……。


      …あ、この音楽知っている。

      あなたに奏でられたすべての旋律は本来以上の彩りを持つ。

      それが耳に、心に届いた人々すべてにその音色が幸せを感じさせてくれる。

      …いえ、先輩自身が僕の幸せであなたのその清らかさが僕を何もなかった世界を

      彩らせてくれる光りのような存在。

      優しくて温かくて…僕が手に入れられた音楽だから。

 

 

            Trial100―――嬉しさのあまり―――



      「……暑い」

      厚い鉄の扉から現れ、足を一歩踏み出した少年は文句のような寝言のようなこと

      をぽつりと呟いた。

      実際、この季節は蒸し暑い日が続き、昨日は耐え切れなくなった雨が地上を濡らした。

      その湿り気が雲を生み、まるで、それを待っているかのように前日から残っている

      ものと融合して空を覆いつくしているのが今日の冴えない天気の原因である。

      華奢な体とは不釣合いなチェロケースを背負い、つり革に捕まらず扉の近くに背中を

      預けて車窓から流れる景色を見ていた時にいつも視線が行くデジタル湿度計は

      30度と表示してあった。

      どおりで昨夜寝苦しかったわけだと、相槌を打った少年は朝の混雑とは言え、確実に

      吹く冷房に目を細めて何度も舟を漕いで他人に打つかっては謝罪を繰り返し目的

      地に着いてしまった。

      まだ、蝉の鳴かないこの街には代わりに人通りが多く、休日には駅前通りはちょっと

      したお祭りムードを漂わせる。

      「……」

      改札口から人並みに押されるように出てきた彼はやはり眠そうな表情で舗装された道

      を黙々と歩き続けるがやはり、額に浮かぶ汗を感じては長袖から半袖に変って露になっ

      た白い肌で一拭きしてからまた歩く。

      すれ違う人々は夏の訪れにいかにも涼しそうな服装を好み、こんな時だけ大人が

      羨ましい。

      こんな時どうして大学生や専門学生を抜かして生徒は制服というものを着なくては

      ならないのかと、ため息交じりに考えてしまう。

      だが、いくら思考を巡らせたとしてもいつも「まぁ、いっか」で終わる。

      それは物事を深く考えることに何の嫌悪も抱かない彼にとっては雑学に近い。

      以前の少年にとっては音楽がすべてであって、それを巧く表現するためには技術

      しかないと考えていた。

      「志水君、おはよう!」

      「あ、先輩。おはようございます」

      彼の通う星奏学院までの十字路、ここである人物を待つのが日課である。

      ある日は先に来て今朝が来たことを感謝しているかのようにその表情は微笑みに満ちて

      おり、いつも自分と目が合うと挨拶と共にこちらに向かって小走りしてくる。

      冬服から着替えたため上着を脱いで現れた学年指定のベストとタイの半袖を上に

      ズボンを下にと言うのが音楽科の夏服で、裾から伸びた白い腕を遠慮がちに胸の前で

      左右に振って合図する。

      また、ある日はその人物を想いながら長い坂道を越えた瞬間、心が通じたのかちょうど

      向こうも十字路に向かおうとしている姿を見かけて慌ててこちらから声を掛ける。

      その繰り返しが当たり前のようで、この少年には指が巧く動いた日よりも幸せでどんな

      音色よりも彼女が奏でる優しくも甘い痛みを感じることが好きだった。


 

      二人の出会いは去年催された学内音楽コンクールで、お互い参加者同士だった。

      彼女、は学年が一つ上で普通科からのエントリーだった。

      勿論、出場が決まったすぐ後にピアノで参加してきた男子生徒もいたが、この少女の

      場合経験は全くない。

      それも楽器があのヴァイオリンなら尚の事、周囲の注目を浴び、と言う名前は

      一日で学院内に広められる結果となった。

      どれくらい練習に時間を費やし、血を流したのかが問われる楽器、それがヴァイ

      オリンである。

      それを専攻するものすべてが重んじている事であり、それを彼らは誇りにしていた。

      しかし、彼女の存在はその常識を簡単に履がえさせられたのだ。

      彼らにとってもまた、音楽科にとっても信じ難く大半の生徒はを認めなかった。

      だが、彼、志水桂一にとってはそんなことは関係なくただ理想の音を常に探求して

      いたが、今ではその矛先が彼女に向かっている。

      それは彼らにとっても同じ事で編入してきたを受け入れ、真新しい制服に身を

      包んでいるのをからかったり共に切磋琢磨したりしている。

      総合優勝した彼女は勿論のこと音楽科もそして、普通科も変わった。

      この学院は一人の少女によって古く埃を被っていたこの二つの学科の敷居を無くし、

      双方歩みよさせるきっかけを手に入れたのだ。

      それはこのコンクールを数年に一度開催させる妖精ファータ達にとっても望んだ

      結果で、きっと今頃、どこかでの調べを聴いていることだろう。

      最終セレクション後、『愛のあいさつ』の音色を耳にした彼は音色を追いかけてその先

      で待っていた彼女と晴れて恋人同士になった。

      今は誰かと音楽を奏でることが楽しい事だと教えてくれたのために何かを引きたい。

      それが、『愛のあいさつ』であっても聴いて欲しい。

      彼女に言われ初めて気がついた心を込めた演奏を今なら迷いもなく弾ける。


 

      「志水君?」

      練習室の扉をノックすると、人気がないことを確認してから返事のないままの室内を見

      回し、やっぱり、と小さくため息を吐いた。

      開け放たれた場所には見事なグランドピアノだけが出迎えただけで、彼女が呼び

      求める存在の影も音色も待ってはいない。

      最近、ずっと一緒に帰っていない。

      勿論、ここから離れた親戚の家から電車で通学しているため下校を共にしても結局は

      自分が自宅に送り届けられているだけで、志水の家路はまだまだ続いている。

      それはあの華奢な体で自分より大きくて重いチェロを背負っている後ろ姿が広く

      感じれば感じるほどに頼もしくなる一方、切なさを感じていた。

      さよならを何度交わしても、その痛みは濃くなるだけで消化されず胸を締めつける。

      それは最終セレクション以前から感じているもので、いつ頃のものかなんて覚え

      てはいない。

      「もしかしたらって思ったけど、やっぱりここにもいない」

      パタン、と静かに練習室に音を立てて扉を閉めるとグランドピアノのイスに腰を

      下ろす。

      以前、彼に伴奏してもらったことがあった。

      もっとも、それは音楽室での話だがにとってはとても思い出深い。

      閉まったままの蓋の上に両腕を枕にして顔を埋めてはみるが、瞳を閉じればいつも

      聞こえてくるはずの音色が聞こえて来ない。

      集中できてないからだろう、脳裏に浮かぶは志水のことばかりで落ち着いて他の事を

      考えることなどできはしない。

      音楽室同様防音設備が整っている場所には一人沈んでいる彼女に何かを届けることは

      できず、唯一今、それが出来るのは入って右側にある窓だけだが、開け放たれた

      空からは小鳥の声と無神経なヘリコプターの音が煩く聞こえるだけだった。

      (最近、志水君に避けられているのかな?私…)

      漆黒のピアノとは相対する紅い髪がはらりと風に遊ばれる。

      この季節になると日差しの影響が大きい所為か涼しげな調べさえも何故だか吹くだけで

      も肌が汗ばんでしまう気がする。

      ……。

      「えっ?」

      しかし、この風はそれだけを運んではこず、特別な音色をに届ける。

      伏せていた目を見開き、腰を上げれば疲れきった足に鞭を入れて窓の側まで駆け

      寄った。

      縁に飾ってある花瓶に気をつけながら腕を添えると、眼下に広がる正門の景色から

      聞こえる生徒達の声とは全く違って優しくて正確な旋律が彼女の耳を独占する。

      それは懐かしいあの人が奏でていたものと似ていて、以前とは違う彩りがある。

      「行かなくちゃっ!」

      だが、聞いた途端に走り出したにはどことなく悲壮感がある蜩の鳴き声よりも低い音色

      に確信し、日陰の扉の外に飛び込んだ。

      今度こそ、あの音色を捕まえたい。

      それはあの時、志水が抱いていた想いもこんなものだったのかと考える前に屋上へと

      続く階段中に響く足音に呼吸を弾ませた。

      あと一段、あと一段、と気持ちが焦らないように。

      汗と共に滲んだ涙を抑えるために・・・。

      「志水君っ!」

      「先輩っ!?」

      久しぶりに聞く自分の名を呼ぶ彼の声。

      あの時とは逆で今度は息せき切って厚い鉄の扉を押し退けるのは自分の番。

      荒れて何度も繰り返す息に胸元へ手を置いて整えてからすぐ近くに用意したイスに座って

      いる彼の表情は驚いているようで照れ笑いのようにも見える。

      「…今……弾いていたのは」

      やっと、出た声は何だか震えているようで言葉を発したすぐに口を噤んでしまう。

      そうでもしなければ、このぶつけようのない感情を捲くし立ててしまいそうで、

      怖かった。

      「はい。先輩があの時、僕のために弾いてくれた『愛のあいさつ』です」

      そんなことは自身、良く解っていた。

      あの日も、セレクション後もこの場所で想いを込めて今さっきまで志水が紡いでい

      たあのメロディを奏でていたのだから。

      「聴いてくれましたよね?僕の『愛のあいさつ』。あの日、最終セレクションの後、

       あなたが僕のために弾いてくれたこの曲をどうしても弾きたかったんです……先輩の

       ために」

      「え」

      「あの時、あなたは僕に音楽で気持ちを聞かせてくれたのに、僕だけが聴いているだけ

       なんて嫌なんです」

      重そうなチェロを後ろから抱きかかえるような体制でそう語る彼の目の下には薄っすらと

      クマが色を濃くしていた。

      きっと、自分らしくこの曲を歌わせるようにいつもの倍以上練習した事が直接聞か

      なくても判る。

      「先輩…、あなたがここを卒業してしまっても僕は、ずっと好きです」

      チェロを抱きかかえたままの志水は一年の時よりも5cm背が伸びたと言うのに何処か

      幼げを残していて母性本能をくすぐらせる。

      素朴な告白を聞いた今もそれは胸を締めつけ、熱くした。

      「っ」

      そんな突然の告白なんてズル過ぎる。

      あの時よりも大人びた年下の彼氏にこんなことをされるとは思ってもみなかった、だなん

      て自分が言う時が来たなんて信じられない。

      「先輩?……泣いているんですか?」

      「あっ」

      ケースに閉まったのかチェロの姿はなく、目の前には背中を折り曲げた格好をする

      彼が覗き込んでいた。

      「見ないでっ」

      慌てて顔を背けようとするが、それは叶わず代わりに志水の指先で目元を軽く拭われる。

      恥ずかしくて今にも消えてしまいたいのに、見据えられる視線から逃れられない。

      「すいません、先輩を泣かせるつもりはなかったですが」

      「謝らないで…志水君は何も悪くないからっ」

      「クスッ、知ってましたか?僕、ずっと考えてたんです」

      急に何を言い出したのだろうか、と思うと誰もいない放課後の屋上で抱きしめられた。

      汗の匂いがほんのりしたが、決して嫌なものではない。

      大きく深呼吸してみると、何だかとても落ち着いてこの場所にやっと戻ってくる事が

      出来たんだという安心が彼女を落ち着かせる。

      最終セレクション後の屋上でステージ衣装のままの少年に今と同じように抱きしめ

      られた。

      あの時と違うと言えば肩越しに出た顔が今は胸の中にあると言うだけなのに、急激に

      成長した志水が憎らしくもありそれ以上にいとおしくもある。

      爪の上に光る雨粒に気を取られていると、それを唇に薄く塗ると急に人形のように整った

      顔が近づいた。

      「しみ…っ!?」

      キスされた瞬間、彼の癖のある前髪がはらりとの顔に掛かる。

      それは決して差別や偏見と言った類ではないが、とても異性のものとは思えないほど

      細く「天使の髪の毛」と言う異名が名付けられたとしても全く可笑しくないくらい

      柔らかかった。

      涙のルージュが施されている所為か初めての感触が湿り気を帯びていることに過剰

      反応しているのか体が硬直して呼吸さえも自由にできない。

      「んっ」

      しかし、彼女が苦しそうな声とも似つかないことを呟いたためなのか、された時と同様

      に志水から唇を離される。

      「っ…はぁ、はぁ」

      再び、空気の中に戻されたことに何度も呼吸を繰り返す。

      あの彼がこんな情熱的な口づけを求めてくるとは思いもしなかった。

      「すみません。先輩に僕の『愛のあいさつ』を聴いてもらって……そのぉ……嬉し

       さのあまり…」

      握った掌を唇に押し当てて瞳を泳がせては言葉を捜している素振りを見せられる

      と、こっちまで恥ずかしくなってくる。

      押し当てられた場所は薄く開いたりするなどの形を変えるたびに頭にちらつくものが

      鮮やかに甦って余計に動揺してしまう。

      唇と一緒に放された体中はまだ速く脈を打って熱さを増しているが、夕闇色に染まった

      志水もまた頬を赤らめてを見ている。

      彼の瞳に映るのはいつだって自分だけだと解っていたはずなのに、その存在が確か

      められなくなるそれだけでこんなにも脆くなる自分が嫌いだった。

      「…あのっ、もう一度……してくれる?」

      だが、それもこれもこの少年に色を染められてしまった結果であって、それは彼女

      自身も望んだ。

      頬を夕焼けとは違った赤に染めて言葉を濁すのは、合図。

      それが今、精一杯出来るの答えであり強がりである。

      「はい、あなたがそれを望むのなら…」

      志水は一瞬、驚いた表情を浮かべるが首に回された彼女の腕に視線を落としてから

      それは微笑みの中に消える。

      二つの影が再び一つになる頃、見計らったように草むらの間から一人のファータが

      杖を大きく振った。

      いたずらっ子のような笑い声を彼らが聞いたかは解らないが、それを残して姿を

      消した後、蜩の鳴く声が校庭中に響いた。



      ―――・・・終わり・・・―――



      ♯後書き♯

      Trial100「嬉しさのあまり」はいかがだったでしょうか?

      あ〜、久しぶりにお題で書いたぁ…。(疲)

      本当は誕生日と一緒に、と考えていたんですけど、願い叶わずで数日経ってしまった

      今日upしました。(反省)

      しかも、念願の「金色のコルダ」キャラである志水君っ!(拍手)

      管理人の権限で5cm成長させちゃいました。

      次回は誰になるのか願わくばご期待下さい♪