銀色の発熱
縁日やら福袋やら煩かったお正月も日めくりカレンダーを数回破ればさっさと終わり、その
交換にやって来た三学期も後一ヶ月も経たらずで卒業式を向かえる立海大附属中学校では、
冬の長雨が大気を凍えさせていた。
この七日間空には黒き牢獄によって閉じ込められた太陽が今、どの大地を照らしているのか
知りたくてもまるでスケートリンクのように厚い雲海で阻まれ、それ以上の詮索を許さない。
だが、例え、真実を知っているとしても雨は言葉を必要としないだろう。
言葉は重すぎる。
想い出は重すぎる。
現実なんて重すぎる。
だから、雨は降り止まない……空も、たった一人の不器用な少女の心にも…。
去年、母に買って貰った外側が無地の割に内側はまるで青空を思わせるような紺碧と白雲
がプリントされてある傘を差していると、視覚から来る雰囲気から自分は大丈夫だと信じよ
うと努力はしているが、彼女自身それを無駄な努力と解っていた。
目を閉じれば今もあの忌々しい真実が酷にもまだ十五の胸に鋭利なナイフが突き立てられ、
その先から流れた血は墨汁のように黒くてどろどろしている。
それくらい自分は汚れていると認識しているが、中学三年生になってもこの気持ちとさよな
ら出来ないでいるのが嫌いだった。
頬には傘の上に落ちる雨のように涙が流れ、数秒間顎で揺れて留まっていたそれは二、三
歩足を前に出すと地上を濡らす雫に紛れて再び瞳を歪ませる。
一匹の蛞蝓が這ったようにテカテカと湿り気を帯びた頬が冷え切っているのは、この季節
特有の大気と最近の悪天候だけの所為ではない。
今年で着納めのダッフルコートとマフラーに身を包んでいるのに逆に、寒気がした。
もしかしたら風邪を引き始めているのかもしれない、そう思い立ち止まって手袋を取り外
し右手で潤んだ目元を拭ってから額に触ってみるが、人間が生きていく上で欲する体温しか
ない。
ほんの少しの自惚れで凍えた頬にその掌を押し当てると、炬燵で寝転んでいるように温かさ
を帯びていて思わず、何だとぽつりと呟いてしまった。
寒さを訴えているのは体ではなく、イカれた心だ。
それを知ってしまった所為か、せっかく指の腹で拭った目元にまた涙が潤んできて冷たいは
ずのそれが頬を掠めた瞬間、温かい事に気付いて正門を飛び出した。
こんな顔で素直に自宅へ帰る事が容易に出来るほど子供ではない、と本人も家族も認識して
いる。
降り続くこの雨がやがて雪に代わる頃にはこの抱えきれない気持ちも白い吐息に代わってし
まうことを願い、授業と部活で鍛えた足で自宅とは反対方向の駅に向かった。
「……本当に、申し訳ありません」
「……いえ……っ」
丁寧な言葉は時に、残酷に聞こえる。
差し出された青色のハンカチさえ受け取らず、自分のことで精一杯なはとても
同い年だとは思えない柳生にそれじゃ、と別れの挨拶を早口のようにまくし立てて誰もいな
い保健室を全力疾走で飛び出した。
「お気持ちは大変嬉しいのですが…私には大切に想っている女性がいます」
そんなの解りきっていた。
しかし、彼の口から直接その言葉を聞くまで見ないふりをしていた。
この県内でも進学校である立海大附属中学校もやがて卒業を向かえる、それを機に一年の
頃から柳生に片思いをしていたのだが……やはり、フラれてしまった。
昼休みの校内は賑わい中学生とは言っても中身はまだ子供で、彼女のように廊下を走る
男子生徒や移動教室に向かおうとする部活の後輩達にぶつかりそうになったが、階段を一
階から一気に駆け登り錆びた屋上の扉をこじ開けて外に出た。
冬の匂いがする空気を欲しがっている肺に忙しく息を送り込み、誰も追いかけては来ないと
解っているがドアノブを掴んだまま空を眺める。
雨は止むどころか朝より勢いづいているようで、しとしとと言う感じよりも何かが突き刺
すように思えた。
建設されてから何十年も経っているコンクリートは所々に窪みがあるのか、水溜まりが何
箇所もありそのどれもが黒い空と一瞬一瞬の雫が落ちる様を映す最古からの目撃者だ。
風は気持ちよさそうにの前髪を揺らすがその温度はすっかり寒気にヤラレてしまい、
冷暖房が完備されていない教室に籠もっている方がマシのように思えたがこんな気持ちでい
つも連んでいる友人の中には戻りたくなかった。
彼女達は恐らく、自分が誰を好きだったか何て難解な数学の答えを数式で導き出すより簡
単に把握しているはずだ。
それに……あの子達とは随分酷いことをしてきたのだ、さっさと戻ったとしても当人の顔
を見たらきっと当たってしまう、そんなお門違いな逆恨みほど虚しいモノはない。
だから、この涙も凍てつきそうな空の下で泣いてしまえば三年間の気持ちにケジメが着く
と、その時はそう思っていた。
彼とは一度もクラスが一緒になった事はないが保健委員会では毎年顔を付き合わせており、
今日はその当番の日だった。
「さん…」
「はいっ!?」
今日は養護の先生がどこかに出張するとこの前話していた、これがチャンスだと覚悟を決
めて告白をしようかと思っていたら不意打ちに向こうから話し掛けてきた。
「あ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか」
何とかいえ、と否定はしてみるがその態度は誰が見ても肯定と捉えるだろう、表情は引きつ
り落ち着けと思えば思うほど肩は不自然に上がっていた。
一つため息のように息を吐いてから再び柳生を見るが胸が必要以上にざわめいていることに
気付き、無理に笑おうとして急に問いかけられた事にその表情は固まってしまう。
「単刀直入に聞きますが、貴女は私のことどう思っていますか?」
「えっ…」
急に言われたこっちはそれ以上、声を出すことができなかった。
閉ざされた保健室の窓の外には最近降り続く冬の長雨がBGMとなり、その沈黙を繋いだのが
唯一の救いだ。
だが、彼の端正な表情は真剣そのもので何の温度も感ぜられない。
「そ、それは……どう言う意味?」
ようやく出た声も勇気を振り絞ったとは言えないか細いもので、耳には煩い自分の心音が
悔しいほど響いている。
「同じ委員会同士として信頼の情を抱いて下さっているのか……それとも、異性として
好意を抱いて下さっているのか、と言う意味です」
「っ!?」
少し間を置いてからそんな恥ずかしい事を言ってもやはり声色も表情さえも動かさない
柳生が時々怖くなるのに、この気持ちは変わる事はなかった。
しかし、眼鏡のフレームを人差し指の腹で直し、こちらに視線を投げかけてくる感じは明
らかに恋とは違った……そう、例えるとしたら蛙が蛇に睨まれているような緊張が今の
彼女を襲っている。
「こ……後者の方だと言ったら?」
この期に及んで誤魔化そうとも考えたが、そんな小賢しい嘘を射抜くような視線で見られて
いるとそれさえするにも勇気を欲する。
煩い鼓動と生唾を呑む音がBGMであるはずの雨を凌いで耳を占領したが、彼の言葉だけは
ハッキリ聞こえた。
「お気持ちは大変嬉しいのですが…私には大切に想っている女性がいます」
拒絶の言葉だった。
それは三年間自分が抱いていた感情を、想い出を全てその一言でクリアにしろ、と命令され
ているのとほぼ類似している。
「っ……、それは……やっぱり……あの子のことですか?」
「はっ?」
震えていた声は発端となったのか、目元がこみ上げてくる涙で揺れて柳生が何を言っている
のか自分が何を言っているのか全然解らなかった。
駅前に新しく出来たショッピングモールに軽トラで販売に来ているクレープ屋さんには
ちょっとした常連となっているがいつもと違って元気がない事を心配してか、二十代
前半の男性店員はクレープの薄い生地にバナナの量をほんの少しだが奮発して小さな掌に
渡した。
鈍感な彼女はそうとは知らずにありがとうございます、と言って無理に笑おうとするがその
途端に赤く腫れている目元が擦れて痛みを訴える。
その為、睨みつけているようになりまた来てね、と苦笑する彼に気がついて決まりが悪くな
り、来た時と同じように小走りをしてその場を逃げ出した。
最低だ、こんな自分。
ローファーの底が雨で滑るが膝丈ほどの深い水溜まりに飛び込んで靴下を濡らしても構わ
ず、駆ける足を止めない。
それはに残った優しさなのかもしれない。
ショッピングモールから逃げるように走ってきて途中の公園に設置されてある公衆トイレの
屋根を借りてチョコバナナを囓ろうかと思ったが、さすがにそれは避けたくて他の場所を
考えている内に自然と足が学校の正門を潜っていた。
時間的にもこの天候的にもなのか、校内は静まり返りいつものように上履きの靴底で音を
鳴らす方が長い廊下に虚しく響き、上の階に職員が残っているのも怪しいものである。
忍び足で階段を上り、誰もいないことを確認してから自分の教室へと入った。
やはり、放課後と言うのは他と違った雰囲気を醸し出している所為か、自席に腰を下ろし
好きなクレープを口にしても弁当を食べるよりも遅く、以前はどういう形だったか把握出
来ないほど何十回も咀嚼を繰り返し、それを動力とする脳裏は失恋記念パーティーを開催
し出したのか今に至るまで回想し始めているのに肩をすくめながらも今回もまた大人しく
付き合うことにした。
彼女がいつだって好きになる相手は大抵あるパターンがある。
そのパターンと言うのが……
「ごめん…僕、恵実ちゃんの方が好きなんだ」
がウザイと今まで虐めてきたクラスメートの女子を二年生の時に転入してきた頃
から好きだった彼は、選んだ。
内向的で見かければ友達と遊んでいるよりも本を読んでいる方が多かった少年の心の中で
大事にされていた相手が彼女だと知り、保健室のようにその場で泣いたことは覚えているが
その後のことはと言えばあまり覚えていない。
微かに記憶にあるのはあの少女をシメたこと、卒業式後二人が手を繋いで帰っていたことく
らいだ。
きっと、彼だって例外ではないだろう……事実、彼女はまたその間違いを繰り返した。
前の失恋からまだ二ヶ月しか経っていないと言うのに恋は突然訪れたが、結局三年後がこれ
だ、何度もこの落ちを経験していてもやはり癖のようなもので一度身に付いてしまうとなか
なか頭で解っていても裏腹な心まで抑えることはできない。
「おっ……なかなか美味いな、これ」
「っ!?……っ、こほっ」
約90回以上噛んだであろうどろどろとしたモノを胃に送り込んだのとその声が急に背後
からしたのがほぼ同時だった所為で危うく食道から逆流しそうになって咽せる。
この声色には聞き覚えがあると言うよりもほぼ毎日聞いているから誰だか憶測しなくても
正体は容易く知れた。
「仁王、何す…って勝手に私のクレープ囓ってんじゃない!」
背後に振り返ると不敵に笑う彼と目が合い、唇に生クリームが付着しているのにまさかと
思い右手に持っていた包みの中を見ると、案の定自分が口にした隣の部分が如何にもがっつ
いていますと言う風に綺麗な歯形が残されてあった。
「良いじゃろうが、別に減るもんじゃないし」
「減るわ、明らかに私のお小遣いがっ!」
唇の端に残っていた生クリームをぺろりと一舐めする仁王は何の因縁か、この三年間同じク
ラスで過ごしたからどちらかと言うと腐れ縁に近い。
染めたのか地毛なのかは定かではないが入学当初からこんな頭をしていた所為でかなり
教師や先輩に注意されていたが、さすがに三年となるともう周囲も呆れているのか誰も何
も言わなくなっていた。
ケチ、と全く悪気もなく笑う彼はテニス部に所属しており、あの柳生とダブルスを組んで
いた。
きっと、高等学校に入ってもまた組むだろう、彼を応援する自分がいなくても。
この三年間、はチアリーディング部に所属して大会の度に何度も応援していたが、
二年に入って予期せぬ新入生が入部してきた。
友達に誘われて入部してきたのだが、運動神経は悪くないが精神面が彼女の古傷に塩を
塗った。
勉学よりも体を動かす方が好きと言う割には内向的過ぎ、いつかの少女を思い出させるには
十分過ぎる材料であった。
その上、自分と同じように柳生に熱を上げているのを友人から聞き、頭がストップを促して
いてもの狂った感情までは止められず、結果、彼女は絶えきれず三ヶ月足らずで部
を去った。
「大体、何でこんな時間にアンタいんの?部活ないはずでしょ?」
「あぁ、を待っていたんよ」
「私?私に何の用があるのよ」
頬を膨らませ、まだ食べ物の恨みが消えない瞳でもう一度クレープを見て、ようやく気付
いた彼女は遅咲きの紅梅のように頬を染めて慌てて仁王から目を反らした。
……そ、そりゃ、女友達とは新作の500ミリリットルのペットボトルを一口飲ませて
貰ったり美味しそうなプリンを食べていたら摘んでみたりするが、男子と間接キスをするの
はこれが初めてだし逆に相手から求められるのも初めてだ。
妙な気が頭を埋め尽くす前に理性が立ち上がることを促し、そろそろ家に帰ろう……そう
思ったが体はビクともしなかった。
「……離して」
「やだ」
背後から抱きしめられ、心拍数が静かに乱れていくのが解る。
失恋したばかりだと言うのに自分は何をしているのだろう、この三年間仁王を意識したこと
なんてないのに今は壊れた目覚まし時計のように煩くアラームを鳴らしている。
「俺、「に用がある」って言ったぜ」
「じゃ、じゃあ、抱きつくのは止めてさっさとその用を済ませたら良いでしょ」
「それも、イヤじゃ」
「なっ…」
「俺、他人の目を見てるとうまく言えんのじゃ。何か、俺が考えてることが見梳かれそう
でな」
回された腕が痛い、それと同時にこの三年間で一番彼に密着している事に胸の高鳴りが激
しくなり呼吸をするのも辛くて目眩がしそうだ。
「……今日、お前が保健室で見たあいつはな……俺じゃ」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
普段の事を踏まえても仁王が舌を噛まずにあんな言葉遣いをするとは思えない……そう断
言しようとしていた理性の肩を叩く去年の都大会でのことを思い出して体が硬くなった。
「何で?……どうして、アンタが柳生君に変装していたの?……ひょっとして、私の
気持ちを知ってからかいたかったの?」
失恋したばかりだからだろうか、目元が腫れ泣き疲れているにも関わらず感情が抑えきれな
くて涙が溢れる。
他人の事を酷いとか言えるほど自分が真っ当な人間だとは言えない、だが、三年間言えずに
胸で紡いでいた想いを踏みにじられた気がして悲しかった。
きっと、今なら自分が虐げたあの少女の気持ちが解るかもしれない。
心の中でどんなにごめんねと言ったとしても足りない。
彼女は強い……今まで自分が強いと思っていたが本当は逆だったことに今更気付くなんて
図々しいにもほどがある。
三ヶ月だったけれど、幼稚過ぎるの嫉妬が呼び起こしたイジメに絶えたのだ、十分
にその資格がある。
「違う。……何でそうなるんじゃ?俺は生きた心地がしなかったちゅうのに」
え、と言う前に耳に唇を近づけられ心臓が飛び上がりそうになったが、彼はお構いなしに
内緒話でもするかのように囁いた。
「俺はな、……俺は、が好きだ」
「えっ?」
「だから、あいつのふりしてお前をフッた。これ以上柳生に入れあげねぇようにな……だ
が、結果としてを泣かしちまった」
ごめんな、と囁いたのを最後に唇が離れていくのに気付いて慌てて振り返り、その衝動
で仁王の首に手を回してこっちに向かせた。
その顔はいくらコート上の詐欺師と言われていても全く予想していなかったのか、酸欠
の金魚のように口をぱくぱくさせている。
こうして見ていると何だかいつもより可愛く思え、笑いがこみ上げてくる。
しかし、彼女が何を考えているのかなんてこの三年間で習得済みなのか、逆に後頭部を
強い腕の力で引き寄せ爪先立ちに限界が来た体が彼に大きく傾いた頃、ぬるっとした湿り
気を帯びたモノが唇を奪った。
「ひゃっ!」
唇を舐められた、その瞬間背筋が痺れたような感覚に襲われ仁王の胸に抱かれた体が更に
固まった。
「俺のことを可愛いなんて思っとるから仕返しぜよ」
「っ!」
楽しげに笑うのは至っていつもの彼だ、またからかわれたかと思い顔を上げて文句を言おう
とした彼女の唇を今度は口の端に笑みを浮かべながら奪われた。
その刺激に絶えきれずに瞳を閉じる瞬間、強がりなは風邪を引いたんだと自己暗示
を掛けた。
だが、この銀色の発熱は簡単には下がりそうはない。
今度は自分が彼に虐められる番だと思うと、薄れていく冬の雨もまた名残惜しく思えた。
―――…終わり…―――
#後書き#
こちらは、柊沢が参加させて頂きました「FIRST LOVE
STORY」様への
参加作品として作業しました。
私の仁王Dream小説は今回が初めてとなるのですが、素敵な企画サイト様に参加させて頂きま
た、勉強をさせて頂きました事に感謝しております。
それでは、ここまでご覧になってくださり誠にありがとうございました。