あの日聴いた声は。
                  今も耳の奥、消えないで残って。
                  俺の気持ちを強く揺さぶり、突き動かす。

                  天使の歌声。















                  飛べない天使の歌う歌 〜Boy's Side〜










                  初めてその声を耳にしたのは、2年の夏。
                  まだ2学期が始まったばかりのその日、1限の体育が始まってすぐ、体育の先公
                  (うちの担任)が忘れてきやがったストップウォッチやらその他諸々を取りに(テメーで
                  取りにいけ!)自分の教室に向かって歩いてた時だった。

                  もうとっくに授業は始まってて、廊下は静かで俺の足音がいやに響く中、不意にそれは
                  聞こえてきた。


                  最初はどっかの教室で英語の教科書を読ませてるのかと思った。
                  でもそれは、確かに英語ではあったけど、単調な朗読じゃなくて緩やかなリズムに
                  乗せた、歌、で。

                  あまりにも微かな声で、俺の足音に紛れて消えちまいそうなそれは、うちの隣の教室
                  ―――今は男女揃って合同で体育の授業をやってる、誰もいないはずの教室から聞こえた。





                  ……なんであの時、教室を覗いてしまったのか。


                  その声は、歌の良し悪しなんかさっぱりわからねぇし興味もなかった俺にすら、
                  きれいな声だと思わせるものだったことは、確かで。


                  そして、ものすごく淋しそうで哀しそうな声だった。



                  引き寄せられるみたいに、教室の扉に手をかける。
                  それを引き開けた瞬間、歌はぴたりとやんで。





                  「……何?」





                  か細い声がそう問いかけた。




                  「あ、わ、悪ィ……」


                  思わずドモった俺の視線の先。
                  窓際の、机の上にちょこんと腰を下ろして。
                  肩にかかる茶っこい髪をふわふわ揺らして、そいつは俺の方を振り返って見た。

                  細っこい身体してて。声も、消え入りそうに細くって。
                  具合悪いんじゃねぇかってくらい、白を通り越して青褪めて見える顔色してて、でも眼
                  だけは。
                  真っ直ぐに俺を見る眼だけは、強かった。



                  「あ、あのよ……」
                  「何か用?―――黒羽、春風君」



                  風に揺れる軒先の風鈴みてーな、高くて澄んだ声が、俺の名前を呼んだことに驚いて、
                  俺は何も言えなくなって。
                  一言、「悪い!」つって、そのまま教室を猛スピードで飛び出した。




















                  ダッシュでグラウンドまで戻ったとこで、担任の忘れもん取ってくんのバッチリ忘れてた
                  ことに気がついて、思いっ切り怒られた(つか、自分が忘れたくせに!)。
                  でも怒鳴られながら、俺はもうそれどころじゃなく。
                  さっきの教室の窓の方ばっかり気になって、担任の話は見事にスルーしていた。
                  そんな俺を叱っても無駄と判断したのか、担任はサッカーやるからチーム分けしとけと
                  言って、自分で教室に忘れ物を取りに行っちまった(最初っから自分で行きやがれ)。


                  うわの空でジャンケンに加わって、どのチームになったかもよくわかってねぇ俺を見
                  かねたのか、話しかけてきたのはサエだった。



                  「バネ、さっきから何ボケっとしてんの」
                  「……んあ?サエ?」
                  「どうしたんだよ、変な顔して。うちの教室がどうかした?」



                  ……そうだ、あの教室はサエのクラスだ。
                  サエだったら知ってるかもしんねぇ。

                  そう思って、さっきの子の話をしてみたら、あっさりと答えは返ってきた。



                  「ああ、か」
                  「知ってんのか?」
                  「クラスメイトだしさ」


                  ……クラスメイト……そっか、そうだよな。
                  誰もいない教室に、そのクラスの生徒じゃない奴がいたらおかしいよな。



                  そんな当たり前のことにも気付けなくなってる俺は、本当にどうかしてる。
                  あの声を聞いてからだ。
                  まるで鼓膜に刻み込まれたように、消えないあの声。
                  歌う声も、俺の名前を呼んだ声も、耳の奥で何度もリピートして消えねぇ。



                  再び教室を見上げた俺の隣に座り込んで、サエが同じように自分の教室の窓に視線
                  を送る。
                  かなりの沈黙のあと、サエがぽつりと口を開いた。


                  「……あいつ、身体弱いんだってさ」
                  「―――身体が?」
                  「生まれつき心臓悪いって。だから体育はいつも見学だし、学校自体休みがちなんだよな」


                  その言葉に、さっき見た、透けるように白い顔を思い出した。
                  ああ、だから……。



                  「気になる?」

                  ふっと口の端をあげて、サエが笑った。
                  付き合い慣れてないと今ひとつ何考えてんだか読めねぇ、コイツ独特の笑い方。


                  「何だ、そりゃ」
                  「バネがここまで女の子に興味示すなんて珍しいじゃん」
                  「興味って何だよ。別に俺はぁ……」
                  「、放課後は大抵北校舎の屋上にいるみたいだよ」
                  「だーかーらーなー!」
                  「今日の午後にでも行ってみれば」
                  「……」


                  トドメに一発、バシッと俺の肩を叩いて、サエはさっさと立ち上がって行っちまった。



                  『放課後は大抵北校舎の屋上にいる』

                  担任が戻ってきて、授業が再開してもずっと、俺の頭の中にはサエのその一言が
                  引っ掛かって。
                  サッカーどころじゃなくなって、結局うちのチームはボロボロに負けちまった。































                  その日の放課後。

                  一日中延々悩んだ挙句に、結局俺は部活を抜け出して屋上への階段を上がってた。


                  錆びついた蝶番をギシギシいわせながら屋上へ続く扉を開けると、朝聞いたのと同じ
                  歌声が耳を打つ。
                  意味なんか全然わかんねぇ、けど。
                  何だかすげぇ哀しそうな、胸にグッとくる、その曲。



                  雨に晒されて錆びついた金網に寄っかかって、は空を見上げて歌っていた。
                  まだ熱を残す夏の風に、癖のあるふわふわした髪が揺れていて。
                  何だかそこだけ、違う世界みたいだった。

                  いつだったか、校外学習で連れてかれた美術館で見た、天使の絵。
                  真っ白い翼を大きく広げて、細っこい腕を空に伸ばしていた天使。
                  でっかい額縁に嵌まってた記憶の中のそれと、目の前のの姿が重なって、俺は声が
                  出なかった。




                  「―――何か用?」



                  朝と同じセリフが聞こえて。
                  はっと我に返ったら、いつの間にかこっちを向いて金網に背中を預けたが、そのデッカ
                  イ眼で真っ直ぐに俺を見ていた。




                  「あー……その、よ」
                  「ここのこと、誰かに聞いたの?」


                  淡々と、その口をついて出る問い掛け。
                  どう答えればいいもんかと、俺が困って視線をあちこちに向けていると、不意にの目が
                  細くなって。困ったような、どこか淋しそうな顔で、笑った。



                  「別に責めてる訳じゃないんだけどな。黒羽君のこと」
                  「いや、そーいうんじゃなくてよ。ってぇか、その……何で俺の名前、知ってんだ?」
                  「有名じゃない、テニス部」


                  皆知ってるよ、と言ってこぼした笑い声は、やっぱり硝子の風鈴みたいで、きれいな声
                  だった。


                  「クラス隣だし。黒羽君、しょっちゅううちの教室に来てるでしょ?佐伯君に会いに」
                  「あー、そうだな」
                  「それにね、ここからよく見えるの、テニスコート」
                  「そうなのか?……おー、ホントだ、よく見えるな」
                  「うちの校舎ってあんまり高さがないし、テニス部の人って皆元気だから、話し声とか
                  屋上まで筒抜けよ?黒羽君が1年生の子にツッコミ入れてるのも、よく聞こえてくる。
                  天根君だっけ?ダジャレの好きな子」



                  そんなことまで見られてんのかよ……。

                  どう返せばいいか迷う俺の前で、は笑顔のままでぽつりと呟いた。



                  「テニス部、仲良いよね。皆元気で、見てるとこっちも楽しくなっちゃうの」
                  「そうかぁ?バカやってるだけだけどな」
                  「いいじゃない。そういうの羨ましい」
                  「え?」
                  「私には出来ないもの。学校も休みがちだから、すごく親しい友達もいないし」



                  そう言ったの笑顔は、笑ってるけど笑ってなかった。
                  泣き出す一歩手前の、すげぇ辛そうな顔。

                  そんな顔する奴、見たことなかった。
                  教室で、部活で、仲の良い奴と下らない話したり、バカやって大騒ぎしたり。
                  そんな俺にとっての当たり前のことを、羨ましいというその顔が。


                  ひどく、心に引っ掛かって―――






                  「!!」
                  「……な、何?」


                  突然大声で名前を呼んだら、は驚いて少し後ろに後退った。
                  俺は一気に距離をつめて、その腕を掴む。
                  その腕はあまりに細くて、力入れたら簡単に折れるんじゃねぇかって思った。



                  「お前、下の名前は?」
                  「え……、だけど」
                  「よし!、今日から俺らは友達な!」
                  「へ?えっ、えええ!?」
                  「俺のことはバネって呼べよ。おら、行くぞ」


                  そのまま、その腕を引っ張って屋上を後にする。
                  出来るだけゆっくり歩いて階段を下る。
                  俺の後を歩きながら、は細い声を必死に張り上げた。


                  「ちょっ、ちょっと!行くってどこに行くの、黒羽く……」
                  「バ・ネ!!」
                  「ば……バネ君?」
                  「あーまぁ、それでいいけどよ。行くっつったら、部活に行くに決まってんだろ?
                  お前、どうせ見るなら近くで見てろよ。屋上なんかで一人で見てるから、羨ましいとか
                  思うんだよ。
                  近くまで来て一緒にバカやってりゃ、そんなふうに思わなくなるって!」
                  「一緒にって……そんな、無理……」
                  「別に一緒にテニスしろなんて言わねぇよ。
                  でも、傍で見てて喋ったりとか、帰り一緒に買い食いしに行くとかなら出来るだろ」
                  「…………」



                  それきりは黙り込んで、静かに俺の後をついてきた。
                  俺はというと、テニスコートに着くまでの間、掴んでる手に力を入れ過ぎないようにと、
                  そればっかり考えていた。




















                  ―――どうして、この時俺はを放っておけなかったのか。

                  余計なお節介だろうとか、にとっては迷惑なだけじゃねぇのか、とか。
                  考えなかった訳じゃない。

                  でも放っておけなかった。
                  放っておきたくなかった。
                  自己満足でも何でも、こいつを一人で歌わせたくなかった。



                  どんなにきれいな歌声でも、あんな淋しい歌を、もう一人では。


                  ―――歌わせたくなかったんだ。





















                  ……please go to next side.