「先生なんて大嫌いっ!」
放課後、テスト明けと冬期休暇一週間前で生徒が残っていない階に少女の
声が響いた。
化学室の扉を行儀悪く激しい音を立てて開け放ち、その勢いを体中に蓄えたまま
自分の教室まで短距離走を始める。
対抗選手はいない。
後から追ってくる者もいるはずがない。
これは最初から最後まで彼女の独走なのだから…。
十二月も半ばに入り、先週までは期末に追われていた中高生も今はもうすぐやって
来る短期休暇とイベントに心弾ませる。
授業を受ける顔も真剣に受けている者は受験を控えている三年生くらいで、
まだまだ幼さの残る一、二年の生徒は内申など二の次というのがほとんど
のようにも思えた。
遊びたい盛りの彼らに立前上、「勉強しなさい」と叱る教職員はその逆に、
また二学期が終わるのか、と期末の採点やら通信簿やらに追われるのに
ため息を吐いている。
そんな猫の手も借りたい季節に、青春学園高等部には附属の大学部から恒例の
実習生が二週間の期限付きで研修に来ている。
全ての生徒達に「初めまして」を言う頃にはあっという間に一週間は過ぎ、
気がつけば期末テストの姿はもうすぐ渡される通信簿の中に影を潜めていた。
今年来たのはこれで何人目だっただろうか、附属の大学だからか一年に月を隔てて
数え忘れる程の実習生を送り込んでくる。
中学部からエスカレーター式に高等部に進学してきたは元々、この制度を快く
思っていないのも助けてこの時期が来るのがいつも憂鬱だった。
どうせ、自分達は教員免許のための実験台にすぎない。
授業だって、他の先生に比べればお粗末に決まっている。
そんな時間に暇を費やしている程、自分達は暇ではない。
……と、思っていたはずなのに、何故、今……こんなに悲しいのだろう。
期待なんかしないつもりだったのに、悔しいぐらいに哀しい。
教室へと駆け込むと、グラウンドにいる生徒達に見られたくなくて日焼け
したカーテンにくるまり泣いた。
幼い頃から大きいと言われた瞳が今はこんなにも憎く思う日が来るとは、当時も
そして、今日まで考えもしなかった。
化学室を飛び出すまで堪えていたはずの涙は、主の命令など無視して廊下を
駆けた時にはもう零れ出てしまっていた。
きっと、明日になれば「こんなこともあったよね」と、笑って言えるまで
にならなくても、少しは平気でいたい。
だから、今は……この止みそうもない時雨の中、絶えきれない寒さにいつもの
教室の匂いがする厚い布に覆われていたかった。
秋が終わろうとしていた十一月の下旬、そのスキャンダルは音を立てて高等部内を
駆け巡った。
試験一週間も来週から始まると言う季節に実習生がまた、この学舎を訪れる
らしい。
毎年、何ヶ月かごとに来るのは慣れていたが、この時期に来るのは全く異例な
ことで全校生徒は勿論のこと、このスキャンダルに噛みついた。
「あ、さん、聞いた?」
「ごめんね。ちょっと、化学室にハンカチを忘れちゃったみたいだから、後でね」
……くだらない。
何でこんな会話を彼らは楽しんでいるのだろう、全く理解できない。
ハツカネズミにされているのがそんなに嬉しいなら、いっそのこと剥製でも
ホルマリン漬けでもなってしまえば良いんだ。
化学室の扉を開くと、六つある机に年期のある水道台が設置されてあり、排水溝を
仄かに黒で飾り、その傍には捻ってもいないのにガスの匂いがする元栓があった。
さっきまで自分が座っていた中央の最前列の下に屈み、子猫が三匹プリントされ
てあるハンカチを見つけて少し唇が緩み、それに手を伸ばす。
「何をしてるんだ?」
「ひゃ!…っ!!」
突然誰かに呼ばれ、反射的に頭を上げようとして勢いよく木製の机にぶつかって
しまった。
「いったぁ……」
あまりの衝撃にまだ、目の前が寿命間近の電球のようにチカチカする。
外傷は特にないが、小さな瘤でもこさえたのでは、と心配になるくらい内部と
違った痛みを帯びたまま両手で覆うが大差はなかった。
握りしめた掌にはまだ買ったばかりの先程のハンカチが昨夜のアイロンも
虚しく、皺くちゃになっている。
しかし、今はそんなことは良く、本能に従ってこの場は怒るべきかそれとも
恥だと思いなさい、と説教する理性に従うのかで審判が脳裏で行われていた。
だが、ここは学校だ。
外出している訳でもなければ、自宅でもない。
それはあっさりと幕を閉じ、しゃがみ込んでいた体を立ち上がらせ、出来るだけ
にこやかに笑うおう……そう誓ったはずだった。
「大丈夫か?」
「あっ、すみません…前の移動教室でハンカチを忘れてしまっ……て」
しかし、痛みに堪えて立ち上がった先に待っていたのは、白衣を着慣れて
いる化学教員ではなかった。
髪は一本ずつ逆立ち、黒と白のボーダー長袖T-シャツをラフに着こなしていると、
まるで、囚人のように見える。
背後には気配も何も感じなかったと言うのに、この人物は今までいなかったと
いう違和感全くないから余計に恐怖が彼女の心を逆撫でた。
「あなた、誰!?こ、ここで何をしてるのよ!」
ゆっくりした歩調でこちらに近づいてくる彼を小型犬のように睨みながら教壇の方
走り寄り、黒板の引き出しからすっかり寿命を縮めた小さなチョークを手に取る。
これでどう戦うのかなんて解らないが、何もないよりか遙かにマシだ。
「ぷっ」
相手が飛びかかってこないように足場を確認していると、いきなり誰かが
景気良く吹き出し、その瞬間に今まで緊迫していた雰囲気が音を立てて崩れた。
「へっ?」
想像もしていなかった反応に拍子抜けしてしまい、力強く掴んでいた短いチョーク
が指から滑り落ち、床に小さく割れる。
「あっ…」
恐怖心は次第に薄れ、再び浮上してきた理性により罪悪感が沸いてくる。
手当たり次第に引き出しから取り出したピンクのチョークはまるで、工事現場の
クレーンから落ちた鉄骨の下敷きになった作業員の血の海みたいだ、と
残酷なことをは思った。
二人の他、誰もいない教室に嫌な沈黙が舞い降りる。
話題がある訳でもなければ、昔馴染みでもない異物が同じ教室にいても何らかの
課程も変化もある訳もなく、ただ秒針が煩く居場所を求めて動いていた。
どうせなら、もっと急いで欲しい。
そうすれば、この分厚い眼鏡のレンズに瞳を遮られた青年から逃れられるのに、
それは十二宮を巡り終えない。
「……コレ、手伝ってもらえる?」
「何で、私があなたに言われなきゃいけないのっ!それに、誰よ、あなた。
人にこうして欲しいと思ったら、名乗るのが筋でしょ!!」
時計を睨んでいると、彼はため息を吐き出し、化学準備室に姿を消すと
間もなく出てきた。
その手には、使い慣れた箒と塵取りがある。
良心からコレは受けるべきだと解っているのに、変に反発してしまっている自分が
嫌いだった。
ここで社会的にどうかなんて諭しているよりも自分でやらかした事だ、それを
威張って礼儀がどうとか言っている場合ではないのに……口がムズムズしている。
「俺は、乾貞治。明日からここに実習に来る教育実習生だ」
「あなたがっ!?とてもそうは見えないけど」
「よく言われるよ。ほら、解ったらやれ……俺は明日からの打ち合わせが
あるんでね」
「なっ!何で私がっ…」
渡された掃除用具を胸に抱えたまま、スタスタとドアに歩いていく広い背中を
睨みつけた。
それはこちらが起こした不祥事だ、自分に責任があることくらい頭で解っている。
だが、教育実習生という正体を知っては尚更、言うことを聞きたくないと
言う本能が働く。
頑としてヘソを曲げている彼女にやれやれとでも言いたそうな素振りで振り返る
と、右手の親指と人差し指で黒縁眼鏡の位置をずらして怪しく光らせる。
「そんなに嫌なら言っても良いんだぞ?学年首席で誰にも人気のあるが、
実は猫を被っていた……ってね」
……。
昨日、あんな事が合った所為か、あの時の夢を見てしまった。
結局、辛くてろくに寝られなかった。
出会い方は最悪だったのに、恋への進行方向は曲がり道を辿りながらもその速さは
変わらなかった。
あれから知ったことだが、彼が今回単独でこの学園に乗り込んできたのは、
手の掛からない実習生だからだった。
実際、乾が授業をしている間、監督教諭は教室にいるものの来週に迫った
期末テストの作成に追われ、ノートパソコンに向かう姿が多く見た。
それに、その評価は正しく、的確な教え方に生徒も教職員も安心して任せ、
気が早い人物は「乾先生」と呼んでいたりする。
最初は文句を言って資料作成などを手伝っていたのに今では楽しくなり、
クラスメートからその理由を尋ねられるくらいになった。
だから……勇気を振り絞って告白したのに……っ。
「……すまない。今は、そんなことを考えられないんだ」
「「そんなこと」って、何!?私が勇気を振り絞って告白したのに、「そんな
こと」で済ませるのっ!」
乾の癖なのだろう、深いため息を吐くと、ずれてもいない黒縁眼鏡のフレームを
親指と人差し指で持ち上げ、数秒もしない内に戻した。
「お前は馬鹿ではないだろ……そんなに声を荒げるな。期末が終わったとは言え、
ここは学校だ。誰が聞いているか解らない…」
「じゃあ、学校じゃなかったら良かったの?今まで私が想っていた記憶を
受け止めてくれるの?」
「もう、その話は終わりだ。……下校時間はとっくに過ぎている。早く帰れ」
まだ食い下がろうとするを横目に彼はそう言い放ち、化学準備室の中に
入っていった。
その広い後ろ姿は二度と会わないと言われているようで、悔しくて……だから、
つい…「先生なんて大嫌いっ!」
……なんて言ってしまったが、嫌いになんてなれそうにない。
こんな宙ぶらりんな行く当てのない想いを抱えたまま歳を取っていくのかと思う
と、もっと悲しくなる。
乾は自分のどこが嫌いなんだろう?
それさえ、直せばきっと……なんて情けない事を考えている。
こんなのはらしくないって解っていても、コレばかりは忘れるしか治療法はない。
大学三年生……三歳も上ならその下は全て子供に見えるのだろうか。
今日の午後には彼の研修が終わる。
だから、教壇に立った乾は授業の幕開けに前置きの挨拶を述べていたのだが、
視線を合わすのが辛くて視線を泳がせていたら次第に睡魔に襲われ、堂々と
白昼夢を見てしまった。
気落ちしているのか、惚気ているのか……全く、良い度胸をしているものである。
最後の授業と言うこともあり、黒板には進学塾のように二学期で習ったここは
試験に出やすいなどと書かれてある。
目元を軽く拭い、真っ白なノートに彼女がシャーペンを走らせたのとほぼ
同時だった。
いやに間が長い鐘の音が校内中に響くと、今まで押し黙った空気が一変して
どこのクラスからも活気が戻ってくるのを感じる。
それも、四時間目なら尚のことだ。
「あぁ、さん、お昼食べた後で良いから化学室に来てくれないかな。ちょっと、
話があるんだけど」
「は、い……解りました」
「それじゃ、受験頑張って下さい」
教室から先生達が姿を消すと、一気に活気が戻り、げんきんな男子は既に何人かで
机を囲み弁当の準備を始め、お喋り好きな女子は秋ドラが最終回だと嘆いている。
しかし、はどちらにも属さず、ただ乾に声を掛けられたままの状態で、今は
パン組の少年達が数名通過する誰もいない教壇を見ていた。
「ちょっと、話があるんだけど」
話とはなんだろうか、それを考えていると、昨日のことを思い出してしまいそう
だった頭を強く振った。
あの話は、終わったはずだ。
それは、彼も解っているだろう。
きっと、進路の話かなんかだろうと自分で思って、今度は逆に嫌気が差した。
教師というものは全ての生徒に公平であるべきだが、現実は昔もそして、
これからも変わらない。
マスコミが煩く騒いでいるが、それも過度があれば第二第三の犠牲者が増え、
それを動かぬ証拠としてまた叩かれる、と言う悪循環が続くだけだろう。
教育実習生が嫌いならば、彼女は全ての科目の教師も嫌いだった。
彼らはいつだってこちらが教えを乞えば、その分は教えられる。
だが、一人として、と言う事に置き換えると、完全に脆くなる。
その良い例が、今問題視されているイジメ問題だろう。
明日が来たとしても何も変わらない。
話したとしても何も変わらないのなら、簡単な事、何も語らなければいい。
その分、自分のことは自分で守っていけばいい。
今は無理でも…。
「乾さん……話って何?」
結局、こんな気持ちで弁当を食べる気にはなれなくて、まだ全校生徒が教室で
食べている時間に来てしまった。
指定外の時間だから開いてないだろうと思ったが化学室の扉を引くと軽い音を
立てて開いたので思わず振り返ったが、活気は教室の中に収納されてある。
それでも細心の注意を払って閉め、窓の支えに凭れて空を見上げている彼を見た。
……やっぱり、悔しいぐらいカッコ良い。
184pもある長身に抱きしめられたらどんな感じなのだろう、とまた自然に
そんなことを想像しそうになって頭を強く振った。
「…もう、食べ終わったのか?」
乾が窓からこちらに歩いてくるだけで、鼓動が高鳴る。
「うんん……お弁当忘れて来ちゃって……。それより、話って何?」
「嘘はいけないな。は、92%の確率で弁当を持参してきているはずだ」
「……どうでもいいけど、どういう計算でその答えが出るのよ?」
「それは企業秘密って奴だ。……さて、どこから話すか……それが問題だ」
彼はまた背を向け、教壇の方へと歩いて行く。
まるで、乾の瞳には出会ったばかりの怯えたが映っているのかもしれない。
黒板まで歩いて行くと、やはり引き出しを開き、あの時と同じような大きさの
赤いチョークを取り出す。
「お前……最初、俺のことを不法侵入者だと思ったよな。こんな武器にも
ならないモノを握りしめてさ。本当にアレは笑えたよ」
「だって、アレは本当に怖くて……それに、研修前日で紹介されてないんだから
当たり前でしょ」
「確かに。だが、俺も予想してなかったよ、噂に名高い後輩に会うなんて」
彼は、三年前までこの学園の生徒だった。
それは紹介される前から風の噂で知っていた。
「…でも、俺の授業で寝るとは良い度胸だな」
「そんな馬鹿にはお仕置きが必要だな」
石灰の塊を引き出しに戻すと、今度は幻ではなく彼女自身に近づき、低くて色っぽい
声を大きな掌で覆った耳にまるで、内緒話でもするように口を寄せた。
「えっ?」
それは、雪のように突然に……けれど、寒さは感じられない。
舞い降りてきたのは事務的な言葉よりも熱い贈り物だったから…
「んっ!?」
唇にキスされている……その初めての感覚に動揺してしまい、体が思ったよりも固く
なってしまったらしく、乾が腰に腕を回してくるまで気づかなかった。
呼吸をするのも遠慮していると、鼻から微かに漏れた息がイヤらしくて閉じていた瞳を
更に強く瞑ったが、その温もりは期待に反して離れて行く。
「好きだ……」
「嘘っ!だったら、何で昨日、私の告白を断ったのよ」
「……断ったつもりはないんだが。言っただろ?……「今は」って」
彼の頬が赤い、いつもポーカーフェイスで何を考えているのか解らなかったのに、
目の前には覆された事実がある。
きっと、これからも乾にこんな表情をさせるのは自分だけだ、そう確信すると
胸に熱いモノがこみ上げてきて温かい雨が頬を伝う。
乾の胸で静かに泣き声を上げる頃、窓の外では泰風が吹き、通学路を埋め尽くすような
落ち葉達を軽快な音を立てて転がしていた。
―――…終わり…―――
#後書き#
今作は柊沢が参加させて頂きました「センセとあたし」様への参加作品として
作成しました。
その二作目となります「俺の授業で寝るとは良い度胸だな」は前作とは違い、
教育実習生と生徒を逆にしました。
私の場合、教師と生徒の場合ヒロインを教師にしてしまうので良い勉強をさせて頂きました。
最後になりますが、主催者である猫山様、参加させて頂きありがとうございました。