慟哭の華

              それは、月の見えない夜の日だった。

              アスファルトの道に無防備にも身を投げ出した少女はまるで、今し方ひき

              逃げにでもあったような姿勢で天を仰いでいた。

              目を閉じていない瞳には彼女の代わりに泣いてくれているのか、空から

              幾筋も無垢な雫が汚れた体に落ちる落ちるを繰り返す。

              それは無慈悲にも華奢な体を叩きつけるようなものだが、当の本人は

              見つめるだけでそこから動こうともしない。

              とっくに時の針が夕刻を過ぎた世界は混沌とした闇に覆われ、遠くの方で

              街灯がちらほらと照らしているのが何となく解るが、それよりも尚、夜の

              方が強い。

              厚い雲に幽閉された所為か闇に全てを包まれた所為かは定かではないが、

              少女に気付いて声を掛ける者もいなければ誰もいないのを良いことに

              スピードを上げて目の粗いアスファルトを靴底で踏み鳴らす乗用車も

              通ろうとしない。

              漆黒に塗りつぶされた外気は凍え、絶え絶えに吐く息が少し白く曇って

              すぐ消えたが、体はガタガタと震えていないしそもそも寒いという感情

              さえ起きない。

              自分は壊れてしまったのだろうか…そう悩もうとして多分、重要であろ

              う事実に今更ながら気づき、それまで瞬き一つしない出来の良い蝋人形

              のようなふさふさとした長い睫毛を下ろす。

              そうだ……自分は、誰だろう?

              何故、こんな所で寝転がっている?

              そもそもここはどこだろう?

              解らない、……何も思い出せない。

              何も知らないことが、何も感じないことが……怖い。

              夜露に濡れた体は闇を纏ったような黒い着物に包まれた女の艶めかしい

              形を自然と表したが、羞恥心と言った感情も洗い流されてしまったのか

              そんな気さえも起きなかった。

              「…………なのか?」

              次第に薄れていく意識の中、その声だけが低くあまりにも現実を帯びて

              聞こえる。

              それが微睡みの中なのかこの降りしきる雨垂れが呼び起こした幻なのか、

              その名前とそれを発した甘くも低い声色がどうしても頭から離れない。

              自分がそう呼ばれていたのかも解らないのに、何故かそれが居心地良くて

              ……気がつけば空から返される悲しみに強く打たれる中、重たくなった瞼

              から頬に一滴流れた。

              その雫は体中を濡らしているものよりも温かく感じた。


 

              「あの…」

              「何だ?」

              書斎のソファに我がモノ顔で座る男性の後ろ姿におずおずとした調子でか

              細い声が掛かるが、当の本人は振り返る仕草も見せず分厚い書類に目を通

              しているままだ。

              スプリングが良く利いているのだろうか、彼が身を沈めているそれが何だ

              かとても気持ち良さそうに思えるが童心に返ったつもりでその上で飛び

              跳ねたり寝転がったりしてみたいとは思わない。

              「触るなっ」

              開け放った扉を閉め、片手に抱えていたお盆を両手で持ち直し日本人離れ

              した容姿と金色に輝く短髪の人物の一歩離れた場所に座り、書類でいっぱい

              なテーブルに手を伸ばした所でアイスピックみたいな鋭いモノで胸を射され

              るように良く通る声で制された。

              「っ!……も、申し訳ありません」

              テーブルに伸ばしかけた手を引っ込め、体を亀のように縮め深く土下座をして

              からまだお盆の上で白い湯気を立てるコーヒーを置いてその場を退散した。

              何故だろう…。

              最近、石田の様子がおかしい。

              書斎のドアに背もたれ深くため息を吐いても木製の扉に隔てられた内からは時

              折、紙が擦れる音が漏れてくるだけだ。

              以前からも感情を面に表す人ではなかったが、最近はそれに拍車を掛けたよう

              に言動が冷たい。

              先程だってそうだ、いつもならば書類の片づけなんて慣れている自分を邪険に

              扱うことなどないはずなのに、一体どうしてしまったのだろうか。

              石田竜弦とは空座市が桜に抱かれた今月の初めくらいに出逢った。

              初めはこの儚さ故に美しい花にも負けない容姿を誇った男性に正直な女心は

              鼓動を早くさせ、瞳の中には彼しか住まうことを許さなかったその瞬間、

              空が引き裂かれる鈍い音が霊圧と共に彼女の華奢な体に身震いが襲った。

              いつ聞いてもこの空が泣き叫ぶ声と虚が発する黒い風は慣れない。

              わざわざ後ろに振り返らずとも把握できる霊圧で自分と相手を物差しで測っ

              てしまうのがの悪い癖だが、現実にはどうこう言っている猶予はなく弱かろ

              うと強かろうと関係なく腰に差した斬魄刀を鞘から抜き出さなくてはならない。

              それが、護廷十三隊の掟でもあり志でもある。

              背筋に嫌な冷や汗を感じいざ振り返った彼女を分譲マンション四階建てに相当

              する大きさの虚は自分を掠りもせず、その巨体は先程まで自分が見惚れていた

              桜道を歩く男性を目指している。

              「ダメっ!」

              去年の春から十二番隊に配属されたは、他の隊士よりその成長は芳しく

              なかった。

              隊士内では陰口とかは聞こえてこなかったが何しろ優しい隊長様が在籍している

              隊である、十把一絡げにそれなりのお言葉を頂戴したがどれも侮蔑の葬列だった。

              それでも現世出張の命が下ったほどだ、それなりに自分には力があると信じたい

              所だが、今では雨晒しに捨てられた子猫のように日に日に弱っていた。

              だが、そんな落ちこぼれの自分でも役に立つことはある。

              桜の花びらがひとひら、ふたひらと散らす中、虚の放つ突風が全てをアスファル

              トの上に落としてしまうような勢いに対しての瞬歩はモノを言わぬ樹木を守らん

              と果敢にも行く先にその姿を現し、震える声で斬魄刀を解放した。

              彼の狙いは背後にいる男性だが、そんなこと本人は全く知らないだろう。

              人間には虚の姿が見えなければ、死神の姿も見えない。

              それでも、一目で心の奥にまで入ってきた彼を護って死ねたらこれ以上の幸せは

              そうない。

              生まれたての赤ん坊のように頭蓋骨の仮面を被った化け物に斬魄刀を持つ手が震え

              て焦点が定まらないまま、夜道で変質者の車に乗せられそうになっているOLと

              大して変わらない雄叫びを上げて斬りかかった……が。

              「……すまないが、私は女性に護られるほど弱くはない」

              この緊迫した状況で至極冷静な声が背筋を伝い鼓膜の中を凍えさせ、同時に虚の

              長く伸ばした爪が彼女を目掛けて更に伸ばされ、後数pもすれば串刺しにされる

              所を一足先に光の柱がその体を貫いた。

              助かった、また助けられた、安堵と共にの胸には隊士としての辱めが緊張の糸が

              切れた女の体を悩ましげに崩れさせる。

              ひんやりとしたアスファルトが熱を帯びた肌に心地良く、いけないと思いながら

              も一度遠くなった意識はまるで、ロープを握りしめていた手が重力に負けて落ちる

              ように彼女をその底が知れない夢幻の彼方へと誘った。


 

              春の夜は背中合わせの冬と比べれば暖かく、太陽を失った世界でも独りで生きてい

              けられるような大層な思い上がりを植えつける。

              しかし、石田邸から飛び出したを見守る新月もいない空は今朝から暗雲が碧を隠し、

              夜雨が傘も差さない女の体を容赦なく濡らしその鴉のような着物がたっぷり水分

              を取り込んだ証に際どい線もイヤらしく浮かび上がらせた。

              だが、少々走りにくいが、今はそんな正気ではいられない。

              「お前の居た世界に還れ!私は死神と一切関わりたくはない」

              何故、彼があんなことを言ったのかは莫迦な自分では理解できないかもしれない。

              それでもあの時、見知らぬ場所で再会した石田のためにささやかなことが出来れ

              ばと思っていたが、それもすべてこの男性にとっては苦痛だった。

              春雨としては激しくアスファルトに叩きつけるように落ちる雫でぐしょぐしょに

              濡れた胸には自棄の気持ちとは裏腹に身勝手な気持ちが自動的に想いの強さの分、

              彼を責めている。

              憎い死神の一人である自分を何故助けたのか、例え虚が自分を襲ってきたからと

              言っても滅却すれば用は終わるわけだから使命も任務も全うしない彼女を助けて

              何の意味があったのだろう。

              それこそ石田が言う「無駄」だと思うが、そんな自分にしては珍しく真っ当な

              答えを弾き出した所で俗に言う「惚れた弱み」と言うモノなのか口出しすること

              はできなかった。

              とは言え、今更ながら言える覇気もない只の我が儘だ。

              口に出さないまでは救いだが、その反動が狂った目覚まし時計ような動悸に来て

              いるのか息をするのにも苦しく、動力を失いつつある足はふらふらとしていた。

              「ひゃっ!?」

              しかし、その状態が長く続くはずもなかった。

              民家から漏れる如何にも幸せそうな笑い声と灯りから離れたが、足が縺れて倒れ

              込んだ場所は自然とあの時彼がいた並木道だった。

              だが、今は石田竜弦も居なければ儚げに散っていた桜の花もない。

              彼の家で目を覚ました後聞いた話だと、虚の放った黒い風の所為で全ての花びら

              がアスファルトを染め、何日も経たない内に塵となり風に舞ってしまったらしい。

              世界の理はそうだと解っていても、やはり悲しい。

              満開の花々が咲いていた木の枝には青々とした葉が豪雨に身を任せ半ば、事情

              聴衆なのにも関わらず拷問を受けさせられている自分の姿が目に浮かんで口の

              端が緩んだ。

              解っていたんだ……、最初から石田が達死神と対する滅却師と言うことは。

              しかし、そんなことは彼女にはどうだって良い些細な問題でしかなかった。

              それでも彼のことが……けれど、もう、ここにはいられない。

              現世に居られるのも今夜で最後だ。

              短期間だったが、出張は夜明けと共に終わる。

              ……その前に、は腰に下げた斬魄刀を鞘から引き抜き、雨に濡れて怪しく光る

              刃を自らの胸に標準を定める。

              こんなことは望んでいない結果だったが、もう、そんな駄々を捏ねている場合

              ではない。

              彼女の斬魄刀の能力は記憶の創作だ。

              勝手に作り替えることが出来るし、選択した部分のみを消去することもできる。

              だからこそ十二番隊に迎えられた存在であって、彼も強ち蔑ろにはできない存

              在だが当の本人はそれに気が付かないため元の世界に戻ったとしても態度を変え

              ることはないだろう。

              だが、斬魄刀の能力には少しやっかいなことにしばらくの間、記憶喪失になる

              ことがある。

              選択した部分のみ記憶を作り替えたり消去したりすることには重要なことで、

              なくてはならない空白の時間だ。

              その時間帯は短かったり長かったりと様々だが、それは対象によって大きく

              左右する。

              だからきっと、当分の間は尸魂界に還ったとしても四番隊隊舎でもある総合

              救護詰所の中で眠り続けることだろう。

              「…逢うことの、絶えてしなくば、なかなかに…人をも身をも、恨みざらまし」


              斬魄刀の光が一層怪しい光りを帯びる頃、口から漏れたのはいつか聞いた歌。

              これではまるで、辞世の句だ、自分で言っておきながら口の端が緩み程良く緊張

              が解れたような気がする。

              しかし、夜春に濡れた顔で笑っていると何だか泣き笑いな気がしてすっかり感覚

              を失った痙攣を起こしている手で何とか頬を触ったが、そこも掌と同じぐらいに

              冷たかった。

              大丈夫だ、自分に言い聞かす今もそうしなければまともではいられない理由も

              しばらくすれば忘れ、名前ですら記憶から抹消されるだろう。

              後は、新たに描いた筋書きで新しい運命を辿るだけだ。

              ごつごつと荒い凍えたアスファルトの道に倒れ込み、微睡みの中から夕が刻ま

              れたほぼ同時にぐずりだした空を見上げた。

              あの人に逢わなければ……あの人に想いを募らせることがなければ、こんな思い

              をしなくてすんだのだろうか。

              遠退く記憶のカケラが目に入り降っては珠を作って濡らす雨と同様、涙が頬の一

              定の所で止まり顔の輪郭に沿って曲がり、法則通りにこめかみの辺りへと流れて

              いく。

              重たくなった瞼の外では自分の体を誰かが強く揺り動かすのが他人事のように

              解ったが、敢えて瞳を開こうとはしない。

              それほど自分は眠りという安らぎを求めていたのかと思うほど、一度閉じた瞼は

              重かった。

              耳に木霊する声も今は遠く、まるで水中から水面を見上げているようだ。

              ……さようなら。

              その言葉が誰に向けられている言葉なのか理解する前に、の意識は底の知れない

              闇に侵食されていった。



              ―――…終わり…―――



              #後書き#

              こちらは、「恋慕」様への参加作品として作業しました。

              この度、百人一首 44番の中納言朝忠(藤原 朝忠)の歌を担当させて頂きました。

              私の石田竜弦Dream小説は今回が初めで素敵な企画サイト様に参加させて頂き

              勉強させて頂きました事に感謝しております。

              それでは、ここまでご覧になってくださり誠にありがとうございました。