ビターチョコレート〜この愛は、決して甘くない〜

        ‡第一章 許婚‡

        『…泣くな』

        『きっと…笑って欲しいんだ』

        「お前に会わせたい方がいます。学校が終わったらば、すぐ帰ってきなさい」

        「はい…、お祖母様」

        それはいつもの朝だった。

        着慣れた青学の制服を着た少女がすっかり冷え切った茶のローファーに足を納める

        
直後、背後に威圧を感じて振り返れば、この家の主である祖母が立っている。

        は代々続く大富豪だが、子宝には恵まれない家系だった。

        その一人娘であるはこの春で中学三年になる。

        学校も三学期が始まり、今日は土曜なので午前中しかない。

        別段、何かの部活に入っているわけでもない彼女はそれに従うしかなかった。

        「行って参ります」

        いつもの挨拶も何故か今日は重たく感じる。

        この家に生まれて作法や礼儀等には煩いので明るい気持ちにはなれない。

        だが、それでも今日は……許婚に会うこの日は特別に思えた。

        ガラガラと引き戸を閉めると、旧家には似合わない黒塗りの車がエンジン音を 立て

        てを待って
いる。

        大富豪の一人娘ともなればこんな送迎車があってもおかしくはない。

        彼女も都内の私立幼稚園に通いだしてからの見慣れたことで大して違和感はない

        が、
今でも青学の登下校ではざわめく生徒達がいることに首を捻っていた。

        後部座席のドアを開けると、ふわっと、暖かい空気が顔を覆っての沈んだ気持ち

        緩めてく
れる。

        今日は一月二十一日。

        後半とは言え、まだまだ寒い日が続く。

        白いカシミヤのロングコートを羽織っていてもやはり季節には敵わず、吐く息も

        白く
空気の中に溶けた。

        それを見つめる彼女は何かを想像しているのか今日はとても悲しそうな表情

        を浮かべ、
車内に潜り込んだ。

        「おはようございます、お嬢様」

        「おはようございます、多恵さん。今日もありがとうございます」

        「いえ。私はこんなことしかできませんので」

        車と一緒に黒で統一された服装はまるで悲しみを堪えているように感じる。

        彼は彼女が生を受ける前からの家に仕えてきた執事だ。

        だから、この家の掟も勿論知っている。

        それはどうしても逃れられない炎の記憶から始まった。

        暖かい車内だけがの冷たくなった心を和らげてくれる。

        今日、学校から帰ると生まれた日に決められた一度も会った事がない許婚が

        やって来る。

        それは家に古から伝わるカウントダウンの予告をされたのと同じだった。

        車窓の外は、内とは違った温度差のためか白に覆われている。

        昔ならば冷たいガラスに指の腹を押し付けるのに、今はそうすることを躊躇って

        しまう。

        無数に書いた落書きを頭に思い浮かべながら一括でさよなら、と心の中で

        何度も唱えた。

        この白の世界に閉ざされてしまえば何も見えない。

        だから、この場で泣いてしまえば誰に気づかれることがない。

        そう、無理に思い込もうとした瞬時にワイパーの外を見ている多恵の後ろ姿が

        目に入った。

 
      もうすぐ五十代に入る髪は白く輝くものがまるで鯨幕のように表れている。

 
      幼少よりずっと傍にいた彼だ。

 
      だから、が今どんな思いでいるのかなんて容易く解っているだろう。

 
      瞳に薄っすらと浮かんだ涙に気づきながらも敢えて車窓に顔を向けた。

 
      窓の外はやはり、白かった。


 

         昔々、この村に油を売りに来る男がおりました。

         髪の黒い背のあまり高くない、色の白い男で石油の缶を、天秤棒の両端に一つ宛て付けて、

         
それを担いでやってくるのでした。

         ある夜、男は石油を買いに来た少年に、泥棒と言ってしまいました。

         それが、自分の運命の歯車を狂わすことになろうとは知らずに…


        得意分野の古文の授業を受けていても以前のように面白くはない。

        友達と呼べる存在がいないのは、いずれやってくる時のため。

        自分を悲しむ者などこの世になんていないだろう。

        そう、この世には…。

        黒板の文字だけを書いたノートには写真でしか見たことのない男性の顔を思い浮か

        べていた。

        それは博物館や美術館に展示されているものと同じだが、それでも何か心から

        惹かれ
るものがある。

        それは、という血を受け継いでしまったからだろう。

        もし、自分でなければこんなことは何度考えたのか、それすら覚えていない。

        止めようとしても一度溢れ出した重たい記憶はそう簡単には納まりそうもない。

        もし、自分で泣ければ、こんなちっぽけで弱い自分でなければ、今はどうなって

        いたのだろうか?

        あの家を素直に受け継ぐことが出来たのかもしれないし、もっと違った道を探した

        かもしれない。

        結局、どんなに考えても最後はその答えに行きたがる。

        生まれる以前から道は舗装されている。

        ……そして。

        「どうした、?」

        「っ!?」

        いきなり背後から聞き慣れた声が自分の名を呼んだ。

        は弾かれたおはじきのように座っていたイスから腰を上げ、その反動で振り返る

        と一人の
年がこちらに視線を向けたまま立っている。

        ここは図書室。

        授業が終わる頃を見計らって以前借りた本を返しに来たのだ。

        今、目の前に経っているいかにも教師やOBと見間違えてしまいそうな容姿を

        誇る少年は
三年の手塚国光。

        去年、クラスメート達からの推薦を断りきれず、迎えた選挙当日何の悪戯か、

        副会長になってしまったのだ。

        その時会長を務めていたのが、この彼だった。

        「何をしている」

        「本を返しにですが?」

        所属しているテニス部ではその名を轟かせているそうだが、彼女にはそんなことは

        どう
だって良いことだった。

        いつもポーカーフェイスで硬い表情を崩さない手塚と同じく、人前では絶対感情

        を表さ
ないはカウンターに一度置いた本を指差した。

 
       『竹取物語』。

        それはたった一冊で、黒に塗りつぶされた表紙。

        見ただけでも気後れしてしまいそうだ。

        彼女が借りるものは大体決まって誰かが軽く手を伸ばせないジャンルだった。

        それは、単に趣味の領域とも言えるし、周囲を避けているとも言える。

        しかし、『竹取物語』だけはどんな書物とも組み合わされており、その証拠に裏

        表紙を
一枚捲った紙のポケットにある貸し出しカードの中にはの名前しかない。

        「好きなのか?」

        「何がですか?」

        「確か、生徒会の時もその本をよく持っていたな」

        「えぇ」

        二人の会話は長続きしない。

        それは、生徒会での活動時もそうだった。

        『、この書類だが……』

        『はい』

        書記がいるにも関わらず、長身を折りたたみ彼女の目線に合わせて書類を

        差し出す。

        だが、その言葉はまるで音もなく降る雪のようで温度を全く感じられなかった。

        お互い無表情で大した感情など持ち合わせていないからくり人形のようだ。

        「会長は洋書がお好きなのですね」

        「なぜ解る?」

        「脇に抱えている書物を見れば解りますよ」

        右の掌で彼の左脇にある二冊の分厚い本を指す。

        二人とも普通の中学生が手を出さないものを読んでいるものである。

        「もうすぐ、卒業式ですね」

        「あぁ、中等部生活はもう終わりだな」

        いつもの彼女にしては珍しく務めではない会話を口にした。

        このまま帰りたくはない気持ちがそうさせているのかもしれない。

        「お前にもいろいろ世話になった」

        「いえ、私にできる範囲のことをしたまでですから」

        「いや、がいなければ無事生徒会を終了することは出来なかっただろう。

         感謝している」

        「会長…」

        「俺はもう、生徒会の会長じゃない」

        手塚はそう言って脇に抱えていた本を『竹取物語』の隣に置くと、

        いきなりを抱きしめた。

        「えっ?」

        それは突然の出来事で、自分が今どうなっているのかがよく解らなかった。

        体は筋肉質の腕に包まれ、鼻には悪臭ではないが制服のものと一緒に何かが匂って

        くすぐる。

        自分が今、抱きしめられていると解ったのは、彼の意外な言葉からだった。

        「…………だ」

        「え」

        「お前のことがずっと好きだった」

        「!?」

        驚きと戸惑いで鼓動が跳ね上がるのが解る。

        しかし、それだけでは言い表すことが出来ない感情もある。

        「なっ……何故です!」

        目の端には熱い感情が集うのが解る。

        こんな気持ちなど人前で見せたことはない。

        堪えようとしても体はそんな理性とは逆に涙腺に指示を促している。

        こんな方式も急展開過ぎる本は読んだことはない。

        ただ、ずっと前に読んだことのある文豪が描いたヒロインのような台詞を口に

        すること
しか出来ない自分が悔しかった。

        彼は小さな背から片方の掌を外すと、それを彼女の頬に触れる。

        その動きはまるで、壊れ物を扱うように優しい。

        「何故、泣く?」


 
       (えっ…)

        言葉の意味が解らないまま手塚は指の腹で何かをすくい、人差しに光る水を

        目の前に出す。

        それは、指紋の上を一筋流れる天の川のようにしっとり濡れている。

        「俺が嫌いか?」

        表情は崩さない代わりに声色がいつもより低く心に響く。

        彼のことは嫌いではない。

        寧ろ、自分のことを何の利益も駆け引きもなく愛してくれる存在がこの世にいて

        くれた
ことにより感動してしまい思うように言葉がでない。

        それと全く同じく何故、今日なのかと恨めしく思っているもう一人のがいた。

        もし、昨日なら…一昨日なら……生まれる前ならこんな狂おしい感情にはなら

        なかっただろう。

        「……どうしてっ」

        「?」

        重い唇が気持ちと一緒になって余計に声が口内に篭る。

        それでも、手塚に言わなくてはならない事実がある。

        「どうして、今日言うんですか!」

        「私っ、私は、今日許婚に会うんですよ!」

        一瞬、背中に回された腕の力が緩んだ隙に彼の胸を思いっきり押し、その反動で

        図書室
を飛び出した。

        何故、自分はこんなにも乱れた気持ちで一杯なのだろう?

        頬を伝う涙を行儀悪くも制服の袖口で拭う。

        流れ落ちたのはがこの十五年間胸の内に秘めていた感情なのか、それとも新たなもの

        
なのかなど今は解らない。

        「っ!?待て、!」

        ただ、追いかける声が耳から遥か奥の方に響いた。



        「後もうすぐで、お相手の方がお見えになります。前にも言いましたが、の名を

         
汚すような振る舞いはしてはなりません。解りましたか、

        「…はい、お祖母様」

        自宅に戻ると、早速制服から控えめなピンクの着物に着替えさせられ、滅多に

        しない化粧
まで塗装されてしまった。

        という人間は一体何だろうか。

        運命に縛られ、家に縛られ、自分のことなど一切決めることが許されない。

        それはまるで、というブランドの商品のようだった。

        客間の漆黒のソファに座っていた彼女はお手伝いさんに手渡された巾着の紐を解く。

        夕焼け色のそれに入っていたのは、ハンカチや鼻紙といったエチケット重視の

        ものだったが、
その中に小さな手鏡は照明に反射して光った。

        きっと、最後の確認のために入れてくれたのだろう。

        取っ手を掴んで覗き見ると、冷たい光の中に今朝と違う自分がいた。

        瞼の上に着物の色と同じ淡いピンクが乗せられ、肌には薄っすらと地とは明らかに

        違う粉
がオゾン層のように顔中を覆っている。

        売り物と同等の自分。

        こんな自分を未だ解らない許婚は好んでくれるのだろうか?

        『お前のことがずっと好きだった』

        あの人は何の飾り気もない自分のことを想ってくれたのに、とまたもや目の端が熱く

        なってくる。

        手鏡を持つ手が震えて広げたままの茶巾に軽い音を立てて返った。

        (……ダメ。こんな所で泣いてはっ)

        「

        「っ!?」

        堪えようとして唇を噛もうとすると、背後から家の誰とも似つかない声が掛かる。

        その拍子に涙は瞳の中を泳ぎ、震えていた両肩は背筋を正すよう促した。

        きっと、この声の主が今日会う予定の許婚だろう。

        彼女は唇を一つ結んでから立ち上がり、伏した目のまま深くお辞儀をする。

        今日からこの人だけを見つめ、この人だけを愛していくのだ。

        それはマリッジブルーに似たものがある。

        昔は15で結婚をすることが普通だったが今では女が16歳、男が18歳になら

        なけれ
ば結婚してはいけないことになっている。

        だが、ここで疑問が残る。

        どうして、彼は彼女の名を知っているのだろうか。

        しかも、苗字ではなくまして「さん」付けではない確かに呼ぶ馴染んだ言葉だ。


        「初めてお目にかかるのですが、お名前を教えていただきませんか?」

        「何?俺を覚えていないのか?」

        見上げた先の青年は、の通う教師でも可笑しくはない容姿を誇っている。

        しかし、よく見てみれば服装は制服で、顔には急いで走ってきたような大量の

        汗が滲んでいた。

        肩にはテニスバックが背負われており、それだけで他校のテニス部に所属している

        ことが解る。

        だが、この人物はまるで、自分と会ったことがあるような口ぶりだ。

        「申し訳ありませんが、あなた様とは何処かでお会いしたことがありましたか?」

        「んむ。……まぁ、仕方がないか。会ったことがあると言っても昔、一度きり

         会ったくらいだからな」

        「一度きりですか?」

        「あぁ。覚えてないか?九年前母上の葬式で会ったお前より一つ年上の子どもを」

        その言葉に一人だけ思い浮かんだ人物がいた。

        『…泣くな』

        『きっと…笑って欲しいんだ』

        あれは今から九年前のちょうど今日、片親だった母を病気で失った。

        元々体の弱い人だったらしく、結婚も反対されていたそうだ。

        しかし、父は許婚がいたにも関わらず母と結婚をし、その翌年生まれたのが

        自分だった。

        その彼は彼女が僅か二歳の時にこの世を去ってしまい、それから女手一つで育てたの

        だ
が蝋燭の火はそれを許してはくれなかった。

        『…泣くな』

        葬式の準備で忙しい大人の中、一人母の部屋でウサギのぬいぐるみを抱きながら

        泣いて
いると一人の少年が近づいてきた。

        無表情のままそう言うと、彼は母の所まで連れて行ってくれた。

        棺おけの小窓から除き見た彼女はもうこの世に戻らないと言うのに、生前のように

        キレ
イな顔をしていた。

        『きっと…笑って欲しいんだ』

        口数は少なかったが、繋いだ手は誰よりも優しくて温かく、黒いキャップがよく

        似合う少年との出会いは、の初恋だった。

        「弦一郎お兄様っ!」

        「あぁ」

        返答と一緒に控えめな笑顔に見覚えがある。

        あの頃よりも低くなってしまった声と到底敵わない身長差に全然気がつかなかった。


        『あなたには生まれた日に決まった将来を約束した方がいます』

        物覚えがはっきりした日、それは祖母から言われた。

        まだ子どもの頃は解らなかったが、初恋が否定されたことが解って泣き明かしたこと

        がある。

        けれど、こんな形で実るなんて想像すらしなかった。

        「本当に弦一郎お兄様なのですか?」

        「あぁ」

        熱く込み上げてくるものを抑えるように胸元を手で押さえると、それを筋肉質な

        大きな
掌が優しく掴む。

        それはあの日の続き。

        「今日からずっと傍にいる。…ずっとだけを愛し続ける」

        「あっ」

        手首を軽く引っ張られ、体制が崩れる。

        爪先立ちで一二歩進むと、さらに背中を何者かに押され彼の胸に凭れかかる。

        「弦一郎お兄様っ!?」

        「もう、その名を呼ぶな」

        自分の体が彼の腕の力によって密着しているのが解る。

        「俺はの夫であり、お前は俺の妻。その……昔と同じ呼び方などするな」

        それに対して自身も体を変形する。

        「では……弦……一郎………………さん?」

        ずっと好きだった年上のひと。

        だから、本当はこのまま彼のことだけを考えていたかった。

        『お前のことがずっと好きだった』

        だが、彼女の小さな胸の中では一人それを許さない人物がその言葉を発してはこちらを

        
じっと見つめて放さない。

        甘く低く木霊する声は何を自分に要求しているのだろうか。

        ……それとも、自身が何かを望み始めているのか。

        それは紅の紋章だけが、知っている。



        ―――・・・続く・・・―――



        ♯後書き♯

        『Streke a vein』をご愛読して下さる皆様、明けましておめでとうございます。

        今年も私どもRaw Oreは自分の中に確かにある原石を皆様にお届けできることを

        
モットーに精進していきますので、今年もお付き合いをお願い致します。

        さて、ご挨拶はここまでで、私の連載Dream小説『ガラスのシンデレラ』が終章を

        向か
え、新しい年が始まってしまいました。

        手塚VS真田でヒロイン設定が許婚と言うのは、原案は、実は何を隠そう私の友人であ

        めいめえ様が私にリクエストしたものです。

        私は「許婚」という設定に憧れていたので、その直後急遽今号での第二作目の連載

        
Dream小説にすることをお願いして実現したのが、この『ビターチョコレート』です。

        元ネタは、去年大学のレポートで書いたシナリオの話ですが、皆様にお楽しみ頂け

        たでしょうか?

        手塚君を生徒会長と副会長だった間柄、真田君を初恋で許婚の間柄にしたのにも以前

        某
掲示板で話したのを元に決めました。

        またまた私独特の語り口調で始まった今作の展開を楽しみにして下さると嬉しいです。

        それでは、次回もまたご期待下さい。