ガラスのシンデレラ‡終章 神様のいない月‡

          「…ようやくこの月が来たか」

          辺りが混沌とした暗闇に包まれた中、一人の少年はにやりと口の端をつり上げた。

          その容姿はまるでこの世のものではないくらい端整なもので、血の気の浮かんで

          いない肌は青白い。

          大人しくしていればなかなかの人物なのだが、イヤらしく笑う姿が唯一の欠点だろう。

          人差し指からはまるでマジシャンのように炎を着火させ、左手に持っていた三本の

          キャンドルに灯す。

          「……もう、止めてくれないか」

          一瞬にして明るくなって現れたのはどこかの美術館にありそうなゴシック系の一室

          だった。

          フローリングには絨毯が敷かれ、赤々と燃える暖炉の上には何冊もの分厚い本が

          置かれている。

          彼はソファーに座りながら紅茶の入ったカップを口に含むと、聞こえた声の主の方に

          目を向けた。

          「今更、何を言っているんだ?それにこのことはお前達が願っていたことだろう」

          視線の先には誰もいなく、ただ暖炉が薪を食らう音が室内に熱を発している。

          しかし、この少年にはその場所に何かが見えるのか、瞳に何かを宿したまま離そうとは

          しなかった。

          「契約書にサインしたろ?」


          「っ…」

          「そして、あの娘もサインをした。もう、後戻りはできない」

          「しかし!」

          「お前達は今を望んだ。そして、私を選んだ。それに何の躊躇いがあると言うのだ?」

          温かい紅茶を含んだはずなのに、声色と心は凍えている。

          視線には絶対零度な微笑みが浮かんでおり、見えない相手はそれに
威圧されたのか

          そのまま黙ってしまった。


          「ん…」

          十月も半ば、街路樹はすっかり色を変え気が早いものは既に葉を落とし始めていた。

          その中を歩く人々もそれに合わせて服装を夏服から秋の色に変えている。

          まるで、散っては枯れてゆく落ち葉に魅せられたかのように。

          青学のテニスコートでは、一番熱い季節から三ヶ月しか経っていない

          のに白い肌を保ったままの青年が目元を手の甲で拭っていた。

          「どうしたんですか、さん。寝不足ですか?」

          彼の隣で中学三年生にして184cmの長身を誇っている乾が聞いてきた。

          「あぁ、乾君。う〜ん、どうなのかな?私は運動の他に取り得がないから兄の世話を

           したらさっさと寝ちゃうけど」

          「…三ヶ月前に話しを聞いた時も思いましたけど、お兄さん思いですね」

          「そ、そんなことないよ。…でも、特別なのはあるかな」

          アレから三ヶ月、―――は青学レギュラー陣の前でだけ京一と話すような言葉を使う

          ようになった。

          誕生日のあの日、突然女性の姿に戻り彼らに正体がバレてしまった。
 
          最も、九ヶ月前から彼女の夢を見続けている時点で確固たる証拠がないだけで気づいて

          いたようだが。

          「でも、おかしいですね。さんがこんな調子になったのは今月からですよ」

          「河村君」

          先程コートで桃城と打ち合いをしていた少年が二人の間に割って入った。

          お疲れ、と彼にタオルを手渡され、まるで大雨にでも遭ったかのような顔中を滴り

          落ちる汗を拭く。

          試合の結果はコート上で飛び跳ねている一人の少年を見れば分かる。

          「ナイスゲームだったね」

          「ははっ……カッコ悪い所を見せちゃいましたね」

          「そんなことないよ。潔く自分の負けを認めて相手に笑っておめでとうなんて言えるのは

           凄いことだよ」

          上気した頬のまま自分を見上げる彼にそうかな、と照れ笑いする。

          「そうだよ。テニスも上手だしその上お寿司を握れる中学生なんて滅多にいないし、

           私、河村君の作ってくれるお寿司好きだよ」

          「えっ、好きって…」

          その単語を素で受け取った所為だろう、彼の顔は見る間のうちに顔中を火照らせた。

          ラケットを持つと強気な性格に豹変してしまう河村隆の本性は、
こうも純粋な性格だとは

          世の中なかなか面白いものである。

          そのあまりに素直すぎる表情にこちらも発してしまった言の葉の重大
さに気づいて

          胸の鼓動をヒートアップさせる。

          まったくこの少年達と行動を共にすると、寿命が何年か縮むんじゃないかと

          真剣に思えてくる。

          「え…っと、俺、まだまだ修行中の身だけど、そう言ってもらえると嬉しいです」

          「本当のことだもん、そのまま受け入れてくれていいのよ?」

          まだ頬に朱を帯びた彼に微笑み返したつもりなのに、苦しい胸の高鳴りに何だか照れ笑い

          のような形になってしまった。

          それを見ていた長身の黒い影は面白くなさそうな顔をして薄い唇を
結んだままこちらを

          睨んでいる。

          いや…厚いレンズ越しだから分からないが、きっと自分は見つめられているのだろう。

          半年前、あの曰く付きの樹の下で目を覚ますと、レギュラー陣達が回りを取り

          囲んでいた。

          そして……

          『そして、全員その人に心を奪われている』

          あの時、彼の唇からその言葉を聞かされた時には正直言って驚かされた。

          乾貞治――― この人物は手塚や不二に続いて感情を掴む事が難易なタイプだ。

          まぁ、それは性格故の問題なのかもしれないが…。

          この口数の少ない上に分かりにくい喜怒哀楽の持ち主の一人である彼が
大人の男性

          顔負けな甘い声を発するなんて微塵にも想像していなかった。

          「……俺の顔に何か付いていますか?」

          「なっ、何でもない!」

          その冷静な声に何の恥じらいもなく、じっと乾の分厚いレンズを見ていたことに気づき

          慌てて視線を逸らす。

          眼鏡の向こうで瞳が笑ってそうでどういう顔をしたら良いか分からなくてごまかすように

          空を仰ぐ。

          季節は秋。

          部活開始の前に必ずテニスコートに舞い降りた様々な落ち葉をちりとりの中に集めて

          強制移動をさせる。

          その中でもやっぱり目立ってしまうのは、一種類の樹のものだった。

          部活中にも悪戯な風が何処からともなく運んできて小さなメッセージがの足に絡みつく。

          そよぐ方向に向かって葉音を忙しく立てるのを親指と人差し指で持ち上げ、ため息

          を吐く。

          紅と茶が背合わせしている桜の葉。

          新しい旋律を奏で出した運命を知り始めたのは半年前の今日だった。

          青学の伝説になっている桜の樹はアレから何も語ろうとはしてくれない。

          もしかしたら、彼に危険が迫っていることを知らせたいがために重い口を解き放って

          くれたのかもしれない。

          真実はどうであれ、それは嬉しいことでもあるし感謝しなくてはならない。

          自分なんかのために誰かが考え行動に移してくれた。

          それだけで胸にじんわりとした温かさが灯された気になる。

          「……桜の葉……ですか」

          風に靡く前髪を気にしないでそれを見つめていると、隣にいた乾が眼鏡を逆光させ

          ながらの指先で揺れる落ち葉を覗き込んだ。

          「お兄さんの体調はいかがですか?」

          不意に京一のことを振られて何だか肩透かしを食らったような気分になる。

          八歳も年下の子にドキドキしている自分がバカみたいで思わず唇を突き出してしまい

          そうになる。

          が、やめて三ヶ月前のように微笑みの中に本性を隠した。

          そんな行動は彼らよりも幼すぎる子どもがやることであって、大人である自分が堂々と

          遣って退けることの方がバカバカしくって逆に厭きられて
しまいそうでイヤだった。

          まるで、冷たい病院の廊下で突き放された時のようで。

          「うん、お蔭様ですっかり元気になったよ。今日なんかコーヒーを片手に仕事して

           いたよ」

          同意を求めるように肩でため息を吐いてみたのに、乾は表情を変えないまま黙って

          しまった。

          「どうしたの?乾」

          その声で振り向けばいつの間にか残りのレギュラー陣が集まってこちらを見ている。

          手塚の隣にいた不二が顎に手を当て考え込むような仕草をした彼に尋ねる。

          その表情はまるでその原因には自分も気づいているとでも言いたそうだ。

          今から九ヶ月前に起こしてしまったファンタジーは明らかに自分勝手な非難妄想が生んだ

          のに、それにも拘らずこの少年達は親身になって考えてくれる。

          それがどうしてかなんて今更過ぎて恥ずかしさに襲われる。

          思わず胸の前で腕を組んでまるで自分を抱きしめるかのように腕を掴む。

          華奢な体とは言え、仮にも男性の体であるため掌にはほど良く筋肉質が伝わってきた。

          三ヶ月前の誕生日、都大会緒戦のあの日、は本来の姿である に戻った。

          しかし、それは一夜限りに終わった。

          これが運命なのだろう。

          悪魔と契約など交わしてしまったあの瞬間から覚悟はしていた。

          翌朝、ベッドから飛び起きて鏡を見てみるとやはり彼女から彼の姿に
戻っていて悲しい

          ような安心したような複雑な気分を味わった。

          だが、そんなに落ち込んではいられないと着慣れたフリルのたっぷり
着いたエプロンに

          腕を通して部屋の扉を開けた。

          自分がこんなンじゃいけない。

          双子の兄である京一はまだ、独りで歩くことすらできないのだ。

          一度決めたことはどんなことでもやり通す。

          それはの頃から決めている真実であり、美学だった。

          それに最初から彼には迷いなどない。

          これで命を落としたとしてもそれが本望だと思うし、逆にその方がこの世の中に対しての

          条理だ。

          ほとんどは悪魔の力だが、このままが存在し続ければどんな新手が
姿を現すか分かった

          ものではない。

          だから、このまま役目を真っ当して……と思っていたのに、この十代
の少年達はどうして

          こんなにも決意を鈍らせてしまうのだろうか。

          「逢いたかった」

          三ヶ月前の誕生日、女性の姿に戻ったまま九人の初恋と現に出会ったあの日、

          「かわむらすし」のカウンターで不二と菊丸に聞かされた囁きと手を重なれた感触が

          まだ耳に手の甲に残っている。

          彼らが出会ってからずっと見続けていると言う夢は、 とて同じだった。

          とは言っても、こちらは伸ばされた手と誰かが自分の名を叫んでいるもの。

          それはあの桜の樹が言っていた「最期の審判」と関係がある。

          神々しい光に包まれる瞬間、その掌を握ろうとするところで目を覚ましてしまう。

          アレから九ヶ月、その正体は依然として不明である。

          「おかしいと思わないか。不二」

          「やっぱり、君も気づいていたんだね」

          「二人ともどうしたの?」

          意味深に顔を潜める少年達を交互に覗き見る。

          自分のことなのに、誰かを巻き込むことなんて彼にはできない。

          それも、好意を持っている相手なら尚更だ。

          「さんはお兄さんを助ける賭けに乗った。しかし、そのお兄さんは契約の期限

           以内に回復してしまった」

          「それなのに、今月に入ってからのさんは体調が思わしくない。……まるで、

           
誰かに生気を吸い取られているかのように…」

          乾の言葉を続けた不二の言葉に思わず寒気が走る。

          「不二ぃ、そんな怖いことを言わなくてもいいじゃんか!」

          「そうっすよ。大体、先輩達考えすぎっすよ」

          二人の発した言葉に菊丸と桃城が異議を唱える。

          「……乾先輩」

          「どうした?海堂」

          緑から茶に衣替えならぬバンダナ替えをした少年が自分よりも背の高い彼を見上げる。

          乾もその声に気づいてレンズ越しに視線を合わせた。

          「仮に先輩達が考えてることが本当だとしたら、どうなるんすか?」

          「おいっ、マムシ!仮にもって何だ!?」

          「うるせぇ!てめぇは黙ってろ」

          「何だ、その態度はっ!」

          「よせよ、桃。本人の前で」

          すっかり頭に血が上った彼を大石がその間に入る。

          あ、と言って黙れば唇を噛んでやり場のない怒りを抑えようとしている。

          こうなることは事前に理解した上で契約を取り交わしたはずだった。

          元々、自分のことなど気にしてくれるのは命を別けた京一くらいだと思っていた。

          しかし、は出会ってしまった。

          この世界に何も影響を及ぼさない自分を好きだと言う少年達に。

          それにつまずいたまま天に手をかざしたまま動けないでいる。

          空気を握り締めた感触は心に切なさと新たな寂しさを呼ぶ。

          ずっと見続けている夢と彼らが重なりそうで重ならないもどかしさ、と呼ぶ

          声が聞こえそうで聞こえないじれったさが彼に劣等感を抱かせた。

          「とにかく、部活終わりにしますか?もう、時間だし」

          沈黙が数秒間流れると、それまで黙っていた越前が大きすぎる目で辺りを見回しながら

          口を開いた。

          それに我に返ってみれば、確かに終了時間の18時を指している長針は少しズレ

          始めている。

          秒針が次の刻を知らせる前に少年達はまるで蜘蛛の子のようにコート中に飛び散った。

          彼と同じ身長の小柄な少年は冷静なのか他人事なのか隣でやれやれ、と呆れてそれを

          眺めていた。

          空は遥か西の最奥に夕焼けを追いやり、代わりに地上を覆ったのは本来の闇であった。

          たくさんの羊雲にくるまれた日差しはいつしか完全に消え失せてしまうと、頼り
ない

          街灯だけが彼の姿を映し出す。

          まだ中学生の彼らとは違って自宅からジャージのままで青学に来たは、


          いつもここでレギュラー陣を待つのが日課になっていた。

          三ヶ月前のあの日が来るまでは保護者として彼らと途中まで帰ることがあったが、

          
まさかそれが逆に送られる側になるとは思いもしなかった。

          「ねぇ、桜の樹さん。私、女の子って思われてるのかな?」

          年代物の幹に手を重ねる。

          凸凹とした感触が闇に紛れると何とも言いがたい感情がこみ上げてくる。

          「……」

          やはり、返事は返っては来ない。

          半分ため息を吐きながら半分安心している自分がいて、心の中で臆病者めと活を入れた。

          こんな時、この歳まで生きていてもやはり怖いものはあるのだと実感させられる。

          はぁ、ともう一つため息を吐いてから半年前のように空を仰ぐように見上げる。

          そこには桜の花があるわけではなく、街灯の光で微かに分かる葉の色の間からむき
出しに

          なった枝を所々見え隠れしていた。

          「ねぇ、あなたなら誰か判りますか?」


          バサバサッ!!

          「えっ?」

          ざらついた肌に掌を置いたままそう尋ねた時だった。

          先程が見上げていた樹の枝の方から鳥が羽ばたいたような音がした。

          だが、暗闇に慣れた目を凝らしても仄かな光に映し出されていない場所には勿論の

          こと一羽もいなかった。

          不意に空を見上げれば、何かがこちらを目掛けて舞い降りてくるのが見える。

          「?」

          首を傾げて眺める。

          鳥ならばこんな時間に飛び交うはずがない。

          夜行性ならば理解できない訳でもないが、ここは都会。

          そんな種族が人間の関知しない所で密かに生存しているとは考えにくい。

          思わず桜の樹から掌を外すと、学園演劇のヒロインを演じているかのようにそれは優雅に

          舞い降る。

          両の手を天に向ければ、宙を舞っていた羽根が重さもなくその身を預ける。

          いや、羽根と思おうとしていた。

          「っ!?桜の花びら!」

          夜風の影響でほの暗い街灯の下にも舞い広がったそれの正体が露になる。

          それは、この日本では長くても初夏まで咲くことを許されていない小さな花の一片

          だった。

          しかも、その色は春に見せるものとは違っている。

          まるで、この夜の闇に染められたかのような花びらを掌の上に乗せていると、黒い涙の

          ように錯覚させる。

          「どうして桜の花びらがこんな…」

          掌に咲いた新種の花を凝視していると、意識が段々遠退きそうになって言葉が思う

          ように続かない。

          目元を人差し指で軽く拭ってみるが、やはりそれでは物足りなくて瞼が次第に重たく

          なってくる。

          こんな所では寝てはいけないとは十分承知のはずなのに体は言う事を利かず、逆に

          
桜の樹の下に腰を下ろすことを勧めているようにも思える。

          瞳を完全に下ろす直前、九人の少年達の顔が脳裏を過ぎった。

          もし、ここで寝てしまったとしても半年前のように起こしてくれるだろうか。

          それを想像しただけで、春のにおいと共に鼓動が甘い何かに縛り付けられる感覚が甦る。

          頭の奥で誰かに呼ばれている気がする。

          それはいつもの続きなのか、それとも別のものなのかなんて意識が次第に遠退いて

          いく彼には判らなかった。

          ただ、片手を天に掲げることしかできない。

          「っ!!」

          霞む理性の中、誰かがこちらに向かって走ってくるのが分かる。

          冷え切った空気を切り裂くような大声で名を呼ばれたのにも関わらず、 は瞼を閉じた。

          『ありがとう』

          泣いてる空。見上げる女性。

          だけど、その表情は今までのものとは違って笑っていた。

          『約束してくれる?』

          ストレートな髪を背中まで伸ばして白い袖なしのワンピースに身を包んだ女性が一人、

          小指だけをこちらに差し出す。

          『泣かないって約束してくれる?』

          それだけを言うと、空を見上げてまるで泣いている子どもでもあやすかのように微笑み

          掛け、すぅっと空気の中に溶けてしまった。

          しかし、その甲斐もなく、消えてしまった後も空は泣き続ける。

          まるで、彼女がいなくなってしまったことに悲しんでいるかのように…。


          「……」

          眠い。

          いや、瞼が開こうとせずそれに追い討ちをかけるように睡魔が記憶を混濁させている。

          先程まで自分が何をしていたのか思い出せない。

          ただ、誰かを待っていたような気がする。

          体はベッドの中にでもいるような柔らかさと温かさに包まれている。

          それが余計、妨げになる睡魔を本能が呼び寄せてしまう。

          「っ!!」

          夢の中で誰かに呼ばれた。

          だけど、それが何者かなのかいくつもの偽りに邪魔をされてしまって正確なものは

          何一つ得られない。

          唯一、手放せずにいたのは、自分がと言う存在だと言うことぐらいだ。

          家族は、双子の兄と両親の四人家族。

          自分は何か重たい気持ちを抱えていたような気がしたが、もう何のことなのか

          解らなくなっている。

          薄絹に隠れた記憶では、と言う存在を愛してくれた誰かはいたのだろうか。

          眉間にシワを寄せて寝返りを打ってはみるが、大した答えが見つかるわけではない。

          きっと、記憶喪失の人と言うのはこんなじれったさを覚えているのではないか、


          他人事のようなことを考えていた。

          (…まぁ…いっか)

          それは、彼女にとって忘却の呪文のようなものだった。

          自分を一秒でも心に留める者などいないと信じているから。

          閉ざされた瞳に何かがリセットされていると気づいても解除しようとはしない。

          そんなことをしてしまえば、今、抱かれている温かさから接がされるようで怖い。

          このまま自分を放っといてほしい。

          そうすれば、誰とも会わず何にも傷つかずに済むから。

          「…本当にそれで良いのか、?」

          「んぅ……」

          瞼の奥からではなく、頭上から声が聞こえてくる。

          それは、漆黒の簾の中にいるものとは違ってかなり年配な男性のものだった。

          低く、忘れたくても忘れられない存在。

          「……お父…さ……ん?」

          睡魔に負けながらも瞼を何とか上げると、そこにはいつか見た両親の姿がこちらを

          見ていた。
 
          彼の横にいる母親はその時とは違って涙ぐんでいる。

          「負けちゃダメよ、!」

          涙の雫が彼女の動きに合わせてキレイに弾かれ、空気の中に解けた。

          いつ見た二人なのだろうか、なかなか思い出せない。

          けど、それは今から随分昔のことで自分は彼らのことを許していないし、恨んでいた。

          それではここにいるのは幻が見せた俤だろうか。

          「な…かない…でよ」

          途切れ途切れに発する声は自分から聞いてもとても弱々しい。

          それでいて拒絶の意思を表しても何の効力も威力にもならなくて、ただ哀愁を誘う

          だけだった。

          夫に肩を抱かれると、それにつられて胸の中で泣き出してしまう。

          自分が悲しませている?

          昔、これに似た情景を見た気がする。

          当時のは今を憧れていたし……父の腕の中で泣きじゃくる母のように目を幾日も

          赤く腫らしていた。

          しかし、何故、自分はそんなに悲しんでいたのだろうか。

          何かを思い出そうとすれば、睡魔がより深く襲ってきて瞳を開いているのが次第に

          イヤになってきた。

          (…そうだ、寝なくてはいけないんだ)

          頭の中で誰かがどこかで彼女を呼んでいる。

          その声をもっと聞きたくて意識を遠退かせようとさせている。

          「逝くな、!」

          「しっかりして!あなたは強い子のはずでしょ!!」

          緊張感が最高潮に登りつめた声が耳に聞こえる。

          だが、そんな主とはとっくに繋がってはいなかった。

          失くした記憶の残り香だろうか、本能的に彼らを愛してはいないことが分かる。

          愛情と言うよりは愛憎と言った方がしっくりした。

          手に入れたくて……でも、届かなくて悔しくて……そんな感じが のささやかな胸を

          締め付けている。

          それは無意識に自分が思い出そうとしていることを示している。

          (もう、終わらせよう。…………こんなこと)

          誰かが自分を呼んでいるからではなく、現から逃れたいだけなのかもしれない。

          しかし、それで本当に良いのだろうか?

          眠りが深くなるたびに両親の声は届かなくなったが、それとは違ってふと、そんなことが

          脳裏を過ぎった。

          それは、唯一、心を許している双子の兄ではない自分自身の声。

          きっと、この強烈とも言える睡魔が追い出した記憶である本来の姿だろう。

          と言うことは、この何処まで落ちるか定かではない眠りを望んではいないという

          ことになる。

          「…ちっ」

          頭の奥で誰かが軽く舌打ちをしたのが分かる。

          それは先程から自分を呼ぶ主だろう。

          きっと完全に消滅したと思った記憶の欠片に気づいてしまったのだろう。

          この声が今のを揺さぶるのはそう時間も掛からずにデリートされてしまう。

          (ねぇ、私!教えて、私は京兄以外に愛されていたのっ!!)

          その声のする方向に眠たい目を向ける。

          ぼやけているが、暗闇にただ一人、ぽつんと立つ自分を抱きしめるようにそう叫ぶ。

          いつも夢路に旅立つ前に通る道、そこには誰もいなくて温度も存在しない。

          それなのに、歩みを進めるたびに怖くて駆けていった。

          その姿は誰かが見ていたらきっと子どもに戻っているのかもしれない。

          何にでもびくびくとして京一以外に触れる事から逃げていた。

          それは、両親のように見捨てられるのが怖かった。

          何かが破裂した音が暗闇の世界を白く輝かす。

          眠気は記憶が甦るのと同時に、目も眩む光によって掻き消された。

          耳鳴りのような悪魔の囁きも、先程まで目の前にいた両親の姿もない。

          思い切り瞼を強く閉じたが、それは瞬間的なもので辺りを確かめてから瞳を開け


          彼女には何が起こったのかしばらく理解に苦しんでいた。

          あの二人は彼が作り出した幻だったのだろうか。

          しっかりとした口調で娘の名を呼ぶ父と泣きじゃくる母。

          その姿は忘れたくても忘れられない京一が入退院を繰り返す破目になった事件が
あった

          日に焼き付けられた。

          何本の管に繋がれて息も絶え絶えに苦しそうな双子の兄を見守る二人。

          その姿にどう言ったらこの輪の中に戻れるか考えている時に彼女から発せられた
言葉が

          今でもを暗く閉ざしていた。

          『何でよ!?どうしてはあんなに元気なのに京一はっ!』

          正直言えば今もその言葉に囚われたままだけれども、このままこの場に留まっていること

          はできない。

          現実に……元いたあの場所に帰ろう。

          「っ!!」

          あの声の主の元へ。

          「ふふっ……きっと、驚くかな?」

          誰が見ているわけでもないのに、顔を赤らめ自然とこみ上げた笑いに口元を覆った。

          自分とは五歳も離れている彼にこんなにも溺れているなんて悔しくて名を呼ぶこと

          が少し躊躇われた。

          だが、ここにずっといるわけにはいかない。

          『すべては最後の審判に委ねられる。その時、本当に一人だけ守りたい者を選べ……』

          あの少年を守りたい。

          きっと、今頃、自分のことを思っていることだろう。

          (私が好きなのは…)

          そこまで心の中で思うと、すぅと息を吸い込み、真っ白で何もない天を仰ぎ微笑んだ。

          「手塚君っ!」

          そう叫ぶと共に背中に白銀の翼が生え、独りでに羽ばたき出す。

          もう、驚きはしない。

          目指すのはあの人の腕の中、憧れていた父と母のように力いっぱい抱きしめて欲しい。

          スカートの裾が気になるなんて言っていられない。

          もし、生まれてしまったことが罪ならば彼と出会ってしまったことは運命なのだろう。

          ずっと大人びたふりをして隠し続けた愛しさがうまく伝えられる自信はない。

          しかし、このまま答えを出さないままだなんて明朝死刑宣告されることよりきっと、

          ずっと辛いはずだ。

          手塚はこんな自分勝手な告白を受けてしまったら呆れてしまうかもしれない。
   
          それでも彼にこの想いを聞いて欲しい。

          『京一とはこの羽根のようなものだ。パパやママから生れ落ちたけれど、

           こうして何枚も集めれば守るべき人を温められる。お前達にはそうなって欲しいんだ』


          やっと、思い出せた真実。

          「お父さん…」

          瞳からこぼれ出す涙が頬を伝う。

          当時はあまりにも小さかった所為で意味が解らなかった。

          きっと、この羽は両親からのせめてもの餞別のつもりだろう。

          守るべき人を包むために・・・。

          「ありがとう……。パパ……ママ…」

          指の腹で目元を拭き取り、天上に向かって片手を伸ばした。

          「あっ、いっけない!京兄、ちゃんとご飯食べておいてね」

          十月二十三日、今日はあいにくの雨で洗濯物が干せない。

          仕方なく部屋干しを決め込むと、時計と目が合って小さく叫んだ。

          今日は、この雨の中墓地で逢引をすることになっている。

          このデート内容を決めた側としては遅刻をするわけにもいかなく、玄関先で靴の
踵を

          鳴らしながら緑色の傘を片手に歩き慣れた道を駆けて行った。

          あの日、伸ばした掌を包んだ大きな手はその勢いで彼女を引き寄せた。

          「っ!」

          目の前には滅多に表情を変えない彼が満面に笑みを浮かべて抱きしめてくれた。

          黒い桜の花びらが彼女の上に舞い降りると、そのまま半年前の時のようにその場で

          眠ってしまったらしい。

          その顔は凍りついたかのように微動もせず安心したかのように微笑んでいた。

          それは、三ヶ月前の夜に見たあの奇妙な夢と全く同じであった。

          の寝顔に時々不安になり時々恋をしながらずっと抱きしめた手塚の体温をベッドの
ように

          感じていたのかと思うと、今でも思考回路がショートするくらい恥ずかしい。

          その後判明したことだが、たちの両親はとっくに亡くなっていた。

          京一があの事件後入院してしまった日から数日後に交通事故だった。

          このことは兄にしか教えられなく、葬儀は遺族が幼い為、親類と一部の関係者で厳かに

          行われた。

          親族内では自殺だったんじゃないかと今も思われているようだが、当時担当した

          
刑事から聞かされたのはそんなありふれた死因だった。

          「もしかしたら、お父さんとお母さんはさんを守りたかったのではないですか」

          「えっ」

          墓前で合掌した後、それまで黙っていた彼が急にそんなことを言ってきた。

          「本当はずっと前からお兄さんの病に臥しているのはあなたの所為ではないと知って

           
いた。なのに、あまりの悲しみと混乱の視線でさんにあたってしまった」

          「俺はそう考えています」

          足がいやに重い。

          その言葉が頭を渦巻いて手を引かれていなければどこかで電柱にぶつかっていたの

          かもしれない。

          緑のギンガムチェックをラフに着崩した手塚に連れられた場所はあの中央公園だった。

          木々は既に秋の絨毯と化した葉を舞い降らし終わらせ、次の季節への支度を整えている。

          しばらく歩いた先にはあの既にアンティークに近い木製のベンチがある。

          上に何枚か落ちた葉を彼が手で振り払い、彼女に座るよう促す。

          もう、ここは二人の指定席だった。

          「だ、だって、私はいらない子で……っ……捨てられて……」

          まだ何か言いたげなを宥めるような、諭すような瞳で凝視する。

          そんなことをされては何かを言いたくても頭の中が真っ白になってしまう。

          唇を噛んでその瞳を見つめ返すと、手塚は再び自らが見つけ出した真相を語り出した。

          彼らはあの事件後、不慮の事故で亡くなったが成仏出来ず毎年十月には神の
目を盗んで

          家へ帰ってきた。

          それが、が見た二人の正体である。

          昔から第六感に強かった為、通常の人間は見えるはずのないものが見えてしまう。

          二人は彼女がフリーターになったのを知り、悪魔と契約を交わした。

          きっと、息子を元気にする見返りに娘の命をやるとでも言ったのだろう。

          そして、契約は動き出した。

          しかし、今月になってそれは色を変えた。

          それが、が最初に見た両親だ。

          「もう、お父さん達を自由にしてくれないか。この十月が終わる前に」

          十月、それは東京では神無月とも呼ばれる。

          この月には日本中の神様は出雲に集まる、と言われている。

          「できるかな?」

          「できますよ、さんなら」

          「ふふっ、変なの。私達付き合っているのにまだ「 さん」って呼んでいるなんて」

          「では、何と?」

          雨の中ベンチに座った二人の他、誰もいない。

          自然と、深い視線に引き寄せられ、その声色は何処か悪戯っぽくて笑みが零れる
のを

          ぐっと堪え大人の女性を演じた。

          「…って呼んで?」

          「えぇ、あなたがそう望むなら」

          唇が重なり合う瞬間、寒い北風がすり抜けた。

          それは次第に帯びる熱を予告するようだった。



          ―――・・・終わり・・・―――



          ♯後書き♯

          はい、今年も何とか『Streke a vein』を編集し終わり、ほっとしております。

          さて、「ガラスのシンデレラ」も終章となりましたが、いかがだったでしょうか?

          三章までは事前にネタとして考えていたのですが、私としても初めて
の連載をなので、

          前号をupしてからなかなか眠れぬ夜を過ごしました。

          今作は手塚君の勝利(?)としましたが、残りの部員編で「夢書きに贈る101題」にて

          お届けする予定です「ガラスのシンデレラ」が終了しても応援を宜しくお願い致します。

          それでは、次号もどうぞご期待下さい。