青いイナズマ

      とある図書館の二階にあるAV室から窓の外を見上げている忍足侑士は、何を考える訳でもな

      く、ただ眼下に広がる景色を見ている。

      空は雨雲の濃さと六時五十五分という時刻に埋め尽くされ、すっかり閑静な住宅街は闇と

      雨に濡れている。

      もう、司書の誰かが館内に誰か残ってないかどうか見回りに来る頃だろう、その前にお気

      に入りのLDを探し当てて荷物をまとめ貸し出しカウンターに向かうのがいつもの彼の

      スタイルだ。

      そうすると、いつも「もう、中学三年生なんだから閉館時間くらい守ってもらわなくちゃ

      困るわ」、と自分の母親と大して年齢差がないであろう小太りでシワがあまり目立たない

      女性が少し窘めるように小言を言いながら応対をしてくれる。

      忍足も「いえ、観たいLDがなかなか決められへんで、やっとこれに絞った所なんです」、と

      決まった言葉をまるで、受付を済まして渡されたLDの脇役のようにその一言だけを返して

      家路に着いていた。

      それなのに、AV室のドアを出ることもしたくない。

      窓辺に半ば食い入るのように張り付いたままでいると、何か大きな切り裂くような音が彼

      の五感を青く染めた。

      過去の世界からいきなり現に戻った所為で、何が起こったのか理解するのに少し時間

      が掛かった。

      だが、それさえも凌駕する轟きは一瞬にして眼鏡に皹を走らせるように空を割り、雲を

      味方にし、雨足を先程よりも酷くさせる。

      「あっ」

      それは、雨の一滴がごつごつしたアスファルトの荒い道に叩きつけられるのとほぼ同時

      だった。

      短くそれだけを呟いた忍足は今まで重くのし掛かっていた罪悪感をレンズの中に落とし、

      右手の親指と人差し指でフレームを持ち上げ、モスグリーンのTシャツの上に羽織った水色

      の洗いざらしの胸ポケットへ放り込む。

      その上をボタンで止めて蓋をすると、乱暴に24型テレビを上にLD用ビデオ用のデッキをま

      るで無視するかのように置かれた鞄を勢い良く掴み、迷いもなく扉から飛び出す。

      もう、誰かがこの青いイナズマの下で孤独に泣かないようにするために…。


      残暑が残る九月も下旬になると、風も空もすっかり秋になり急に装いを変えてしまう。

      今日もそんな日で、部活から帰ってきた彼が自宅の玄関を開けた時、小さな悲鳴が

      出迎える。

      合い鍵を射し込んで開けた玄関の中には女性が二人いた。

      一人は家の中からそして、もう一人はヒールのない靴を履いた状態でこちらを振り返って

      いる。

      中学三年にして178pという長身にして、母と姉を難なく越えてしまった忍足は見下ろさ

      なければならない。

      視線を走らせると数分も経たない内にそれはぶつかり、別に激しい音がした訳でもないのに

      相手は肩を下ろし小刻みに震えた。

      「何や…侑士。びっくりしてもぉたやない」

      そんな変質者に遭遇したように怯えなくても、と声を掛けようとして聞き慣れた声がそれを

      邪魔をする。

      「驚いたんはこっちも同じや。それよりこっちの人は」

      「あぁ、紹介したるわ。ウチの高校ん時の親友、。看護婦志望やって言うからな、家の

       病院見せてたんや」

      初めまして、と言う今もまだ恥ずかしそうに顔を俯かせている彼女と違ってけらけらと

      笑っているのは彼の四歳離れた姉である。

      彼女は大学に入るとそれまで禁じられていたピアスに手を付け、成人式前に煙草を吸うと

      言う何とも自由奔放な性格で、専攻も勿論英米科と言う実家には何の繋がりもないものを

      選んだ。

      これからは英語も話せないと世界には通用しない、と言うのが言い分だが、長年この人の

      弟をやっている忍足には解っていた。

      姉はこれから親が倒れたとしても実家を継ぐ気はないんだ、と。

      それは彼に問わず、家族のものが薄々感づいていたことだが、今、思い出しても両親のやり

      場のない気持ちが伝わってきて時々、胸が痛くなる。

      小さい頃から通訳に憧れていたことは誰だって知っているし、夏休みに彼氏と観に行った

      映画の字幕にケチを付けて別れたと言う話まであるくらいだ。

      弟にもテニスプレイヤーとしての夢はあるが、立場上大学は医学部を専攻しようと思って

      いる。

      いざと言う時のために資格を取得している方が、後々楽だと言うのが解っているからこの

      エスカレーター式の氷帝学園に入学させられても何も言わなかった。

      ここなら大学に医学部があるし、テニスも強いし、成績さえキープしていれさえすればそれ

      までは自動的に道は用意されてあると言うわけだ。

      全く、こんな退屈な人生なんて反吐がでる。

      そんな職業に身を落ち着けたい奴なんて余程自分の置かれた運命が退屈なだけなんだろう、

      と今もまだ俯いている小柄な女性の顔を覗き込んだ。

      自主的に看護婦になりたい、と言う輩の顔を見てみたかった。

      「っ!?」

      年下とは言え、それまで頭上にいた少年が顔を覗き込んだことで距離を縮められたのだ。

      頬に余計な熱を感じて平常心を促すが、そんな余裕は残されてはいない。

      「あ…あの」

      やっとの事で出せた言葉はそんな弱い声色だったが、忍足は軽く口笛を吹いて姿勢を戻す。

      彼はズレてもいない眼鏡のフレームを持ち上げると、肩に掛けたテニスケースを背負い

      直して彼女に向けて話しかけた。

      「べっぴんさんやな、自分。姉貴もそれで一目惚れしたんか」

      「当たりー……って、何言わすのこの子は」

      突っ込みで投げたタバコの箱はあいにく空で、その威力は発揮されずにの足下に落ちた。

      やってもうた、と頭を掻く姉のいかにも失敗したと言う表情につられて笑いがこみ上げ、

      その場も考えずに彼女は吹き出してしまった。

      「お、笑った顔も可愛ええなぁ」

      「何、侑士。惚れたか?あかん、あかんで、ウチらは結婚の約束までしてるんやで」

      「誰がやねん。でも、自分。もう少し足見せた方が俺の好みやねんけどなぁ」

      「ふふふっ、……え?」

      その言葉が頭上から降ってきた時、バケツの水を浴びせられたようにその表情は凍った。

      彼女がアホ、と言うのを遮って大丈夫だから、と素早く遮り挨拶を済ませると、そそくさと

      退散したの後ろ姿が印象に残った。


      その日はとても嫌な予感がした。

      学校から帰るのも怖くて、普段は絶対しない今日の復習を図書館でしていた。

      心の底から仄暗い何かが首を擡げ、じっとこちらを伺って目を反らせば今にも引き込まれて

      しまいそうで、落ち着いて勉強に集中することなんてできない。

      四階の図書室の窓には自分の心を映しだしたように、空から落ちてきそうな雨雲が重く

      埋め尽くしている。

      二学期も始まった氷帝高等部だが、まだそれから一週間も経ってない所為か部活や委員会

      活動をしている者も少なく、校内には彼女を含めた生徒が残っているだけだ。

      だから、この部屋も司書の先生と半ば二人きりで返って勉強し難いものがあるのだが、そう

      も言ってはいられず結局、参考書を開いてノートに書き留める作業を繰り返している。

      強く自己主張をしている独特の字体を二行目から三行目にシャープペンを走らせようとした

      ところでノートと教科書を鞄の中に投げ込み、参考書を元合った棚に押し込めると司書の

      先生にさよなら、と挨拶をしてパタパタと図書室を飛び出した。


      あれから何週間後の土曜の夕暮れ、忍足はデートの帰りに兼ねてからを誘おうとした

      図書館へ逆に誘われてしまった。

      毎週と言う訳ではないが、彼にとっては休日に外出するスポットの中にある。

      ここは、当たり前だが、学校の中にある図書室とは比べものにならないほど規模が

      大きく、AVコーナーが広いのが忍足のお気に入りの理由だ。

      どうしても最新作が観たい場合は映画館に行くか駅前のレンタルビデオ屋に行くが、大抵

      のものはこのAV室で間に合ってしまう。

      翌日から彼女のファッションセンスががらりと音を立てて変わった。

      それは恰も革命が起こったかのような出来事で、デニム地の膝上スカートから伸びる生足

      はその色香を発し、十五の少年の目を一瞬にして虜にした。

      今も隣を歩くを盗み見ているが顔には薄く化粧がしてあり、遠くから見ていてもその

      上品さが伝わる。

      自慢の恋人……だけど、誰にも教えない秘密がより二人の絆を強くしていた。

      自動ドアがマナーの良い執事のように出迎える中をくぐり抜け、ちょっと待っていてと

      言ってカウンターの返却窓口に小走りし数分後、また小走りをして戻ってきた。

      「今日は返却に来たの」

      「何、借りた…って言うのは愚問やな。自分、看護婦志望やし」

      「そ、そうだけど、専門書だけじゃないよ。ほら」

      彼女がそう言って彼の目の前に突き出したのは何十年も昔のビデオだった。

      タイトルを見てみると、何だか見覚えのある。

      「思い出したわ。俺が中学に入って最初の頃に借りたテープや、それ」

      「え、本当?」

      「嘘は言わん…悲恋やけど、綺麗やったやろう?」

      「うん、ラストなんて泣いちゃって目元が少し腫れちゃった…ちょっと厚化粧をして

       隠しているけど、ね」

      そう言っては笑うが忍足にはそうは見えない。

      きっと、いつも大して化粧はしないから気にしているのだろう。

      「そんなことないで、最初の頃もそぉやけど、今日みたくお洒落しているも綺麗や」

      彼はその頬に掌を乗せ、その感触を確かめてから目元を緩めて笑う。

      独特の口調で言われた方は見る間の内に顔中が火照りだし、その曇りのない瞳を慌てて

      忍足から背けた。

      こんな一つの動作でさえ、いとおしいなんてかなり重傷だ。

      AV室のドアを開けようとすると、中からいかにもヤンキーそうな女が出てきて彼女を見る

      なり、人差し指を向ける。

      「ちょっと、さんじゃない?」

      「久しぶり、それにしても随分と様変わりしたものね」

      「あ、こ…これは…」

      「解っているわよ、隣の彼氏の好みなんでしょ?へぇ、こうして近くで見るとなかなかイイ

       男じゃない」

      彼女は軽く口笛を吹くと、汚い顔で彼を見上げる。

      早くどっかに行け、と言う罵りを脳内にしまい込んでどうも、と愛想笑いを浮かべた自分

      は偉いと感動した。

      その前に「彼氏」と言う単語にごまかされていた忍足はすっかり気を良くしてしまい、この

      名も知らない女がの友達だと信じていた。

      しかし…

      「や、やめて下さいっ!彼は友人の弟で今日はたまたま」

      「見え透いた嘘はよしなよ、高校三年間地味で通っていたアンタがあっさりと衣替えする

       なんてそれしか理由がないじゃん。けど、へぇ…親を見殺しにしたさんが年下好きとは

       知らなかったよ」

      彼女より背の高い相手は意地悪い笑みを浮かべて歩き出し、先程忍足達が通った自動ドア

      から外へ消えた。

      一方、捨て台詞を浴びせられた方はまるで、古いファンタジー系の話に登場する時を止める

      呪文のように身を固くしている。

      「おいっ…どうしたんや?」

      肩を二、三度揺すぶると正気が戻ったのか彼を見上げたが、その瞳にはうっすらと光るも

      のが見えた。

      「なっ…」

      「ごめんねっ!」

      彼女こそあの魔法を使う魔女だった。

      涙を浮かべただけで彼を身動き出来なくさせ、風を味方に付けたは自動ドアの外へと

      掛けだしていた。


      雨が突き刺さるように衣服を濡らす、だが、忍足はそんなことは気にしなかった。

      彼女と初めて玄関内で会ってから間もなく、雷鳴が空を裂いた。

      リビングでコーヒーを片手にテレビのニュースを見ていると、姉が窓の外を降りしきる雨

      を見てぽつりと言った。

      「、大丈夫やろうか…」

      それは勿論、弟に尋ねている訳でもなく、今、破天荒なことしか考えない頭の中で広がる

      悪い妄想の中にいるもう一人の自分に聞いているようだ。

      楽天家の姉には珍しくシリアスな表情を浮かべている。

      「大丈夫やって。傘持っておらんかったら、コンビニでビニール傘でも買うやろ」

      白いソファーに座ったまま素っ気なく、返すと背後に殺気を感じた途端、後頭部を強い

      力で叩かれた。

      「なっ、何するんや!」

      持っていたコーヒーカップを握りしめていたのは正解だったが、その衝撃に流された反動

      でお揃いの白いカーペットの上に落ちた。

      急いで備え付けのティッシュペーパーを何枚か毟り取り、危うく最悪の事態は防いだ。

      しかし、振り返った先の彼女が言った言葉が今の彼を走らせる。

      「あほー!あの子は、雷を怖がっとるんや!」

      何十分経ったのだろうか、時計を見ると何分も針が進んでなくて余計に焦る。

      もし、彼女の言葉が本当なら、図書館からそう離れてはいない所で雨宿りをしている

      はずだ。

      足を止めると、ポケットに納まりそうな小さな公園が視線に飛び込んできた。

      だが、あまり使われているようには見えなくて何だか忘れ去れているようで寂しい所だ。

      小さなドーム形の遊技には所々穴が空いており、その隙間から見覚えのある背中が震えて

      いるのが見え、水溜まりも気にせずポケットパークに足を踏み入れる。

      「っ!」

      砂利が汚水と一緒に足首を濡らしたが、そんなのどうだって良い、今は、何かと戦っている

      彼女を独りにしたくない。

      「っ!……侑士君!」

      長身を窮屈なドームに捻り込むと、ぎょっとしてが振り返った。

      本来、小学低学年までが首を出したり、かくれんぼの隠れ場所に選んだりする場所だ。

      中学生の男子学生がこんな狭い所に入ると、いくら小柄な彼女とは言え狭くて至近距離

      で会話をすることしかできない。

      こんなに間近にを見たことはない。

      初めて会った日は忍足が見下ろし、が見上げる距離を保っていたのに、今は、魔が差せば

      その唇に触れることだってできる。

      勿論、この前彼女の初めてを頂いたがそれでも未だにキスをするにも緊張させられる。

      しかし、それは異性だからとか同性だからと言う問題ではなく、その相手がだからこんなに

      も気持ちが高ぶるんだ、と解っているから余計に自分で煽ってしまう。

      「ど、どうしてここが解ったの?それに、服こんなに濡らして…」

      「しょうもないやろ……惚れた女を泣かすのはイヤやから」

      瞳の端にはまだ涙が溜まってあるのを唇で吸う。

      彼女の青白かった頬に赤みが刺し、そのまま口づけを交わそうとする………その瞬間、

      また、雷鳴が轟き頬に帯びていた赤みは一気に崩れて彼の体に抱きついた。

      「ひゃあっ!」

      「おっと…大丈夫か?」

      「ご、ごめんね」

      「心配せんでええ。俺が鳴り止むまでこうしといたるから…な?」

      大丈夫だ、という彼の声がとても優しくてそのまましがみつく。

      どうして、この人は自分の傍にいてくれるんだろう?

      その疑問は先程の不意打ちの中に溶けた。

      動かすのがやっとの片腕を彼女の背に回す。

      雨で冷え切った体がイヤに婀めいて鼓動が忙しく血流を体中に走らせる。

      「……ねぇ、侑士君」

      「何や?」

      「私のトラウマ…あなたが傍にいてくれれば何だか克服出来る気がするの」

      当時、急いで帰宅するとを待っていたのは16歳の娘が見て良いものではなかった。

      両親が心中したなんて信じられないし、まして、一人娘もその道連れにしようとしていた

      なんてさらに信じられなかった。

      鳴り響いた青いイナズマだけがやけに広く感じる部屋に響いたのが、今でもトラウマに

      なって残っている。

      だが、それも付き合いだしたあの日、忍足が言った言葉が嵐に震える彼女の支えで優しく

      差し延べられた掌だった。

      「なっ!…何やねん。そんなん親のエゴやん」

      「そ………だよね。ホント、バカな親」

      は、ほんまどうしたいんや?後を追いたいか?」

      「そんなことしたくないっ!だって、私は侑士君がいるからこの世界にいたい。あなたの

       傍にずっといたい」

      「じゃあ、俺がその過去を忘れさせてやる……は親御さんに失礼やけど、守ってやることは

       できる。一緒に頑張ろうな」

      いつだってそんな不意打ちの優しさをくれる彼が大好きで、つい、年下ということも忘れて

      甘えたくなる。

      「甘えれば良いやろ?大体俺、を年上だと思ってないし」

      ……どうやら、口に出していたようで頬に唇を当てられる。

      彼がこういうことする時はいつも唇にキスする合図だから雨に濡れたルージュのまま瞳

      を閉じた。

      唇に忍足の温もりを感じる頃、いつか言った言葉を思い出し頑張らなくちゃ、と笑う。

      「お、そしたら墓参りに連れてってな?ご両親に挨拶せな。娘さんを頂きましたって、な?」



      ―――…終わり…―――



      ♯後書き♯

      初忍足Dream小説です。

      今作は柊沢めが初めて参加させて頂きました企画サイト様「Dearest you」への参加作品です。

      いつもの要領で危うく「年上彼女」という主旨から外れる所でした。(反省)

      今作でようやく三作目。(疲)

      それにしても、一ヶ月で三作も小説を書いたのは本当に久しぶりです。(土下座)