女神のため息

          11月8日にもなると、秋と言った言葉は何処へやら遠くに消え失せてしまい、

          気の早い場所では霜が降り始めていた。

          街中ではマフラーやコートと言った冬物が目立ち、恋人達は白い吐息をルージュに

          雪を待ち望んでいる。

          後一ヶ月もない、12月。

          彼女はそして、彼は何を思うのだろう。

          ……、僕たちしばらく会わない方が良いね』

          海沿いにあるはばたき市でも大分風は寒くなり、晴れてもなかなか布団から

          顔を出すのが辛い季節となった。

          自室で空気清浄機と窓を開け放つことでどうにか油絵独特の臭いを最小限に防いで

          いるが、それでも部屋の隅々に留まっている残り香が強くて、部屋の外にまで

          広がってしまう。

          「こほっこほっ...姉ちゃん、このくせぇ臭いなんだよ?…こほっほっ」

          「臭いとは失礼ね!まぁ芳しいものとはお世辞でも言えないけど…」

          「……どっちだよ、まったく」

          文句を言いに来た扉に手を置いたままため息を吐いた。

          唇を尖らせるわけでもなく、頭を左右に振る姿が何とも憎たらしい。

          「それに尽、またノックしなかったでしょ!」

          「あぁ、すりゃいいんだろ」

          いやにつまらなそうな顔で遅くなったマナーを内側からする。

          「そうじゃないでしょ!ちゃんと外から」

          「ていうか、姉ちゃんどうしたんだよ?最近、休みの日はこんな臭いを家中に

           ばら撒いているぜ」

          「えぇ!?ちゃんと空気清浄機とか使っているのに…」

          「嘘だけど、な」

          真っ赤の舌と共に脱力感が絵筆を握り締めていた彼女から体中の力を瞬時に

          奪い去る。

          カンバスに載ったどんな色よりも鮮やかなピンク色の髪が白い頬を撫ぜ、

          次にそれが姿を現した時には朱に変わっていた。

          「尽っ!」

          眉を上げ、イスから立ち上がろうとするといつもは逃げるくせに、我慢ができなく

          なったのか今日は小走りに駆け寄り臭いの正体を突き止めようとする。

          「あ、こら!」

          「んげっ、三原……姉ちゃん、こんなもの描いていたのかよ」

          「こんなものとは何よ!それに三原君はアンタより年上でしょうが。呼び捨てに

           しないで!!」

          へぇへぇと、また気の抜けた声を返した六歳下の弟は未完成なそれを見ている。

          真っ白な布の上に描かれた少年はその光景を見ているかのように満面の微笑を

          湛えていた。

          色素の薄い髪は、まるで神話の世界から生まれ出たとでも言うようなウェーブを

          背中まで伸ばしている。

          これで化粧をして女装をしてしまえば、全世界の男性諸君が見間違えてしまう

          だろう。

          そして、この絵画の著者であるは、その彼に恋をしている。

          それは隠し切れない事実で彼女の親友は、尽はそれを察しっている。

          だから、一人は本気で三原色と言う男を見ているのだが……

          「で?何で、アイツを描いているわけ?しかも、ご丁寧に色付き」

          「だからっ!……もうっ、何だって良いでしょう!!」

          「良かねぇよ。俺、姉ちゃんには幸せな恋をして欲しいんだ」

          「尽…」

          小さな体で自分より少し大きい少女の目を見上げる。

          赤らんだ頬で隠したつもりなのだろうが、何年もずっと一緒にいる弟には

          解っていた。

          その瞳は涙腺を潤ませており、細い糸が切れてしまえば泣き出してしまいそう

          である。

          「なぁ、姉ちゃん。そろそろ俺に話せよ。何があったのか」



          ……、僕たちしばらく会わない方が良いね』

          『えっ?』

          そう言われたのはいつもの帰り道だった。

          切り立った崖と言うわけではないが、急な坂道の上にまるで孤城のように建設された

          はばたき学園の三年生であるは、その隣を歩く自分より長い影に顔を向ける。

          瞳は不安の色が浮かんでおり、時間を刻む度にそれは濃さを増していく。

          アスファルトの粗い目の上にローファーを乗せれば、ジャリと言う短い音がして

          それとほぼ同時に小さなものが足元から転げていくのが解った。

          彼は今、何を言ったのだろうか。

          右手に鞄を握り閉めているはずなのに今は、そんな感覚がない。

          体の力が徐々に抜け落ちていく感じというのはこういうものだろう、と他人事の

          ように思う。

          驚きで微かに開いた唇には、どうしてなんてありふれた言葉が出陣を今か今かと待って

          いるというのに、それは一向に発せられなかった。

          声が出ない。

          口内が乾いてくるのがいやで何度も生唾を飲んでも、喉に溢れかえった疑問形を

          彼の耳に届けることは出来ない。

          長身のシルエットの主は、とても男性とは理解し難いほどの美貌に恵まれた表情を

          曇らせたままこちらの答えを待っている。

          眉を強張らせ瞳を細めてこちらを見る仕草は、幼子を想像させ彼女の開花し始めている

          母性をくすぐった。

          そんな顔をされたくなくて、そんな目で自分を見て欲しくなくて思ったとおりの言葉が

          心と喉の間を行ったり来たりを繰り返している。

          十月も終わり日の入りが早くなり、左手首にはめた腕時計はもうすぐ五時になろうと

          している。

          闇の色に戻ろうとする東から追い出された日が西の隅っこで最後の火を燃やして

          消えた。

          周囲はそれと同時に鎮まり返り、今度は音と照明器具だけが煩くなる番だ。

          それは、今の彼女にも言えて先程から耳鳴りのようにどうしよう、と行き場を失った

          言葉が溢れ返っている。

          一年生の頃からずっと美術部で腕を競っていた。

          高校に入ってからやり始めた芸術の世界には、本来ならば興味はない。

          人物画が良いだの風景画が良いだのなんて評論家に任せていた少女がいきなり未開拓な

          地に降り立ったのは、単なる偶然だったのかそれとも運命だったかなんてわからない。

          ただ、言えるとしたらそこに彼がいたと言うことだけだ。

          『うん、そうだね。では僕はもう、行くよ』

          『あ…、うん』

          揺れる瞳のままで数分間、三原はそれを名残惜しむかのように見つめると、踵を返して

          独り歩き出してしまった。

          取り残された少女は声を掛けたくてもならない心に怒りを募らせながらどうにも

          ならないことに、唇を強く噛んだ。

          目の前にはしなやかに歩く愛しい青年の背中。

          心の中で何度も行かないでと呟いているのに、そんな言葉が届くわけもない。

          色素の薄い長い髪がなぜか、別れを告げているようだったことを今でも覚えている。

          『やぁ、、これから僕の家に来てくれるね』

          三原から連絡が入るのは本当に久しぶりだった。

          尽の頭を撫で、切なそうな顔をして断った彼女はそれでも追い駆けてきそうな弟から

          逃げるように家を飛び出し、臨海公園地区にあるショッピングモールを目的もないまま

          歩いた。

          その度に彼との思い出がどんな店を通り過ぎて胸が今よりもずっと苦しくなる。

          あのウィンドーに飾られてある洋服の色を気に入ってくれたっけとかあのミュールが

          似合うって言ってくれたなどなど。

          彼女の中で彼が知らぬ間に大きくなっている。

          そう言えば、いつの間にか三原に呼び捨てにされていた自分の名前。

          初めて聞いた時には特に何も考えてはいなかった。

          階段の手すりに凭れながら手提げカバンの中から紅色の携帯電話を取り出し、

          待ち受け画面に目を合わす。

          そこには以前、彼から添付で送られてきた16歳の三原色が満面の笑みを浮かべている。

          「会いたいなぁ…」

          事はその至って普通な言葉から始まった。

          待ち受け画面がいきなり着信を受け取ってしまうまで、は驚かなかった。

          しかし、その相手とは…。

          「三原君!?」

          場所もわきまえずに大声でその名を呼ぶ。

          その声はとても信じきれず、と言って嬉しくないわけない。

          「もっもしもし」

          震える声で受話器を耳に押し当てる。

          彼の声が聞きたい。

          アレから学校ですれ違うことさえめっきりなくなってしまった。

          そうなると当然、部室にも出てこないのだが、部長は贔屓しているのか諦めているのか

          三原の話題を一切口にしようとはしなかった。

          それはには関係もないことだが、いつの間にか呼ばれ始めた名前だけが自信を淡く

          脳裏に過ぎらせた。

          『やぁ、。これから僕の家に来てくれるね』

          あの久しぶりの声は何を意味しているのだろうか。

          懐かしいあの優しくて独特的な言葉遣い。

          三原色だからこそあんなにすらすら言えてしまうのだろう。

          別段、ショッピングモールに何の用事もなかった彼女は電話が切られてしまうと、

          とぼとぼと目的地に向けて歩いた。

          きっと…、自分を待っているのは正確な形にされた「別れ」だろう。

          これまで彼から「好き」と言う言葉を形にしたことはなかった。

          自分はまわりから考えていることが解りやすいとよく言われている。

          だから、既に無意識の内にこの気持ちが表情に言葉に出てしまっているからなの

          かもしれない。

          それを三原が疎ましく思っていたら…。

          怖かった。

          その次を予想することを体が拒んでいる。

          ショッピングモールから数分間、重たい足を歩かせた目的地にはいかにも周りとは違う

          気を放った一軒の家の前に着いた。

          ここが、彼の家だ。

          何度も深呼吸をしてから震える指でインターホンを押す。

          ピンポーン……。

          気持ちとは反対に明るい音が三原邸に響く。

          その音に今更驚いて指を離して逃げたい気持ちで一杯になる。

          だけど、そんなことをする勇気すら今の自分に用意されていなかった。

          だね。さぁ、入って。もう、僕を待たせるなんて罪な人だね』

          「ごっごめんなさい!」

          豪華な門が自動的にガラガラと音を立てて開く。

          それは二人の終曲を現しているようだった。

          「やぁ、。待ったよ!僕は君を待った」

          「ごめっ」

          「でも僕は、君を待つのが楽しいんだ。……不思議な人だね、君は」

          「三原君...」

          彼の部屋の扉を開くと、すぐ傍に立っていた背後で結んでいた長い髪から紫のリボンを

          外して少年は微笑んだ。

          想像していた言葉とは違ったいつもとは変わりない返答に先程とは違ったものが

          彼女を困惑させる。

          なぜ、三原はそんな優しい眼差しを、声を自分に向けてくれるのだろうか?

          最近の不調の原因、三原色。

          二人とも解りやすい性格だから既に弟だって周りの友人達にも伝わってしまって

          いるだろう。

          それを知らないのは当の当人達くらいだろう。

          「に見せたいものがあるんだ。こっちに来てごらん」

          彼女が返答に困っているとは知らず、まるで子どものようにはしゃいでいる彼は

          すっかり冷え切った手を握り、白い布で覆った一つのカンバスの前に小走りで

          連れて行かれる。

          その動きと共に揺れる長い髪が頬に当たる。

          正体が正体だけであって大して痛くはなかった。

          だが、心の中ではこれから何が自分を待っているのか、と不安だらけだ。

          今更、競争のつもりで呼んだ?


          だから、近づけさせなかった?


          そんなの身勝手だし、冷たすぎるし、悲しすぎる。

          三原にとって自分は単なる競争相手だ。

          そんな彼の作品に傾向に自身に恋をしてしまった愚かな自分。

          涙が溢れそうになるのをぐっと歯を噛み締めて耐える。

          こんな所で泣いてしまうのは悔しい。

          どうせなら……そうだ、誰もいない夕焼けの公園で声を殺して泣こう。

          「良いね?じゃ、行くよ」


          バサッ。

          三原の楽しげな声と共にカンバスに被せられた布が外された瞬時に瞳へと飛び込んで

          きたものが信じられなかった。

          真っ白な布から現れたもの、それは、夕焼けの彼方に沈みかけている太陽をじっと

          見つめている女性の絵だ。

          横顔は何処か切なげであり、また悩ましくもあり、微妙に両肩を下ろしている。

          その肩にはどこか見覚えのあるショールを羽織っており、茜に染まったワンピースと

          一緒に風に靡いていた。

          「…これは?」

          やっと言葉にする事が出来た声でそう尋ねる。

          カンバスに描かれた女性、それはに良く似ていた。

          決して自惚れていない証拠が、今年のホワイトデーにプレゼントされたシルクの

          ショールである。

          期待と不安が入り混じる瞳で隣にいる彼を見た。

          「解らない?自分が」

          その頬は先程とは違ってこのカンバスのような紅が浮かんでいる。

          (……ズルイ)

          そんな顔をされては何も見えなくなってしまいそうだから。

          「これはね、女神が太陽神アポロンに恋をしている絵なんだ。そして、アポロンもまた

           彼女の虜になっている」

          「っ!?」

          「僕はね、ずっとマミーしか女神にしなかった。だけど……今、僕の中にいる女神は

           君なんだよ」

          その言葉を偽りと言わせないためかいつの間にか背後に回された腕により

          抱きしめられる。

          涙が頬を伝う。

          しかし、彼女には嬉しさと一緒に先程までの辛さからまだ信じられなかった。

          「それならっ……何で最近、私を避けていたの?」

          息が出来ないくらい苦しい気持ちが喉からのし上がってくる。

          をびっくりさせたくてねって言うのもあったけど、本当は怖かったんだ」

          「君にこの絵をプレゼントされて嫌がられるのが怖かったんだ」

          「そんなことっ」

          「うん、解ってる。はそんなことしないって。でも、人って恋をしてしまうとみんな

           臆病になってしまうんだ。

           もし、予想とは違ったことがあったらってそんな些細なことさえ」

          言い終わると、疲れ果てたように笑う。

          きっと、三原も自分と同じ気持ちで苦しんだり悩んだりした。

          だから、今度は勇気を持たなくては。

          「プレゼントって?」

          彼の胸からゆっくりと顔を仰ぐ。

          そしたら、俯いた三原とちょうど瞳が合うから。

          「知らない?今日は11月8日。君の誕生日なんだよ」

          ああ、そうか。

          だから、彼はこのプレゼントを仕上げるためにあんなことを言ったのか。

          見上げた目の下には薄っすらとクマが出来ている。

          女性のような整えられた顔立ちときめ細かい肌がすぐ傍にある。

          「ごめっ」

          「謝らないで。もし、謝りたければ微笑んで。僕のために」

          いつもは絵筆を持つ細長い指が彼女の顎を捕まえる。

          だが、は、拒否はしなかった。

          「ねぇ、教えてくれる?あの絵のタイトルは?」

          「『女神のため息』」

          返答と共に唇を吸われた彼女は答える代わりに三原の背中を抱きしめ返す。

          カンバスの中の二人にも幸せな恋をして欲しい、と彼の胸の中で願った。


 


          ―――・・・終わり・・・―――



          ♯後書き♯

          今作は私の友人である「さぼってるサボテン」の管理人の霜月れな様の誕生日作に

          お送りしました。

          久しぶりにして初のときメモGS三原Dream小説、いかがでしたか?

          今回はBDに間に合わせようとしたのですが、毎回の如く拘ったり本業が忙しかったりで

          結局、ほぼ一週間遅れになってしまいました。(爆)

          しかし、この暗い出だしをどうにかしろよ、と仰る方もおられるかも、と書き上げて

          いる際も考えていました。(苦笑)

          まぁ、それはこのサイトのモチベーションなのでご了承を♪(逃)