どうして罰を待ち望むのですか

      「さん…こんなところにいたんですね」

      季節は春だったろうか、弥山の山頂には桜の花びらがどこか儚げに舞散っていたことを覚

      えている。

      
彼女が洞窟から出てくるちょうどを狙ってか、現れた彼が驚いた顔で自分を見たのがいつも

      ならば滑稽に映っただろうが、あの時はそんな感情にはなれなかった。

      
ここまで逃げ延びてくる間、抱かせた不審がこの少女を冷静にさせていた。

      「探し…ましたよ」

      「弁慶さん…!?」

      法衣を身に纏った彼がぐらりと大きく揺れたのを感じてその傍に駆け寄ろうとしたが本人

      に手で制されてしまい、駆け寄る足を爪先立ちで抑えた。

      
だが、体勢を立て直しても尚、どこか具合の悪そうなのは変わらない。

      「君が無事で…よかった」

      信念がそうさせるのであろう、怠さを覚えている割に何ともないと見せかけるようにいつも

      戦場で見せる真剣な顔をしてみせるが、は知っていた。

      
武蔵坊弁慶と言う人物が多くを心に隠すことを……そして、この結末を……。

      「怨霊は消え…平家の武士たちも…逃げた後だから……大丈夫…だと思っていましたが…」

      しかし、いくら弱音を見せたくないと理性が働いていても何かが邪魔しているのだろうか、

      彼の苦しそうな顔は背けてもその色は静かにこちらを答えへと焦らす。

      
あれほど平家の兵や怨霊で溢れていたはずの厳島にはまるで、彼女達だけが残されているの

      か風の音だけが煩く耳に響く。

      「牢を破ったと…知ったときにはさすがに焦りましたよ」

      「…何があったのか、何をしたのか、教えてください」

      本来ならば、ここで自分のことを心配してくれたことを喜ぶ所なのだろうが、今はそんな

      余裕はない、桜の花吹雪が逸るの気持ちを風に乗せたのだろうか、具合の悪さを残しながら

      も弁慶も真剣な面立ちを見せ、何が起こったのか簡略的にまとめて話し出した。

      
自分が清盛の持っていた黒龍の逆鱗を壊したこと、それを成し遂げるために源氏を

      裏切ったこと、……そして、その身に清盛を憑かせたことを…。

      
言葉を訥々と紡ぎ出す彼があの少年の姿をした怨霊を体の内に潜ませていると知り、背中

      に嫌な汗が一筋流れた気がした。

      
ここには八咫鏡を探しに来たと言う弁慶に自分が先程見つけ身につけていることを伝える

      と、怖いくらい真剣な顔をして自分に向けるよう頼まれた。

      
中にいる彼は必死に抵抗しているようだが、まだ観音像の加護を受けている所為かそれとも

      青年自身の意識の所為かその先の言葉は制されている。

      
……だから、自分は彼の言葉を信じて疑わなかった。

      「ど、どうして!?弁慶さんまで…」

      「今の僕は…清盛殿と…同化しているから…仕方…ないんです」

      彼が紡ぐ言葉はもう中で暴れる怨霊の所為で途切れているのではなく、個人的に口にするこ

      とを躊躇っているように聞こえた。

      「平気だって言ったじゃないですか!」

      「平気ですよ…これが僕の望んだことだから…」

      泣き叫ぶ子供をあやすように笑おうとするが、その表情は正直泣き笑いにしか見えない。

      
笑うその顔も空気に溶けてよく分からないのが悔しくて涙が溢れてくるが、健気にも目元

      を擦っては冷静でいようと心掛けた。

      
そうでもしなければ、泣きじゃくっている間に弁慶が消えそうで怖かった。

      「いいんですよ…」

      まだ何かを言おうとする彼女の唇を消えかかっている掌で抑えて無理やり微笑んでいると、

      余計に胸にこみ上げてくるモノが憎い。

      「これが僕の望み…いえ…罪だったん…です…」

      「ああ…清盛殿の知識を得る前から…この鏡のありかを知っていれば…。別の方法が…あっ

       たかもしれないな…。でも…やり直せない…ことを悔いても…意味…なんて…」

      瞳から流れた熱いモノを掬おうとした彼の指をすぅと通り抜けたのを見て何かを確信したの

      か瞼を伏せて唇を噛んだ。

      
もう、弁慶には触れられない。

      
その事実が重くのし掛かり、目の前の出来事を理解しても駄々を捏ねる子供のようにそれを

      認めたくはなかった。

      「…お別れですね。もう…君の顔も…見ることが…できない…。君を…悲しませて…しまっ

       たなら、すみません…。ふふ。最期まで…僕は…罪を…重ねて…しまうのか…」

      薄れる彼を天に還したくなくて抱きしめようとした腕に残ったのは怨霊を封じた時のような

      白い光の粒だけだった。

      「弁慶さんっ!!」

      ……どうしてですか?

      
どうして罪を待ち望むのですか。

      
もう、自分以外誰もいない弥山の頂に立ち尽くしていると、自然と涙が頬を伝う。

      
ごめんなさい……最期まで、貴方の嘘を見破れなくて…。


      「っ!?」

      時刻は夜だろうか、弾かれたように目を開いたの瞳に映ったのは一気に色を失った世界

      だった。

      
いきなりのことで混乱し掛かった頭を軽く振り、落ち着けと自己暗示を体中に木霊させて

      気付かれないように小さなため息を吐いた。

      
瞳には涙が溜まっていたのか頬には一筋の熱が伝い、春の夜の外気に晒されようやく先程

      まで目にしていたことが夢だと知ることが出来てささやかな胸を撫で下ろした。

      
とは言っても、両手は背で縄のようなモノで拘束されて実際にはそれを行動に移せなけれ

      ば、全く安心できる状況でもない。

      
今、平家に囚われている身である自分は以前のように船に乗せられ厳島へと向かっている。

      
学校でいつも友達と話していたり幼馴染みの雅臣や譲と遊びに行ったりして日常を過ごして

      いただったら何故自分がこんな目に遭うのか、なんて方向違いな八つ当たりを

      していたと思うし時代錯誤なサスペンス劇場のヒロインのように泣いていたかもしれない。

      
だが、今は違う。

      
またあの夢を見てしまったのか、と心の中でぼやきながら着物の腕の辺りでどうにか目元

      を拭ったが余程感情移入していたのか、涙腺が緩んだ瞳からはだらしなく雫が幾筋も

      流れる。

      
もう、何度あの夢を見たことだろう、あの日の光景は忘れられない光景として彼女の心に

      深く刻まれた。

      
彼を失って初めて……いや、恐らくそれよりも以前から弁慶のことを異性として見ているこ

      とに気付いてはいたが、こんなにもダメージが大きかったなんて思いもしなかった。

      
自分の中でこんなにも武蔵坊弁慶と言う男性が大きくなっていることに今まで知らないフリ

      をし続けたなんてどこまで馬鹿なんだろうか。

      
……だから、白龍の逆鱗を使って時を遡った……もう、あの人を自分の手で浄化なんてし

      たくないし、彼にそんな運命を選ばせたくない。

      
出来ることならば、誰も傷付かない世界で笑っていて欲しい、それが絵空事であってもこの

      戦を終わらせてみせる。

      
弁慶のためにも、自身のためにも…。

      
平家の兵が何十人か寝ている間を暗がりに慣れた瞳で足場を確認しながら甲板に向かう。

      
やはり、春と言っても夜の所為だろうか右肩で開け放った戸の隙間から入ってきた風は冷

      たく、制服の白いスカートから伸びた艶めかしい股が一瞬大きく揺れた。

      
その周囲には海の上を進む何十層もの平家の船が微かに開くことを許された瞳に映り、あの

      中に乗っている全てが自分の敵なんだと思うと悲しい気持ちで一杯になる。

      
許されることならば彼らと戦わずして勝ちたい、といつかの梶原景時のようなことを考えて

      しまう。

      
先程いた部屋には何十人かの平家の兵はいたがその中に彼の姿はなかった。

      
尤も篝火も大してない部屋だ、暗がりでその姿を見逃したのかもしれないけれど…

      「裏切り者は信用を得るためには三倍以上の働きをしないといけないんです」

      しかし、彼女が時を越える前、弁慶はそう言って冷たく笑っていた。

      
だが……もう、あの言葉を言っていた彼はどこにもいない。

      
胸に過ぎるのはいつだって遅すぎる想いと罵る声、どうして救えなかったのだろうか、きっ

      と…なんて都合の良いことばかり考えつく割にはいざ、と言う時には決まって何も出来ない

      無力な自分が嫌いだ。

      
この船のどこかでまだ寝ずに軍師として……裏切り者として働いているかもしれない弁慶

      を今度こそ死なせはしない。

      
懐に大事に閉まってある何かの欠片を着物の上からそっと触った。

      
八咫鏡をかざせば…なんて遠き異国の神話の世界だけだと思っていた自分がどれだけ学問

      に無頓着だったかを思い知らされる。

      
これが彼の差す無垢かは判断しにくいが、きっと彼らはこれを手に入れるために何百モノ

      人々の命を失いその分、誰もが願っているのだろう……。

      
この戦いがいつか終わることを…。

      
そして、その中には弁慶もいる。

      
まるで、平家の船はがいた世界のように滅びるのを解っているのか闇の中で僅かな篝火の

      明かりを頼りに海路を進み、墨で塗りつぶしたような黒海を割いて、風に潮とその音を

      乗せる。

      
海が見える街に生まれ育った所為だろうか、この音色を聴いていると心地良くて不安なんて

      どこか遠くに消えてしまう。

      
大丈夫、その言葉を一つ呑み込んでから戸を押さえていた肩の力を弱め、再び暗がりな室

      内に視線を戻した。


      「すみません。ずいぶんと待たせてしまいましたね」

      そう、いつもと変わらぬ声で、いつもと変わらぬ顔で目の前に彼が現れたのは厳島の

      紅葉谷の洞窟に閉じ込められて二日目の夕暮れだった。

      「心配させないで…また置いてかれたら、私……悔やんでも悔やみ切れません」

      「君に、簡単に謝ってしまって…僕は、誠実ではなかったみたいですね」

      平家の船がこの島に上陸した頃、山中の牢獄に連行される間、振り向きもしなかった弁慶

      からは想像できないほどその笑みが眩しく思え、今までぐっと堪えていたモノが全て溢れて

      いくのが解った。

      
平家に取り押さえられながら歩いた道中、すれ違った何体もの怨霊や見張っている者と目

      が合って不自然に反らした。

      
この感じは時を越える前にも体験したのに先程の残像が脳裏に残っている所為だろう、胸

      が押しつぶされるほど悲しく、寂しかった。

      
きっと、心には彼が苦しそうに弥山の山頂に上ってきた光景が忘れられないでいるからだ

      ろう。

      「言葉では…君の不安の欠片でさえも溶かすことはできない」

      錠前が付いてない牢の中に入ってきた弁慶もとても悲しそうな顔をして雫を指の腹で

      拭ってくれるが、一度切れた線はそうそう元に戻ることはなくすぐ目の端から新しいモノが

      溢れてくる。

      
健気に泣いちゃダメだ、なんて思っていても頬に涙が零れ顎から滑り落ちたそれは素肌の

      股に小さなシミを作った。

      
どうして彼は来てくれないんだろうか、何らかの理由でこの計画が流出して清盛にバレてし

      まい、こことは違う場所に監禁されてしまったのだろうか、……それとも……などとそんな

      悪い予感だけが先程から少女の胸を蝕んでいたのにその張本人が目の前に現れてくれて独り

      で泣いて喜んでいる自分が馬鹿みたいだ。

      「許して欲しいとは、言いません…一緒に来てください」

      差し延べられた掌を取る前に思いっきり自分の頬を自分の両手で叩いてからYesと答えた、こ

      れ以上、弁慶に心配を掛けたくなかった。

      一日半以上も閉じ込められていた紅葉谷からようやく出られたのは日が大きく西に傾いた

      頃だった、彼に連れられて歩いていても初日のように何体ものの怨霊や監視の武士達とす

      れ違ったが、全く殺気を感ぜられなかった。

      
それはこちらが武器を持っていないからと言う安心感もあるだろうが、一番の大きな理由は……

      「僕は清盛殿の信頼を得られましたからね」

      と、いつものように笑って答える弁慶に改めてすごいと思うのは随分と失礼だろうか。

      
それでも、そう思わずにいられないほど彼に溺れているのだから許して欲しい、なんて

      調子のいい言い訳と言われてしまうかもしれない。

      
しかし、こればかりは弁慶のように上手い嘘の吐き方を心得ている訳でもない彼女がこんな

      ことを言うのだ、嘘とも冗談とも思えないだろう。

      
一日中、甲板で過ごしていた時、冷たい海風に晒されながら彼と話ができる日をひたすら

      待っていた。

      
波の音を聞きながら時を越える前の日々が走馬燈のように甦っては体がガタガタと小刻みに

      震えたのは単なる寒さからではない。

      「ここにいたんですね、さん」

      「あなたを…弁慶さんを待っていたんです」

      「お待たせしてすみませんでした。僕も君と早く話す時間をとりたかったんですよ」

      背後から近づいてきた気配に気がついてゆっくりと振り返ると、あの日のように冷たく笑

      う彼と目が合った。

      
だが、彼女はもう怯もうとも敵意を抱かない。

      
この後の展開を知っているからなんて自分がいかに思考力がお粗末なのかが解って言いた

      くはないが、そうしなければ同じ結末が待っている。

      
恥も見栄も何もかも捨てて弁慶の言葉を遮った。

      「これでも忙しかったんです。裏切り者は」

      「信用を得るためには三倍以上の働きをしないといけないんですよね」

      予想は的中、彼が表情を無くして驚いた時はこっそりしてやった、とも考えたけれど、この

      後言うべき台詞に完全にそんな浮かれた気分にはなれなくて散々海風に吹かれてダメージを

      受けている肌や髪と同じく隠しようもない事実を告げた。

      
遠くの海が輝いて見えるのは日差しの所為か、それともまた泣き虫のが滲んだ世界から

      見ているものなのか。

      「誰も犠牲にしない。それは幼子のように儚い願いです。でも、だからこそ…慈しみ、

       守りたい」

      舞台まで後少し、弁慶には白龍の逆鱗を彼女には彼自身の命が預けられた。

      
高鳴る鼓動は一体どちらの緊張のものか、無意識に繋いだ掌が汗ばんできた。

      
初めて話してくれた昔話、弁慶と彼の兄が以前、清盛と戦い…そして、負けた。

      「今まで…多くの人を犠牲に…してきたんです。仕方ない…とね」

      弁慶はそう言って、彼自身にまで仕方ないと無理に嘘を吐こうとしていた。

      
ビクビクとまた震え、次第に体温が引いていくの小さな掌を握る弁慶の手が心なしか強く

      なった気がする。

      「僕が自分の命を誰かに預けるのは、初めてなんですよ」

      この戦いが終わったら…なんて気の早いことを金色に染まった花びらが舞う空の下で考えていた。



      ―――…終わり…―――



      #後書き#

      今作は「藤原一族阿弥陀-君に送る唄-」様に参加させて頂きました際に作業しました。

      
武蔵坊弁慶をDream小説に取り扱ったのは初めてでこちら様にはとても良い勉強をさせて頂

      きとても感謝しております。

      
それでは、ここまでご覧頂き誠にありがとうございました。