……また、日が暮れる。
そう、感じ出したのはいつの頃だっただろうか。
「。今、戻った」
「お帰りなさい……、弦一郎さん」
真田家は、やはり家と似た匂いがする。
アレから一年半、彼女は夫の家族と同居していた。
旧日本家屋に凝った庭には、錦鯉が優雅に泳ぎ、まるで見ている側を水に
誘っているようだ。
盆栽は綺麗に棚に並べられており、素人が見てもなかなかの剪定が
施されてある。
ただ、唯一違う事があるとすればここには規則はない。
あの日、彼と再会してすぐにこの家に連れて来られた。
厳格な祖母は大反対だったが、「花嫁修業」と言う言葉を条件に何とか
許してもらえたのだ。
「また「ませ」と言おうとしたな」
真田は自室の障子を気にしながら閉めると、眉間のシワを少し深くする。
この家は規則などない……だが、
にとっては新たな苦難の日常が待っていた。
「も、申し訳っ」
「過剰な敬語も礼儀も禁止だと言ったはずだが」
十五年間、あの家で育ってきたのだ、そう簡単に癖は消えてはくれない。
着慣れていた着物も風通しの良い洋服に替えられ、何とも心許無い生活を
送っている。
それでもこの真田家で一年半も暮らしているのは、彼と一緒にいたいから。
どうするかなんて簡単に思い着かず、彼女が黙って俯いていると、優しい力で
抱きしめられる。
それは、あの日とは違って今度は正面からの抱擁。
「弦っ……待っ!」
その合図に脈が大きく打ったように動揺を隠せない顔で真田を見上げれば、
至近距離に歳の
割には大人びた顔が瞳を捕らえ、さらに胸を高鳴らせる。
「悪いが、待たん」
分厚い帯から解放されて知った細い腰に片手を回したまま、片方で逃げられ
ないよう指で顎
を固定されたそれから伝わる温度の熱さから彼が本気だ
と伝える。
当たり前に自分より大きい掌に抱き寄せられ、柔らかいばかりで何の役にも
立たない自分の物
とは違ったしっかりとした指。
それに拘束されただけなのに、こんなにもドキドキしてしまう。
「っ」
真田の顔がまた近づいたと思えば、何か柔らかいものが唇に重なる。
その正体が彼の温もりだと気づく前に目を伏せた。
それは、偽善の皮を被った自身を隠すためかそれとも彼を愛しているのだ
と健気に伝えるためだろうか。
「すまない。お前を困らせたくて厳しいことを言っているわけではない。
ただ、俺はあの家からを解放してやりたいだけだ」
啄ばむような口づけの後、そうため息のように吐く。
頬の赤みに気づいていないのかこちらをじっと見つめてくる。
その視線の強さにいつも締めつけられる痛みを胸に感じていた。
真田は、自分以外心に住まわせていないだろう。
彼の彼女への行動の一つ一つを見てもその一途さが伝わってくる。
なのに、こんなどちらとも心が決まられないまま抱かれている情けない自分。
…
あの時、抱きしめられた記憶がまだ体に染みついている。
何度忘れようとしてはさらに濃くなる罪の紋章。
刻みつけられた刹那。
手にしてしまった想い。
「弦一郎さん」
この腕の中に居れるのは自分だけだと思うと、彼の背中にそっと掌を乗せた。
家で再会したすぐ後、浚われるように真田家に連れてこられた時と全く同じこと
を口にす
る夫が愛しくて胸に顔を埋める。
自分はこの人を愛していくんだ、と思うと頬に涙が一筋流れた。
それは残り僅かな時間を思ってかそれともまた違ったものなのだろうか。
昔々、一人の少年がいました。
彼はとても石油の香が好きでした。
それが、自分の人生を変えるとは知らずに…。
「ねぇねぇ、今度あるテニス部の大会観に行かない?」
「えっ、えぇ。そのつもりですけど」
「あ、アンタは愛する旦那様に応援に来るように言われているか。良いわよね」
昼休み、期末テストが終了した立海大学附属高等学校では既に夏休み一色に
染まっている。
それぞれが立てた計画に胸を躍らせている。
一年の教室で机に座っているに物怖じもせずに話しかけてきた少女に困りながら
言葉を繋ぐ。
彼女の名は桜川笙子、この学校に入学してから初めて出来た友達だ。
あのままの家に居たら一生こんな学園生活とは縁がなかっただろう。
少年のようにボーイッシュに短く整えた髪に指を絡め、軽快に白い前歯を
除かせる表情に全く悪意を感じさせない。
この人懐っこさが彼女を妙にほっとさせる。
季節は衣替えを促し、冬服とはまた違った薄い肌触りが涼しげである。
か、と言っても年頃の女の子には何とも心許無いものでもあるのだが…。
「っ!……はい」
笙子から返ってきた言葉に詰まりながらも肯定する声は震えていた。
それは単に「愛する旦那様」という言葉に動揺したからではない。
今度開かれるテニス部の大会にはきっと、あの人も参加する。
先日、彼が射合いの稽古から自室に戻ってきた時、そんな事を嬉しそうに
話していた。
一緒に暮らして一年以上も経てば大体、大切な人のことは解る。
それが、生涯の伴侶なら尚の事だろう。
手塚国光・・・・・・真田にとって手塚は好敵手でなくてはならない存在でこれからも
互いに高みを極 めて行きたい相手だ。
だが、にとっては違う思いが胸を捉えられたままでいる。
『お前のことがずっと好きだった』
今もまだ色あせない記憶と鼓動が鮮明に思い出せる。
こんな気持ちなど許される事ではないと解っていてもあの時のことは決して
忘れたことはない。
誰よりも初めて特別な言葉をくれた人。
その影響が大きくてとても忘れそうになかった。
あの熱に浮かされない真っ直ぐな瞳で射抜かれた自分には自由を手にする
事なんて許されるはずがない。
もしも、なんてバカらしくて考えれば考えるほど首を左右に振り続けている。
… なんておこがましいのだろう。
そう思ってはまた、「ませ」を使って彼を騙している自分が嫌だった。
真田弦一郎と言う少年は優しくてそばにいるだけで温かさを感じる。
それはあの絶対零度の家にずっと閉じ込められていては絶対に知ることが
出来ない甘い痛みだ。
あれから一年半、経った。
なのに、彼はキス以外のことを彼女に求めてこようとしない。
それは「花嫁修業」とは言ってもまだ籍を入れていなければ結納も済ませては
いない。
そう言うことに煩いあの祖母のことだ、何もしていない状態で前へ進んだ
と知れば、何を仕出かす か解ったものではない。
それでもそんなリスクを犯しまうことを望んでしまう。
もし、二人がこれ以上特別な関係に進んでしまったのならばこんな浮ついた
気持ちから逃げ出
せるのではないか、と…。
この胸の中に確かに抱いた感情と存在が真田への裏切り。
それは唇が離された後、さらに色濃く脳裏に印字される。
幸福感に満ちる度にそれは強く、内からあふれ出た涙はやはり汚染していた。
口づけの数だけ増える罪の味。
だが、それでも真田には嫌われたくないと思う情けない自分。
辛い思い出はどんな事だって独りで泣いて耐えてきたのに、今はこのザマだ。
紅の紋章…。
もう、16歳になってしまった。
毎年、誕生日が来ると怖くて泣いていた記憶ばかりだ。
今年は彼が一日中傍にいてくれたから少し楽だった。
しかし、紅の紋章は刻々と迫っては体力と共に精神を蝕んで行く。
残り僅かな人生は焦らしているのか、それとも何かの訪れを待っているのか。
……いよいよ、この日が来てしまった。
七月十二日、今日は中高時同じくして関東大会の緒戦が開始される。
立海大もこの広い敷地内のコートで試合をするのだが、今だたどり着いていない
少女が入り口近
くに大きく表示されてある地図を食い入るように眺めていた。
「え〜っと……立海大、立海大、と」
季節は夏、夏服に衣替えをしてもやはり暑く額には汗が日差しを受けて光り、
背中にも何かが滴
り落ちる感触がして気持ち悪い。
本当は桜川と来るはずだったのだが、当の本人は意味深に目配せをするだけで
さっさとどこかへ 出かけてしまった。
恐らく彼女なりに気を使ったつもりなのだろう。
その心遣いに感謝しながら会場にやって来たのに、は温室育ち過ぎた。
家にいた頃はいつも多恵が事前に場所を調べ上げてくれ、幼い頃は慣れる
まで傍にいてくれたりもした。
だが、そんな彼は今、いない。
お嬢様だからとか理由を付けて結局は彼に甘えていたのだなと、初めて
気がついて恥ずかしい。
だから、残り少ない時間だけでも一人の人間として生きてみたい。
「ここ……は違うよね」
敷地内の案内をじっと睨みながらコートを指差してみるが、やはりそう簡単には
コツが掴めない。
「ねぇ、キミ?」
早くしないと真田の試合が終わってしまう、と気が急いていると不意に声を
掛けられたことに振り向く。
彼女の存在は青学時代も立海大の校内中知らないものはいない。
まして、今は、あのテニス部の副部長である彼の許婚である。
それだけでも威圧感があると言うのに、追い討ちを掛けるかのようにその相手は
何十年もの名を残すの娘だ。
勿論、その噂は全国を駆け巡り恐らくこの大会に出場する各校が
の名を耳に
したことだろう。
「何ですか?」
だが、このだらしがなく胸元のボタンを二三個外している複数の他校生達は
彼女が振り返っただけで口笛を吹いて嫌らしく笑った。
もし、ここでこの柄の悪い少年達が不良だと気づいていたら少しは人並みの危機感
を併せ持っていることを認識するであろうが、鳥のように首を傾げる本人は
全く以って何も考えていない。
無邪気と言おうか無防備と言うかそれもの魅力の一つなのだろうが、披露する
相手を選ばなければいけないと言うことを知らなかった。
少年達の内の一人が妙な目配せを送り、猫撫で声を出す。
「テニスに興味があるの?ならさ、俺達もテニスやってんだけど良かったら
観てくれないかな」
「いえ、私はテニスに詳しいと言う訳では…」
「ははっ、そう照れるなって。俺達、君と友達になりたいだけなんだからさ」
率直に否定したつもりだが、どうしてもこの不良達はターゲットを絞ってしまった
らしくなかなか簡単には引き下がろうとはしない。
この熱い中良く粘るものであると、感心してしまうものもチラリと見ては 去った
通行人も恐らくいることだろう。
しかし、ここで彼らにとってその苦労が報われる単語が少女の胸に留まった。
「ともだち?」
「友達」……はこの言葉に何の免疫も持っていなかった。
もしも、普通の家庭で極々当たり前に育てられていたらこんなありふれた台詞に
何らかの対処をする事ができただろう。
だが、彼女はこの言葉にめっきり弱すぎだ。
「そう、友達。ここは熱いからちょっと喫茶店でも入って何か冷たいものでも…」
今、耳に入れた言葉をすぐ口にすれば彼らはすぐそれに気がついては
食いつこうとした。
「待て」
しかし、次に口にしようとしている下心に遮る者がいた。
「あ゛?」
至近距離に近づくことに成功した一人はの肩を抱きながら後方で何処に行こうかと
喜んでいた残りの少年達はさらに柄が悪くその声の主にまるで新しい玩具を奪われる
のではないかと考えている幼児のような機嫌の悪い顔で振り返る。
「あっ」
だが、それに振り返った者達の視線の先にいる人物はすべてを空に還してしまい
兼ねないほどの険しい表情をこちらに向けていた。
勿論、その矛先は彼女ではなくそれを取り巻く不良達に向けられているものだが、
その意志の強さを見る者すべてに言葉を飲み込ませる力が宿っている。
一陣の風ではらりと舞い上がった色素の薄い髪とは相反するそれはあの頃と
何ら変わりもない。
「てっ、手塚っ!?」
「放してもらおう。俺の連れだ」
そう言って彼が前に一歩足を進めただけで周囲は固まり、また、一歩と地に
テニスシューズが着いただけで火の粉のように飛び散ってしまった。
「大丈夫か?」
彼らの逃げて行った方に顔色を変えずそのまま尋ねてくる長身の人物の隙間へと
視線を向けてはみるが後ろ姿はもう、見えない。
あの言葉は結局何の意味もなかったんだ、と今更気づいて莫迦莫迦しくも
傷ついてしまう。
きっと、あれは自分以外ならば容易く理解できたことであって、対処する事も
逃避する事もできた。
「っ」
胸に何かがこみ上げてきて思わず下を向いてしまう。
悔しさとも寂しさとも違った感情がの心を占領する。
「あっ」
短く呟いたのと同時に頬に何かが滑り降りていくのが解る。
雨だ、そう思って空を見上げるが、彼女の期待を裏切るように青空が広がっている。
入道雲が今日も天空の孤島のように流離っては消える。
そんな当たり前のようで当たり前ではない出来事が今は無償に悲しかった。
「っ!?どうした、何かされたのか」
その声にはっとして視線を現世に戻す。
目の前には険しい表情を余計にシワを刻み付けている青年の瞳とぶつかった。
「会長っ。私…」
「何も言わなくて、大丈夫だ。俺が傍にいる」
「えっ……きゃ!?」
瞳から涙を拭おうともせず何かに安堵したような観念したような声色が風と共に耳を
撫でたかと
思えば自分とは明らかに違う大きな温もりがしっかりとした強さで
背中を押された。
この感触はまだ覚えている。
驚きと戸惑いの最中ですっかり止まった涙を中学とは違ったジャージに染み込ませる
形になってし
まった体制になるとそんな恥ずかしいことを考える。
だが、彼女は決して背中をぐっしょりと汗で濡らしているのを手塚に気づかれたくない
ためだけ
に凭れた訳ではなければ、自分の立場を忘れている訳でもない。
今も昨日交わしたばかりの唇を思い出してこんなにも気持ちが不安定になっている。
「かっ、会長?!あの……私、大丈夫ですから」
「もう、俺は中等部の生徒会長ではない」
「ですがっ」
そんなことは解っているが、他に彼を呼ぶ言葉が見当たらなかった。
青学時代に耳にした音を声に出してしまえばそれは簡単な事なのに、それが出来ない
のは解っている。
中等部のような軽快な色使いのジャージに押し当てられただけなのに、呼吸をする
だけで手塚
の香が鼻を、気管支を、肺を占領する。
別に嫌なものというわけでもなく、愛するべく夫のものとは明らかに違う事に戸惑いが
隠せない。
強く抱きしめられている体をそれに合わせて体制を変える自分がいた。
呼吸を繰り返すたび彼のことを異性と再認識させられる。
それは、きっと手塚も同じで、だからこんなにも鼓動が苦しいのだろう。
「解っている。がもう、真田のモノだということは」
自分も全く同じことを伝えたくて目の前にあったジャージの裾を気にせずぎゅっと
掴もうとした瞬間だった。
風が大して強くもないのに耳に何も聞こえてこず、脳裏を木霊する歪に
鈍い痛みが呼び起こされる。
それは、本来あるべき恋心。
「っ!?知ってて」
不意打ちのようにも聞こえたその真実に思わず顔を上げれば視線と一緒に顔の自由を
細長い指に奪われてしまう。
「あぁ。俺が他人の許婚だと知って男らしく身を引くとでも思ったか?」
彼の声色には元々、冷静さがある。
そのはずなのに、今はそれ故の束縛を感じる。
余所見しては浚われてしまう、そんな不安がまた手塚から視線を外すことを
許さなかった。
「か…」
「俺は手塚国光だっ!」
それでも頑な理性はすっかり青年の風格を手にした彼を「会長」と呼ぼうとするが、
その言葉を
遮る衝動がさらなる苦悩をに植えつけた。
「っ!」
息が止まると同時に体中に緊張が走る。
先程から気だるさを感じていた汗なんてどうだっていい、そんなことを考えさせられる
ほどの威力を
この衝動は持ち合わせている。
「んっ」
互いの同意もないキスは長い。
行き場のない快楽は唇には用意されず、代わりに戸惑いと嫌な緊張感を体中に巡らす。
脳内には他の事など考えられず、ただ背中に回されている腕の強さと会場のどこかで
鳴く蝉の
声が煩く響く。
それは空気を欲する度に、又は、辻褄が合わない恐れを感じる度に角度を変える
自分の物とは
明らかに違う柔らかさに翻弄され瞳を閉じようとした。
「……やはり、お前か。手塚」
「っ!?」
だが、それはこの永続的とも思えるこの時を怒りとも哀しみとも取れない冷静な声が
切り裂いた。
「やはり、気づいていたんだな、真田」
「あぁ」
唇を手塚から離され、支えを失ったの体は先程とは違って優しく抱きとめられる。
(弦一郎さんっ!)
声の主が誰かなんて解っているのに、顔を見るのが怖かった。
例え、どんな侮蔑を罵られてもそれ相応な事を自分はしてしまった。
夫以外に許してしまった唇には先程の感触がまだ残っている。
しかし、後悔するだけで彼のことがどうだとか言う気持ちは生まれない。
それほど手塚のことを想っているのだとやっと気がついたなんて遅すぎた。
耳には彼がこちらに近づいてくるであろう足音が聞こえる。
「?」
それが罪の深さを物語っているように思えて体が小刻みに震える。
それと一緒にの瞳からまた涙が端を濡らし、頬を流れさせた。
「ごっ、ごめん…なさい、弦一郎さん」
「…」
彼女の名を呼ぶだけで抱きしめる強さを変えない彼に逃げようとした。
「え?」
だが、近づいた足音は地を踏みしめるまもなくの腕を力強く引っ張り、代わりに
自分の胸の中へと誘う。
「俺の許婚だ。返してもらおう!」
―――・・・続く・・・―――
♯後書き♯
今回も『Streke a vein』をご愛読して下さり誠にありがとうございます。
前回の夏初月号には間に合わなかったのですが、今号で三周年に入るとの事で頑張って
「ビターチョコレート」第二章を書き上げました。
前号のことを反省しまして主人公設定を高校一年生にしまして、随分ほろ苦さを
味あわせている
柊沢です。(苦笑)
それでは、次号もご期待下さい。