またお逢いしましょう

      「んっ…………っ……んん〜…」


      ……頭が重い。

      社会に出てからもうすぐ五年になる体が無意識に起床時間を告げるが、12月も

      下旬を回った最近は日差しがカーテンの隙間から伸びても温かくはなく、フトンの

      中から身を起こすだけでも億劫になる。

      だが、そんなわがままは言っていられない。

      瞼には冷気のアイシャドウが覆い、朝に弱いに寒さと言う現実を突きつけて目覚めを

      促すが、今日は単なる寝起きの悪さだけではないようで、意識が浮上するほど

      ハッキリしてくる鈍い痛みに思わず眉を顰めた。



      (イタタタっ……そう言えば…………昨日、お酒飲んだっけ…)



      二日酔いなんてカッコ悪いなぁともう眠気もなくなった瞳を開けると、まだ夢を見て

      いるのかと瞬きを何回か繰り返してから上半身を起こして辺りを見回した。


      「…………どこ、ここ?」


      寝癖が付いたまま何度も左右を見回す彼女は端から見たら、寝ぼけているか危ない

      人物に思われることだろう。

      しかし、今はそんなことはどうでも良く、今自分が置かれている状況が上手く

      飲み込めなくて頭が違う意味で軋みだしてきているのがを余計に焦らせる。

      レースのカーテン、掛け時計、照明器具、卓上カレンダー……瞳の中に入ってくる

      どの家具にも見覚えはない。

      白い壁紙を基調とした部屋には、今まで自分が寝かされていたキングサイズのベッド

      の他に目立ったモノはなく、逆にこの部屋にぽつんと置かれてあることが

      妙に浮いて思えた。

      これは夢の続きなのか、半信半疑で両腕を上げて身なりに視線を落としたが、

      いかにも高級そうなガウンでも先日20%OFFで買った厚手のパジャマを着ている

      訳もなく、昨日着ていたスーツのままだった。

      もしも、ここが自室ならば酔いつぶれて寝てしまったことに後悔をして朝食も摂らず

      に身支度を済ませて会社に出かけようとするが、その前にここがどこか解らない。


      「おはようさん。ようやくお目覚めのようやな」


      「っ!?」


      フローリングの床にキャラメルブラウンのパンストを履いた両足を下ろそうと掛けて

      あった毛布ごと退けたその時、ナイロンの擦れる音に誘われたように現れた色素の薄い

      髪を窓から差し込む陽射しに照らされたスーツ姿の男性に思わず目を見開いた。






      12月25日。

      世間はクリスマスムードに流され、ただ街角を行き交うだけの人々も浮かれている

      ように見えるのは本心ではそれを羨んでいるからだろうか。

      駅から女性の足でも十分も掛からない場所にあるアジアンテイストの居酒屋は、

      この季節の所為もあって何人かで飲みに来ているようでオーダーするにもそれが

      届くにも時間が掛かった。


      「……っとと…………ジントニック一つお願いしま〜す」


      ようやく四杯目をオーダーしたのは、予想通り混雑していたトイレから戻ってきた

      ちょうど、手ぶらでどこかに行こうとしていた自分より少し年上くらいの女性店員を

      捕まえた頃だった。

      わざわざ温めたカウンターのイスから立ち上がり、何十分も並んで灼けた胃から

      ダイレクトに思いを吐き出すのは、もう何度目だろう。

      成人式を迎えてから何年も過ぎたが、やはり酒というモノは慣れない。

      だが、開店時間をぐるりと一周してから自動ドアを潜ったのは、まだ酔いで失せない

      想いが胸で燻っている所為だ…。



      (不二先輩…)



      頭はくらくらするのに、その名と曇りガラスの向こうに見えたあの光景だけが瞼の裏に

      張り付いて侵食を貪るのも怖い。

      オープンしてからそう何年も経っていない店には、ありとあらゆるタバコの匂いが

      この居酒屋の匂いとなり、白い煙には嫌な顔をするのに何故か不思議と落ち着いた。

      だからだろうか、爛れた食道で息を吸い込む度にまだ自分は大丈夫だと背中を押されて

      いるような気になり、グラスを手にして気が遠退いた。

      …………だめだ、それから後の記憶がない。

      昼休み、独り休憩室でコインと引き替えに出てきた温かいカフェオレをハンカチで

      掴み、軽く振ってから親指の爪で弾くようにプルリングを開けて飲む。

      あの時とは違う熱が喉をすり抜けるが、先日から詰まっているモノは置いてきぼりに

      されたままだ。

      酔いつぶれた翌朝、目覚めた自分は如何にも豪華なベッドの上に寝かされていた。

      夢の続きか、最悪の場合、無意識のまま客の誰かに絡んでお持ち帰りされたかも

      しれない。

      しかし、服は乱れているどころか、あの居酒屋の匂いが染みついているだけだった。


      「白石部長!お疲れ様です」


      「あ、あぁ……お疲れさん」


      黄色い悲鳴にも似た声にワンテンポ遅れて答えたテノールに思わず弓形だった背筋が

      物差しを服の中に入れられたように撓り、手にしていた缶の中身が跳ねて指が濡れる。

      巻いていたハンカチで拭いてから休憩室の壁に足音を気にしながら近づき、姿勢を

      低くしてその声がする方を見る。

      休憩室を出た直ぐ右にあるエレベーターの前には、営業部のキャリア組の二人が

      一人背の高い男性を取り囲み、白々しい平静でヒールでは届かない彼の顔を見上げる

      が、当の本人は明らかに撓屈の笑みを浮かべている。

      白石蔵ノ介、彼女が入社する前に本社のある大阪から転勤してきた男性で、

      社内のどの部長よりも若いため女子社員達に一目置かれている存在だ。


      「今夜、私達と一緒に飲みに行きません?」


      「そうですよ、部長!行きましょうよ」


      「ご、ごめんな……明日、提出する書類を作成するんや」


      「そんなこと言って私達の誘いを断る口実じゃないですか?」


      「困ったなぁ……本当のことなんやけど…」


      そう言って白石が苦笑して頭を掻くのが何故かとても嫌で胸の奥が大きく波打ち、

      気がつけば既に冷めたカフェオレを飲み干して大の男の手首を掴んで階段を

      駆け上っていた。


      「おおきに」


      「はぁ、はぁ、はぁ…………いっ……いいえっ…」


      一気に12階分を駆け上ったは息絶え絶えに受け答えするにもやっとと言う状態なの

      に、同じく駆け上った彼は現金なモノで空に向かって大きく伸びをしている。

      まったく何でコイツを助けてしまったのだろう、そう後悔している彼女はどちらかと

      言えばこのタイプが苦手だ。

      仕事ができ、誰からも信頼され、その上ルックスまで用意されている。

      そんな神にも愛されているような人間が壁一枚を隔てた直ぐ傍にいることは

      とってなるべくお近づきになりたくない存在だ。

      それなのに、今の自分は明らかに白石のことを気にしている。

      それもこれも全て、クリスマスの夜の所為だ。

      先日、見慣れない部屋で目覚めた朝、今日は会社を休んだ方が良いといつまでも

      寝ぼけた顔で見ているとそれ以上何も言わないで車に乗せられ自宅の前で降ろされた。


      「自分、運動した方がええで」


      「放って置いて下さいっ!そう言う部長は何か学生時代やられていたんですか?」


      「あぁ、テニスを…な」


      また、空を仰ぐ目はどこか遠くを見ている気がして彼が囚われている時空を切り裂く

      ように口に出した声は、自分が聞いていても荒いことに驚いた。


      「ホントっ、良くモテますよね。私が邪魔しない方が良かったですね、すみません」


      「いや、自分には助けられたよ。ああ言う逆ナンしそうな子はどうも苦手でな。

       どっちかと言うと、さんの方がタイプなんや」


      「……そんなこと言ったら、あの人達に悪いですよ」


      「あ、今の無視しよったな。これでもマジなんやで、俺」


      そう言って笑う白石の顔には先刻見せた寂しさはなく、この時心のどこかでホッとして

      いることに彼女は少しも気づきもしなかった。

      それから何日も経たない28日、彼の転勤が終了し、本社のある大阪に戻ることが

      決まった。

      今年の春から社内では障りモノにでも触れるかの如く噂されていたことだったが、

      まさか12月も後三日と言う所でこんな知らせが舞い込んでくるとは誰一人も想像して

      いなかったのか、特に営業部はその事実だけで覇気を失い、先日白石に言い寄っていた

      キャリア組の一人がマスカラを気にせず目の赤く腫らしたのが今度は話題となった。



      (…………最悪)


      結局、あれから二日経った今も真相は藪の中のままだ。

      直接尋ねると言う選択もあるが営業部の彼とは違い、はコールセンターの一人だ。

      顧客の電話番号は知っているくせに肝心のアドレスを知らず、個人的に呼び出す

      こともできない。

      唯一、本人と接触できるとすれば、営業部のある階限定のホットごまミルク狙いで

      休憩室に行くことくらいだろうが先日とは違い、この時間帯になっても外回りから

      戻ってくる様子はなく、仕方なく女子更衣室に入った直後だった。

      化粧ポーチと一緒に持ち歩いていた携帯が空気を察しない伸びやかな着メロを鳴らし、

      設定時間よりも早く打ち切って画面を開いた彼女は首を何度も傾げて同じ箇所ばかりを

      見る。

      の額のサイズよりも小さい携帯の画面に表示されたメールアドレスは、家族や同僚など

      数千人のモノと照らし合わせてもどれとも一致しない。

      悪戯メールかもしれない、もし件名が表示されていなかったら躊躇わず削除しよう。

      親指で決定ボタンを押した彼女の目に映ったのは、今一番気にしている白石蔵ノ介

      らしき人物からのメールだった。

      心配して損をしたとか何で自分のアドレスを知っているなどといろんな思いが綯い交ぜ

      にパニックを起こし掛けた頭を強く振り、もう一度親指でボタンを押して本文を

      表示させる。


      件名:白石です

      本文:お疲れさん!ところで今夜、暇?一緒に夕飯喰わへん?返事待っとるわ。





      あれから六時間以上経った今、軽く蹌踉めけば本当に倒れてしまいそうなくらいの

      疲労感たっぷりな顔色で自宅のドアを開けた。

      仕事が立て込み、定時の18時を過ぎても書類のチェックなどで返信できなかった。

      きっと、白石は怒ったに違いない。

      仕事鞄を部屋の角に放り投げ、ベッドの上に身を投げて倒れ込むと、ほっとしたのか

      何だか目が霞むような気がした。

      故意ではないが、明らかに非は自分にある。

      もし、彼が怒って携帯に電話なりメールなりで連絡してきてもその事実は言い訳だ。

      それは誤解だと突っ込みたいもう一人の自分が健気すぎて、両腕を交差して自身を

      抱きしめるように目を瞑る。

      だが、瞼を下ろした所で眠気が直ぐにやってくるはずもない。

      その内、電気を付けていない真っ暗な部屋の中に昼休みと同じ着メロが響いて身体を

      大きく震わせた。



      何を期待しているんだろう?



      必ず相手が白石だと決まっている訳ではないと頭では解っているのに、心ではそう決め

      つけてしまっている臆病な自分が居る。

      手探りでベッドの横にあるスタンドランプの電源をオンにし、仕事鞄の中を乱暴に漁り

      まだバイブが残る携帯を手にして画面を開いた。

      表示されてあったのは、今日の昼休みと同じくメールだ。

      決定ボタンを押す親指が微かに触れているのはきっと、バイブだけの所為ではない。


      件名:白石です


      本文:またお逢いしましょう。


      その一言が表示された画面に一滴落ち、ようやく自分が泣いていることに気づいた頃に

      は決定ボタンを押した親指にもまた一滴落ちた。







      『……っ……ん……っんん……っ』


      腰が自分でも信じられないほど淫らな動きを描き、部屋に敷き詰められた香りに咽せる

      ように空気を求めて口を開くが、吐息ばかりを紡いで他のことはどうだって良くなる。

      そもそも自分が何を考えていたのか、今は何も思い出せない。

      貧血を起こした時よりも、また生理痛を起こした時よりも頭がくらくらして自分が

      置かれている状況を上手く飲み込めない。

      しかし、この名もない熱に愛しさともっと壊して欲しいと求めているのは、この感情に

      酔っているだけではないはずだ。


      『忘れろ、あんな奴のことなんて忘れるンや。俺はずっと自分のことを見とったで』


      汗ばむ股を掴んだ手がやがて首筋に伸びてきて耳の感触を一撫でしてからまるでキスを

      するみたいに唇を近づけられ、熱に浮かされていない声色に目が覚めた。


      「…………何て、初夢見てるんだろ……私って…」


      1月2日、一般的には今夜見た夢が初夢とされているが、人の価値観で定められ

      ているためどの日に見たのがそうだとは決められてはいない。

      正月に、それも誕生日の朝にそんな夢で目覚めるなんて欲求不満の証拠だろう、昨日

      何枚かの年賀状と一緒に届けられた地方にいる両親からの小包の中に貝殻の形をした

      縁結びの御守りが入っていたからその御利益かもしれない。

      だが、その相手が何故、大阪の実家で新年を迎えているだろう白石蔵ノ介なのだと

      先刻までのことを思い出しそうになってベッドから飛び起き、朝食を軽く済ませると

      身支度を整え、とりあえず散歩でもして気分を変えようと外に出た。

      毎年、この休みを利用して帰省をしていたが、家族には悪いが架空の理由を作って

      今年はその役を年賀状に譲った。

      こんな気持ちを抱えたまま実家に帰りたくはない。

      彼が自分の前から居なくなってから本当の気持ちに気づくなんて、一番嫌いな

      恋愛ドラマの落ちだ。

      学生の頃からこんな典型的過ぎる恋はごめんだと思っていたのに、いざなってみると

      自分もその莫迦の一員になってしまったと苦笑するしかない。

      エントランスホールをいつもと違う歩調で通り、自動ドアをくぐり抜けた彼女に

      一台の車が近づき、エンジンを吹かせたまま止まった。

      見覚えのない車体に道を聞かれるか新年早々ナンパに遭うのかと警戒している

      運転席側の窓が遠慮がちに開き、中から現れた顔に持っていた年末のバーゲンで衝動

      買いしたショルダーバックをアスファルトのごつごつとした地面に落として口元を

      両手で抑えた。


      「白石部長っ!なっ……何で?!」


      彼は去年、大阪に帰っているはずだ。

      何か忘れ物でもしたのだろうかと考え、そんなことをこの男がするはずはないと

      思い直す。

      第一、そんなドジをしていたらこの若さで、部長まで上り詰められないだろう。

      運転首席のドアが開き、白石が深紅の薔薇の花束を抱えて出てきた時にはまた泣きそう

      になって口を押さえたが、降り始めた雨は霙となって頬を濡らした。


      「『またお逢いしましょう』言うたやろ。…………迎えに来たで、


      今朝、夢に見たことは本当だった。

      失われたクリスマスの夜、入社してからずっと片思いしていた営業部の不二に彼女が

      居ることを知り、心配して気づかれないよう角で様子を窺っていた彼が連れて帰り、

      あまりにも悲しそうに泣く自分を慰めるつもりで抱いてしまった。

      そう言えば、今の今まであんなに好きだった彼のことを一切思い出さなかった。

      案外、アレが暗示になっていたのかもしれない。


      「誕生日おめでとうさん。今度は寝かせんからな」










      ―――…終わり…―――










      #後書き#

      「またお逢いしましょう」はどうだったでしょうか?

      初白石裏Dream小説を書かせて頂きましたが、微裏ですみません。(爆)

      こちらは私の友人である花凌さんの誕生日プレゼントとして作成しましたが、

      ……ごめんなさい。

      一日ずれてしまいました。(土下座)

      重ね重ねすみません!

      一日遅れてしまいましたが、お誕生日おめでとうございます!!

      こんな柊沢でも宜しかったら、今年も仲良くしてやって下さい。(深々)

      それでは、今年も花凌さんにとって幸せな一年でありますように。