時は慶応四年四月三十日の深夜。
それは決行された。
新選組の屯所から一つの小さな影が闇の中に舞い降りた。
それは音を最小限に殺し、雨戸を出来るだけそっと閉める。
(ごめんね…みんな。でも、これだけはみんなに任せるわけにはいかないの!)
その小柄な影は目を細めながら閉まり行く隙間から屯所の中を覗き見る。
外と同じく闇で覆われているものの月明かりがあるとないとでは大きく違って、慣れ
始めている視野にはただの奈落の底のようにしか見えなかった。
草履の緒を力強く親指と人差し指で挟むと、その影は意を決したかのように
走り出す。
春とは言ってもやはり、夜の外気は冷たく何人たりとも寄せつけようとしない匂い
が自然と察せられる。
だが、今、両手を振り絞って走っている人物はそんなことに怖気づけるほどか
弱くはなかった。
月の光によって明らかになったその面差しと腰。
そこには、当時としては互い違いな組み合わせが存在していた。
「はっ、はっ…」
時代は幕末、当時としては珍しく髪を短く下ろしたその人物は、女人だった。
しかも、顔はまだ幼く十代と言ったところだろう。
今は前方から遮ろうとでもしているかのような疾風に細めているが、それよりも
主張している目は大きくてとても愛くるしい。
ならば、当然着物を着ていると誰もが想像するやも知れないが、彼女は凛としたもので
月明かりでより鮮明になった白い袴を潔い足取りで大地を蹴っていた。
だから、腰には当たり前に刀を所持しており、もう何度も引き抜いたことを無言
で物語っていた。
少女の名は、。
あの壬生浪士隊を改め新選組と名乗る隊士の一人である。
冷気を体中に受け、時折白く見える息を吐きながらそれでも足を進める速さを
落とさなかった。
いつも慣れ親しんでいる町中を走っていると、何度目かの出陣のことが不意に脳裏を
過ぎる。
あの頃はまだ刀が重かったことや人を切り慣れてなかったことが苦い思い出と共
に蘇っては、歯を強く噛んだ。
もう、あの頃には戻れない。
例えるのならば、自分達は全力疾走をしているようなもので途中障害物などが生じて
力尽きても致しかたがない現実がある。
しかし、それは大きな代償となって残った者へ刻まれていった。
それは前向きで受け取れば伝言だったり後ろ向きで受け取れば恨みだったりする。
だが、それでも駆け抜ける足を止めないのは、単に言うならば意地であろう。
彼らは刀に異常なまでの自信があった。
そうでなくても今の時代をこよなく愛していた。
他ならぬ自身、剣で身を立てたいという意地がある。
こんなことを誰かに話したところで同じ新選組隊士の藤堂のように女だてらと
馬鹿にされてしまうのは安易に想像できた。
かと言って彼が決してそんなことをしないと十分解っている。
回転が遅れているのはいつも自分で、誰が悪いわけでもないのに気がつけばいつ
だって守られていた。
そんなのはイヤなのに、ある人物に助けられるのは少し嬉しさを感じてしまうのは
罪なことだろうか。
捨てた拾ったのつもりはないが、やはり、そこは女を忘れることなんてできない
のだろう。
男所帯の中、これまで何もなかったのは不思議なくらいだが、それもあの人が見えない
手で守ってくれているのではと勝手なことを無意識に考えてしまう。
それぐらい溺れてしまっているのが解って、ある意味この恋を怖がっていた。
いつかはあの人の足を引っ張ってしまいそうな予感がを不安にさせる。
そんな弱すぎる女は新選組にも自分にも必要ない。
あるのは常に強さと前を向いていることだけだ。
「はっ、はっ…はぁっ」
町外れの竹林に差し掛かった頃には息が見事に上がっていた。
最近、刀の稽古を入念にしていた所為かこんなにも走るのは久しぶりである。
(これじゃ…強がって…も、足手まといになるのは確実じゃない!)
疲労の重さを実感している足に鞭を打ち、街中よりも大地が肌蹴ている山道を
ひたすら登った。
目の当たりにするのはすぐそこだ。
額と背筋にひんやりと冷たいものを感じながらも胸に小さなだけど、叶えたい願いを
抱いて前へ前へと走った。
ゴーン…
夕刻、どこかの寺院から鐘の音が響き渡る。
子供達はそれに合わせて家路に着き、空を優雅に飛び回る鳥達も寝床へと飛び
去って行く。
残ったのは薄く千切れている雲だが、それも日入り果ててやって来る夜に隠れて
しまうだろう。
「よぉ、じゃねぇか」
「ふぇ?あぁ、永倉さん。どうしたんですか?」
偶々町から帰ってきたところを同じく隊士の彼はまるで待ち構えてでもいたかのように
軒下に腰掛けていた。
少々小走り気味に駆け寄った彼女は目の前まで来て立ち止まる。
屯所の中からは良い匂いが漂っていて鼻を掠めただけでも腹の虫が鳴ってしまい
そうだ。
今日の食事当番の人は誰だろうと頭の隅で考えながらも意識して胸を張る。
別に副長助勤だからとか二番隊隊長だからと言って永倉に敬意を表そうなんて
ことはしない。
それは男所帯の中にただ一輪咲く花であるだから許されていることなのかもしれ
なかった。
だが、ほとんど隊長格のメンバーは彼女のことを気に掛け、それでいて話しかけて
くれる。
だから、この右も左も解らなかった自分がこうしていられるのだと少女自身も良く
分かっていた。
彼らには本当に感謝している。
だからこそ、その気持ちに応えるためにもっと強くならなければならないのだ。
このままのなんて弱すぎるのだから。
「そんなにキンチョーするなよ。別に仕事の話じゃねーからよ」
「は、はぁ…」
意識したつもりはないが、どうやら背筋を伸ばした瞬間に顔も引き締まったらし
く彼はいつもと同様の豪快な笑顔で自分の隣に座るよう促した。
首をひねりながらもその隣に座ると、やはり永倉も男性なのだなとずいぶん失礼なこと
を考えてしまう。
肩幅も腕も自分なんかよりも大きくてちょっとやそっと体当たりしてもビクともしないだろう。
(あの人も……そうだったな)
彼の匂いがすぐ傍からするのに、彼女はあの日のことを思い出していた。
あれは、今年の一月に起きた。
いつも巡査の時にはいつからか三番隊長である斉藤一が同行を自ら買って出てくれる。
それは自然のようで人工的なような気がしてとても嬉しかった。
巡査という侮れない任務にも関わらず、はその微風が心を撫ぜる度に不思議な
心地良さを感じる。
それは安心だったり自分も頑張ろうとする気力だったりとその時々で色を変える
が、確固とした何にも染まらない気持ちが胸の奥でその移り変わりをじっと
眺めていた。
それは何気ない彼を知るたびにどんどん強くなっていく初めて抱いた恋心。
近藤や土方達とは違って自分と大して歳の離れていない異性。
それなのに、こんなにも苦しい気持ちになるほど溺れてしまっている自身が恥ずか
しかった。
同時にこの大切な記憶が成就しなかったとしても、覚えていたいと胸に抱いている。
それは想像するだけでも涙が出てしまうけれど、本当に好きになった人には自由でその
人らしくして欲しいから我侭なために殺したくはない。
例え、斉藤がどんな女性を選んだとしても…。
「何をぼーっとしている。早くついてこい」
「あ、すみません!今行きます!」
彼をじっと見ていたに心なしか柔らかい眼差しを向けた。
最近、斉藤一という人間が少しずつだが解ってきた気がする。
もっともそれは彼女が勝手に解釈しているのかもしれないので、本人に聞いて
確かめることなんてできなかった。
…まして、そんな親しい間柄ではないのだから。
新選組内の仲間と言っても所詮は寄せ集めの浪士隊だ。
その中で自分は唯一の女隊士。
だから、みんなが特別に接してくれる。
ただ……それだけなのだから。
組織的に言ってしまえば、上司と部下。
それだけでもこんなにも強い人物の傍にいられるだけで幸せなことなのに、それ
以上を望んでしまうなんて許されない。
だから、せめてこの行き場のない想いは自分の中で育んでいこう。
「さすがに、この辺りには人もいない静かなものですね」
町外れの竹林。
黄昏に染まるこの時刻にこんな場所に来る者など怪しい人物か忍ぶ恋をする二人くらい
しか身を潜めないだろう。
怪しい影ならば念入りに巡査をしなければならないが、万が一逢引中に遭遇した
らどうしようかと心配していたが、辺りを軽く見回しただけでも風で靡く葉の音が
妙に耳に入るだけだった。
「こっちへ来てくれ」
だが、を呼ぶ彼の声はどこか尋常ではないものが感じられた。
斉藤は辺りを見回す彼女とは違って、まるで誰もいないことだけを確認しただけ
のように視線を移動しただけだった。
隊長ともなる人物はそんな些細な動きだけでも状況判断が出来るのかと思えば、憧れ
と共に湧き上がる感情が憎い。
何処まで自分は正直者なのだろう。
彼や土方のように例え何かを考えたとしても他人に悟られないようになりたい
ものである。
しかし、彼らは人工的に行っている面もあるだろうがあれはほぼ性格上の問題なのだろ
うと考え直せば幾度もため息が出た。
そんなことをしたってどうしようもないと言うくらいにだって解る。
「あ、はい…何ですか?」
それも、斉藤のことならば思わず涙が出てしまうくらい解るから情けない。
新選組に入隊した時から女を捨てたわけではないが、彼にこんな感情を抱いてしまっ
た自分が嫌だった。
それなのに、彼が自分を呼んでくれる声が、一見冷たい態度でも本当は優しいことが、
止められない想いをさらに掻き立てる。
その度、彼女は好きでいて良いのかと無言で斉藤のことを遠くで見つめていた。
「んっ!?」
一歩二歩と近づくと、いきなり背後を強い力で彼の方へと引き寄せられ驚いた拍子に顔を
見上げる形になれば、今度はそのまま唇を受け取めてしまった。
背後に痛いほど感じるのは斉藤の腕。
それが熱くなれば熱くなるほど抱きしめられる力が強くなる。
「んんっ」
今、自分がどうなっているかなんて考えるよりも息苦しさの方が勝っていた。
だが、彼の方はそんなことは少しも感じていないようで無心に瞳を閉じている。
(私…今、斉藤さんに…)
唇を押し当てられる感覚と息苦しさですっかり気が遠退いてしまった。
「ぷっ…はぁ、はぁ」
疑問に思うのと同時に腕を離されると、砕けた腰は見事に地面へとしゃがみ込む。
まだ胸がざわめいている。
唇には先程までの感触がまだ残っている。
あれは一体なんだろうか。
単なる戯れだと思い込みたいが、それも悲し過ぎると思い留まる。
いくらなんでも自分が一番好きな相手の玩具にされてもいいなどと考えられるほどは大人
ではなかった。
「大丈夫か?」
そんな声が頭上からしてはっと、我に返った。
見上げれば彼が心配そうな面持ちでこちらに手のひらを差し出してくれている。
その表情に先程の自分の考えにそんなことは絶対にありえないと修正をした。
鈍感過ぎると同時に正直者過ぎる人物がそんなことが出来るわけがない。
(期待しても……良いんですよね?)
恐る恐るその手のひらに自分のものを乗せる。
ぎゅっと握り締められた感触が先程の接吻を思い出させて、体がびくっと反応してしまった。
もしかしたら、自分も馬鹿が付く程の正直者なのかもと今更ながら気づいて、かぁと顔が
火照り始める。
それに気づいたのか気づいていないのか立ち上がった彼女をもう一度熱く見た。
同時に、何かに刺されたような痛みがの体を襲い、息がうまくできない。
なのに、胸の動機は速くなるばかりで血の巡りが良くなる火照った顔はますます朱を
交わせるだけだった。
「斉…藤さん…」
ようやく声が出たと思えば、赤ん坊が初めて言葉を発するかのごとくたどたどしく彼の
名を呼んでしまった。
我ながらなんてことをしてしまったのだろうと後悔に苛まれている一方で淡い期待もして
いたりする。
「なんで…こんなことを」
「お前は好きだと思っていない奴とこんなことをするのか?」
そんなの解っていた。
いつも冷静で無口な斉藤の瞳が、燃え滾る刀の切っ先のように自分を見ているのが恥ず
かしくて思わず瞳を背ける。
そうしていないと、心と体が分裂しそうだった。
しかし、それからは逃れても今だ繋がれている手のひらからは飛び立つことができない。
ぎゅっと強い力で握り締められているそこは汗で少し濡れ、それだけで気持ちが昂って
いるのだと悟った。
さらに、それに追い討ちをかけるように彼がたっぷりと熱を込めた言葉を囁いた。
「お前のことがずっと好きだった」
彼の一番になりたい。
そんなどんな女性でも考えてしまうことに涙が出そうになる。
こんなことを願ってはいけないのは、重々承知している。
だが、今更この想いを気づかないほどか穂は子供でなかった。
(私も!)
しかし、いざとなったら言葉にすら出来ず唇を噛むことぐらいしかできない。
……伝えたい。
なのに、何て言えば良いのか分からなかった。
どうすれば自分にも斉藤にも至高の返事を選ぶことが出来るのだろうか。
こんな時、もし、自分の目の前に三択が並べられるならこんなにも選ばなくても済むのにと、
思うと余計に声が口から発するのを躊躇った。
「返事を聞かせてくれ」
だが、彼女が言葉を選んでいる最中でも斉藤の声は真っ直ぐだ。
その強い気持ちが拍車を掛けるかのごとく急がせたのは敢えて言うまでもない。
噛んだ唇に残った感触と自分を見つめる熱い眼差しに動転したは遂に後々、悩む答えを
発してしまうのだった。
「今は答えられないのですが、この戦いが終わったらお答えします」
「はぁ…」
思わず、深いため息を吐いてしまう。
何であんな絶好な機会を自分で逃すような真似をしてしまったのだろう。
あれからなんとなく彼との距離が広くなったような狭くなったような気がする。
斉藤にしては今まで胸の内を吐き出したことによって爽快だろうし新たなる目的が出来た
ことにより燃え滾る使命感に似た何かを得たことだろう。
その一方、不完全燃焼の彼女は出来るだけ行動で伝えられるようにと努めてもお互いに
鈍感な故にすべてが空振りに終わってしまった。
「何だよ、人の隣で景気のわりぃため息なんて吐いちまってよ」
「あ、すみません!」
あまりにも彼のことを思い出してしまい、遂、今、隣に永倉がいることを忘れてしまった。
その声にはっと我に返って口を手で塞ぐが後の祭りで、彼は苦笑いを浮かべる。
やはり、何かと気に掛けてくれていると思うと、涙が出そうなくらい嬉しかったり申し訳
のない思いがする。
きっと、永倉達はそんなつもりはないのだろうが、その自然な優しさが実は痛かった。
気遣ってくれるのならば何故放って置いてくれないのだろうかと、若者特有の傲慢さで
恨もうとするが、そんなことは自分をここまでしてくれた彼らに対しての単なる捻くれにしか
ならないことぐらいにだって解る。
だからこそ、こうして複雑な気持ちを胸の中で葛藤させているのだけど、永倉達にはそんな
微妙な乙女心も判らないだろう。
でも、それだからこそこんなしなくても良い思いを抱いてしまうのだろう。
「何か悩みでもあるのか?お、もしかして恋煩いか?」
「ちが、違います!」
「ははっ、そんなに照れなくても良いぜ。いくら男所帯の中で暮らしていてもも女だ。
しかも、年頃だしな。恋の一つや二つしたって別におかしくねぇよ」
「永倉さん…」
「まぁ、相手のヤローはしらねぇがそんなに悩んでんなら良い事を教えてやろうか」
「良い事?」
「あぁ。この前、町で聞いた話なんだが、町外れの竹藪があるの知っているだろ?」
「あ…」
彼があの場所を口に出しただけで体がびくっと反応してしまった。
あの場所は四ヶ月前に斉藤からいきなり接吻をされた忘れようもない場所だ。
自称、馬鹿が付くほど正直な彼女は「竹藪」と聞いただけで顔から火が出る思いがした。
「なんだ?そこで何かあったのか?」
「なっ、何もありません!!」
隣でニヤニヤといやらしく笑う永倉を睨みながらも鼓動はあの黄昏を思い出して速まる
ばかりだった。
「そ、それよりあの竹林がどうかしたんですか?」
あくまで平静を装ったつもりだが、うまく息遣いができないため言葉が微妙にズレていた。
すっかり茜色も遥か彼方の西の空へと消え失せようとするため夕焼けに慣れた視界が暗く
なったため彼の表情が判らなかったが、きっとまだにやけていることだろう。
しかし、は子供のように頬を膨らまして朱を誤魔化そうとはしなかった。
逆を言えばそうすることができなかった。
もし、あのままの彼女でいられたのならばきっとそっぽを向く事だって簡単に出来ただろう。
だが、今はまるですべてが虚ろで、暇さえあれば自分の居場所を求めてしまうほど体の
自由が利かなかった。
いつからだろうなと不意に考えようとすれば、唇に指を当てて撫でるのが癖になっている。
彼のことを思い出そうとする自分の隠しても隠しきれない女の部分が疼いていた。
「あぁ。あの竹藪を抜けたところにな、恋愛成就の桜があるんだとよ」
「桜!?この時期にですか?」
あり得ない。
三月の上旬に屯所から見える桜の樹を見てささやかなお花見気分を味わったのは覚えて
いるが、それから何日も経たない内に開花と同じく気づいたら花びらを葉に変わてしまった。
「嘘じゃねぇーよ。ちゃんと噂の真相を掴もうと思ってこの目で見て来たんだからさ」
「えっ…本当にあったんですか!?」
「おうよ、キレイだったぜ。何でもよ、深夜にその桜の前で願いことを言うとご利益が
あるらしいぜ」
「……」
「どうだ。オメェーも頼んでみたらどうだ?」
「でも…」
行きたい。
しかし、新選組には掟があった。
不許可での外出は固く禁じられており、逆らった者は強制的に切腹をしなければならない。
それはこの新選組という組織の結束を高めるためでもあり、揺ぎ無い志を確固とするも
のでもある。
それは入隊当初から覚悟はしていたし、規律を乱すつもりなんてなかった。
だが、今は訳が違う。
「大丈夫だって土方さんには俺から言っといてやるから何の心配もいらねぇーよ」
不安そうな顔するの頭を豪快だけれども優しく撫でると、いつもの気さくな笑顔を浮かべて
くれた。
やはり、この年齢層から言えば新選組から見た自分は、仲間よりも歳の離れた妹のよう
にしか思われてないのだろうなとそんなどうだって良いことを思っていた。
決行は、今夜。
永倉がせっかく設けてくれた機会だ。
怖気づいていることなんてできない。
それにもし、永倉のことを少しでも考えているのであれば、さっさと出かけて戻ってくること
だろう。
深夜の外出など怖くはない。
それは入隊当初は怖かったが、夜の闇に紛れての勤務を何十回も積んでいるため以前の
ような恐れを感じなくなった。
いつかの事件は斉藤がすぐ傍にいてくれたのに対して今度は独りなんだと再認識をすれば
切なくはなるが、そんな甘えたことは言えない。
もし、恋愛成就の桜の樹が単なる願掛けの役目しか持たなくても、それで踏ん切りが着くか
もしれない。
そして、いつかは分からないが、戦場で倒れる時が来ても彼に出会えて本当に良かった
と思いたい。
「はい、ありがとうございます!」
だから、心の底から笑えた。
それを見た彼は何故か驚いた顔をしたが、それも数分で消えて同じように笑ってくれる。
もしかしたら、今、無意識に涙腺が潤んでいるのかもしれない。
永倉に深くお辞儀をすると、くるりと身を翻して自室に向かって駆け出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……やっと…着いた!」
この山道を登ってどれくらいの時間が経っただろうか。
緩やかな割には頂上に辿り着くまでに息を乱れさせ、足腰も立つのがやっとの状態になってし
まった。
両膝に手を着いて体中で呼吸をすると、汗を浮かばせている鼻に雅な香りが吐いて思わず
疲れを忘れて上体を起こす。
「わぁ!」
彼女が見たもの、それは見事に咲き乱れている桜の樹だった。
「…永倉さんの言っていた樹ってやっぱりあったんだ」
花びら一つ一つ薄い桃色で、どうやら屯所のものと種類は同じのようだ。
なのに、この樹はこの辺りのものはすべて落としたというのに、この桜だけは散る気配
もさせない。
(まるで、私を待っていたみたい…)
泣きたくなるほど美しいというのはこういうものを指すのだろう。
月明かりが微妙にこの樹を照らしてとても神々しくも思えてしまう。
もしかしたら、本当に願いを叶えてしまうのかもしれない。
ここに来るまでは半信半疑だったのに、今では全面的に崇拝したくなった。
人間と言うのは何処までゲンキンなものなのだろうか。
「あ、そうだ。お願いをしないと」
あまりの桜の美しさに遂、目的を忘れるところだった。
危ない危ないと心の中で呟きながら樹の傍まで歩み寄り、手を合わせる。
「私にもう一度、斉藤さんに告白する機会を下さい」
本当ならば、こんな願い事を口にするのも恥ずかしい。
どうせだったら、神社のように拝むだけで済ませたかった。
しかし、彼によると出来るだけ大きな声で願い事を言わないと効果は表れないらしい。
いくら恋愛成就とは言え、どうしたいなどと具体的なことを言うのはやはり、躊躇われた。
そんな虫の良すぎることを託すなんてことは彼女にはできない。
そんなことをしてしまえば、彼を拘束してしまいそうで嫌だった。
自分が斉藤一という男に心底惚れているとしてもその自由を奪う権利なんてない。
それに、彼には彼らしくいて欲しい。
「斉藤さん……好きです」
彼の代わりに太い大木を抱きしめた。
それはあの日、言えなかった言葉が今、涙と共に口から零れ落ちる。
何故、あの時躊躇ったのかようやく分かった。
答えは簡単で、今までの隊長と平隊士の関係を壊すのが怖かったからだ。
これまで何十人もの仲間を失ってきて自分だけが幸せになっても良いのか辛い現状から
逃避して良いのかと瞬時に嬉しさと一緒に脳裏を駆け巡ったからだった。
そんなことなんてどうだって良いことなのに変な強がりで大切な瞬間を手放してしまっ
たのだ。
「…っ」
今更そんなことに気づいたって遅すぎるのに涙が止めどなく頬を伝う。
早く屯所に戻らないといけないのに性急な思いが脳裏を過ぎっても体が言うことを利かない。
(ごめんなさい。もう少しだけあなたの傍で泣かせて下さい。今だけだから…)
念じるように心中で桜の樹に断りを入れてから腕に力を込めたまさにその時だった。
「」
「えっ?」
すぐ後ろで聞き覚えのある声がささやかられたと思うと、自分より背の高い人物に背後から
強く抱きしめられる。
その腕の強さにも先程耳にした低い声色にも覚えがあった。
忘れようにも忘れられない息苦しさを彼女の中で確固なものにした人物。
「斉藤、さんっ」
驚いたあまり、あんなに抑制しようとしてもなかなか止まらなかった涙が瞳の端で粒を
作ったまま瞳の中に消えていった。
「もう一度だけ、言ってくれないか」
「えっ…」
意味は分かっていた。
だが、そんな都合の良い解釈をしても良いのだろうかと、わざと聞き返すような真似をして
みる。
……本当に自分が幸せを願ってもいいのか。
背後から回された腕にあの日と同じように力と一緒に熱が篭る。
「もう一度……俺のことを好きだと言ってくれないか」
「っ!?」
聞かれていた。
こんな時間ならば、こんな場所ならばと勇気を振り絞って願ってしまったことを。
「」
しかし、この腕を振り払うことなどは到底できない。
まして、曰く付きの桜の樹の下では尚更の事だった。
「好きだ、」
「あ…」
彼が先程よりも甘く自分を呼び、それにより体が妙に反応してしまう。
「わ、わわ私も好きです!」
言ってしまった。
だが、後戻りはできない。
そしたら、どうなる?
それも答えは簡単で、何処までも二人で落ちていけば良いのだ。
斉藤さえ傍にいれば何も怖いものはない。
それは、彼とて同じことだろう。
「斉藤さん…私……」
自分を抱きしめる彼の腕に恐る恐る手のひらを重ねる。
数多の好きだという言の葉を乗せて。
「もう……それ以上、言わなくて良い」
その言葉を呟いたかと思うと、背後を抱きしめられたまま顎を持ち上げられる。
振り返った状態で見上げた斉藤の顔が至近距離に近づいてくるのを確認してから目を閉じた。
「…ん」
唇に感じた熱いものは確かな温もり。
最初に交わした口づけよりも優しくてどこか官能的なものだった。
もっと、それを感じたくて自然と爪先立ちになって自ずから押し当てる。
差し入れられた舌の動きも衣の中に入っていく手のひらもすべてが初めてで、これから
何をされるのか分かっていても体が小刻みに震えてしまう。
触って欲しい。
そんな気持ちはあるのに、いざとなったら体が固まってしまった。
「はぁ…斉藤さ……っ…やっ」
ようやく解放された唇は思ったとおり熱に浮かされていて、徐々に肌蹴させていくのと一緒
に首筋、鎖骨へと口づけられ、その一つ一つが点々とした火を灯したように熱かった。
「あっ、ああっ」
そのまま樹に押し付けられる形で肌の至る所に紅い傷を残して、唇を官能的に這わせた。
こんな所でやっては罰が当たるかもしれないのに、体は素直で新たな愛撫を今か今かと待って
いる。
「ああっ!」
肌蹴た二つの丘に唇が掠めただけなのに甲高い声で鳴いてしまった自分に恥じらいを
感じて唇を強く噛む。
深夜とは言え、ここは野外。
誰かが必ず来ないとも限らない。
ひょっとしたら、自分の声が彼以外の誰かに聞かれてしまっているのではないかと思う
と、とてもこのまま声を出していることはできない。
「はぁ……声を出せ。…っ……の声が、聞きたい」
「…んっ…あっ、ああ」
辛そうな表情でこっちを見下ろしてくる斉藤が愛おしくて自ら唇を求めると、両の手で胸を
ゆっくりと揉まれる。
「あ、ああっ…やっ…」
「…好きだっ」
「好きだっ…」
頂きを口に含まれたまま囁かれてどうしようもない羞恥心が頭に広がる。
しかし、体は正直で彼が力強く吸った箇所は硬く主張し始めている。
もう、どうなっても良い。
理性の欠片なんて最初からなかったかのように体中が自身が斉藤を求めてしまう。
そのまま手のひらが下半身まで這い、内股を遠慮がちに擦ると、一番触って欲しくて
触って欲しくない箇所に指が触れた。
「あああっ……やっ、やだ……はぁ」
「イヤじゃないだろう…こんなになって……」
「……あっ、あっ…はずか…し……いっ」
「大丈夫だ……お前をこんなにさせているのは俺だ」
「あぅ…あ、はぁ…」
「キレイだ、」
赤く火照った白い肌を眺めて満足そうに微笑むと、差し込んだ指を丹念にかき回す。
「ぁ……やっ」
「イヤじゃないだろ。……ここはもっとって言っている」
袴の裾から侵入してきた彼の指は焦らすように動いたかと思えば、数を増やして彼女を更なる
高みへ連れて行こうとする。
だが、消えかかりそうな意識の中でそれだけは避けたかった。
一番好きな人に自分だけがイってしまう所を見せたくはない。
もし、目覚めた時、これまでのことが夢だったなんてイヤだから。
「も、もう……だめぇ……斉藤さんっ」
「…」
彼は淫らに衣を肌蹴たままの彼女のものと合わせて脱ぎ捨て、愛しい女性を自分の着物の
上に寝かせた。
「くっ…」
覆い被さった斉藤は自分のものをの敏感な箇所に宛がい、熱い泉と化したその場所に乱れた
水音と共に沈めていく。
「あっ…はぁ、んんっ」
例えようがない痛みと快感が同時にやって来て悶える声が一気に高鳴る。
「痛くはない、か?」
「は、はい……あっ」
「は…ぁ…」
彼が腰を打ちつけるほど痛みと快感が体中を駆け巡り、もっと互いが欲しくなる。
「……はぁ、う…」
斉藤が声を上げる度表情を歪める度自分の中で感じてくれているんだと、思うととても
嬉しかった。
いつもはなかなか思ったことを表情に出さない彼がこうまで喜怒哀楽をはっきりさせたのはも
しかしたらが初めてなのかもしれない。
「はっ……はぁっ」
そう思うと、幸福感が湧いてくる。
「ああっ…あ、あ、アアッ!」
「ずっと…傍に…いてくれ、」
快楽と鳴き声で塞がった唇の代わりに頷いて答えるのに精一杯だった。
「っ!!ああっ、あんっ」
「はぁっ……はぁっ……」
股を掴んでいた手を腰に代えると、一気に最奥へと突き上げられた感覚がして思わず背
を反らしてしまう。
「ふぁっ、あああっ」
「愛している……」
「斉藤さっ、ああああっ!」
彼がいきなり名前を呼んだことに驚いた瞬間、体内で何かが自分に向けて放たれたような
感じがしたのを朦朧とした意識が最後に覚えていた。
「……次!」
「お願いしますっ!」
翌日、珍しく道場にて木刀を構えた斉藤が現れたことに隊士中が驚いていた。
斉藤は単なる面倒臭がりなのかもしれないが、あまり稽古をすることなく頭に思い描い
た動きを簡単に習得することが出来る沖田に続いての天才なのである。
だから、道場に顔を出すことは少ないのだが、今日は何かがあったのか普段よりも清々しい
表情をしているとある者は珍しがりまたある者は失礼にも何かが起こる前触れではない
かと恐れていた。
「よぉ、一。調子は良いか?」
隊士を十何人も相手にしてさすがに疲れの色を見せた彼は自分の衣の裾で汗を拭うと、その
声がした方に振り返った。
その先には、夕べと同じく軒下に腰を掛けて、こちらに来いと言わんばかりに手招きを
している。
「何ですか?」
「その様子だとちゃんとアイツと仲直り出来たみてーだな」
「えぇ、すべては永倉さんのおかげです。ありがとうございました」
「そう言えば、は何処に行った?朝から見かけないが」
晴れ晴れとした彼の顔がその言葉により一変で朱に代わった。
「部屋で……寝ています」
「無理を…させちまったのか」
「……」
聞えるか聞こえないかのか細い声で答えたつもりだったが、こういう時の彼は変に地獄耳で
更に察しが良すぎる。
斉藤が返答に詰まって目を泳がしていると、永倉はわざとやれやれと困った表情を浮かべた。
「アイツ、初めてっぽかったからなぁ…今頃、どうしているのか」
「っ!…すみませんが、少し用事を思い出しました」
すべては可愛い弟と妹のために。
「あぁ、さっさと行ってやれ。に宜しくな」
自分に一礼をした彼を見送る姿をもし誰かが目撃したのならば、きっと弟の恋を密かに
応援している兄のようだと思うことだろう。
―――…終わり…―――
♯後書き♯
「夜桜」はいかがだったでしょうか?
皆様がGWを満喫していらっしゃるだろうと思う今日この頃に作業しました。
本当は、四月中にupするつもりでしたが、なかなか致す場所に困っていたもので。
開き直れば、ヒロインが桜の樹に対しての驚きを倍にさせることが出来たので、四月
明けで良かったかもと思っています。
斉藤裏dream小説…。
これで「幕末恋華
新選組」は二作…しかも、裏dream小説Onlyとなりました。(爆)
今作にて永倉さんを友情出演させましたのは、キャラ紹介に「頼りになる気さくな
兄ちゃん的存在」と書かれていましたので具体例にしてみたく、upしました。
今まで小説は「小説」にupすると頑張っていたのですが、「Trial」がほとんど埋まって
きてその考えを改めさせられた第一作目が今作です。
それでは、皆様のご感想をお待ちしております。