貴方が愛してくれるなら

          …また、新しい年が始まった。

          それは「今」が過去になり、未来が「今」になると言うことだ。

          例えば、夜風に吹かれても手で押さえる訳でもなく墨のように黒い長髪を靡かせて

          が見上げている月も新しい。

          そう理屈が付くモノは人間が勝手にカレンダーの一ページを捲ることで名付けられ

          たが、本当はただ更新されただけで何も変わっていない。

          あの煌々と輝く十六夜の美しさに涙がこみ上げてきそうになり、ぐっと歯を噛んだ。

          自分はあの物語に登場するような姫にはなれない酷女、ならば、それらしく足

          掻いてみよう。

          中国の山奥にあるであろう村のスナップをバックに妖艶に光る月を見上げたまま

          立ち尽くす彼女に気づいて声を掛ける者などいるはずもない。

          理由は簡単で、TVも電気もないのだから酒豪やのような物好きしかこんな時間に

          外へ出向く者はおらず、大半の民は温かいフトンの中に誘われている。

          きっと、ここで自分がいなくなっても誰も気づくことないだろう。

          それ程、自分はこの村には貢献もしてなければこの世界に必要とされている訳では

          ないのだから…。

          清らかに輝く十六夜の光りはまるで、あの時のようで……手を広げれば本来自分

          がいるべき世界に還れそうな気がする。

          夜に溶けるような黒のスーツが女の柔肌を擦る音が聞こえる頃、彼女は自然と

          両手を伸ばした。

          さようなら……そう心の中で呟いた刹那、瞳の中に優しく光る月ではなく紫紺

          の宝石のように冷たく輝く瞳にこちらを凝視された。

          そんな気がして閉じかけた瞼をゆっくりと持ち上げる前に甲高い音がまるで、

          呼び止めるように静かな夜空に響いた。

          それは、鶴でもまして鵺や麒麟でもない銃声。

          「このっ……馬鹿か、お前はっ!」

          だが、彼女は振り返らなかった。

          あの見事な十六夜の光を浴びたいが為に村を少し離れたつもりだったのに、地上

          に戻した瞳に映ったのは見知らない鬱蒼とした木々に道を侵食されその先に行くこ

          とを拒むものだった。

          風に吹かれて気がついたが、両の掌も膝上のスリットが少し入ったスカートから

          伸びた足にも感覚があまりない。

          「…三蔵さん」

          筋肉質の体に背後から力強く抱きしめられる。

          闇を宿した瞳を丸くする頃、離すまいと頑なに羽交い締めのように女の首筋から

          抱く法衣を纏った腕に月の雫が一つ二つと落ちた。


          「すいませ〜ん、カシスオレンジ一つお願いしま〜…す」

          夜も12時を回った頃、都内の居酒屋のカウンターでは独り空のグラスを上げ

          呂律の回らない声で注文をする女性がいた。

          駅前にある所為か、独りで酒盛りをしている女性客は少なくはないが、さすがにこ

          の時間帯になれば大抵は肌や明日の仕事の差し支えになると考えて帰るのが一

          般的だ。

          しかし、はその素振りを全く見せず、逆にぐいっと一飲みして空になったグラスを

          片手に下敷きのような薄いメニュー覧を見てぼやける視界でオーダーを口にした。

          「あのっ、お客様。もう止した方が宜しいかと…」

          彼女より三歳くらい年下なのだろうか、カウンターの中に立っていたまだこの店

          のユニフォームが板に付いていない中肉中背の青年が辿々しく酔っぱらいの

          一人のを窘めた。

          常連ではないから最初は解らなかったが、霞む眼でよく見ると肩が不自然に上がっ

          ているのが解り何だか年上の自分が情けなく思えて掲げていたグラスを下ろし、

          会計を済ませて店を後にした。

          バイト初日で開店から今まで飲んでいた客の相手をさせられるなんて彼も全く付

          いていないものだ。

          だが、腹癒せではないが、何らかの事情にしても居酒屋で働くことを選んだのだか

          ら酔っぱらいをそんな弱腰で接客しても返って逆効果ではないだろうか。

          酔った頭でまた説教臭くなってしまったことにショックを受け、気を紛らわそうと

          自動ドアを出ると少し蹌踉ける足を速めた。

          、只今クリスマスケーキに近づいている24歳、本人は勿論のこと何故か両親

          も騒いでおり、まだ記憶に新しい今年の初詣のお土産に縁結びのお守りを買って

          くる始末だ。

          右肩に掛けた黒い仕事カバンの中に忍ばせて持ち歩いてはいるが、効果は元より

          期待できない。

          それは現実的に紙に何かが書かれただけで運命の相手なんてひょっこり現れるモノ

          でもないし、第一この世に「運命」と言うものが実在するかも怪しいモノである。

          その前に彼女には明日をどうするのかと言う大きな壁が隔たり、その高さは昔TV

          で見た崩壊したモノよりも背を伸ばしその後ろに控えているものを隠して覗くこと

          も許さない。

          この世には誰も自分を受け入れてはくれない……それがこの一年間でよく分かった。

          こんな時、違う次元にいるもう一人のは今の自分とは比べられない

          くらい幸せなんだろうなと、つい、癖で考えてしまう。

          家族には赤と黒の二色がプリントされてある携帯電話のメールで伝えてある。

          元々、この職に就く事を反対していた母は寄り道しないで早く帰っておいで、と

          優しい事を言ってくれたが娘のプライドが素直にそれを受け取れなかった。

          この時刻になれば終電はなくなってしまうが、便利なことに地元の駅前で自棄酒

          を煽っていたの自宅は歩いて15分の場所にある。

          大半はロータリーに何台か停車したタクシーの後部座席に乗り込むのが一般的だろ

          うが、彼女は敢えてこの寒空に長居することを選んだ。

          成人したとは言え親の正論を突っぱねたのだ、温かい車内はとても魅力的だがその

          理由を考える時間と大量の酒を飲んで熱くなった体に夜風が欲しかった。

          いつもならば駅前の大手スーパーの中に入り、登りのエスカレーターで二階に

          上がって衣服売り場を通り抜けて自動ドアから帰るルートなのだが、この時間にも

          なれば当然閉まっている。

          ロータリーを横切り乗用車の姿もない横断歩道で点滅した青信号に馬鹿正直にも

          立ち止まり、夜風に当たって少し熱が冷めてきた指先に気付いて白のロングコート

          の左ポケットに忍ばせておいた茶色いミトンの手袋を取り出し、冷え切った掌を

          二重の布の中に潜り込ませる。

          しかし、それは年期が入っており、普通ならもうゴミ箱の中からゴミ処理場に行っ

          ているほど毛玉の数が多い。

          「…もう、これも捨てなきゃね」

          そうは思うが、今夜は当てもなくとりあえず地方に逃亡してきた犯人のように自

          分のコートのポケットに両手を突っ込んで歩くよりも指を…砕かれた心を温めて

          欲しかった。

          薄着の下半身にはあまり血の巡りを感じられず、正月恒例の長寿番組で観たタップ

          ダンスを始めたばかりの芸能人みたく足踏みを何度か繰り返すが、それ専用の

          室内にいる訳ではないはヒールを凍えた大気の中に小さく木霊させることしかでき

          ない。

          青だった信号機が黄に代わり何分もしないうちに赤になり、秒刻みに歩行者専用

          の信号機が赤を点滅させ昔から「子供を連れ去る男」と言う汚名を背負わされてい

          た青に表示されてある二人が姿を現した。

          当初から乗用車が往来していた訳でもない道路に足を踏み出したその時だ。

          目の前が強い貧血に襲われた時のようにぐるぐると歪み、足下も本当に硬いアス

          ファルトを踏んでいるのか疑問に思いたくなるほど感触はなく、どちらかと言えば

          倒れ込む瞬間を自分ではスローモーションだと勘違いするのによく似ていた。

          だが、一向に地面へと叩きつけられる衝撃は訪れず、それどころか次第に見慣れた

          景色からTVのドキュメンタリー番組で見た鬱蒼とした木々や遠くにうっすらと

          確認できる険しい山脈が目の前に広がっていく。

          「え?」

          彼女がそう呟いたのが同時だったのか発端だったのか、視界は一気にリアルになり

          それまで仕事で遅く帰った時に待っていてくれるぬるい湯船のような大気だったの

          が明らかに違う匂いを帯びた夜に包まれた。

          目の前に広がる中国のような光景に思わず腰に力が入らず、へなへなとその場に

          しゃがみ込むが両手を着いた場所も足の裏で感じていたが冷たいアスファルトでは

          なく、何十年も昔はこちらの方が正しかったのだろうが冷たいのに湿気のない

          大地が手袋を汚してこれが嘘だとも幻覚だとも判断を下せなくさせる。

          後はどうなるかなんて簡単で、それまでを支配していた酔いが一気に醒め親と離

          れて心細い迷子のようにどうしよう、そんな不安が胸一杯に広がり目が自然と

          潤んできた。

          「どうして、こんな…だって、私はさっきまで横断歩道を渡ろうとしていた

           のに…っ」

          腰に力が入らない状態のまま辺りをきょろきょろと見回しても景色が元に戻る訳

          はない。

          ダメだ、と解っていても土だらけになった手袋を外して仕事バックのチャックを

          開け中からお馴染みの赤と黒の携帯電話を取り出すが、酷にも電源が切れた

          状態だった。

          いつも充電するのを疎かにしていたことをこんなに後悔するなんて夢にも思わな

          かった。

          それでなくても一見すると中国のような場所に駅前からどうやったか解らないが

          移動したのだ、例え通話ができる状態だったとしても非通知になるのが目に見えて

          いる。

          泣いていても仕方がない、土を両手で軽く叩いてから立ち上がりどこか隠れられる

          場所で朝を待った方が賢明だ。

          崩れ行く理性よりも本能に任せた方が良いだろう、そう思い再び視線を月に戻

          そうとすると、項に鋭い痛みを感じるのとほぼ同時にイヤらしい笑い声が聞こえて

          きた。

          「へへっ、こいつ妙なカッコしてんな」

          「おい、刀の先をくっつけんじゃねぇぞ。売りモンに傷をつけちゃ高く売れねぇだ

           ろーが」

          「きゃっ!?」

          彼女が小さな頭でいろいろと考え込んでいる間にどれぐらい集まったのだろうか、

          耳に聞こえるのは一人二人の人数ではない。

          きっと、彼らはこの辺をアジトとしている山賊達だろう、どこかの貧しい村にはま

          だそんなことを生業にしている制度が残っていると聞いたことがある。

          その中には自分のようなこんな夜道に迷った女性を売り飛ばす事も入っているの

          か、項に突きつけられているであろう刀の先を頸動脈に滑らせようとはしない。

          あくまでこれは脅す為だろう、しかし、には護身術を習っていますと言う便利

          な特技はない。

          だが、ここで下手に暴れたりしたら何をされるか解ったものではない、そう解って

          はいるがこのままじっとしているのも生まれてこの方生娘のプライドも傷付くと

          言うものである。

          「やっ…だ、誰か!誰か、助けて!!」

          「おっ!今日は元気なねぇちゃんが捕まったもんだな。だが、ここいらで俺達

           以外誰もいないぜ?村はもっと先だしな」

          何とかここから逃げ出さねばと逸る気持ちを抑えて軽く窘めるよう止めて下さい、

          と何度も口にしてみるが効果があるどころか変に煽っていると気付いたのは手首

          を縄で締め上げられた頃だった。

          木立に押しつけられ、粗悪な表情にイヤらしい笑みを浮かべ次第に近づいてく

          る……そう思うと、気が遠くなるのを感じて敏感な本能がNGを出しているにも関

          わらず重くなった瞼が降りるのを最後に覚えていた。


          ……。

          何だろう、体が温かいものに包まれている気がする。

          きっと先程まで見ていたものは全て20年以上もの間悩まされ続けていた悪夢の

          中に住まう人物だったのではないか、そんな淡き願いも目を覚ましてしまえば

          眠気と一緒にどこへやら失せてしまった。

          「ここ…どこ?」

          色気も嫌味もないストレートな声が言葉を紡いだ。

          しかし、実際目にしたモノは病院に似た白い天井であり、明らかに自室ではないお

          粗末なベッドに寝かされている。

          上体を起こし、珍しそうに部屋をぐるりと見回していると閉ざされたドアを誰かが

          ノックするのが聞こえ、反射的に衣服が乱れてないか確認してからどうぞ、と会

          社ですっかり慣れてしまった言葉を言ってしまってから口を毛布で塞いだ。

          もしかしたら、あの山賊があの場から近くにある村に気絶していた自分を売り飛

          ばしたのかもしれない。

          そう考えると、開け放たれた扉から出てくるのはTVのニュースで特番を組んでい

          た『ご主人様』とレースやリボンを服に付けて言うべき相手ではないだろうか。

          自分がそんな格好をするのかと思うだけで冷ややかな汗が背中を滑り落ちたような

          気がして身震いがした。

          きっと、ドアノブをカチャリと鳴らした人物は彼女よりかなり年上で脂ぎっている

          素敵なおじ様とかさっき襲い掛かってきた山賊のような我が道行っちゃってます、

          と言う極道の跡取り息子とか深夜番組のTVに出ていた現在社会現象にもなっている

          オタクかもしれない。

          何にしろ、には抵抗する術を持ち合わせていない。

          昨夜のように言葉で制したとしても、異性を煽るだけだと解った……そう思った

          所である重大な事に気がついた。

          身なりはどこも乱れた形跡はないが、あの後一体どうなったのだろう。

          毛布に跡が残ってしまうくらい震える両手で握りしめて自分の運命を恨み掛けた。

          「気がついたようだな」

          低めのテノールが言葉を紡ぎ、多人数の足音と共に室内に入って来る。

          その声色に弾かれたように、チェリーピンクのマニキュアを塗られた少し長めの

          爪から力が抜け、強く捕まれていた毛布はようやく凶暴な魔の手から解放されては

          らりと彼女の膝元に落ちた。

          静かに閉められたドアの音が耳にエコーしたが、視界に入ってきた四人組の方がそ

          の域を大幅に越え、暫し今抱えている問題を忘れて見惚れてしまう。

          こちらを物珍しそうに長身の体を折り曲げるように見下ろす赤い長髪が似合う彼

          は軟派でどちらかと言えば、に襲い掛かってきた山賊と同じ匂いがするが嫌な

          気分はしない。

          最後に室内に入りドアを閉めた短髪の男性はそれとは正反対な絵に描いたような

          好青年で、とても物腰が柔らかそうで話しかけやすそうだ。

          その中で一番身長が近い少年がこちらの視線に気がついて笑うが、幼さで表情が

          一杯になり思わずときめいている自分がいけないことをしているのではないかと

          思わせ違う緊張が彼女を襲う。

          そして、もう一人……に声を掛けてきた男性は僧侶なのか法衣を身に纏ってはいる

          が、金髪とそれに合わせたようなアメジストの瞳と言う贅沢なパーツを取りそろえ

          ておりホストに転職をした方が良いとお世話なことを勧めたくなってしまうほど

          妖艶で美人だ。

          「あ、あのっ……私」

          聞きたいことや言いたい事は数え切れないくらい持っているのに、急に現れたイケ

          メン四人組に目眩にも似た感情が邪魔をして言葉を声に変えることがうまくできない。

          悔しくて唇を噛んでいると、昔良く父親にして貰った頭を撫でられ、顔を上げれば

          至近距離に赤髪の青年の顔があり、とりあえずこれを飲めよ、と何やら箱を渡して

          くれた。

          顔が熱くなるのを感じながらそれの角度を変えて見るが中国語で書かれてある為、

          全然解らない。

          先程の風景でここが日本ではないことくらいは気付いていたが、ここまで来ると

          頭が痛くなってくる。

          学生時代に中国文学を真面目に勉強しておけば良かった、と後悔した所で何も変

          わらないとウンザリするほど解っているから恥と思いながらも謎の小箱の正体を

          尋ねることにした。

          「あのぉ……すみません。これ、何て読むんですか?」

          「ねぇちゃん、そんなん解んねぇの?」

          両腕を組んで後頭部を支える一番小さな彼が目を丸くして言った言葉が容赦なくぐ

          さりと胸に刺さった。

          「あはは……ご、ごめんなさい」

          決して悪意はないのだろうが、年下に馬鹿にされたようで複雑な気持ちで苦笑いを

          浮かべると間もなく容赦ない厚い紙の音が少年の頭を襲った。

          「いってぇ〜…何しやがるんだよ、三蔵っ!」

          「フンッ……馬鹿に灸を据えてやったんだ。感謝されてぇぐらいだ」

          「何だとぉ!?」

          「馬鹿ザル」と呼ばれた彼が叩かれた頭を両手で抑え、今までどこに隠し持ってい

          たのかハリセンを手にした法衣の青年を睨んだが、当の本人は高飛車にも鼻を鳴

          らすだけで悪いとは微塵にも思っていないようだ。

          「そうですよ、悟空。言葉はもう少し考えてから口にしないと。『口は災いの元』

           ですからね」

          「『口は』……何だっけ?」

          「八戒、こいつに言っても無駄無駄。脳みそほとんど食い物のことしか考えてねぇ

           からな」

          「何だとっ、エロ河童!」

          「本当のことじゃねぇか」

          「二人とも今は止めて下さい。彼女も驚いているじゃないですか」

          「八戒」と呼ばれた青年に言われてから自分達を見上げているが大きな瞳で何度

          も瞬きを繰り返している事に気付き、「悟空」と呼ばれた少年と「エロ河童」と

          呼ばれた彼が顔見合わせ、お笑い芸人が客のウケが悪いのを見た時のように失礼

          しました、と言ってその場はお開きになった。

          ある意味、闇でこの一行を操っているのかもしれない。

          一瞬、静まり返った室内に彼女が何の前触れもなく吹き出したのがきっかけでそ

          の糸が切れ、悟空が吊られて笑い悟浄は軽くため息を吐いて笑みを唇に浮かべる。

          先程まで真剣に思い詰めていた自分が馬鹿みたいだ。

          彼らによると、昨夜自分が危うく山賊に襲われそうになっているのを助けてくれ、

          ここまで運んできてくれたらしい。

          「あ、それは気を失っていたとは言え、ありがとうございました!」

          「いいの、いいの〜。レディーの危険を守るのが俺の努めだからね」

          「ほぉ…何ならここに残ったっていいんだぜ」

          「ご冗談キツイですねー、三蔵様は。そんくらい旅しながらだってできますよ」

          「フンッ……」

          「それはともかく、貴女は桃源郷の人間でも妖怪でもないようですが」

          自己紹介もそこそこに済ませ、ここはどこですかと聞く前に八戒が単刀直入に

          切り出してきた。

          妖怪と言った物騒な言葉には引っかかったが、ここがのいた世界ではないことくら

          い彼らの服装を見ていれば容易に解った。

          正直に昨夜から今に至る経緯を話したが、彼らがまともに信じてくれるのか解らな

          いと思っている本人もまだ信じられない。

          馬鹿にされるだろう、自然と唇をぎゅっと結んだ。

          「こことは別の次元からやって来たのはにわかに信じ切れませんが、貴女の服装や

           僕達の言葉は通じるのにこちらの文字が解らないことなど踏まえると納得が

           行きますね」

          「なぁなぁ、コイツがこっちに来ちまったのって、異変に関係あんのか?」

          「異変?」

          「えぇ、元々桃源郷は人間と妖怪が住んでいる世界だったんですが、異変が起きて

           それまで自我を保っていたはずの妖怪達が暴走しだしたんですよ」

          「で、俺らはその異変って奴を止めに行くって訳」

          「ちょ、ちょっと、待って桃源郷?この世界って桃源郷って言うんですか!」

          瞬きを数回繰り返してからえぇ、と答えた彼の肩には先程まで気がつかなかったが

          白い蛇のような生き物がこちらを小さな瞳で見ていた。

          初めはこの世界のアクセサリーか何かだろうと思っていたが、今まで休めていた

          羽をいきなり開いて飛んだかと思えば部屋を滑空していた蠅を追いかけてどこかに

          飛んでいってしまった。

          彼らにしてはそれが当たり前なのか全くそれに驚いている様子はないが、こちらは

          八戒から明らかになったこの世界の真相で顔から喜怒哀楽と言う全ての感情が

          抜け落ちていた。


          桃源郷……それは、彼女の世界では中国の理想郷の名を指す。

          その国に今、自分は来ている、そんなエイプリルフールにも笑えない現実が目の

          前に突きつけられている。

          手渡された箱に入っていたのはこちらで言う酔い止めの薬だったらしく、元々下

          戸のが大量に節酒したのだ、体は重く頭は割れるぐらいの痛みを訴え手渡してくれ

          た湯飲みを満たす水を飲んで横になった。

          自分が酒に弱いと言うことは解っていたが、ここまで弱いとは何とも情けない。

          「それでは、三蔵。彼女のことお願いします」

          「……何で俺がこいつのお守りなんだ」

          お守りと言う言葉ぐさりと胸に刺さったが恩人に逆らう真似はしたくない、仰向

          けになったまま瞼を下ろし眠ったふりを試みた。

          「お守りとは失礼ですよ」

          「フンッ……じゃあ、悟浄にヤラせれば良いだろうが」

          我ながら狸寝入りには自信がある、彼らはが熟睡したと思い込んでいるのか気づか

          ないふりをしているのかは解らないが、途切れることなく会話を続けている。

          自分でこうする事を選んだのに何故だろう、こうしていると会社でのことを思い

          出してしまい次第に二日酔いとは明らかに違った気で滅入ってきた。

          「そうだぜ、八戒。こんな無愛想なヤローより俺の方が優しく」

          「だから、彼に任せるんですよ。貴方じゃ心配ですし、悟空は僕の手伝いをして

           欲しいですし、そうなると三蔵しかいないんですよ、適任は」

          「……クソッたれが……さっさと行ってこい」

          舌打ちをする悟浄を宥めるようにその背を押し、夫に留守を頼む主婦のようにお

          願いしますよ、と念を押して青年達の背中は閉じられた扉の中に消えた。

          残された彼が鼻でため息を吐いたのが次第に重たくなる意識の中で聞こえたような

          気がしたが、薬が効き出した体は女としての緊張感よりも余程ダメージが大きかっ

          たらしく安眠を求め深く落ちていった。


          「何故、黙っているの。ちゃんと、言ってくれなきゃ解らないでしょ?」

          「……すみません」

          反吐が出る……何で初めての二日酔いでこんな夢を見なくてはいけないのだろう、

          周囲には見覚えがある……昨日辞めたばかりの会社の事務所だ。

          彼女の前には昨日まで上司と呼んでいた女性が足を組んで座り、俯いている自分

          を覗き込みもしないでどこかを遠い場所を見てそう呟いた。

          この仕事に就いてもうすぐ一年になるだが、営業成績がゼロに落ち込みその直属

          の上司である彼女にとってはとんでもないお荷物で部下の退職を心から願っていた。

          沈黙の威圧感が全身に重くのし掛かり、それ以上言葉を声に出すことを許さない

          雰囲気が嫌でも解る。

          その途端、目眩がしたような気分に襲われたのか気分が悪くなり、喉元に何かがこ

          み上げてくる感覚がして目が覚めた。



          「はぁ、はぁ、はぁ…」

          寝返りで乱れた髪も気にせず上半身を起こし、新鮮な空気を肺に送り込んで吐き出す。

          悪夢だ、それは会社に勤務していた頃から何度か見たことはあるがそれでもまる

          で、初産でノイローゼ気味の妊婦みたいな二日酔いで体がダウンしているのにこん

          な夢を見なくても良いだろう。

          室内は闇に包まれ、まるで風邪と同じように嫌な汗で濡れた体が外気に触れ、

          両腕を交差させて小刻みに震える肌を宥めた。

          夜行性ではない鳥達が闇を恐れているのはこう言う状態なのかもしれない。

          それに伴い、先程感じた嗚咽が容赦なく襲い寝起きだがそのままベッドの下に揃

          えられてあった靴を履き、傍らにあった仕事カバンを手に部屋を飛び出した。

          気持ちが悪い…あの場所も、あの人も、こんな自分も……。

          木製の温かみのある床に不釣り合いに響くヒールの音が静寂の夜に短く響く。

          早く…、一秒よりも早く…、この場所から出なくてはいけない。

          この世界にも自分は異分子で…誰も自分を必要としていない。

          きっと、この世界には何らかの現象に巻き込まれただけで昨夜みたいに月を見上

          げていれば元の世界に還れるはずだ。

          倦怠感を抱かれる前に元の世界に還ろう、そう思うと瞳からは自然と涙が溢れ今

          にも喉に詰まったような声が唇をこじ開けようとするから片手で口元を押さえて

          宿を後にした。


          翌朝、桃源郷も春の訪れを待っているのかすれ違う落葉樹に芽吹く小さな花が

          点々と健気にも咲き、まだ硬い蕾の中で眠っている誰かを呼び覚まそうとしている

          ようだ。

          一方、誰にも見送られず名もない小さな村を発った一行の乗ったジープの中は相

          も変わらず賑やかだが、今日はそれに拍車を掛けたように後部座席が水を得て

          いた。

          「このエロ河童っ!何、いつまで膝取ってるンだよ、次、俺の番だろ!」

          「へっ、お子様にはこの感触は早すぎるンだっつぅの。なぁ、?」

          話題を向けられた方は苦笑するのが精一杯の対処法で、悟浄の顔に掛かった紅い

          毛を肌に直接触れないようにそっとはらう。

          昨夜、青白い月の下で背後から抱きしめられた時、囁くぐらいの声量で助手席に

          座りタバコを吸いながら新聞を読んでいる三蔵が耳打ちしてくれた言葉がまだ胸

          を熱くさせている。

          「行くな……」

          その後、キスをしたとかそう言う訳ではないけれど、あの無口な彼があんな行動

          に出るとは想像もしていなかったのだから余計に心がざわめいているのかもしれない。

          助手席で煙を燻らせている三蔵は自分のことを必要と想ってくれているのだろうか?

          あんな意味深なことを囁いたのだ、そう期待しても罰は当たらないだろう。

          村を発ってから大の男二人が座ってただでさえ狭い場所に座らせてもらっている

          彼女は膝枕くらい安い要望だと思い、ジャンケンで勝った彼に膝を差し出している

          と言う訳だ。

          「なぁ、

          「はい?」

          膝に寝転ぶ悟浄に呼ばれて俯くと、髪と同じく深紅の瞳と合って体が固まった。

          彼はその素直な反応を見ていやらしく笑い、いつの間に上げたのか彼女の後頭部

          を片手で押さえつけ薄く開いた唇まで後少しと言う至近距離まで下ろされると、

          耳元に金属製の何かが音を立てた。

          「そんなに女と遊びてぇならあの世でナンパでもしに逝くか?」

          その低い声色とセットで今度は悟浄が固まり、その隙を見て我に返ったは後頭部

          を押さえつけていた手が緩んだのを確認すると元の位置に戻り、まだ向けられてい

          る銀の短銃と助手席に座ったままその標準を定める彼を見て車内の誰にも解らない

          ように口元を緩めた。

          足下に置いた仕事カバンの奥に眠る赤と黒の携帯電話には未練はあるが、この

          異世界にもう少しだけ残っていようと思う。

          貴方が愛してくれるなら……。



          ―――…終わり…―――



          #後書き#

          「貴方が愛してくれるなら」は、どうだったでしょうか?

          初の三蔵Dream小説でしたが、皆様にお楽しみ頂けると嬉しいです。

          今作は、「いじめ企画」で作業しました。

          なぁんて、カッコ良く閉めたいですが、実は『Streke a vein 2007年端月号』に

          間に合わせようとして断念したものです。(爆)

          開き直りますと、ソフトに上司イジメ?みたいなのを入れたので、まぁいいかな、

          と…。←待て(笑)