澎雨―Hou_―


         『……っ……く……ママ…パパァ』


         暗闇の中、一人の幼い少女が泣いている。

         ぶかぶかな浴衣のような寝巻きを着せられていてとても愛らしい。

         歳はまだ小学校に上がっていないくらいだろう。

         120cm程の小さい背を余計に丸く縮め、周りの人間に哀愁を漂わせる。

         だが、当の本人にはその気は全くなく、ただ自分の置かれている立場を幼いながらも

         理解しようとしていた。

         何故、自分がこんな目に遭うのか。

         どうしてこうなってしまったのか。

         胸の内で何度も神に教えを乞いても、応えは返ってくるはずはなかった。

         彼女は幼くして、この世のすべてを恨んだ。

         誰も助けてはくれない。


         自分を守れるのは自分だけ。


         隙を見せたらそれまで。


         耳元には、激しい雨音がノイズのように響いていた。

         薄い布越しの小さな背中には不釣合いな大きな手術跡が痛々しく残っている。

         少女の憎しみはこの傷口から生まれた。

         もう、元の生活には戻れない。

         戻りたくても手からすり抜けていってしまう幸せが恋しかった。

         『ちゃん。この方々が君の新しいお父さんとお母さんだよ』

         暗黙の中、誰かが泣き続ける少女の頭を優しく撫でながらそう言った。

         泣き腫らした瞳で振り返ると、そこには二人のこれまた人の良さそうな男女がいる。

         『こんにちは、ちゃん』

         『……こんにちは』

         長身の男性は少女に笑いかけると、屈み込んだ姿勢になって彼女の顔を覗きこんだ。

         愛想悪くワンテンポ遅れて返答をした。

         隙を見せたら負けだから。

         だが、彼はそれでも微笑んでこう言った。

         『ウチの子になってくれないか?』


 

         「あっ、姉さん。おはようございます」

         「おはようございます、蓮司さん。今朝も早いですね。部活ですか?」

         六月初旬に入った朝は、まだ五月の名残があるように感じさせる。

         だが、開け放たれた窓際から来る風はすっかり夏のものである。

         閑静な住宅街の一角に立海大付属中学校に通っている柳連司の家はあった。

         新聞を開いていた少年はその女性の声が耳に入ると、それを閉じリビングに入ってきた

         人物をにこやかに笑って応対した。

         少年といっても中学三年生で180cmを超えた長身である。

         やはり、他校とは練習量が半端ではないことが見て解る。

         長い廊下からリビングに姿を現したのは、今日から夏向きの薄い素材になった制服姿

         の少女だった。

         白地のセーラー服に飾りネクタイをつけベージュのチェック柄のスカートが何とも

         愛らしい。

         姉と呼ばれた彼女は藍青高校の三年生の柳である。

         もうすぐ受験シーズン到来なのだが、元々、首席で合格したので、ある程度は学校推薦を

         何校かはもらっているそうだ。

         だが、彼女はどれにも首を縦には降らず、就職することを選んだ。

         それがなぜなのかは、弟はその理由をうっすらだが、気づいていた。

         テーブルのイスに座ると、目の前にいる彼に微笑んだ。

         弟とは言っても、150cm止まりの少女と比べて遥かに長身である蓮司を立っても座っても

         見上げる体制にならなければならなかった。

         これでも中学に入るまでは、と同じくらいの身長しかなかった頃がある。

         だが、彼はあの時の話題にはあまり触れられたくないといった風でいつもお茶を濁して

         逃げてしまう。

         彼女としては何気もないただの触れ合いと思っていたが、彼も年頃に入ったのかどうも蒸し

         返すようなことは好きではないらしい。

         「そう言えば、姉さん。乾貞治という男を覚えていますか?前の家に住んでいた時、俺が

          テニススクールで一緒にダブルスを組んでいたのですが」

         湯飲みを抱えたままのに彼は突然、そんなことを言ってきた。

         蓮司は今から四年前、確かにテニススクールに通っていたことがある。

         当時中学生だった彼女はいつも部活帰りに彼を迎えに行ったことがあった。

         その時、一緒だった眼鏡がとても印象的だった少年を忘れたことはない。

         まして、弟と人間性が同じである彼のことを忘れるはずもなかった。

         「えぇ、覚えていますよ。乾貞治さんですよね?あなたを良く迎えに行った時に会い

          ました。でも、お父様の仕事上の都合で引っ越すことになってしまって…」

         「はい。ですが、この間の関東大会で貞治と再会したんです。あいつ、俺が教えたデータ

          テニスをしていましたよ」

         「本当ですか!?でも、データテニスですか。昔を思い出しますね」

         「はい。俺が今こうしてデータテニスをしているのは、姉さんのお陰と言えますから」

         「そっそんなことはありません!それに、私は数字に弱いということは蓮司さんなら

          ご存知でしょう?」

         「ですが、俺がデータを集めようと思ったのは姉さんの癖から始まったんです。ですから、

          姉さんのお陰で良いんですよ」

         彼は長身の体を傾けるとそっと優しく微笑んだ。

         この少年が男性に変わるまではとても可愛らしい弟だと思っていた。

         だが、今目の前にいるのは、姉の背を軽く越した柳蓮司という見知らぬ他人である。

         その変化に鼓動を速くせずにはいられないは、頬を染めて瞳を横に背けた。

         「そんなこと仰られましたら照れてしまいます!」

         「何故ですか?事実を言って何が悪いのですか?」

         「それは……あっ、そうです!蓮司さんっ、今夜、乾さんとせっかく再会したことですし、

          お祝いをしませんか?」

         我ながら無理に話題を反らしたことが解った。

         だが、ほかに何を言葉に変えれば良いのか解らない。

         四年前まで柳家で催していたことだが、今日は乾の誕生日である。

         そして、それに並んで翌日にはこの少年の誕生日がある。

         毎年、深夜になると二人だけでささやかなパーティーをしていた。

         彼はいきなりそっちの方に話が飛んで驚いたのか顔を固まらせたが、苦笑いをするように

         頭を垂れる。

         「良いですね。では帰りに、貞治の家に寄ってきます」

         それは、傍から見ても仲の良い兄弟に見えることだろう。

         だが、この二人には問わず、柳家には沈黙のルールがあった。

         が困ることは絶対してはいけない。

         だから、今まで深く彼女に追求したことなどなかった。

         それは、ようやく笑えるようになったを壊すことに繋がると、恐れているからだろう。

         そして、それはこの少女自身も恐怖に怯えていた。

         彼女の本当の名は、

         蓮司の父と同僚であって友人の澪の一人娘である。

         何故この少女が柳家で彼の姉として今日まで暮らしているかと言うと今から十三年前

         に遡る事になる。

         季節はちょうど、今頃で毎日雨ばかりが続いた。

         当時、彼女は幼稚園児で、父と母の三人で暮らしていた。

         いつも笑いの耐えない家族として近所でも知らない人はいなかったくらいだ。

         父は会計士で帰りの遅い時もあるが、その日は決まって翌日の食卓の横にお土産があった。

         母は、専業主婦で近所付き合いも良く保護者会では積極的に議長を買って出ていた。

         だが、そんな幸せは彼女が大人になって嫁ぐまで続くことはなかった。

         ピ〜ンポ〜ン。

         『あら、こんな時間に誰かしら?』

         『解らん。だが、用心に越したことはないぞ』

         その日は家族団らんで夕食を囲んでいた頃だった。

         食卓では今日はなにがあったかとテーブルの上は驚嘆と笑いが飛び交っている。

         幼い少女は母親がインターフォンに出て二言三言口にするのを心配そうな眼差しで

         見ていた。

         今日は朝から変に胸騒ぎが続いている。

         子供ながら何かを悟っていたのだろうか。

         こんな時間に宅配便なんてご苦労ねと言って、印鑑を持って玄関に急ぐ母親の背中を

         何故だか最後に見るようで悲しかったことを今でも覚えている。

         鉄製の扉が開く音が聞こえたと思ったら急に女性の甲高い悲鳴が聞こえてきた。

         『ママっ?!』

         『っ!ダメだ、そっちに行くなっ!!!』

         行儀悪く箸をテーブルに叩きつけると、イスから下りて母親のいるはずの玄関に

         向かって走る。

         両親とっては狭い家でも、幼い少女にとってはまだまだ広い。

         キッチンから玄関に続く廊下を渡りきる前、は僅か五歳で母親の哀れな姿を目にして

         しまったのだ。

         血だらけになってもう身動きもしない最愛な母。

         そして、その上に馬乗りになった青年が何かを呟きながら何箇所も出刃包丁で刺している。

         その表情には狂ったような笑みが浮かんでいる。

         怖い。

         彼女はとっさの感情に身震いがしてその場から逃げ出すことが出来なかった。

         足には枷が付いているように重い。

         だが、瞳孔は見開き、心臓はあの青年のように狂ったリズムを響かせている。

         体中の汗がどっと噴出したかのように学校から帰って着替えた可愛らしい熊がプリントされ

         てあるパジャマが妙に肌に吸いついた。

         (ママっ…ママっ…)

         娘が呼んでも起きるはずのない母親は口から一筋の血を吐いた姿で眠っている。

         もう、この歳になれば「死」の意味も大体解っていた。

         しかし、これは故意である。

         そんなことが日常に起こるわけはない。

         だが、今こうして殺人鬼は目の前にいるのだ。

         厭らしいほど赤い液体に酔いながら頭痛がした。

         『うっ…』

         それと伴ってか胃腸の方から嗚咽が胸を一気に支配する。

         『っごほっ……はぁ……ごほっ』

         廊下に這うような形になっていくら咳をしても喉の異様な渇きは消えない。

         木製の板に染み込んでしまいそうな自分の排出物でさえ、幻覚症状だろうか赤く映った。

         苦しい。

         誰かに助けて欲しかった。

         今まで見たどんな夢よりも恐怖に駆られて身動きも自由に取れない。

         夢なら早く覚めてと何度念じたことだろうか。

         だが、そんなのは単なる現実逃避に過ぎなかった。

         彼女の影の上に、さらに大きなものが重なる。

         それは、大好きな父親が優しく微笑んで大丈夫だよと、頭を撫でてくれるものでは

         なかった。

         『ダメだよ、こんな所を汚しちゃ……お兄さんがお仕置きをしてあげようね』

         『っ?!』

         少女が頭を上げる前に背中に激痛が走った。

         その瞬間にあふれ出したものは涙や雨の雫よりも重く、の体を濡らす。

         背中に激しい痛みを与えているものは、先程まで母親を何箇所も刺していた凶器であろう。

         もっとも、当時のはこんなことを考える前に目の前が真っ暗になり、死を間近に考えていた。

         遠くの方からは何かがこちらに向かってくる音を耳にしたような気がした。

         しかし、背中の深い傷に遠退き掛けていたのに追い討ちを掛けてか、素早く凶器が引き

         抜かれ、新たな痛みに少女の記憶はその場で途切れてしまった。

         その時、彼女は自らの命が途切れた瞬間だと思った。

         だが、は生きていた。

         気づいた時には、個人病室のベッドの上にいた。

         背中にはまだ鈍い痛みがあるが、それでもあの時よりかは感覚が和らいでいる。

         『ママ?パパ?』

         不意に脳裏に過ぎった映像に二人の姿を探した。

         しかし、ここは病室である。

         周囲を白に覆われた中にベランダだけが外の景色を伝える。

         季節は梅雨真っ盛り。

         窓の外は直接耳にしているように激しい雨が世界を濡らしていた。


 

         時刻は、八時ちょうどのとあるテニススクールの一部のコートにいた。

         夜空は彼女が予想したとおり、昼間の強風が雲を呼び集めてしまった。

         今にも泣き出しそうな天上の下にいる三人はそれを映したような険しい面持ちをしていた。

         雲間からかすかな光さえ零れない闇だけが彼らを包んでいる。

         二人の少年は無言でテニスコートに立つと、互いを一瞥するように鋭い眼差しをする。

         それを見守るように双方に視線を向ける女性が一人いた。

         (蓮司さん…乾さん…)

         事の発端は数分前に起こった。

         彼らが待ち合わせに選んだ場所は、三人が共通の思い出であるこのテニススクールだった。

         自分と同じぐらいの背丈の少年は、弟と同じくらいに見事な成長を遂げたことに驚嘆しながら

         何故だか妙に意識してしまって頬が赤くなってしまう。

         「乾さん、お久しぶりです。随分ご立派になられましたね。昔は私と同じ身長でしたのに」

         「お久しぶりです。そうですね、あの時は同じ目線にいたさんがこんなに小さく見える

          なんてびっくりしました」

         「貞治。姉さんに「小さい」という言葉を慎め。これでも本人は気にしているのだからな」

         「もうっ!蓮司さんたら、そのことは言わないで下さいとあれほど頼んでいるでは

          ありませんか」

         「事実を述べたまでです」

         あれから四年の歳月が経っているというのに、何一つ変わってはいなかった。

         強いて上げるなら、会員でもない一般人にもテニスを楽しめるようになったことだろう。

         三人はあの頃を懐かしむように奥のコートに入っていった。

         いや、そんな気持ちだったのは何も知らないだけだった。

         「ふふっ、貴方達が別れる前にやったという決着をあの時の場所で着けますか?」

         彼女は広いコートを見ながら軽い冗談でそういったつもりだった。

         だが、二人は互いに視線を合わせてから首を縦に振る。

         「えっ?」

         冗談のつもりだったが、この元凶を作ってしまったのは自分である。

         元々、彼らは優しい性格である。

         それだから自分の言ったことに乗ってしまったのだと考えていた彼女の瞳は次の少年達

         の声に耳を疑った。

         「勝者が姉さんと交際する資格がある。敗者は、潔く引き下がるんだ。良いな、貞治!」

         「解った。この日が来ることをずっと待っていた。蓮司、お前には、絶対に負けられない」

         「お待ち下さい!何を仰られているのですか!?それに私は蓮司さんの姉…」

         「今さら隠そうとしなくても大丈夫ですよ。姉さん……いえ、さん」

         「どうして、その名を?!」

         「昔、俺は聞いてしまったんですよ。父や母があなたのことを話しているところを。それに

          幼心に姉という存在はいないと解っていましたしね」

         返す言葉が見つからず、目を地上に落とした。

         そこには、先日の灼熱の所為か干乾びた長いミミズの死骸がある。

         それに群がるアリの姿は先程まであったらしいが、既にその場所から姿を消していた。

         恐らく嵐が来る予兆だろう。

         「ずっと好きでした。ですが、俺達は兄弟。そう信じてこの気持ちを諦めようとしました

          が、あの事があってからさん……あなたのことを以前よりも愛していた」

         「蓮司さん…」

         「ずるいな、教授。決着を着ける前に告白するなんて」

         「あぁ、すまない。博士」

         彼は向かい側にいる同じく長身の少年に答えてから名残惜しげに戦場に視線を戻す。

         その横顔が一瞬火照ったように見えたが、それは照りつけるライトの幻だったのか

         見慣れた頬だった。

         「さん。俺は蓮司と知り合ってからあなたと出会って一目で恋をしてしまいました。初めは

          この想いが届かなくてもさんの笑顔があればそれだけで良かった。ですが、あの日を

          境に俺は四年以上の間、何故あの時に気持ちを伝えなかったのかと後悔していました。

          あなたを愛しています。この気持ちは、偽りではありません」

         「乾さんっ!?」

         信じられなかった。

         自分という消えない過去を持った女が二人の男性に愛されるとは思ってもいなかったからだ。

         だが、それはも同じことである。

         この少年達の変貌を見てしまった瞬間に今まで感じた痛みが許されるはずのない恋だと

         解ってしまった。

         それは神から食してはいけないと言われた禁断の果実だろうか。

         しかし、そんなことを考えている時間はない。

         二人は向き合うと試合を始めてしまっていた。

         同じ人間性は大体考えていることも同じなのか、両者とも譲らない。

         それだけ、彼らは自分への気持ちに正直だということだろう。



         
「乾を応援する」         ≒         「蓮司を応援する」