どんな願いよりも


      夏休みに入った青学だが、部活に入っている者にとっては、土日休日以外に個人の

      自由などない。

      校庭にはテニスコートが設けられており、それを使用している男子テニス部が強いと

      有名である。

      だからだろうか、長期休暇にも関わらずギャラリーが大勢駆けつけてきた。

      だが、その大半はミーハーな青学の女子生徒だったりする。

      「きゃ〜!桃城せんぱぁーい!!」

      「どもどもぉ」


      黄色い声援が飛ぶ男子部のコートとは違い、それより奥にあるテニスコートでは今日も

      女子部が和気藹々と練習をしていた。

      青学では男子テニス部が有名となってしまって、女子部はそのおまけの存在になっている。

      真っ白なスコートが夏の風に、上品に揺れた。

      たまに現れるギャラリーなど知れたことで部員達専属の覗き魔が顔を出すくらいである。

      「ちょっとちょっと、お姉さんっ!何か忘れていない!!」

      「へっ……あ」

      テニスコートに立つ一人の少女が、向かい側にいる同い年ぐらいの少女を見て思わず

      言葉を零してしまった。

      走馬灯のように今しなければならないことを思い出して冷や汗が意識しなくとも

      流れてくる。

      「「あ」じゃない!あんた、本当にヤル気あんの!?」

      こちらが黙っていると、ショートヘアの頭に手を当ててため息を吐いている。

      「ごっ、ごめん!わざとじゃ…」

      「解ってるわよ。何年の親友やってると思うのよ?どうせまた」

      「わぁー!その続きを言わないで!!」

      彼女の言葉を遮るように叫ぶと、ネットを飛び越えようとするかの如く駆け寄った。

      二人はここ、女子テニス部に所属し、今はシングルスで試合をしようとしていたのである。

      慌てている彼女とは違い、サーブするはずだった親友はボールを握り締めたまま呆れ果てた

      顔をしていた。

      「良いじゃない。もう、女子部のみんなが知っていることよ」

      「えぇっ!?」

      彼女は周囲を見回しながら小声で話すが、と呼ばれた少女は大音量で鼓膜に響いたような

      気がした。

      二人は青学の二年で、一年から同じクラスである。

      向かいのコートにいる少女とは小学時代からの付き合いで、彼女の全てを知り尽くしている

      と言っても過言ではない。

      「何?今まで隠しているつもりだったの?アンタの行動を見てればバレバレよ」

      「うっ?!」

      その言葉に打ちのめされたかのように、は小さく呻いた。

      彼女の名前は、

      青春学園中等部の二年で女子テニス部の副部長だったりする。

      「本当?ホントにみんな知ってるの?」

      コート上で何をひそひそとやっているのだろうと、部員の目も次第に集まってくる。

      彼女は頬を上気させて、今どこにいるかなどもう、覚えていないだろう。

      そんな少女を見ているのが楽しいのか、向かい側のコートにいる人物は顔をニヤニヤ

      させていた。

      「真帆ちゃんっ!」

      「あっ、ごめん。つい、って可愛いなぁと思って」

      「んもぉ!そんな見え透いた嘘言っても誤魔化せられないんだから!!」

      ラケットを冗談交じりに振り上げてみれば、身軽な真帆と呼ばれた少女は遠退け、声を

      立てて笑った。

      「私に勝ったら、教えてあげるよ。ほら、とっとと構えな!」

      「よぉし、その言葉忘れないでよ!」

      その挑戦に受けてたった彼女は、手にしたままのボールを宙に放った。

      ちなみに、向かいコートにいて先程から衝撃の真実を口にしているのは、同じく二年で

      部長の櫻真帆だ。

      なぜ、男子部と違って部長副部長に三年が就いていないのかと言うと、彼らと違って

      何かの大会に出られるほど強くはないからである。

      女子部のモットーは、「初心者でも安心して入れる部作り」である。

      だから、基礎的なことはやらず、各自でテニスを楽しむだけで終わってしまう。

      だが、この二人は前部長副部長に期待されていた。

      ここも男子部とは違って、一年生からラケットを持つことが許され、彼女達はずば抜けて

      成果を発揮していた。

      その甲斐もあってか、次世代の達になるのだと言わんばかりの立ち上がる者も多い。

      「あっ、部長と先輩が試合してるぅ!」

      だからであろうか、女子部の注目の的が試合をしているのに気がついた部員達は彼女達の

      いるコートへ集まってくる。

      「きゃー!櫻部長、がんばって下さいっ!!」

      ギャラリーが多いと、やる気が出る真帆は急激にボールを重く打つ。

      一方、彼女は心の中で必死に誰かを思い出しながらそれを返していた。

      黄色いものが何回か右往左往とコート上を行き来すると、側にチャンスボールが来る。

      「あっ!出る。先輩のアレ・・・」

      部員の中からそんな声を聞いた気がした。

      それは、一瞬の内で終わった。

      向かいコートでは、唖然としながらも肩をわなわなとさせている真帆がこちらを

      睨みつけている。

      「くぅらぁっ!!!あんた、ホント、やる気があるの!?」

      そう、彼女の得意中の得意であるこの技は、相手に驚異さではなくむしろ、苛立ちを感じ

      させてしまうものだった。

      「あるよっ!真帆ちゃんだって知ってるでしょ?私の18番」

      「知ってるわよっ!は間違いなく「天才」って部員にもてはやされるけれど、私は単なる

       受けを狙っているとしか思えないのよっ!!」

      それもそうだろうと、彼女は自分のことながら頬をぽりぽりと人差し指で掻いた。

      何を隠そうか自身でさえ、そう考えているのだ。

      彼女の得意としている技名、それは、「獅子落とし」である。

      名前は風流だが、現物はキレイに決まっても相手をブチギレさせる効力があった。

      女子部に入った当初、試合をしても力の弱いは毎度のことながらボールをネットに

      ぶつけていた。

      そんなある日、いつものように手元が狂ってしまった時、それは完成したというわけ

      である。

      偶然に偶然を重ね、今では必然的に「獅子落とし」を使いこなせるようになった。

      苦笑する彼女は、女子部に入るきっかけを作った人物を思い出した。

 

 

      「まだまだたりねーな。たりねーよ。どんどん、行くぜ」

      青春代駅近くにある大手スーパーの屋上テニスコートでは、たくさんの大人の中に混じっ

      て二人の小学生がいた。

      一人は癖のある髪を立たせた少年、そして、もう一人は向かいコートで半べそを掻いている

      少女だった。

      「……武ちゃーん。もう、止めようよぉ……疲れた」

      「おいおい、何言ってんだよ?が「もっと、強くなりたい」っていうからこうして

       付き合っているんじゃないか」

      そういっている彼も額の汗を拭っている。

      幼い二人はコートを隔てて汗だくで、立っているのがやっとだった。

      だからだろうか、いつもは思ったことがすぐ顔に出てしまうのに、疲労で顔が崩れている

      今は彼に追及されなかった。

      彼女たちは幼馴染で、このテニスコートには両親の付き添いで良く来る。

      いつしか少年はめきめきと腕を上げ、今ではここのスポーツクラブの講師しか相手に

      ならないほどである。

      同じ子供としては鼻が高く、自慢の幼馴染だったが、気持ち良くそう思えないものが存在

      していた。

      それは…

      「武君、ちゃんは本当に疲れているみたいだからちょっとは休もう、ね?ジュース、

       ご馳走するから」

      二人がコートで睨み合っていると、優しく微笑んだ女性がこちらに近づいてきた。

      彼女はそういうと、自分より何歳か下の少女の肩を抱き、大丈夫と聞く。

      「だって、芝姫先生。から言ってきたんだぜ?」

      「はいはい。でもね、スパルタが必ずしも良いとは言えないのよ?それに、それが元で

       テニスが嫌になったらどうするの?」

      「うっ……解ったよ」

      言葉に詰まった少年は拗ねた素振りで、走り去った。

      残された少女は、20代前半と思われる芝姫教師の差し伸べた手のひらを掴んで一緒に

      歩いた。

      彼女は誰に対しても優しく指導する。

      だからであろうか、初めて出会った頃から幼馴染がこの女性に好意を抱きだした。

      それは、ずっと前から彼のことを想い続けてきた彼女にとっては面白くなかった。

      だが、止めたところで訳を聞かれたら何と言えばいいのかわからず、今日まで来ている。

      「武君は、ちゃんのこと思ってやったことだと思うよ」

      「えっ?」

      何歩か歩いたところで急にそんなことを言われて顔から感情が抜け落ちてしまわないか

      心配になる。

      だが、少女の気持ちを察してか笑みを零すと、優しく頭を撫でた。

      「大丈夫だよ。彼はちょっと意地張っちゃっているところがあるだけだからちゃんが

       心配しないで良いんだよ」

      「せんせ・・・それは・・」

      「おーい!芝姫先生ぇ!!ジュース、奢ってくれるって言ったじゃんかよぉー」

      彼女の意味深な言葉に問い返そうとすると、元気のいい声が前方のテニススクール本部から

      響いてきた。

      その声の主はこちらに向かって大きく手を振っているが、二人の間にある存在を見つける

      と、険しいものに変わった。

      「あぁ!てめぇ、どさくさに紛れて何してんだよぉ!!」

      「こら!女の子にその口の利き方は何かな?ジュースはもう、選んだの?」

      「ああ」

      「ちゃんは?」

      「あ…あたしは」

      イキナリ話題を振られ、少女は顔に困惑の色を浮かべる。

      本来、彼女は「優柔不断」と言った類で、決断しても他人に聞かれるとそれで良いのか

      悩んでしまう性質の持ち主だった。

      「あぁ、そいつに聞いてもダメだよ。は優柔不断だから」

      そんな無神経の言葉が彼女を深く傷つけたのは言うまでも無い。

      少女の小さい体はわなわな震えると、目の前にいる桃城少年を思いっきりにらめ付けた。

      その瞳からは涙が溢れ、なかなか言葉が上手く口にできない。

      だが、彼の次の台詞でそれは確信へと色を変えた。

      「なっ、何だよ。本当のことを言ったまでじゃねーか」

      「武ちゃんなんかだいっ嫌い!!」

      それだけ叫ぶと、幼いは、ロビーを駆け抜け家まで駆け出していった。

      自分がどんな想いで一緒にいたのか。

      それが、桃城に伝わっていなかったのが悔しかった。

      彼を大好きな自分の気持ちを踏みつけられたようで、嫌だった。

      別に、少年に恋焦がれている自分が好きと言うわけではない。

      ただ、今は、泣き疲れるまで泣きたかった。

      あの事件があってから両親がテニススクールに出掛けても、彼女は家で留守番するか友達

      と終わる時間まで遊ぶのが続いた。

      桃城に学内であっても避けていた。

      だが、すればするほど彼の事を想う心が余計傷んだ。

      そんなある日、が小学六年生に上ると同時に、風の噂で、芝姫講師が故郷の方で結婚をし、

      そのまま向こうで暮らす事になったと聞いた。

      もちろん、今までの仕事は辞めるだろう。

      あの日の光景が過ぎり、心が動いたがその瞬間、記憶の中のあの少年と目が合い、真相

      を確かめる事などできなかった。

 

 

      「そう言えば、今夜、商店街の七夕祭じゃなかったけ?、誘っちゃったら?」

      いつもの部活後の帰り道。

      隣を歩く彼女と同じ身長の真帆は、そんなことを切り出してきた。

      結局、部長副部長の差で、彼女には点数を抑えられてしまった。

      「だっ・・誰を?」

      平静を装ったつもりだが、小学時代からの親友は何でも知っているためそれが通用する

      はずはない。

      「またまた、惚けちゃって。桃城に決まっているでしょ?いつまでも意地を張んないで

       さっさとコクっちゃいなさいよ」

      真帆はそう言うと、の背中を力強く叩いた。

      今日は、年に一度の彦星と織姫が逢瀬を重ねる大切な日である。

      青春代の商店街もこの日を選んで毎年、七夕祭りを催していた。

      老若男女問わず集うイベントなのでそれなりに、この辺ではクリスマスや元旦と同じく

      盛大なものである。

      だからだろうか、新たなるカップルの誕生の場でもあった。

      「そ……そんなこと言ったって」

      「じゃあ、このまま言葉交わさないままで良いの?」

      「……」

      彼女だって何度彼をここに誘いたかったかしれない。

      だが、あれから月日が大分経ってしまった。

      あの事件があった時より大人になってしまった二人の溝は、気づかない内に深くなって

      しまっただろう。

      その所為か、声を掛けるのさえも臆病になってしまった。

      「よぉし!決めた」

      「何を?」

      彼女がいきなり大声を出したので、それに驚いたは体中を強張らせて本人を見た。

      隣の少女の顔を見て笑う親友は、いつかにいた悪戯坊主の残像が覆い被さる。

      だが、そんなものは幻に過ぎなかった。

      「さっきの試合の罰ゲーム」

      頭を強く振ると、それは一瞬の白昼夢と化して真実を彼女の前に現した。

      しかし、そんなことは毎度のことで慣れているはずだ。

      痛みなんてもう、通り過ぎているはずだった。

      だが、そんな考えは甘かった。

      瞳からは次第に涙が溢れ、頬を幾筋も流れ落ちる。

      「ちょっ!何、泣いてんのよ?っ!!」

      両の肩を強く揺さぶられるが、そんなことはどうでも良かった。

      指で拭おうとしてもそれが震えて思うように力が入らない。

      瞳に焼きついた少年があれから成長した姿を遠くから見かけたことがあった。

      しかし、声は掛けられず、いつも気づかれそうになったら背を向けて駆け出すのが

      日常である。

      彼女は真帆の前に立つと、倒れ込むように抱きしめ、数分間、声を殺して泣いた。

      まるで、届くはずのない想いを綴る手紙を書くように、涙が止まらない。

      「…いたいよ」

      「?」

      「会いたいよ」

      そのかすかな声に反応を示した真帆は少女の両の肩を掴み、強い力で押し返した。

      辺りでは気が早い蜩が周囲の建物に染み入るかのような声で鳴いている。

      駅までの通り道から住宅街に入った所為か、二人の中学生の他は誰もいなかった。

      今も彼女の両の肩を強い力で握り締めている少女は、親の敵のようにこちらを

      睨みつけてくる。

      その眼差しの鋭さにドキドキして、彼女が次に何を言い出すのかと考えるだけで怖かった。

      「今日は一年に一度、二人が会える日なのよ」

      「えっ?」

      真帆が口にした言葉が想像していたものよりも柔らかいもので、思わずそんなことを

      呟いてしまった。

      二人の体を繋ぎ止めていた彼女の腕から解放され、次にその掌はの両手を軽く握り締めた。

      その温かさにどこかへ行ってしまいそうな思いを振り切り、目の前の少女を見つめ返した。

      その瞳には今にも崩れ去ってしまいそうな自身が映っているのが嫌だったが、逃げること

      だけはしたくない。

      「雲が遮ったとしてもそれは私たちが見えないだけで、本当は、再会しているのよ?

       だから、アンタもお互いの気持ちが会えるはずだよ」

      「真帆ちゃんっ!?」

      思わず声が上がってしまい、辺りを見回したが、誰一人として通りかかる者はいなかった。

      「だから、思い切ってから連絡してみなよ」

      「でも、勇気がないよ。私は武ちゃんとろくに口を利いていないんだよ。それに、あの頃

       より私達は成長したし・・」

      「だからこそ、アンタがリードするのよ」

      「どういうこと?」

      彼女は繋いだ両の手をそっと離し、こちらに背を向ける。

      その方角の空ではカラスが何羽か飛び急いでいた。

      不意に、先月の古典の授業で覚えた有名な作品が脳裏を過ぎる。

      そう言った類を暗記するのを得意とする彼女は、それを口ずさんでしまいそうになったが、

      いくらなんでもそれは不適切なため黙っていた。

      「達はあんなことがあってからお互い、意地を張り続けていた。だけど、そろそろ

       解り合っても良い頃だと思うの。だから、あの時のようにアンタが彼に声を掛ければ

       良いのよ」

 

 

      すっかり日も落ち、家では、一人の少女が自室の姿見の前に立っていた。

      頬は無意識に火照り、鼓動はそれを暗示するかのように早く脈を打っている。

      先程、夕食を終えるのを見計らって、久しぶりに桃城へのアドレスを押した。

      その間、何秒か待つのがには一時間にも感じられた。

      『はいはーい。もしもし?桃城ですが』

      やっと、出たかと思ったら、その声の主は彼本人だった。

      「……もしもし」

      いきなりのことで声が出ず、受話器越しに深呼吸をした。

      「はい。どちら様でしょうか?」

      何故だが、向こうから笑い声が聞こえたような気がしたが、そんなことはどうだった

      良かった。

      「ですが、武さんは居られるでしょうか?」

      相手が誰だか解り切っているくせに、幼い頃遊んだ電話ごっこのように大好きな少年

      を呼ぶ。

      その行為が懐かしかったためか、先程まで緊張してなかなか言葉にならなかった声が

      するすると唇から出てきた。

      「あぁ、お前か。どうしたんだ、こんな夜に?」

      「あ…あのね、今夜、商店街が毎年やっている七夕祭りあるじゃない?これから一緒に

       行ってもらえないかなって」

      想像していた「久しぶり」と言う単語が桃城の口から出てこなかったことに少しがっかり

      しながら本題を切り出した。

      「へっ?」

      そういったかと思うと、彼は突然口ごもり二人の間に長い沈黙が流れた。

      胸に手を当てて聞いていた彼女は、抑えきれない鼓動の早さに白いシャツの胸元を強く

      握りつぶす。

      もしかしたら、もう、誰かと約束してしまったのではないか。

      もしかしたら、自分と行きたくないのではないか。

      そんな思いがを不安にさせた。

      「ご・・ごめんね、忙しいよね?さっきのことは、忘れて。それじゃ…」

      長い沈黙に耐えられなくなった彼女は、それだけ呟いて受話器を切ろうとした。

      だが、それは、あの頃より強くなった男の声によって遮られる。

      「待てよ!誰も行けねぇとは言ってないだろうが。支度が終わったら、お前ん家の

       前で待ってろよ。迎えに行くから」

      受話器を切っても、彼の言葉が頭の中で何度も再生される。

      『迎えに行くから・・・』

      何年か前にの母親が作った赤い浴衣に袖を通し、鏡の前で薄くリップを塗った。

      その際に映った自身と目が合い、頬がチークをしなくても十分に赤いことに今更ながら

      気がつく。

      だが、ファンデーションで隠すことも時間がないためできない。

      「あぁー、もう、時間がないってのに。私って、何でこんなに思っていることが顔に

       出ちゃうんだろう」

      そう言った彼女は何を思ったのかいきなり自分の頬を平手で叩いた。

      頬に赤みを増して誤魔化すためか、その行動は気が済むまで続いた。

      外に出ると、さすがと言うのか、暗いことに改めて再認識をする。

      確かに、今まで、夜は当たり前に暗いものと思っていた。

      だが、実際にその時間に外出したことなどはない。

      だからこそ、は漆黒の闇をじっと見つめていた。

      青春代も一応、都会であるためか、天の川など姿形さえもない。

      何にも染まらないそれは数個の星を輝かせるだけだった。

      心の中で二人の事を心配しながら、待つこと数分間。

      太陽が沈んだ方角から一人の少年がこちらに向かって走ってくる。

      その顔はいつかのように汗だくだった。

      しかし、その瞳はただ一人だけの女性を映して離そうとはしない。

      「武ちゃん……」

      自然と小声で彼の名をあの時のまま口にしていた。

      あの時もこうして彼女だけを瞳に宿していたことを思い出す。

      だが、それは、当時の幼い少女にはガラス越しで理解することができなかった。

      今なら、真実を口にすることができるだろうか。

      黄昏に染まったあの瞬間に耳にした声がの脳裏を過ぎった。

      そんなことなんてとっくに自身理解している。

      しかし、頭で解っていても体は動かなかった。

      否定されるのが怖い。

      彼に受け入れない自分なんて認めたくない。

      そんなキレイごとが当たり前のように彼女の心の中に住み着いていた。

      「っ!」

      「武君っ!」

      そんなことを考えている内に汗だくの少年はに駆け寄り、気づいた頃には目の前にいた。

      汗で衣服がびっしょりと濡れた少年を昔のように呼べなかった。

      彼は彼女の前で膝を抱くように背を丸め、荒くなった息を整えている。

      だが、自分は何をして良いのか分からず可笑しなくらいにきょろきょろと辺りを見回した。

      夜になってもなかなか昼間の熱気が取れなくて、寝る時は毎回億劫になる。

      しかし、今の桃城のように道路にしゃがみこんでも本人には悪いが、とても気持ち良さ

      そうだと思った。

      すると、少女の体は自然に膝を曲げて少年を見上げる。

      「なっ!?」

      彼が驚く間も与えずには桃城に笑いかけていた。

      その表情はいつかの誰かよりも輝かせたい想いを秘めて…。

      浴衣を少し気にしてしゃがんだが、やはり、妙に浮いた気がしてすぐに立ち上がる。

      本当のことを言ってしまえば、無意識に笑っていた自分が変になってしまったのではと

      恥ずかしくなったのかもしれなかった。

      突然の行動にどうしていいのか解らず、今度は顔を赤らめて辺りをきょろきょろとする。

      あの時、次に口に飛び出すはずだった言葉で我に返った。

      危うくそれが滑りそうで口元を軽く押さえた。

      もう、あの時には戻れない。

      自身でつけた傷なのに、元になんてそんな虫の良いことを切り出せるわけはなかった。

      これを意地というのならそうなのだろう。

      だが、すっかり男性と女性と化してしまった二人の溝をどう埋めていけば良いのだろうか。

      それを感じているのは、自分だけなのではないかと思うだけで怖さを感じる少女は、

      やはり、まだ、一人の子供だったりする。

      しかし、そうだとしたら、彼女の想いにも気づかない彼はもっと子供なのではない

      だろうか。

      こんなにが試行錯誤の中にいるというのに、桃城はあの時と変わらないままで周囲の人気

      を集めていた。

      それが返って、彼女を不安にさせるとも知らずに…。

      久しぶりに、間近に見た少年の顔は、既に男性のものだった。

      ハードな練習をしている所為もあってか、筋肉質でこの腕の中に抱きすくめられたら、

      気を失ってしまうのではないか。

      そんな到底、口にすることのできないことを考えてしまう。

      「

      「はいっ!」

      両の掌で頬を覆っていた少女はいきなり後ろから声を掛けられ背筋を伸ばした。

      「なっ!何だよ。いきなり大声出しやがって。もしかして、男前になった俺に惚れたか?」

      「っ!?」

      否定しようとするが、それは本当なのでそんなことはできない。

      たとえ、嘘だとしても、これ以上彼や自分を偽ることは出来なかった。

      「?」

      心の中で彼女が応援してくれているようで、今なら言えるような気がする。

      目の前の桃城はすっかり汗も失せ、何もなかったかのようにこちらを窺っていた。

      その瞳に頬を火照らしている自身の姿が映っている気がして恥ずかしい。

      だが、これ以上それから目を反らすことなどこの少女に出来るはずなどなかった。

      「武……君」

      「何だよ……調子狂うな。昔みたいに「武ちゃん」で良いぜ?何だか、そう呼ばれると、

       他人みたいじゃねーか」

      そう言われて夢から覚めたように彼を見ると、その瞳と合った。

      一度見てしまったそれからは離したくても離れられなくなる。

      「だって…」

      ここが家前だと言うことを忘れさせる。

      夜の熱気なんて既にこの二人の間では感じられなかった。

      素肌に直接伝わってくるのは、沈黙。

      それが痛いほどに彼女を急かす。

      周辺の民家からは賑やかなTVの音や彼らのように七夕祭りに出かけようとする家族連れの

      楽しげな声だった。

      いつかの自分達もあの場所にいたかと思うと、急に涙ぐんでくる。

      視界がぼやけてまるで、目の前にいる彼を水底から見ているようだった。

      「ごめんね、ごめんなさい」

      か細い声は今にも消えそうで、謝罪を述べると顔を両の掌で覆った。

      これ以上、桃城の顔を見ていることが許されない気がした。

      「どうした?どうしたんだよ、。何で泣いているんだよ?」

      そういって両肩をがっしりとした何かで掴まれた感覚がした。

      恐らくコレがあれから成長した桃城武の手なのだろう。

      あの時よりもがっしりとして、あの頃よりも愛しく感じる。

      しかし、この少女にそんな風に想うことなど許されるはずが無かった。

      「放してっ!」

      「放さねーよ!!」

      彼の声が先程よりも荒げているのに驚き、恐る恐る指の間から除き見る。

      あれから既に男性のものと化してしまったそれは、ちょっと荒げただけで周囲に響き渡り、

      家の中にまで聞こえていないか気になった。

      だが、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。

      ただ、この現実から気を紛らわしたかった。

      桃城は彼女の手首を先程よりも強く握り締める。

      それはいつかの少年とはかけ離れたものだった。

      「いっ…痛いよ。……離して」

      手首から来る痛みが脳に直接伝わり、思わず顔を歪める。

      しかし、彼は緩める気配さえも見せず、それどころか逆に自分より一回りほど小さな

      少女の体を抱き寄せた。

      その途端、何が起こっているのか解らなくなる。

      ただ、鼻には明らかに自分とは違った汗の匂いがした。

      それはいつかの時代に、当たり前のように呼吸と同じくらいくり返して体中を駆け巡った

      ものだ。

      そう考えると、先程まで出来事が脳裏を過ぎり、今さらながら身体を硬直させた。

      「なっ、何するのよ!こんな所を誰かに見られたら、変に誤解されるわよ」

      「別に良いじゃねぇかよ。が好きなんだから」

      「えっ!?」

      その言葉は単なる冗談だと思っていた。

      それを伝えた少年の声が、いつも男友達と楽しげに話している時と変わらなかったから

      である。

      眉を吊り上げたままで彼を見上げれば、悪戯っ子のように笑っている少年に会えると

      思っていた。

      だが、それは大きな間違いだった。

      その先には、真剣な面持ちでこちらを見つめている桃城がいて、見開いた瞬間に瞳が合う。

      嘘だ。

      こんなの幻想にしか過ぎない。

      己の瞳が信じられなかった。

      だが、現実は頬を赤らめている桃城が目の前にいる。

      密着した彼の体から高いビートが奏でられていた。

      「…嘘っ」

      「嘘じゃないぜ……俺はずっとガキの頃からお前のことを見ていた。だから、お前が

       強くなりたいって言ってきた時、協力したんじゃねぇか」

      「じゃ、じゃあ、芝姫先生は何なのよ?」

      「どうしてこういう時にあの人が出て来るんだよ」

      「だって、武ちゃんが先生先生って金魚の糞みたく後追っかけていたじゃない」

      「金魚の糞つぅのは何だよ!好きな女がいる野郎は、憧れる人も作っちゃイケねぇ

       のかよ?」

      彼の言った意味が解らず、言い返すことが出来ない。

      憧れ。

      それは一体、桃城武には何を指しているのだろうか。

      そんな解りきった答えにさえ疑問に思ってしまう。

      こんな自分を何て弱い人間なのだろうと恥じてばかりいた日々が目に浮かび、再び、涙が

      溢れそうになった。

      だが、今は泣いている場合ではない。

      自身に鞭を入れたつもりで、きっと見つめ返した。

      「武ちゃんにとって、憧れって何なの?」

      やっと、訊くことが出来た。

      気づかれないように胸の内でほっと一息を吐く。

      しかし、桃城から一時も目を放すことはできなかった。

      彼は彼女からそう切り出され、まるで、信じられないものでも見たかのように驚いた

      顔をしている。

      だが、それは、ほんの一瞬のことだった。

      桃城は呟くように笑ったかと思うと、少女の額に顔を近づける。

      「えっ…」

      そう口にすると、同時に額に柔らかいものを感じて体中が小さく震えた。

      それがどうしてかなんて思わなくても答えは解っている。

      「サンキュ、

      彼は彼女の額から唇を離すと、頬を染めて礼を述べた。

      された方はまだ、小動物のように小刻みに脈を打っている。

      「芝姫先生に妬いてくれたんだよな?」

      「……うん」

      否定をしたかったが、それは事実のことなので最後には頷いていた。

      やはり、桃城には勝てない。

      昔も……そして、現在も。

      今はこの少女の技となってしまった「獅子落とし」も彼との練習の末に誕生したようなもの

      だった。

      「…好きだ。

      桃城はそう言うと、彼女の顎を軽く持ち上げ今度は唇にそっと口づける。

      それはほろ苦い味が次第に甘いものに変わるようだった。

      最初は体を凍らせていた少女もそれに酔いしれて、瞳を閉じる。

      互いの唇を離され、恐る恐る瞳を開ける。

      コレが、何度も見た妄想ではありませんようにと祈りを込めて・・・。

      シュミレーションを何度も重ねたはずなのに、口にしたのは何ともシンプルなものだった。

      それでも、彼女にとってはコレでも大真面目である。

      目の前の桃城は鳩が豆を喰らったような顔をしたが、それは一瞬で火照った顔の中に姿を

      消してしまった。

      多分、自分も同じように赤くなっているのだろうと彼の胸に埋めようとする。

      だが、それは、たまり掛けた雫を頬に落とす始まりだった。

      桃城と知り合って初めて自分がある意味、受け入れられた気がして嬉しい。

      それを言葉に表すことなんて出来なかった。

      でも、この唇の感触だけはずっと忘れないでいよう。

      「あっ!見ろよ、……空」

      急に桃城が子供のようにはしゃいだ声を上げた。

      彼女は右肩の着物の袖に顔を押し当てた後、言われた通り、漆黒の闇を見上げる。

      「あっ!」

      そこには見えるはずのない光が遥か遠くに存在していた。

      正確な数なんて二人も、そして、恐らく誰も知らないであろう命を感じさせる。

      「天の川?」

      「あぁ、多分な」

      二人の目線を辿れば、何もないはずと思われた夜空に月と一緒に何十個かの星があった。

      「逢えたかな?織姫と彦星」

      「勿論、会えたに決まっているさ。俺とのようにな」

      その言葉にはっとして、彼に視線を戻す。

      やはり、彼女との今までの関係に何も感じなかった訳ではなかった。

      桃城は今までの態度が嘘だったように切なさを覗かせている。

      そんな顔をされては、こちらも何も言うことが出来なくなってしまう。

      自分に何か彼に出来ることがないかと、その瞳を見つめながら思考回路をフルに活躍

      させた。

      だが、所詮は回転の遅い少女であるがため、大した答えなど思い浮かぶはずはない。

      それでも、精一杯の自分の気持ちを伝えたかった。

      「武ちゃん。目を……瞑って」

      「?

      「良いから!ねっ?お願いっ!」

      言われた方は訳も解らず、目の前の少女を見つめ返すことしか出来なかった。

      「……こう、か?」

      仕方なく彼女の言うことを利いてみる。

      しかし、どこかへ連れて行かれる訳も何かが起こることも全くなかった。

      しばらくして、桃城はそっと瞳を細く開ける。

      自分が好いている少女を信じられないと言うわけではない。

      だが、自分だけが目を瞑っているのではないかと思うとどうも気恥ずかしいものがあった。

      「っ!?」

      「……」

      彼が目にした光景は、こちらに頬を染めて近づいてくるであった。

      お互いの唇が触れ合うのに後何秒もいらない。

      しかし、桃城はそんな些細な時間さえ待てなかった。

      自然を装って頭を垂れるように前へ倒す。

      「んっ!」

      微かだが、彼女が短く驚いた声が上げた。

      このまま偽りを真実に変えようか。

      しかし、思春期の少年は止めることはできなかった。

      少女の体をぎゅっと抱きしめ、再び顎をがっしりとした指で固定する。

      彼だって今まで寂しくなかったとは嘘でも言うことは出来なかった。

      彼女が思い描いていたように、桃城も幻想をしていたのだ。

      こうして激しくと唇を交わすことを考えていた。

      「武ちゃん…」

      呼吸が荒くなったのを耳にし、慌ててそれを離すと夢から覚めたかのような少女が女性に

      見えてドキドキした。

      「。俺と付き合ってくれ」

      「うんっ!」

      二人は抱き合ったまま、昔のように笑っていた。

      その遥か頭上では、今宵のメインゲスト達がいつまでも見守っている。

      夜空には一筋の流れ星が長い尾を伸ばしていた。





      ―――…終わり…―――




      #後書き#

      皆様、こんにちは。

      不肖管理人の柊沢です。

      今作品は、初めて粋が良い……じゃなくてとても元気なヒロイン設定にしてみました。

      それでも私の中で重視しているものは形を変えて健在しているのですが、新しい柊沢

      作品をご確認できましたら幸いです。

      …と言いましょうか、桃城君の場合、初作だからでしょうが、シリアスにはしにくいです。

      次回は、挽回と言うわけではありませんが、是非とも頑張らせて頂きたいと考えています。

      その時は、どうぞ宜しくお願いします。

      それでは、これにて失礼しました。