ニセ彼女

          男女問わず浮き立っていたバレンタインを過ぎた数日、立海大学附属中学校は

          期末試験を終え、残すイベントは卒業式くらいだった。

          ホワイトデーまで待ってくれないのは一種の優しさかそうでないのか、女子生徒に

          とっては好きな男子生徒に告白できる最後のチャンスだと言う考えは古いだろうか。

          だが、それはどうであれ、このイベントに何かを託しているのはきっと、男女も

          関係ない。

          刻々と過ぎて行く日々にカウントダウンを覚え、廊下をすれ違うだけの生徒や

          いつもは嫌だった教師の授業も色彩を帯びて見える。

          香りの強いアールグレイから比較的抑えめなダージリンの色に変わる頃、全ての部活動

          が引継を終えただろうテニスコートから何やら鈍い音が短く響いた。

          昭和から平成に変わった今の世はちょっとしたことで体罰だイジメだと騒ぎすぎるが、

          ここ立海男子テニス部では掟と言うものがあり、それに反した者は容赦なく鉄拳が

          下されるので耳にしたとしてもいつものことだと高をくくる者が多い。


          「やめてぇ!」


          しかし、少女の悲鳴に似た叫びは校庭からかなり離れた場所にあるテニスコート内に

          響いただけで、誰かに届くはずもない。

          長い髪を乱して緑色のコートで仰向けになっている銀髪の少年に駆け寄ろうとするが、

          誰かに両肩を強い力で押さえつけられた。


          「やめたまえっ!君は仁王君に何をされていたのか、解っているんですか?」


          「放して下さいっ!」


          押さえつけられた反動でガクンとフラついた。

          細身の柳生のどこにこんな力があるのだろう、身体を大きく揺らしても全速力で

          前に進もうとしても位置は先刻から変わらない。

          握られた肩に痛みを感じるほど彼が本気だと言うことが解り、目の奥がジンと

          熱くなる。

          だが、今は泣いている場合ではない。

          視線を感じ、季節外れな緑色のコートに向けると、その上で倒れていた青い瞳と

          ぶつかってドキッとした。

          真冬の早朝に張った夜雨の名残みたいな冷たさが一瞬にして血が上っていた

          心が氷結し、同時に涙腺で堪えていたモノも引っ込んでいく。

          ああ……怒っているんだ。

          150pの身体を余計に小さくさせ、その瞳に耐えきれなくなったのを理由に

          して俯き、シャッターのように瞼を下ろした。

          この世界は居心地が良い、そう思わなくなったのはつい最近だったかもしれないしそう

          でないかもしれない。

          目を伏せればそこは自分しか知らない空間で、そこには音も気温も存在していない。

          侵食は当たり前だが、何かを考えたい時は大抵目を閉じていた。


          『…


          でも、もう、あの空虚な世界には戻れない。

          瞼を閉じた先には自分の他にもう一人住人が増えており、やはり彼は怒っていた。



          その少年は、太陽の光が雲の縁を掠めたような銀色の髪をしていた。

          生まれつき心臓の弱かったは中学一年のちょうど今頃のような風の吹き荒れた日に

          倒れ、そのまま渡米して移植手術を受けた。

          しかし、日本に戻ってきた少女に以前の席はなく、代わりに待っていたのは

          多額の医療費だった。

          周りの大人は「子どもはそんなことを気にしなくていい」と言うが、これは自分のこと

          だし最低限のできることくらいは力になりたいと思っている。

          だが、現実的に病み上がりの小娘に出来ることは限られていて、ようやくふらつき

          ながらも二足歩行が可能になった状態で日本に戻ってきた彼女には、今までの遅れを

          取り戻すしかなかった。

          中学二年の夏休み手前の六月、内申を気にした両親が復学させてくれたが、療養生活の

          大半を仕事で忙しい両親を待ちながらリハビリを兼ねて簡単な家事の手伝いをしたり、

          読書をしていたりとして以前よりも人見知りが激しくなったのを改めて実感した。

          今では隣の席に誰が座ってもそれが当たり前に変わったが、すっかり重たくなった口は

          なかなか軽くはなってはくれない。

          それは受験を控えた三年生になっても治る事が無く、入院中からジャンルを問わず

          本を読みでいたお陰で俗に言う「眼鏡っ子」になってしまった。

          今年の健康診断で遠視だと言う結果が出てしまい、どう報告して良いものかと悩んで

          いたら運悪く三者面談で担任がその話題を持ち出し、帰宅後はこっぴどく叱られ、

          その週の土曜日に店まで連行されることになった。

          当日、駅前のショップでがため息混じりで選んだ眼鏡は銀縁で、少なくとも今時の

          女子中学生が好んで掛けていない素敵なデザインだ。

          しかし、周りと距離を置いている彼女にしてはちょうどいいカモフラージュで、

          レンズ一枚に映し出された世界はやはり、望んでいた色をしてはいなかった。


          「おや?眼鏡を掛けられたんですね、さん」


          「はっ、はい!?」


          二月上旬のある朝、三年A組の自席に学生鞄を置くと、斜め後ろからいきなり声を掛け

          られて端から見れば滑稽なほどに両肩を怒らせ、華奢な身体を固まらせた。

          中学最上級生になって手に入れた自由は柔軟さを知らない翼が重く、ちょっとした仕草で

          さえ妙に躊躇う。

          その理由が今では、斜め右の後ろの席から少し厚めなモノを机に置いてから目の前に

          現れた男子生徒も関係していると知ったのは、つい最近の事だった。


          「あっ、申し訳ありません。いきなり声を掛けて驚かせてしまったようですね」


          「い、いえ!……あのっ、お、おはようございます」


          度盛りながら必死で頭の中で最初に思い浮かんだ言葉を口にするが、内心次に何を話す

          べきか焦っていた。

          柳生比呂士は同い年にしては随分落ち着いた物腰で年下年上の関係なく紳士的な

          態度で接するので、ファンの数は校内に留まらない。

          銀縁のとは違い、フレームのない明るい印象を受けるモノだが、彼の場合、度が強いのか

          その瞳まで確かめることは横顔を盗み見る以外常人には許されていない。

          柳生の性格ならば、いいですよと言ってくれるかもしれないが、それはそれで

          結構勇気のいる頼みだ。

          気軽に言伝を頼まれたかのように話しが出来たら良いのだが、人間より教科書や本と

          関わっている方が多い彼女にそんなマネはできない。

          右斜め後ろの席をチラリと見れば、やはり机の上には少し分厚い本が置かれてある。

          自分も他人と話さない分、ジャンルを問わずよく本を読んでいるが、彼の場合は

          ミステリー小説に限定されていると知ったのは三年連続抜擢された図書委員で

          得た知識だ。

          カウンターのストックに保存してある貸し出しカードには、が覚えている著名人の名前が

          綺麗な字でビッシリ並べられてある。

          そう言えば、当番の日に図書室にやって来た事があったが、その時もあまり生徒達が

          寄らないミステリー小説の棚に向かっていったのを見た事がある。


          「おいっ、柳生!漢和辞典貸してくれんか?」


          ちょうど彼女が何かを言いかけて口を開いた刹那、教室のドアから良く響いた声が

          全ての雑音を掻き消した。


          「おはようございます、仁王君。いつものことですが、声が大きいのは皆さんの

           迷惑になりますから控えて下さい」


          「わかっちょるわかっちょる。で、漢和辞典貸してくれんか?弟が勝手に学校に持って


           行ってな、俺、次の授業で当たるんよ」


          「……わかりました。すみません、さん。私はこれにて失礼させて頂きます」


          「い、いえっ!お気になさらずっ」


          軽く会釈する彼につられてお辞儀を返してしまった。

          朝から何をやっているのだろう、そう心の中でため息を吐くを一人の少年は獲物を

          見るような目で視ていた。



          「よう。こんな所で読書か?」


          その日の昼休み、掌サイズの小さめのおにぎりを食べ終わると鞄の中に常備して

          いる本を一冊取り出し、教室を小走り気味に飛び出す。

          自分を気に掛けるクラスメートなどいないと知ってはいるが、改めて実感するのも今更

          過ぎて振り返る気にもなれない。

          教室を出て真向かいにある階段を慣れた足取りで登り詰めると、息が上がる前に

          屋上の分厚い扉が見えてきた。

          入学当初は小学校の二倍もある一段に踊り場まで辿り着く頃には疲労の色を浮かべて

          いたが、今はこの上がり下りも軽く、その反面哀愁を感じる。

          3年間はあっと言う間だと誰かが言った言葉がその度に甦るが、大して他人と接触して

          いない彼女がその固有名詞を海馬の棚に保管することを望まなかった。

          屋上には復学して大分体力が付いた時からリハビリも兼ねてよく来ている。

          最初は上り下りだけでのびていたが、屋上の扉のノブをダメ元で押してから雨や雪で

          座れない時以外はここで昼休みを過ごすのがの日課になっていた。

          そう言えば、もうこの場所に訪れることができるのも指で数えるほどだ。


          「もうすぐ卒業かぁ…」


          読みかけの本に栞を挟み、空を仰いだ。

          少し丸みを帯びた四角いレンズ越しに見上げた先には、どこまでも広がる青さと

          点々とした白い雲がある。

          風向きが変わり、太陽の方に呼ばれた羊が一瞬その端を銀色に光らせる。

          もうすぐこの景色でさえ屋上で見られなくなるのか、そう両肩でため息を吐いた時、

          今まで自分一人だと思っていた彼女に誰かが話しかけてきた。


          「えっ……と、仁王君」


          最初はいきなりのことで息を止めてしまったが、恐る恐る振り返った先にいる人物を

          確かめればそれも安堵を吐き出してその名を口にする。

          いくら教科書や本に登場する固有名詞でなくとも、自分が何年かお世話になる教師や好意

          を温めている柳生が親しみを込めて呼ぶ生徒の名前くらいは覚えている。


          「おっ?俺のこと知っとるんか」


          「……今朝、A組に漢和辞典を借りに来ましたよね?」


          疲れが出た。

          他人とはあまり関わった事がないから仕方がないのかもしれないが、この返事は

          少しカチンと来た。


          「おお!そうじゃったそうじゃった。柳生の隣にいたさん」


          「何故、私の名を知っているんですか?」


          彼はわざとらしくオーバーなリアクションをして思い出した素振りをして見せたが、

          の人形みたいな顔に笑みは浮かばない。

          何を自分に言いたいのだろう?

          仁王は不満そうな目をすることなく、友達同士が内緒話でもするように彼女の隣に

          しゃがみ、単刀直入に言うがと囁いた。


          「お前さん、俺と付き合わんか?」



          あれから何日経った事だろう、彼のお陰で残り僅かな中学生活が騒がしくなったことは

          言うまでもない。

          クラスメートには奇異な目で見られ、学年問わず遠目で何かを囁かれ、仁王に

          告白してフラレた女子生徒が三年A組にまで押しかけてくるイベントもあった。

          彼の真意はこうだ。

          一年生の頃から告白され続け、ずっと断ってきたが最近では逆ギレする相手が多く、

          今日から卒業式が終わるまで恋人のフリをしていて欲しいらしい。


          「それなら他の人に頼めば良いでしょ?私には人を騙すような演技力はないわ」


          読みかけの本に視線を戻したが、正面に回った仁王は大して悪気を感じていない様子で

          宥めを口にするが、元より聞く耳はない。

          数十ページをパラパラと捲り、栞を表紙の裏に挟んで綴られた言葉を記憶の中から

          探し出す。

          仕方がないなと言う言葉が聞こえ、ようやく諦めてくれるのかと安堵した刹那、

          彼はとんでもない事を言い出した。


          「仕方ないのぉ。俺からアイツに『がお前のことが好きだ』って言って

           おったって赤裸々に話といとくか」


          「なっ!?」


          膝に本を置いているのを忘れてその場を立ち上がると案の定、バサッと言う音が

          足下で聞こえた。

          徐々に頬が熱を上げていくのが解る。

          自分がこんなに彼の事を想っていたんだ、そう思ってはさらにこみ上げてくる

          感情が誰かの一部だった心臓を速くさせる。

          移植した側にもドナーにも互いの詳細は知らされない。

          両親が医師に知らされたのは17歳の女性だと言うことだけだった。

          彼女が失った時間を今、針を少し戻して生きている自分が柳生のことを好きなのは

           本当に本人のモノかと時折、疑いたくなるのはドキュメンタリーで特集していたドナー

          の感情が移植した部分に残されているのではないか、と言うモノを見ていた所為だ。

          だが、共に生きると決めたあの時からもう一人の感情が自分の中で生きていても

          良いんじゃないかと最近では考えるまでになった。

          しゃがみ込んでいた仁王はゆっくり腰を上げ、先刻の彼女のように空を仰ぐ。

          その先には飛行機雲が何も描かれていないキャンパスに、どこまでも続く細長い

          線を引いている。


          「どうする?ニセ彼女をするかそれとも…」


          「やりますっ!」


          彼にその言葉の続きを言って欲しくなくて返した言葉に、思わず力が入ってしまったのが

          運命が動き出した瞬間だった。

          あれから恋人らしく見えるように努力した。

          携帯電話を持っていないと言う年頃の女子中学生らしくないに、その日に買い与えた

          淡いピンクの新機種を持たされてお互いのアドレスを交換し、連絡用と恋人同士用とで

          使い分けている。

          もしも誰かに覗き込まれても大丈夫なように「・」と「−」を件名の文末に付ける

          ことで可能にし、登下校は勿論二人並んで帰った。


          「私の方からも提案があるんだけど…」


          の中にいるもう一人の名前の知らない誰かが目覚めたのは、仁王と付き合い出した

            帰り道の誰もいない公園に立ち寄った時だった。

          それは綱渡りを自分で望んでいるような挑戦的なモノで、いつもの彼女ならば

          絶対口にしない言葉だ。


          「仁王君にはメリットがあって、私はデメリットの条件を付けられるのは

           割に合わない。だから、私にもそれ相当のメリットを頂くわ」


          「ほぉ……これはこれは。言うてみ?」


          しかし、強気な発言に彼は口笛を吹いただけで驚きも動揺しようともせず、どちらかと

          言えばその表情はとても楽しそうだ。


          「彼のこと教えて欲しいの。私は教室での柳生君を知っているけど、仁王君なら

           親友なんだから結構知っていると思うからプライバシー以外のことを教えて」


          「プライバシー以外のこと」と先に釘を刺して置かないと彼の事だ、盗聴器を

          柳生家に取り付けることまではしないだろうが、徹底的に調べ上げそうで怖い。

          案の定、仁王は返事の変わりにそこを強調した。

          これで契約は本当の意味で成立した、彼は恋人用のメールの次に約束通り柳生との

          やりとりなど文末に必ず「消すように!」を付けて送ってくれる。

          だが、それが自分で望んだ事なのにいつからだろう、読み終えた情報が悲しく

          感じ始めるようになった。



          「……何でコクらなかった?」


          いつものように部活終了時まで読書をしながら待っていた時、その音は聞こえてきた。

          他の部員達は何十分も前にすれ違ったのを本に落とした瞳で確認した。

          息を乱してテニスコートに走り、フェンス越しに見えた映像が信じられなくて

          瞬きを繰り返したが、何度繰り返してもそれは変わらない。

          あの普段は紳士で誰かを傷つけなそうのない彼が仁王の胸座を掴んでいる。

          それがどうしてなのかと考える前に、こんなことがなかったら一生縁がなかっただろう

          グリーンが眩しいテニスコート内に侵入し、倒れ込んでいる彼に駆け寄ろうとするが、

          誰かに両肩を押さえられてはっと我に返った。

          ここには柳生がいる……なのに、どうしてしまったのだろう?

          ときめくばかりか気持ちは、頬を抑えてこちらを睨んでいる彼に向かっている。

          彼は何故か契約のことを知っていたが、話しがしたいと頼むと渋々承諾して帰路に

          着いてくれた。


          「せっかく俺が痛い思いまでしてチャンス作ってやったってのに」


          「まさか、柳生君にあのこと話したの、仁王君?!」


          スカートを気にせずコートの上に正座をして彼の頭を膝に載せ、殴られた方の頬に

          部室の近くにあった水道で冷やしたハンカチを当てると、軽く呻き声を上げた。


          「心配しなさんな。の条件のことは話しておらん」


          そのまま絶句しているを嘲笑うように顔を歪めたが、少し動かしただけで痛むのか

          片目を瞑る仕草に問いただすような気持ちは起こらなかった。


          「言っても良かったのに……」


          これは本当のことで、あの日から彼女の心には仁王が住んでいた。

          もう腫れは十分引いただろう、水浸しのモノを昼食のおにぎりを包んでいたラップの中

          に詰め、まだ赤い頬を乾いた別のハンカチで優しく拭ぐうと立ち上がる。


          「明日、二人で謝ろう。柳生君ならきっと解ってくれるよ…」


          「おいっ!」


          仁王に背を向けたまま歩き出そうとした彼女に彼の苛立ったような声色が呼び止め、

          反射的に振り返った。

          そこには、立海大学附属中学校男子テニス部指定のユニフォームをラフに着崩している

          銀髪の少年がこっちを見ている。

          その姿は先刻までコートに倒れていた時のように鋭く、何かを言いたそうな瞳だ。


          「……答えろよ?」


          「…………あ、そうだ。携帯も返さないとね?もう「ニセ彼女」じゃないもんね」


          間を開けて鞄から取り出そうとして駆け寄ってきた仁王に抱きしめられ、

          唇を奪われた。


          「…んんっ」


          最初は触れるだけの可愛いキスだったが、次第にディープなモノに変わり、口内に

          するりと侵入してきたねっとりとした粘膜に舌を絡め取られ、目眩に襲われた時みたい

          に頭がくらくらしてきた。

          それが足下にまで及び、倒れる!……そう、身構えていたはずの身体に加えられたの

          はジャージの中に潜められた彼の逞しい腕だと解り、それに委ねるの瞳は自然と

          涙を頬に落とす。


          「なっ!?何で泣いてるんだよ!!」


          ようやく離された唇に気づいて瞳の端を触ってみると、指摘された通り濡れている

          ことを確認してから慌てた様子の仁王のために笑って首を振った。

          「ニセ彼女」から本当の恋人同士になれることを喜んでいるのだと、今度は迷わぬよう

          まだ余韻の残る唇に想いを託した。

          言葉ではまだ言えそうにないから…。






          †終わり†

          #後書き#

          こちらは「lovesick ster」様への参加作品として作成させて頂きました。

          私の仁王Dream小説で皆様に楽しんで頂けると光栄です。

          それでは、良い経験をさせて頂いたことを心より感謝しております。