもあり、悪い所でもあった。

        「や…やだなぁ、暗くなっちゃって。せっかく、さんが元の姿に戻れたんですか

         ら皆でお祝いをしましょうよ!後、関東大会優勝するぞって意味も込めて」

        「でも、桃。今日は親父がいないからネタはないよ」

        「あ、そうか。弱ったなぁ」

        「私は良い…」

        「じゃあ、家に来る?」



        「今日は楽しかったよ。ありがとう、不二君」

        「ふふっ、どういたしまして」

        時刻は20時7分。

        一軒の民家から出てきた集団は各々満足そうな顔をしていた。

        胸の前で腕を組んだまま黙っている手塚の背後に隠れている表札には「不二」と

        書かれてある。

        青春台駅前からかわむらすしに場所を移した際、今後どうするかと悩んでいた

        頃、彼が自宅を提供してくれたのだ。

        勿論、急な提案に家の人に迷惑が掛かると間を空けず却下したが、それは羆落と

        しのようにキレイに無効化されてしまった。

        「大丈夫。実は今日の試合が終わったらみんなを連れてくるようにと頼まれてい

         たんだ。だから、心配しないで良いよ」

        「不二先輩。ぬけがけは大人げないっすよ」

        先程まで桃城と張り合って立食形式になっていた料理をすべて平らげてしまった

        のにも関わらず、顔はケロリとしている。

        「えっ越前君!?」

        「ふふっ、もう、大丈夫なのかい?」

        「もちろんす!」

        「何?何かあったの?」

        「さんには内緒っす!!」

        「ふふっ、「男同士の秘密」かな?」

        にこやかに笑う彼と何故か赤くなったり青くなったりする彼の間で、ありがとう

        と、心の中で呟いた。

        きっと、今夜は自分にとって一生忘れることが出来ない日だろう。

        いつかの幼い頃のように心から笑ったのだ。

        だが、その一方こんなに幸せになっても良いのだろうかと、怖くて仕方がなかった。

        目の前では九人の異性達が自分とは無関係な場所にいる。

        いつだっては、そこにいることが許されない。

        それは生みの親に捨てられた日々に無意識で買わされた孤独だった。

        (多分、明日には元のに戻っている。私にこんなメインが用意されているはずがない)

        夜空を見上げれば、一筋の光が尾を引いて流れていた。



        「さん、お話しておかなければならないことがあります」

        そう言って、別れ際、立食パーティー中一言も喋らなかった少年が背中を向け

        たを呼び止めた。

        「左肘、大丈夫?大石君達も言ってて耳にたこだろうけど、本当に心配したんだ

         からね」

        小説のタイトルのようなダークルビーの携帯電話で「少し帰り遅くなる」と、

        不二の自宅を後にしようと立ち上がった時に送信したメールに継ぎ足す形で見送った。

        「すみません」

        「別に謝らなくて良いよ。ただ、君が本当に青学を大切に思っていることが

         分かって嬉しかった。今回の試合、悔いはないんでしょ?」

        「はい」

        「なら、早く行って早く帰ってきてね」

        「はっ?」

        「隠してもダメだよ。行くんでしょ?左肘を治しに」

        一度、彼を見てから夜空を見上げる。

        そのまま少年を直視していられる自信がなかった。

        もしかしたら、笑っているつもりだったのに先程見た星同様に零れてしまいそう

        だったから。

        本当は行って欲しくない。

        しかし、そんなのは身勝手すぎる我がままであって七歳も歳の離れた手塚に言う

        つもりもなかった。

        それが、女性に戻っても尚、心の奥底で眠るなのかもしれない。

        「さんにはお見通しでしたか」

        「ねぇ、他の子達にはいつ言うの?」

        「明日、大石と竜崎先生がボーリング大会を催すと聞いているので、その後ほど

         に、と考えています」

        「そっか」

        それだけ答えるが、やはり、空を見上げたまま彼を見ようとはしない。

        零れ落ちようとしているのは涙か想いか。

        現時点では何も決められない自分が情けなかった。

        だが、同情や流れ上で告白をするのが一番彼にとっても自身にとっても失礼なことだ。

        だから、この想いは最期まで大事に抱きしめていよう。

        「今夜の月はキレイだね」

        「……はい」

        傍にある街灯の明かりと名前の知らない街路樹のシルエットのおかげでなかなか

        神秘的なフレームが出来上がった。

        「ねぇ、約束しよう」

        「約束……ですか?」

        「そう、約束。必ず、完治して帰ってくるって約束して。手塚君だと無理をして

         でも早くこっちに帰ってきそうだから」

        「俺は、そんなに信頼がないんですね」

        雨とは明らかに違う何かが漏れたような音が耳を掠めたかと思って、少年を直視する。

        すると、その先には今まで以上に控えめだが、口元に笑みを湛えた手塚がいた。

        「ん。だから、はい、指きり」

        それが、どんなことよりも嬉しくて思わず笑い返してしまった。

        彼の目の前に小指を差し出した。

        「えっ?」

        それまで微笑んでいた少年の表情が一気に硬くなったのは言うまでもない。

        年頃の男女でそんなことが簡単に出来るわけがないのを自身も差し出すまで

        気がつかなかった。

        「あ、あのぉ…手塚君」

        彼女の小指が振るえる前に色白で細いワリには筋肉質な小指が絡められた。

        「約束します。必ず、完治して帰ってきます。そして…」

        「えっ?」

        「あなたを守ります」


        その夜、誰もが交わされた約束があった。

        『ありがとう』

        泣いてる空。

        見上げる女性。

        だけど、その表情は今までのものとは違って笑っていた。

        『約束してくれる?』

        『泣かないって約束してくれる?』




        ―――・・・続く・・・―――



        ♯後書き♯

        皆様、こんにちは。

        2005年度『Streke a vein』涼月号をご覧下さり誠にありがとうございます。

        なかなか作業に手をつけるのが遅かったので、参加者の方にもご愛読者の方々

        にも大変後迷惑をお掛けしましたことを心よりお詫び申し上げます。

        今作、「ガラスのシンデレラ 第三章 涙の約束」はいかがだったでしょうか?

        今回は前回の夏初月号とは違って青学オールキャラを余裕持って登場させるこ

        とができました。(祝)

        毎回どうなるヒロインどうなる青学と言うような終わり方をしておりますが、

        今回もその路線で行かせて貰いました。

        しかも、意味深な台詞にしてしまったなぁと後で気づきました。(遅)

        さて、一部の方にはお話しましたが、次号は早いか遅いかいよいよ最終回です。

        まだ三ヶ月先のことですが、「ガラスのシンデレラ」を応援して下さった方々

        は本当にありがとうございました。

        最終回はまだまだ悩んでいる部分は多数ありますが、読者の方々に支えて頂き

        ながら頑張りたいと思っております。

        また、ご要望がありましたらの話ですが、『Streke a vein』か「Dream Novel」

        どれかにupしますが番外編を作業してみようと考えております。

        それでは、こちらまでご覧下さり、ありがとうございました。

        次号もどうぞご期待下さい。