記憶の中で〜Murder ?or ...〜


      村はずれの湖の岸辺に一人の青年が立っていた。

      その瞳はまるで、誰かを探しているかのように落ち着きが無い。

      「さんっ!いるんでしょ?出てきて下さいっ!!」

      彼は精一杯の大声を上げて目的の人物の名を呼んだが、それはむなしく木霊と

      なって返って来る。

      湖を囲む樹林からは不気味な声で鳴くカラスが数羽飛んでいた。

      だが、青年はそんなことは気にも留めないで岸辺を時計回りに走る。

      さすがと言うのか、日本でいう琵琶湖ほどの面積を占めていた。

      そん所そこらにいる並みの人間には、まず、完走することはできないだろう。

      だが、この青年は違った。

      彼はもともとは、猪悟能という人間だった。

      しかし、ある理由で千の妖怪の血を浴びてしまい、妖怪になってしまったのだ。

      だが、見た目は何ら普通の人間と変わらないため、生活には何の不自由もして

      いない。

      それもこれも連れの色っぽいけれど性格の悪い僧侶たちのお陰だったりする。

      とりあえず、軽く湖の回りを一周してみたが、獣一匹さえ見つけられなかった。

      ここに来る前、すぐそばの村で食堂を営んでいる無精ひげを伸ばした店主が、

      昔は様々な動物が生息していたと言っていたことを頭の片隅で思い出す。

      しかし、もう一度辺りをうかがってもおなじことで、段々霞がかってきた湖を

      何も考えずに眺めた。

      「花喃……」

      すると、彼が求めている人物の姿が思い出として蘇り、瞳を細めると誰かの

      名を呟く。

      それを口にすると、彼の瞳はすべての始まりを物語るように悲しみを浮かべた。

      それは、この青年猪八戒が最も愛した女性の名。

      だが、今はもう、この世にはいない。

      自ら命を絶ったのだ。

      呪われた身体とともに…。

      彼はあれからずっと、後悔し続けている。

      何故、彼女を止めなかったのか。

      その前に何故、花喃を守ってやれなかったのか。

      そんな弱い自分がどうなったって良かった。

      彼女が浚われたと聞いて怒りに任せて無抵抗な妖怪たちを惨殺した。

      だから、自身を無残に曝すことだって、容易にできたはずだった。

      だが、現実は青年を生かした。

      それが偽善臭い正論とも酷なことだとも言える。

      しかし、懸命に暴言を吐くロン毛の同居人と八戒の瞳を哀れでいる少年と目の前で
         
      他言を口にせず黙々と読経する無愛想な僧侶にその時、ほんの少しだけ

      救われた気がした。

      だからだろうか、今こうして彼らについて来ているのは……。

      いや、理由なんてどうだって良い。

      彼自身がそれを望んでいた。

      もしかしたら、世界を見たかったのかもしれない。

      それも、今と同様に何も考えず…。

      「誰かをお探しですか?」

      「っ!?」

      結局は、いろいろと考えてしまった八戒にしては珍しく無防備な背後から

      可愛らしい声が聞こえた。

      それに弾かれたように振り向くと、目的の人物が背の高い青年を見上げている。

      その瞳は黄昏を宿し、いつかの誰かとダブった。


 

      「なぁ、八戒。次の村、まだぁ?俺、腹減ったぁ〜」

      「またかよ。……てか、俺も腹減ったなぁ」

      そんな声が後ろの席から聞こえてくる前から前の席にいる人物達も同じ気持ち

      だった。

      先日までいた村は、魔性の村だった。

      人々の弱くも忘れてはいけない過去を抜き取り、永遠の楽園を守る女妖怪睡歌。

      しかし、それは楽園ではなかった。

      抜け殻になった人間は既に、亡霊で、彼女一人のために存在している村だった。

      数日前彼も同じ狢だった。

      だが、命の恩人でもある少年にまたもや救われ、今、次の村に向かっている

      ところである。

      彼らの中では前までいた村の話しなど一切しない。

      それは、未練を指すからだろうか、ささやかなネタと言えば「西」であった。

      彼らが長い旅をする理由。

      それは、天竺に行くことでもあり、牛魔王の蘇生実験を阻止することでもある。

      「あはは。もう、少しだけ待って下さいね。次の村に着くはずですから」

      「八戒、さっきからそればっか〜」

      にこやかに笑う保父さんに少年は頬を膨らませて睨んだ。

      「うっせぇ。黙らんと殺すぞ」

      彼の隣に座る男性は新聞を広げたまま短銃の先を後部座席へと向けた。

      それは何の修行をしたのか正確に二人の間を捉えている。

      「おやおや、ダメですよ。三蔵」

      「そぉーだよ!そんなことしたら…」

      「白竜が血だらけになっちゃうでしょう?」

      「……」

      その声に乗組員の誰もが、言葉を失ったことはいうまでもない。

      普段は温厚で笑顔の好青年だが、意外と毒舌であったりする。

      だから今のような笑えないブラックジョークともフォローしきれないことを

      平気に口にするのだった。

      それから何分かした頃だったか、車内もめっきり静まり返りエンジン音だけが

      妙に響き、抗議に疲れたらしく後部座席からは幼い寝息が聞こえてくる。

      それに口元で笑いながら安全運転を心掛ける八戒の耳に別のものが聞こえてきた。

      「?」

      「どうした?」

      隣人の異変に今まで無口だった僧侶がいち早く察した。

      「いえ……歌が…」

      「げっ!?また、妖怪かよ!」

      「落ち着いて下さいよ。僕の聞き間違いかもしれませんし。それにそんな大声

       出しちゃうと、悟空が起きちゃいますよ」

      「何、のんきなことを貫かしてやがるっ!お前もあの妖怪には危うくゾンビ

       の仲間入りさせられるところだったじゃねーかよ!!」

      彼の矛先が違うことに話しの腰が折れたらしく、赤いロン毛の青年は噛み付く

      ような形相で八戒の両肩を強く揺すった。

      「あぁっ!?危ないからやめて下さいよ!三蔵たちは聞こえますか?」

      そう言って話しかけた二人は、一瞬、耳を済ませてはみるが、示し合わせたように

      首を横に振った。

      「……いいや」

      「何も聞こえないぜ?疲れているんじゃないか?ずっと運転しっぱなしだし」

      「そうですか。いえ、僕は大丈夫です。悟浄こそ疲れているんじゃないですか?

       僕なら、後で村に着いたら休みますから」

      「そうかぁ?そんじゃ、遠慮なくお寝んねしましょうかね?くぅらぁ!バカ猿、

       邪魔だっつぅの!!」

      いつもと変わらぬさわやかな青年の声に、彼は豪快な姿で熟睡している少年を

      元の位置に押しやり、陣地を確保して席に戻る。

      しかし、そうは言ったが、内心あの歌が気になっていた。

      一時、彼の耳を掠めたそれはどこまでも悲しみを満ちたものだった。

      歌詞自体は軽やかなものであるが、問題はその歌い主である。

      掠れたような声だったから八戒以外、誰も耳にすることはできなかったのだろう。

      「っ!?」

      ふと、その歌が聞こえてきた方に目を向けると、体中から身震いが起きて思わず

      ブレーキを強く踏んでしまった。

      四人が乗った深緑色のジープは、きゅ!と言う悲鳴に似た高い音を出したかと

      思えば、後部座席で寝転んでいた者たちをシートから叩き落す。

      「っ!バカ野郎っ!!そんなにあの世に逝きてぇのか」

      胸の辺りで腕を組んでいた三蔵は、激しいエンジン音が止むと、急ブレーキで

      舞い上がった砂埃で視界を遮られたままで隣人を一瞥する。

      だが、既にそこは、何ミリかのそれが代わりに位置しているだけだった。

      車体が激しく停止する寸前に勢いよく飛び出した八戒は、先程垣間見た方に

      走り出していた。

      そんなことを思っても速度は次第に速くなり、その人物を強く求める。

      「花喃っ!」

      しかし、既にいるはずも無い者が答えてくれるわけは無い。

      だが、宛てもなくその名を呼ぶ彼は、その現実を見てはいない。

      八戒は、百眼魔王の一族に連れ去られた彼女を救い出すため千の妖怪を倒し、

      その血を浴びたことで妖怪となった。

      肝心の花喃は、既に新しい命を宿しており、それを恥じた彼女は自ら死を選んだ。

      だが、先程彼が目にしたものは信じられないものだった。

      それは、まだ八戒が人間として生きていた時代のままの花喃がいたのだ。

      彼が今走っている森の中で…。

      地面は最近雨が降ったのかぐっしょり濡れていてうまく足を運ぶことが

      できなかった。

      まるで、八戒を彼女に近づくことを拒んでいるようだ。

      「花喃っ!僕ですよ?猪悟能ですっ!!」

      だが、そう叫んでみてもやはり返事が返ってくるはずはなかった。

      パァァ……ンッ!!!

      「っ!?」

      彼女の代わりに応えたそれは、風を瞬時に切り裂く勢いで高い音を上げた。

      それは彼を再び現実に戻す威力があった。

      「…お前は猪悟能ではない。猪八戒だ」

      その低い声に振り返れば、小銃を片手に構えた三蔵が立っていた。

      その傍らにはあの時と同様に、こちらに今にも飛び掛ってきそうな二つの

      影があった。

      一つは、今にも肩を大きく揺らされそうな長身の男性そして、もう一つは

      こちらを心配そうに見ている少年。

      あの時と同じ光景に深く頭を垂れ、次に持ち上げた時には、いつもの青年だった。

      「すいません。ちょっと、寄り道をしちゃいました」

 


      それから数分後、以前のものと比べては小さいが、村に辿り着いた。

      彼はあれから何事も無かったかのように振る舞っているが、実際のところ

      二つの思いが心の中で葛藤を繰り広げている。

      あれは本当に花喃ではなかったのか。

      しかし、現に、彼女は彼の目の前で自害した。

      それなのに、この世にいるはずも無い女性が何故、八戒に見えたのか。

      勿論、あれから彼女のことを忘れたことはない。

      だが、花喃の姿を見た途端に、何か血生臭いものを自分の中から抉られた

      気がしたことは確かである。

      今回の村は、入ったすぐ左に宿屋が一軒ポツリと立っていたため探さずに済んだ。

      小さい村の所為か、一階は酒場と食堂が兼用になったロビー、二階はありがたい

      ことに小部屋が四つほどあった。

      「やっほー!今日は、野郎の顔を拝んで眠らなくて済むぜ!!」

      「それはこっちの台詞だっ!」

      階段を上りきったところで悟浄は声を上げ、それを目障りに思った三蔵は

      銃口を彼に向けて発砲しようとしている。

      「なぁなぁ、それより飯喰いに行こう!」

      先程二度寝から起きた悟空は、無邪気なもので何度も同じことを口にしていた。

      それを笑いながら見つめる八戒は、もう、あのことは忘れようと思った。

      長い葛藤の末、あれは彼の抱いている想いが一瞬見せた幻という結論が出た。

      彼女を想っている気持ちが色あせてしまったら一体、誰が花喃のことを

      思い出すものがいるだろうか。

      今では、八戒しか知らない二人の思い出。

      もしかしたら、たまには、最期ではない自分のことも思い出して欲しかった

      のではないだろうか。

      (解ったよ……花喃。もっと、君と過ごした時間はいろんなことがあったからね)

      そんなことを思いながら、部屋の窓を開け放つ。

      かすかに季節を感じさせる風が吹いてきて思わず微笑む彼は、淋しそうにも

      今は遠い何かを愛おしむようにも見えた。

      「なぁなぁ、八戒!早く、飯行こう!!」

      食堂は彼らだけで、こちらには何皿かの頼んだ品を持った宿主が歩み寄ってきた。

      「ずいぶんと静かだな」

      春巻を小皿に置いた三蔵は彼を見ずに言った。

      「はい……ここは小さい村ですからあまり旅の方は立ち寄らないのですよ」

      「では、僕らが今日初めて来たお客と言うわけですか?」

      「はい…お恥ずかしいながらその通りです。これでも四年前までは

       この小さな村でも活気付いていたことがあったんです」

      そう言って彼はお盆を胸に当て、深い息を吐いた。

      室内には軽快な食器の音が響いている。

      「あの、ご主人。それはどういうことなのでしょうか?」

      「この村にはという娘がおり、歌がとてもうまくウチで歌手をしていたん

       です。これがなかなかの人気で、遠路遥々やってくるお客様もいました」

      ある日、妖怪が彼女目当てにこの村を襲い、朱杏と言うの双子の 妹と間違えて

      連れて去ったのがことの始まりだった。

      彼女は助けに行こうとしたが村人は賛成せず、は毎日村の外れにある女神の湖に妹の

      無事を自分の身と引き替えに祈りを捧げていたその数日後、突然朱杏が姿を
現した。

      恐らく妖怪に操られていたのだろう、駆け寄ろうとした姉をいきなり殺そうとし、

      は思わず腰に刺していた小刀で
彼女を殺してしまった。

      「……それからと言うものは歌を止め、この村は寂れていったと言うわけです」

         

      宿主はそう言って深いため息と同時に瞳の端から涙を除かせる。

      だが、悟空以外の者はそれを黙って見ているだけだった。

      こういう場面には、明らかに慣れているもので、ここで変に刺激しない方が

      余計な事に首を出さずに済むということを長い度で習得している。

      「お願いです、お客さん。あの娘を救って下さい」

      「断る」

      彼の言葉を冷たく跳ね返したのは、やはり、三蔵だった。

      「おい、生クソ坊主!マスターがこんなに頼んでいるのに、お前は」

      「お前は黙ってろ」

      「何だと、コラッ!」

      「まぁまぁ」

      血の気の多い悟浄を宥めながら彼女のことを考える。

      宿主の話しだと、彼たちがこの村に到着する前に見えた森の中に女神の湖が

      あるらしい。

      八戒が耳にした歌は、多分、のものであろう。

      そして、花喃に良く似た姿も…。

      「僕が…」

      「甘えるなっ!」

      彼の声は見事に金髪の僧侶にかき消されてしまった。

      元々静まり返っている室内にぴしゃりと言い放つ刹那、彼の瞳を見入ってしまう。

      その場所は不器用な優しさがある様で、それなりに次の言葉に期待していたの

      かもしれなかった。

      だが、それは必ずしも八戒が望むものではなかった。

      三蔵が団らんの食卓で叫んでしまったからか先程まで軽快な音を立てて食事をして

      いた悟空は噎せって胸を何回も叩いている。

      普段なら仲間内で保父役の彼が背中を摩ったり水を飲ませたりするのだが、

      この日だけは違っていた。

      「自分達が仕出かした事を他人に押し付けるんじゃねぇ」

      「そんな言い草はないでしょう、三蔵!この方はこんなに悩んでいるんですよ!」

      「ふんっ。そんなの俺の知ったことじゃねぇ」

      瞳を反らした彼に喰らいつくように睨む八戒は、今まで一緒に行動を共にして

      きて一度も見たことがないだろう。

      「どうしたんだよ、八戒?いつものお前らしくないぜ。やっぱ…」

      「じゃあ、聞きますが、「いつもの僕」って何ですか?」

      「八戒…」

      常の青年では考えられない行動に、にぎやかな光景が瞬時で色を変える。

      「僕がさんを助けに行きます。ご主人、その森の場所を教えて下さい」

      「ありがとうございますっ!ですが、誰も彼女を見た者はいないんです」

      「どういうことですか?」

      「彼女を連れ去ろうとしていた妖怪がに呪いを掛け、誰にもその姿を見えない

       ようにしたのです」

      「ですが、先程この村に来る途中で歌を聴いたんです。そして、姿も。確証は

       ありませんが、あれはさんだと思います」

      「信じられん!あの娘が見える方が居られたのか!!」

      そう言うが早かったか、彼は青年の手を握り締める。

      胸でずっと納まっていたお盆は床に落ち、きれいな円を何度も空に描いた。

      八戒にはこれが消えない過去の声のように感じた。


 

      村外れにある森は宿から助走をつけてきた彼によって難なく突破することが出来た。

      視界が晴れた所で広がったのは、蒼くその美しさを湛える湖が八戒を出迎えた。

      村人から「女神の湖」と呼ばれるのも、頷けるほどである。

      だが、今は、祈りを捧げに来た訳でもましてや観光に来たわけでもなかった。

      「誰かをお探しですか?」

      湖を一回りした後、無心で花喃の名を口にすると、いきなり背後から掠れたような

      か細い声が聞こえてきて、いつもより敏感になった青年は勢い良く振り向いた。

      そこには、同じ姿をしていても彼女よりも小さい女性が立っている。

      栗色の髪を風に靡かせて彼を見上げる仕草には、正直言ってドキリとするものが

      あった。

      多少の身長差はあるが、花喃のことを今も胸に宿している八戒にとってはどうでも

      良かったのかもしれない。

      「あなたがさんですか?」

      既に自分の中では決め付けているのに、敢えて、彼女に尋ねる。

      もしかしたら、花喃ではないかと思い始めているのかもしれなかった。

      「そうですか。あなたは?」

      だが、それは愚かな考えだった。

      彼女はこちらを見上げたまま、瞬きを数回繰り返す。

      これが現実だと言うことを突きつけられたようで、いきなり目の前が真っ暗に

      なった。

      しかし、もう、これ以上、逃げてばかりはいられない。

      「あなたをずっと探していました。一緒に帰りましょう?村へ…」

      「いやっ!」

      彼女の手首を掴もうとすると、急に背を向けて走り出した。

      「さんっ?」

      しかし、所詮は女性の抵抗であって長身の青年には叶うはずがない。

      数分もしない内に手首を強い力で捕まれてしまった。

      これが恋人同士ならば、とても良いシチュエーションだが、今はそんな呑気な

      ことを言っている場合ではない。

      もし、今、思っているとしても、八戒くらいであろう。

      それも、結構、哀しいものが胸を過ぎった。

      「どうして、そんなに、村に戻りたくないんですか!?みんな心配していますよ」

      「ほっといて!私がどんな気持ちでこの四年間、ここで暮らしていたかなんて

       素敵な仲間がいるあなたなんかにわかるわけないわよっ」

      そう吐き捨てる彼女の瞳からはきれいな雫が頬を滴り落ちた。

      恐らく、それが今までの記憶だろう。

      その一滴に込められた辛さなど他人が理解するには時間が掛かるだろう。

      でも、この青年は違った。

      「僕も、さんのように大事な人を妖怪に浚われ、目の前で自害させてしまいました」

      「えっ?」

      「だから、あなたの辛さもわかるつもりです。どうしてって考えても決して時は

       戻ってはくれないんです。ただ、前に歩いていくことしか僕らにはできないから」

      「だって、私は大切な妹を殺したのよ!それに、あの人たちが一緒に朱杏を助けに

       行けば無事に帰ってこられるはずだったのよ!!なのに、あの人たちは何もしよう

       とはしなかった。私が、あの時…」

      「もう、やめて下さいっ!」

      そう叫んだかと思うと、彼はいきなり小柄な彼女の体を抱きしめた。

      細身の割には意外と筋肉質なことに驚いたのか、は瞳を見開いている。

      その内に華奢な体からリズミカルな鼓動が聞こえてきた。

      それもそのはずで、久しぶりの人肌に触れたことと異性に抱きしめられている

      ことに女性として感じているのかもしれない。

      胸に花喃を宿している彼は、そんなことに動揺するはずがなかった。

      だが、先程を抱きしめたことには、何の迷いもなかったのも事実だ。

      それは、彼女と同じ姿をしているだけで片付くようなりゆうではなかった。

      「これ以上、ご自分を苦しめないで下さい。あなたは人殺しではないんです。

       事情が事情で偶然が必然に見えただけなんです」

      「でも、私に誰も気づいてくれなかった。あなた以外誰も」

      「それもそうです。四年前、あなたを浚おうとしていた妖怪が呪いをかけたん

       ですよ。貴方を独り占めするために」

      彼女は一瞬、はっとした顔をしたが青年の瞳に気づくと、頬を染めて俯いた。

      「でも、僕はさんに気づいてしまった。それがどうしてかなんて解りません。

       でも、これだけは言えます」

      優しくそれでいてしっかりとした大きな掌が彼女の両肩を掴んだ。

      それにつられるように俯いていた顔を持ち上げ、彼の深緑の瞳を見つめる。

      そこには、今にも吸い込まれてしまいそうな弱い自分が映っていた。

      そんな自身を見ていたくなくて顔を背けるが、今度は顎を指先で固定されてしまう。

      「あなたの歌はとてもキレイでした。でも、楽しいものを哀しみに代えてはやはり、

       何も生まれないんだと僕は思います。だから、さんは、笑って下さい。みんなの

       ために…。そして、朱杏さんのために」

      「くっ」

      彼女の瞳から溢れ出てきた記憶のかけらは、八戒の指や服を濡らすだけではなく

      心を動かせるものだった。
 

       と不意に目が合い、理性は押さえられそうになかった。

      彼女も同じなのか、瞳をゆっくり閉じ、彼の訪れを待っている。

      「さん…」

      それに吸い込まれるかのような感じを覚え、長身の体を折り曲げ唇を重ねるはず

      だった。

      「危ない!」

      「うわっ?!」


      グサッ!!


      いきなり彼女に押し倒されたかと思うと、次に聞き覚えのあるいやな音が

      耳を掠めた。

      服装が少し汚れたがそんなことはいちいち気にして入られなかった。

      「いたた……さん?っ!?」

      髪を大げさに掻き毟りながら彼女を呼んだが、返事はない。

      それに違和感を抱いた彼が次に目にしたものは、自らの手で剣の柄を握って腹を刺す

      血だらけの女性の姿だった。

      まさに、それは、忘れようとしたくても忘れられない花喃の最後の姿そのものだ。

      柄を握っている手は苦し紛れに顔を歪めている彼女の意思に反して、次第に深く

      なっていた。

      「やめて下さい!どうしてこんなことを!!」

      大地から跳ね起き、その手のひらを除けさせようとしたが、か弱い女性にしては

      物凄い握力で阻止することはできない。

      何か違う方法を考えようとするが、目の前でどんどん青くなっていく彼女を見て

      落ち着いてなどいられなかった。

      「さんっ!しっかりして下さい!!さんっ!!!」

      何度も彼女の名を呼んだが、瞳が閉じられたままで生死の確認が取れない。

      その内にもまで自分の腕の中で冷たくなるなんて考えてもみたくない。


      (花喃。これは、僕が自分の罪を見失って新たな人生を見つけた報いですか?

       それなら仕方がないでしょう。僕には到底そんな資格はあの頃から無くして

       しまったのですからでも、さんを傷つけなくても良いじゃないですか)

      「誰かと思えば、三蔵一行の猪八戒か」

      青年の瞳に水影が映ろうとした時、遥か天上から彼を呼んだ者がいた。

      その存在は二人がいる地に降り立つと、不気味な笑い声を上げる。

      すると、同時に、周りの木々からは、先程八戒がこの湖に来た時のように数羽の

      カラスが高い声を上げて鳴いた。

      彼はそれから守るように彼女を自らの腕の中に引き寄せる。

      こうしている間にも先程抱きしめた頃よりも冷たくなっていた。

      「あなたはどなたですかっ!」

      「俺は獏。百眼魔王様の命によりこの女に呪いを掛け、この森に閉じ込めた。

       だがな、俺は誰かの悪夢を食べていかないと生きていけねぇ性質でね。その娘には

       ずいぶんとお世話になったよ」

      「もしかして、あなたが、さんに妹さんを殺させたのですか!そして、今も!!」

      「へぇ。勘が良いな、あんた。いかにもそうだよ。だけど、本当はお前を殺す

       はずだったんだぜ?」

      獏と名乗った彼はそう言うと、彼の腕の中にいる彼女を除き見た。

      「百眼魔王様の言いつけでな。万が一、他の男が近づこうとしたら殺せって

       言われているんだ。だから、俺は、また、そいつに悪夢…・」

      「ふざけないで下さいっ!」

      彼はそう叫ぶと、獏をこれ以上もないぐらい睨み付ける。

      「人の命を何と思っているんですか!人間はあなたの食事のために生きている

       わけではないのですよ!!」

      「ふんっ!人間なんて俺の家畜にしかすぎないんだよ。こいつらにとって良い夢は

       俺にとっては不味いし反吐が出るんだよ!!」

      そう言うと顔の前に垂れ下がった大きな鼻を振り回して八戒に走り寄ってきた。

      障害物となる木々や石などすべてが無残に切り刻まれ、その威力に感心してしまい

      そうになるが、腕の中にいる彼女を感じてそんな愚かな考えに鞭を打った。

      草むらの中にを隠すと、すいませんと一言謝る。

      「ははははっ!八戒どこにいった?どこへ逃げても無駄だぞ」

      「何故、僕が逃げなくてはいけないのですか?それにあなたが仰っている百眼魔王は

       僕が殺しましたよ…」

      「何っ!?」

      そう言った青年は、湖の上に立つ彼を見つめながら左耳に手を掛けた。


 

      (私って、死んじゃうのかな?)



         は沈んだ気持ちの中にいた。

      そこは今にもあの世とこの世の境に登りついてしまうのではないかと思ってしまう

      くらい、静かだった。

      先程まで痛みを感じていたのに、今は、全く感じなくなってしまっている。


      (そういえば、あの人……八戒さんって妖怪が言っていたな。もう一度だけ、

       会いたかったなぁ。でも……私は…やっぱり…)


      (っ!)


      彼女の瞳にまた溢れてくるものが姿を現そうとすると、誰かに名を呼ばれた。

      (誰っ!?)

      瞳の端に浮かんでいる涙を指先で拭って辺りを見回すが、やはり、誰もいなかった。

      ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのかと思い、最期を新たにする。

      (ダメ!こっちに来ないで!!お姉ちゃん!!!)

      (っ!?朱杏?!あなた、朱杏なの?)

      暗闇の中、どこから声が聞こえてくるのか解らずただ辺りを落ち着きなく

      見回した。

      だが、どこにも何の変化もない。

      (こっちに来ちゃダメだよ!は、私の分まで生きて!!)

      (朱杏っ?!でもっ……私は、大事な妹を守れなかった!)

      (それは、の所為なんかじゃないよ。それに、私が身代わりになったの)

      (どういうこと?)

      彼女は眉根を寄せて、妹の次の言葉を待った。

      それは、初耳である。

      (私は昔からの足を引っ張ってきてお荷物だった。だから、妖怪が村を襲ってきた

       時に、身代わりになったの)

      (ばかっ!私がそんなことを考えていると思ったの!?私はあなたの幸せを

       第一に考えていた。あなたが苦労しないように私は…)

      (お荷物だけなんて嫌だったの!!)

      (朱杏…)

      彼女の叫びは過ごした日々は一度も聞いたことはなかった。

      それが、今はこうして自分の意見を述べている。

      姉としてはなぜか哀しいものが胸を過ぎった。

      (私は今、幸せだよ?だから、も幸せになって……私の分まで…)

      「朱杏っ!」

      「っ!?気づかれましたか」

      そう言ってこちらに近づいてきたのは、妹ではなかった。

      やわらかいベッドから身を起こした彼女は辺りをきょろきょろと見渡す。

      そこはが四年間の時を過ごした女神の湖ではなかった。

      むしろ、ここは。

      「帰ってきたのですよ?あなたの故郷に」

      長身の男性はそう囁くと、彼女を優しく腕に抱き上げ、室内の窓を開けた。

      その瞬間に二人の髪を撫でたものには懐かしいものを感じる。

      鼓動を高鳴らせながら開かれた外を食い入るように覗き込む。

      そこには、ずっと思い描いていた夜景が広がっていた。

      「八戒さん?私……帰って来れたんですね?」

      「えぇ」

      そう言って、二人はしばらく、夜の村を眺めていた。

      一つ一つの民家には、生活の灯りがイルミネーションのように見え、二人の気持ちを

      温かくさせたことは言うまでもない。

      遥か頭上には、満天の星空の中に煌々と照った上弦の月が優しく見つめていた。

      それは、まるで、彼女たちの煮え切らない想いを指しているようである。

      「さん、そろそろ休みましょうか?一応、あの妖怪を倒した後、治療して

       おきましたけど、まだ無理はできませんから」

      「待って!」

      青年が窓を閉めようとした掌の上に、思うように力が入らない体に鞭を入れて

      自身のものをおいた。

      この窓を閉めてしまったら、もう、何を伝えたとしても受け入れてもらえないよう

      な気がした。

      その仕草に驚いたような顔をした彼の服の袖を力無く掴む。

      瞳には頬を上気させた自分が映っていた。

      上弦の月を確かめてから意を決めて口を開く。

      「八戒さん。私っ…私、あなたを知っていたんです!」

      「さん?」

      「あなたの過去もそして、今までどんな旅をしてきたかも。私はずっと夢で

       見ていたんです」

      「っ!?」

      想像もしていなかったことを突然言われ、瞳を開かずに入られなかった。

      それでも彼女はじっと青年を見ている。

      「さん、それはどういうことなのですか?」

      「私にも良くわからないのですが、幼い頃からずっと同じ方の夢を見るように

       なったんです。でも、スライド写真のような映像でしたので、その方の名前や

       その方に何が起こっているのかわかりませんでした」

      「……」

      「私っ、彼女の身代わりでも良いです!だから、私は八戒さんのことが…っ!?」

      その続きを伝えることはできなかった。

      彼が急に顔色を変えたかと思うと、いきなり唇を落とし彼女のものを捉えたからだ。

      だが、それは触れた途端、優しいものに変わりすぐにその場から離れた。

      「ご自分を身代わりなどと仰らないで下さい。それに、僕は既にさん、

       あなたを愛しています」

      「へっ?」

      「ふふっ…こんなことをしたのにまだ、お解かりではないのですか?」

      顔中で微笑みを浮かべる彼は、彼女が知っている猪八戒そのものであった。

      「僕は最初、花喃を重ねて見ていました。ですが、今は、さんしか見えません。

       ちょっと、虫が良すぎる話ですよね?」

      照れ隠しのように笑う青年を見た瞬間、一片の欠片が彼女の頬を濡らし始めた。

      「さん?どうして、泣くんですか?どこか痛むところがありますか?」

      心配する彼を他所にそれは止めどなく溢れ出した。

      まるで、それは、彼女が夢で紡いできた青年への想いのようである。

      「八戒さん…」

      「何ですか?」

      まだ、穏やかな川が流れるままで、愛しい男性を見た。

      すると、彼も微笑を漏らしてそれに見つめ返す。

      「また、私が元気になったら、歌を聞いて下さいますか?」

      「えぇ、勿論。ですが、私は西に行かなくてはならないのです。ですから…」

      「そしたら、いつも八戒さんの無事を祈って歌っています。寝る時だって、毎晩、

       あなたの夢を見て応援しています。ですから、私のことなど気にしないで下さい」

      「ふふっ。僕があなたを救い出したと言うのに、逆に励まされてしまいましたね」

      「そっ、そんなことはありませんよ!私は一度弱音を吐いちゃうと相手の方に

       どんどん迷惑を掛けてしまうから…」

      体の自由が思うように利かないためか、目の前で微笑んでいる青年から逃げる術を

      知るわけはなかった。

      そんな彼に一度は見惚れたが、あまりにも気持ちの良さそうに笑うものだから、

      こちらもつい、笑顔になってしまう。

      「愛しています……・・」

      「八戒さんっ!?今、何て」

      「おや?ルール違反ですよ。一般的に男がこう言う場合、口づけの合図なんです

       からね」

      悪戯っぽく笑う青年は保父さんと言うより失われた時間を取り戻した少年の

      ようだった。

      突然のことで放心状態になった彼女が我に返る頃には、先程とは違う激しいものに

      なっている。

      八戒の暗黙の部屋で抱き合う姿は、彼が疲労を訴えるまで続けられた。

      今宵、空で輝く上弦の月も翌日には、満月になる。

      それは、二人の遥かなる時を越えた答えなのかもしれなかった。

 

 

 


      ―――・・・終わり・・・―――

 

 

 


      #後書き#

      はぁ〜…やっと、書き上げました。

      今回の作品は、全作50作up企画でリクエストを受付ましたら、ありがたくも私の

      お友達であるめいめえ様が八戒ドリをリクエストをして頂きました。

      やはり、初めてのものは難しく、「最遊記RELOAD」の流れを大事にした作品に

      してみましたがどうだったでしょうか?

      
それでは、ご感想お待ちしております。