この声でさえいつか枯れるのならば

          花も綻ぶ三月、日本中の至る学校ではちらほらと卒業シーズンが到来していた。

          来月に新入生を待ち望む側としては古株の三年生を追い出したいのだろうが、

          大半の生徒達に習ってすすり泣く教師が何人かいる。

          そんな猿芝居に、まだ赤く目を腫らした教え子がそれに便乗して泣き出したり逆

          にハンカチを差し出しり終いにはその背を撫でて慰めたりする卒業生も何人かいた。

          今月は晴れた日が多かったが、それも今日の午前までの話で正午を過ぎた立海大学

          附属中学校の頭上は花曇りに覆われた。

          バケツに張った水に灰色の絵の具を少し塗った筆を一濡らしさせたような薄い銀が

          青空に代わって全ての生き物に面を上げよ、と命を下す。

          晴天と違い、視界が自由になったとしても誰もいない教室で机に突っ伏したまま身

          動きをしない少女には関係なかった。

          それはできの良い人形なのか、微動もしない綺麗なアーチを描いた背骨とこの姿で

          一番女性らしく見える項が黒く覆われた長髪からチラリと見える色香がそう躊躇わ

          せる。

          彼女の目の中には刻々と迫っている砂時計が見えるだけで、他は本日の放送が終了

          した番組にチャンネルを合わせたTVのようなモザイクが広がる。

          
……もう、……いい。

          独り膝を抱えて見ているの目の端からは涙が溢れ、頬を伝うそれが落ちるとそれま

          で覆っていた景色が全て白に染まり、今度は何の音も聞こえては来なかった。

          
自分は夢を見ているのかもしれない、そう思ったがそれも悪くないとすぐに考え

          直した。

          ここが今日で最期の中学校の一年間生活した教室だと言うことも、この席が自席

          ではないことも知っている。

          がらがらの机達にはまだ生徒がいた時の匂いがして余計に彼女を眠りに誘い、

          現を拒む瞳は雨を孕んでいた。

          閉めきった窓の外は相変わらず雲が退かず、逆に次第に銀が濃くなりどうやら

          今日はこの地に停泊することを決めてしまったらしい。

          今日は朝から風が強かった、それはもうすぐ梅の季節も終わるであろう時期に

          吹くにしては酷なものだがそれもまた自然の摂理というものだ。

          正門には飛ばされない対策だろうか、いつかの技術の授業で使用した針金で立て

          札を固定はしているが、ガタガタと震える所は町はずれに新しく建設する予定の

          土地に残された入居者募集と印刷されたものと大して変わらない。

          だが、それに書かれたものは見事に達筆な草書体で「第129回 立海大学附属

          中学校卒業式」と書かれてあった。

          
天文学的な数字だがやはり名門と言った所だろうか。

          しかし、それもさほど注目されていないのか、その前を歩く工場の作業着を着た

          もうすぐ定年を向かえるであろう苦労の数を体中に刻みつけた男性や犬のマスコッ

          トキャラがプリントされてあるトートバックを手にしてハイヒールを甲高く鳴らす

          保険のセールスウーマンなどにも見向きはされない。

          
皆、今日一日を精一杯に生きている。

          それは彼女も一緒だったが、もう、それはどうでも良いことで……瞼を開くことを

          拒んでただ、静かに落ちていく砂の音を聞いていた。

          『
……誠に申し難いのですが、京一君は……がんです』

          あれは今から四年前の三月になったばかりだったことを今でも鮮明に覚えている。

          それまで文武両道で自慢の兄が授業中に倒れた。

          その日は期末試験が終わり、それまでただの予行練習に過ぎなかった卒業式だったが

          入退場の音楽が付いたり式場である体育館に卒業生だけではなく教師はもちろんの

          こと来賓や父兄のためのパイプイスが規則正しく並べられていたそうだ。

          卒業生代表として答辞を述べるはずだった京一はまだこの頃は何を題材にするべきか

          纏まっておらず、三年間の様々な思い出が走り書きされてあるノートと真っ白で規則

          正しい折り目が付いた原稿用紙が自室の机に潜んでいた。

          
当時、同じように卒業式に参加していた……とは言っても小学五年生だった

          
クラスから持参してきた自席で規律着席を何度か繰り返している最中、授業中

          にも関わらずアナウンスが流れた瞬間、きっと誰かの家族に昨日TVで観たサスペンス

          劇場みたいなことが起こったんだろうなぁ、と他人事を考えていたモノだ。

          
その災難がまさか自分のことだとは微塵も感じないで……。

          『
そっ、そんなっ!……先生、勿論助かるんですよね?』

          『
……残念ながら、悪性腫瘍です。もう、…手の施しようがありません』

          学校から救急車で運ばれた病院に共働きの両親が会社を蔑ろにして駆け込んできた

          のは珍しいことだがこんな緊急事態だ、それも可笑しくないことだろう。

          両親が息子の宣告を聞かされている間、TVのドキュメンタリーでお馴染みの自然界

          にはない緑色の手術着に身を包み何本の管に囲まれて眠る四歳上の兄の姿を妹はじっ

          と見ていた。

          その寝顔は、いつもの厳しい男子テニス部の練習で疲れて帰って来ては夕食が出来る

          まで眠っている姿と重なるほど安らかだった。

          だが、もう小学五年生になった彼女は京一が仮病を使ってまで学校の行事を派手に

          サボり病院のベッドで昼寝しているとも酸素マスクを外してその形の良い鼻を摘んで

          起こしてやろうとも考えなかった。

          
病状は知らされて無くても、通常の状態でこんな姿をしていないくらい理解できる。

          だからだろうか、メッキがあちらこちら剥がれている年季の入った冷たいベッドの

          柵を掴んだ手を暗い顔の両親が病室に入ってきても離せなかった。

          その時、ちょうど父と同い年くらいであろう黒縁眼鏡が良く似合う中年男性が軽く

          頭を撫でてくれなければその手が小刻みに震えていたことに気付けなかっただろう。

          『
なぁ、。ちょっと頼み聞いてくれるか?』

          
……きっと、彼自身解っていたのだろう、自分の命が卒業式と共に消えることを。

          京一の葬儀が終了して何日か経ってから酒に酔いつぶれて帰ってきた両親の口論で

          知らされるまで具体的な確信はしていなかった娘にまで見破られるほどだ、まずバレ

          ていたに違いない。

          しかし、それよりも根拠があるモノが彼に無言の告知をしていたとはこの時まだ

          彼女は知らなかった。

          『
こっこの度は……ご愁傷様』

          『
えっ……?』

          両親が葬儀屋の業者と何かを話している頃、そんな声が兄の匂いが唯一残る部屋の

          ベッドで泣きじゃくっていたに掛けられた。

          彼女にしては健気にも親戚に気付かれないよう葬儀に来てくれた誰もを笑顔で出迎え

          たと言うのに、どうやらこの声の主は全てお見通しだったみたいだ。

          ベッドから立ち上がりドアノブに手を掛ける所で自分とは明らかに違う掌に甲を包ま

          れ、息を呑む前にその刹那背後から肩に手が置かれた。

          『そのっ……泣きたい時は泣け。それが無理ならせめて今、俺とお前しかいないくら

           い本心を見せても良いのではないか』

          その言葉に暗がりに慣れた瞳で相手の顔を確かめようとするが、涙で揺らめいた視

          界でそれを許されず、気がついたら同い年としては逞しい胸の中で掛け布団を相手に

          したようにアイロンの匂いがするシャツを涙で濡らしていた。

          情けないほど単純に絡んだ糸が優しい旋律で解けて行く感覚が解り、幼すぎる身勝

          手な感情が頬を伝い厚いカーテンで閉ざされた室内は色を失い、京一の残り香が少年

          をも包み込みまるで、小学一年生に戻ったような錯覚を起こさせ余計に涙を抑えられ

          なかった。

          だが、彼は気の利いた言葉をかける訳でも背中を撫でる訳でもなくただしっかりとし

          た掌で両肩を掴んでくれた。

          
……それが、真田弦一郎との最初の出会いだった。

          
そう言えば、彼は幼少からある道場に通っていた。

          その道場が彼の家が営んでいたなんて人の運命はどれほど残酷なのだろうか……

          でも、こんな悲しい始まりが無ければきっと、一年後の立海大学附属中学校の入学

          式で再会した時に真田に恋している自分自身には気がつけなかっただろう。

          あれから同じ分だけ二人の頭上には砂が落とされたと言うのに彼の身長はあの時より

          ぐんと伸び肩も広くなったが、その名も面影にも覚えがある。

          
しかし、こちらから話しかけるのも何だか図々しい気がして三年間あまり話したこと

          はない。

          真田にしては実家の弟子だった京一の葬儀に顔を出し、煩く泣いているその妹をあや

          しただけでそれ以降交流が合った訳ではないから記憶の角にあるのかも怪しい。

          
だが、例え、彼に忘れられてしまったとしてもそれはそれで良い。

          否定する訳ではないが初めての出会いが身内の葬式だなんて悲しすぎる、……だか

          ら、この日から「初めまして」にしよう、と心に誓った。

          『
……、今度、卒業式に歌う歌をここで歌ってくれないか?』

          彼女にこっそりと自室の机から持参してくるように嗾けた首領は独り、病室のベッド

          から上体を起こして静かに笑いかけた。

          京一が数日間生活の場としていた個室は他の病棟より少し離れており、それは端から

          見て軽い隔離に似ていた。

          しかし、本人はそんなことには全く興味はないのか、今日の朝食の鮭が塩抜きされて

          あって不味かったとか担当の看護婦は女優の誰々に似ていたなど、病魔に蝕まれてい

          る前と何ら変わらないことを見舞いに来る度に聞かせた。

          もしかしたら、彼なりの決意の表れだったかもしれないが、当時の妹の心境はこんな

          病人がいても良いのだろうか、と真剣にため息を吐いていたのが今となれば莫迦な

          自分に後悔を通り越してすべての時があの日で止まっているように感じている。

          自分がこんなにも自分本位で少しも疑うことを知らない弱い子供だったなんてきっ

          と、天国に居るはずの京一に厭きられているはずだ。

          だが、彼はそれらしい顔なんて見せず妹が音量控えめに卒業式のために三学期に入っ

          てから何十日も練習した曲を歌い始めると、台車の上で空白の原稿用紙に向かいボー

          ルペンを滑らせ始める。

          
それはまるで、カノンのようで自分の歌声を追いかける小さな音が聞こえた。

          他の病室にはあまり見舞いに来る者はいないのか、機械音が時折響くだけで自分の

          声量がこの病院中に響いているのではないかとこちらが不安になることを本気で心

          配していたが、それも取り越し苦労で扉を乱暴に開いて殴り込んでくる無粋な輩はい

          くら待ってもこなかった。

          黄昏を過ぎた壁はオレンジ色から次第に無色に光り、ボールペンが何かに息を吹き

          込めば同時に腕時計の秒針は面会時間終了時まで後、16秒前とカウントダウンを

          刻んでいた。

          それから数日経った立海大学附属中学校の卒業式では、前代未聞の代役の生徒が病

          床に就いている本人の答辞を読み上げたことで一時期有名になった。

          
病院側の配慮か、入院中は京一の見舞いに来る者は家族や親戚以外は一人として来な

          かった

          が、その葬儀に天文学的な人数が家を訪れ自宅ではあまり学校のことを多くは語らな

          い兄がどれだけ教師生徒問わずに好かれていたのかが解り、余計に涙が溢れたことを

          今でも良く覚えている。

          『
なぁ、。ちょっと頼み聞いてくれるか?』

          最期に彼が頼みを口にしたのは単なる式に参加できないためなのか、それとも……

          現への卒業を意味していたのか、今としてはどちらも考えられるし考えたくもない。

          
京一は強い……それは妹の彼女からしてもその迫力が感じ取れた。

          死に対する恐れも怯えも顔に表さなかった彼はきっと、他人である自分達に何も言わ

          なくても心の中ではそう思っていたはずなのにいつも、悲しいくらい笑っていた。

          
だけど、自分はどうだろう。

          いつでも自分勝手でそんなちっぽけな嘘にも気がつけなくて……そんな自分が京一の

          代わりだったら……なんてまた独り善がりな偽善事を呑み込んだ。

          それが重たく食道に押し込んだのが積もり積もったのか、この行く当てもない一方

          通行の贖罪は三年後の期末試験の終わりに訪れた。

          
立海大学附属中学校に上がると、一寸の迷いもなく合唱部に入部届を提出した。

          きっと、何かを声にしていないと気がおかしくなりそうだと理解していたのだろう、

          声の担当が決まれば寝る間も惜しんで稽古をして歌詞と楽譜の暗記に努め気がつけば

          部長……とまではいかないが副部長を任されているのが何とも自分らしくて笑えた。

          あれから何年も経っていると言うのにまだ京一の噂は生きており、兄弟または親戚や

          友人伝いだろうか、このことを知っているのは一種のステータスになっているよう

          だ。

          しかし、例えそれを知っていたとしても遺族である妹が同じ学校に居ることを知って

          いる者は少なく、ましてそれがのことだと言うことは更に少なかった。

          まぁ、校内に正体がバレても別に構わないが学年中から慈悲深い目で見られるのも

          贔屓されていると勘違いされるのもご免なので、敢えて他人のフリをしているが、こ

          の学園に入学することを決めたのは彼女自身だ。

          両親には他校に進学することを勧められたが、の意志は揺るぐことなく結局根負けを

          してしまったのだが、やがて訪れる運命に誰が予知できただろう…。

          『
誠に申し難いのですが……お嬢様は、喉頭がんです』

          
最初は風邪を拗らせただけだと、思っていた。

          
あれは去年、三学期も始まり期末試験がようやく終わった頃だ。

          一月の末に引いてから大分経つのに嗄れ声がなかなか治らず駅前の耳鼻科に出かけ、

          軽い検査をして二週間後に結果を聞きに来るよう母親より少し若い女医に言われたの

          だが、昨夜電話が鳴った後、両親も同伴するよう付け足された。

          がんは遺伝するとTVや学校の授業で聞いたことはあったが、自分にもその系列で

          やってくるのなんて四年前兄が病魔に罹るまでどこかの不幸な家に降りかかるものだ

          と子供にしては可愛くないことを考えていた。

          
「……ここにいたのか」

          微睡みの中、その声に呼び止められ突っ伏していた机の上から顔を上げ、その声の

          主が廊下から教室に入ってくるのをコマ送りのように見ていた。

          
「真田…君……」

          
嗄れた声は告知を受けてから大分進んでいるのか、そんな固有名詞を言うだけでも

          息が苦しい。

          だが、きっと、もうすぐで楽になる……そう思えば、何だが可笑しくて自然と笑みが

          顔も心も全てを包み込み満たされたような感覚が唇を軽くした。

          
「あの、ね……ずっと……好き……だっ、たよ……初めて、慰めてくれ……た時か

           らっ…ずっと」

          
今なら、同じ病魔に蝕まれ死を目前としている今なら解るなんて遅すぎる。

          
咳き込む口を掌で抑えながらごめんね、と届くはずのない謝罪を心の中で述べた。

          
彼だって、これが運命だなんて受け止めていなかった。

          
まだ十五という若さだ、やりたいことだって数え切れないくらいあっただろう。

          もしかしたら、妹のように心を許した存在だっていたかもしれないのに、京一は笑う

          ことで全てを受け止めようとしていたのかもしれない。

          
「大丈夫か、っ!」

          遠のく意識の中、彼が自分より二・三倍くらい大きい掌で背中を力強く撫でられ最

          初は痛みを覚えたが、それも直にどうでも良くなって重たくなった瞼を閉じた。

          
ごめんね、今まで一緒に連れて行ってくれなかったことを恨んでいて……ごめんね。

          
……イヤだ、こんなのはイヤだ。

          
まだ、自分は何もしていない。

          確かに、立海大学附属中学校の生徒として入り、兄が出席出来なかった卒業式に

          参加し気持ち的に彼を解放したかったが、本当の理由は他にある。

          しかし、それもいざとなったら口にすることが怖くなって誰もいなくなった教室に

          忍び込み、彼が一年間生活を共にしていた机に突っ伏し兄が迎えに来てくれるのを

          期待していた。

          
……さようなら。

          その言葉は悲しくて、寂しくて……もう、二度と会えない意味だけれど、いつか

          また会える気がする。

          
いつまで掛かるかは解らないけれど、その時、今日の返事が聞けたらいいな…。

          
、そろそろ帰るぞ」

          
「あっ、待って!」

          卒業式当日、三年の全ての教室では真新しい卒業アルバムの空白部分に殴り書きの

          ようにコメントを書き合う恒例の行事が終了してもまだ続いていた中、一人の女子

          生徒を呼ぶ声が妙に響いた。

          今日で本当の意味で最後の中学生活に花を咲かせていたクラス中がその声に振り

          返ると今度は冷やかしの野次が飛んできたが、お馴染みのたるんどる、が勃発しその

          場から一気に熱が引いたのは言うまでもない。

          
昨日の内に全て終了した飾り付けが今は、何だか取り残されたように見える。

          このまま春休みに入り、来月の数日後には自分の座っていたパイプイスにまだ制服が

          着慣れていない新入生の誰かが腰を下ろすだろう。

          
「…全く、あの連中と同じ学校に入学するかと思うと、気が滅入る」

          
あの後、保健室にわざわざ運んでくれた真田がずっと彼女の手を握っていた。

          「京一さんの葬儀では俺と初めて会ったと言ったが、本当は違う。小学三年の時、

          剣道大会の小学部で優勝した俺におめでとうと兄に連れられて言ってくれたお前に

          一目惚れしたのが本当の出会いだ」

          目覚めたの頬に掌を当て、もう一人で泣くなと言ってくれた彼のために涙を

          一つ二つと零した。

          
ありがとうっ……。

          
ごめんなさいっ。

          
もう、彼の後を追いたいなんて言わないからどうかこれからも愛して下さい。

          
そのお返しに、私は貴方をずっと愛するでしょう。

          
桜が散るように、私の命も……この声でさえいつか枯れてしまうでしょう。

          
でも、私は不思議と怖いとは感じていません。

          だって、私の命も……この声でさえ枯れるのならば、私はずっと真田君を愛しながら

          ずっと待っていたいと強く思うから。

          ―――終わり
―――

          こちらは、私が参加させて頂きました「FIRST LOVE STORY」様への

          参加作品として作業しました。

          季節に合わせて卒業ものにしてみたのですが、ゆっくり作業しておりましたら、どち

          らかと言うと、春休みシーズンで本当に申し訳ありません。

          
それでは、ここまでご覧になってくださり誠にありがとうございました。