渡り廊下に射す西日


            「ねぇ、さん」

            三月も半ば、世間は卒業シーズンを迎えていた。

            先日も、駅から色とりどりの袴姿を公衆に披露する女子大生が

            何十人も降りてきた。

            何百年経とうともこの光景はいつまで変わることはない古より伝わる

            儀式で、それを誰も変えることが出来ないと解りきっている。

            だが、明日にはこの三年間の学生生活を捧げた立海大学附属高等学校を

            去るは毎年この日が来るのを拒んでいた。

            しかし、来月にはエスカレーター式で附属の大学に入学することが

            決まっている。

            普段ならば帰宅生徒達で一杯になる渡り廊下が今は、夕日でオレンジに

            染まるこの場所に一人窓から見慣れたテニスコートを眺めていた。

            高校時代で一番青春したであろう場所も今日で見納めだ、お昼を摂りに

            一度家に戻ったが、が中学一年生の頃両親が離婚したため父子家庭と

            なった家に帰っても誰かが首を長くしている訳でもない。

            もうすぐ帰らなければ、そうは思っても足は重く前に進もうとしない。

            そんな時、聞き慣れた声が急に後ろから掛けられたのだ、それは

            飛び跳ねるぐらい驚くのが自然というモノだろう。

            現に、彼女の叫び声が誰もいない渡り廊下に羞恥心を煽るような形で

            自らのモノが短く響いて余計に敏感になった心を高鳴らせた。

            だが、を驚かせた張本人は何が可笑しいのか優雅に笑い、耳に

            体中の五感が研ぎ澄まされたのか一歩二歩と確実にこちらへと近づいて

            くるのがスローモーションのように聞こえた。

            この足音も…あの憎いほどの笑い方も…自分を呼ぶあの声も

            知っている。

            「精……ちゃん?」

            わざとらしく疑問形で誰かなんて当てなくても目隠しなんてされて

            いないのだから振り向けばいいが、そんな勇気さえない。

            
仮にそうしたとして、この後どうすればお互いにとって一番良質な選択

            だろうと考えている自分が情けなくて次第に涙で視界が滲む。

            
こんな所で泣いてはいけない、そう強く思った所でそんな足掻きが

            通じるほど出来た性格ではない彼女はつぅと右頬に一滴の弱さを流す。


            「……っ、ひっ……く」

            「ね?もう、泣かないで?」

            照明が点けられていない室内で幼い姉弟がお互いの体温を確かめる

            ように二つの体を寄り添わせ、床には影法師が細長く伸びていた。

            
机の右隣にある引き戸式窓ガラスには街灯の代わりに梅が軒先を守る

            ように植林されてあり、その背景には閑静な住宅街が並びどこかの

            庭からは去年よりも訪れが遅い鶯が春を求めて鳴くのを

            繰り返している。

            
室内にいるまだ幼さが残る二人は寄り添い合うと言うより、女の子と

            見間違えるほどに小柄な少年が自分よりも頭一つ分背の高い少女の腰を

            抱き寄せ、紺のブレザーに涙のシミを何滴も落とした。

            
今日は彼女が通っている小学校の卒業式だった。

            
大体の卒業生は市内の立海大学附属中学校に入学することが決まって

            いるからであろうか、式は泣かないと決めているだが、ほとんどの

            生徒は平然としていた。

            
寧ろ、大粒の涙をこぼしていたのは長年若しくはこの一年間彼らと共に

            生活してきた教師の方で、今も昔も女性教師が泣くのがお決まりだ。

            
式も正午を少し回った所で終わり、友達と六年間の災害時の合同下校で

            すっかり覚えてしまった通路で別れ、我が家に帰ろうとした所で

            隣の民家から見知った顔がこちらを見て話しかけてきた。

            
長身の体を折り曲げ、卒業おめでとうなどとお馴染みの台詞を口にする

            三十代に入ったばかりの女性は青みがかった短髪を春風に持って

            行かれないように片手でそっと前髪を抑える。

            「お昼まだでしょ?家で食べて行かない?」

            「で、でも…」

            「平気よ。家もちょうどお昼にする所なのよ」

            ね、そうしよう、とできるだけ優しく笑いかけるこの女性はお隣さん

            だからだろうかそれとも二歳年下の幼馴染みの母親だからだろうか

            家の理由を一通り理解しており、親戚やクラスメートみたいに

            を妙に煙たがったり妙に遠巻きにひそひそ話したり

            することはなく、これまでと変わらない姿勢で接してくれる。

            
それがまだ小学六年生の少女の胸にどれほどの影響力があるのか

            なんて、恐らく本人にしか理解できない気持ちなのだろう。

            
じんわりと胸に染み入る暖かさと思えば、境界線を越えたそれは余韻も

            感じさせないくらい冷たく氷塊に姿を変える。

            
優しくされればされるほど苦しい気持ちなんて解りたくもなかった。

            どうせ解るのならば恋の痛みだけを抱えていたかったのに、現実は

            そんなの甘さを許してはくれなく、今年中には離婚が成立すると以前

            真夜中に父が誰かに受話器越しで話しているのを聞いたことがある。

            
子供にこういうシビアな現実に首を突っ込まないように大人も配慮して

            いるつもりなのだろうが、そんなのは筒抜けであって返って誰にも

            相談できない性格を根付かせることに繋がる。

            
もう大丈夫だからなんて嘘はいらない。

            
まだ小学校を卒業したくらいで子供じゃないなんていかにも弱々しい

            悪足掻きはしないけれど、全てを理解することは無理でも話して

            欲しかった。

            「あ、ちょっとお願いしたいんだけど」


            
三十代にやっと入ったばかりの所為だろう、頬に手を当てて眉を潜める

            仕草もどことなく大手デパートの迷子センターを任されている店員の

            お姉さんのようで同姓にも関わらずドキドキした。

            
自分も彼女くらいの歳になればこんな素敵な女性になれるだろうか、と

            少し疑問に思った所で出会い系サイトで知り合った五歳も年下の男性

            と駆け落ち同然に家を飛び出した母の娘だ、そんな贅沢を口に出さなく

            ても罰が当たると言うのが十二歳で知った世間体だった。

            
幸村の母親が言うには今朝からどうも小学四年生の息子の様子が

            おかしいらしく、幼馴染みの彼女を昼食に誘うのと一緒に様子を見て

            欲しいと頼もうと思っていた所に都合良く帰宅してきた。

            
入れ違いになって幸村家の玄関を潜り、幼馴染みの部屋に軽くノック

            して入った途端、瞳に涙を一杯に溜めた少年が恥や照れと言った

            類をかなぐり捨て少し背の高い一方的に抱きしめたのが今に至る。

            
時間はこの部屋に入ってから随分経っているだろうが、自分と違って

            素直に涙をこぼしている幼馴染みを放っておくことなんてできない。

            「精ちゃん?」

            もう一度呼びかけたが一度暴走し出した感情が溢れて上手く言葉に

            出来ないのか、喘ぐ声の音程が上がったり下がったりを繰り返す。

            
泣き虫な…自分とは全く違う正直な少年、だから……彼のことが…。

            「…っ……お姉ちゃんと…もう、ガッコ……に……行けない…っ」

            「えっ」

            母親似の青みがかった短髪を撫でようとした手が空中で止まり、

            今、心が見透かされたのではないかとありもしないことを

            真剣に考えた。

            
しかし、精市は泣き続けるだけでその次の言葉は一切口にしては

            くれなかった。

            
彼とは二歳と同様に二学年の壁がある。

            
それは義務教育が終わるまで致し方ないことだが、精市がこんなに

            悲しんでくれている理由が自分ならなんて虫が良いことを彼の

            背を撫でながら考えていた。

            
ねぇ、さっき、何て言ったの?

            
お願いだからもう一度言ってよ。

            
だが、彼女の願いなんていつも届かず、今もまだ泣き続ける幼馴染みに

            吊られるように頬に一滴流れたのが初めて卒業の日に零した涙だった。


            あの日から六年が経過した幸村にはもうあの可愛らしさは残って

            おらず、変わりに好青年と言う印象を授けた。

            
あの時、泣きじゃくっていた彼の代わりに自分が泣いているなんて

            随分涙腺が緩くなったモノだ。

            
この場に誰もいなければこの黄昏を刻む時間だ、独りで佇んでいたら

            どうなっていたことだろう。

            「明日で卒業しちゃうんだね」

            「うん…」

            出来るだけ平静を装い、髪をかき上げるフリをして涙を明日で

            着納めの制服の袖で拭った。

            
どうせ明日は泣かないのだ、今夜中でこんなシミは乾いてしまう。

            
何事もなかったように幸村に微笑みかける、そんな筋書きも振り返った

            先に待っていた次の瞬間には何の意味もなかった。

            「やっと、捕まえたと思ったら…いつも、飛んで行っちゃうんだね」

            「なっ…」

            窓越しに押しつけ付けられるように彼の両腕で左右を遮られ、

            いくら鈍いでも逃げ場が許されていないことくらい解った。

            
流れる空気でさえも張りつめている気がし、余計に緊張が体の血流を

            早くして熱を促す。

            
女性の彼女からしても悔しいほど細い腕なのに、何故だかとても大きく

            見えるのは単なる男女の差なのだろうか、思わず唾を呑んでしまう。

            
六年前、まるで、自分のことのように涙を流してくれた彼が今は、

            強い眼差しでこちらを見つめ……

            「好きだよ…。ずっと、君だけを見てきた」

            唇に何か柔らかいモノが触れ、体中の全ての力が抜けたその姿

            はいつも教室の隅で壁や窓ガラスに体重を預けて凭れ掛かる

            クラスメートの男子のようだ。

            
幸村が何を自分にしたのか頭の中で分析する前に、先程と同じく

            また前触れもなく近づき今までで一度も聞いたことのない

            覇気が感ぜられる口調で囁かれた。

            「ふふっ、もう、どこへも飛ばせないから覚悟してよ」

            彼女の背中にある羽の役目もようやく終わる。

            
長い長い時を経て、ようやく彼の腕の中に辿り着けたのだから。

            
渡り廊下に射す西日に染まる頃、気の早い蝶が春を告げるように

            儚げに空を舞っていた。



            ―――…終わり…―――




            #後書き#

            こちらは「School Lover」様に参加作品として作業

            しましたが、柊沢がいい気になっていたら締め切りが過ぎて

            しまったと言う裏話がある初幸村Dream小説です。(爆)

            最近、別ネタで根詰まりをしていたので、枯れたかなぁと悩んだり

            したんですが、管理者様から最後通告を受けて三日で作業

            できたので、不謹慎ながらも良い経験をさせて頂いたことを感謝しております。