私の世界に神様はいなかった。

             誰の身にもいつかは必ず訪れる終焉が、私には他の人よりもはるかに早く訪れると
             わかっていたから。
             進む先には暗闇しかないのだと。そう思い込むことで、何もかも諦めて。
             信じもしない神様を讃える歌を、一人きりで歌い続けた。

             そんな私の世界を切り裂いて、光を見せてくれた人。
             進むその先に一条の光をくれたあなたは、きっと私にとっての神様だった。
















             飛べない天使の歌う歌 〜Girl's Side〜












             「ちょっ、ちょっと!行くってどこに行くの、黒羽く……」


             ぐいぐいと有無を言わせず引っ張る力は、それでもとても優しかったことを覚えている。


             「バ・ネ!!」
             「ば……バネ君?」
             「あーまぁ、それでいいけどよ。行くっつったら、部活に行くに決まってんだろ?
             お前、どうせ見るなら近くで見てろよ。屋上なんかで一人で見てるから、羨ましいとか
             思うんだよ。
             近くまで来て一緒にバカやってりゃ、そんなふうに思わなくなるって!」
             「一緒にって……そんな、無理……」
             「別に一緒にテニスしろなんて言わねぇよ。
             でも、傍で見てて喋ったりとか、帰り一緒に買い食いしに行くとかなら出来るだろ」
             「…………」


             こっちを見ないで、そんなふうに言って。
             何も言わない私の手を、ただ優しく掴んで先を歩いていく。



             やがて着いた先はテニスコート。

             男子テニス部のメンバーが、何事かと興味津々で見つめてくる中を、腕を掴まれたまま
             突っ切って。
             何故かベンチに正座してのんびりお茶飲んでるお爺ちゃんの前まで来て、やっとバネ君は
             足を止めた。


             「オジイ、この子見学させてやってくれ」
             「……あー…トモダチ……?」
             「おう、俺のダチ!ってんだ」
             「ど、どうも、こんにちは……」


             反射的に挨拶すると、オジイと呼ばれたそのお爺ちゃんはゆっくりとベンチの端に寄って、開いた
             スペースを指差した。


             「座れってよ」
             「う、うん……」
             「じゃあ、俺練習してくっから。そこで俺の応援でもしてろよ」


             ひらりと手を振って走っていった先で、何人かの男の子たちがバネ君を捕まえて、早速
             じゃれ合ってた。

             いつも屋上から見ていた光景。
             どんなに願っても自分には縁がないと思ってたその光景を、こんなに間近で見ているのは
             何だか不思議な気分だった。
             ラケット片手に他の子たちと打ち合いを始めた黒羽君を目で追う。
             その時、不意に後ろから、声。



             「どう?楽しい?」
             「……さえ、きくん」


             ベンチの背もたれに手をついて、佐伯君がにこにこ笑ってこっちを見下ろしていた。
             続いて差し出された手には、ペットボトルのミルクティー。


             「オゴリ。紅茶、嫌いじゃないだろ」
             「あ、ありが、と……」
             「そんな身構えなくても。―――あ、はいオジイの分」


             そう言って、ポケットから栄養ドリンク(…)を取り出してお爺ちゃんに手渡す。
             私の横へ移動してきて、ポケットに手を突っ込んだ姿勢で私の方を横目で見る。


             「バネ、屋上に来た?」
             「……あそこのこと教えたの、やっぱり佐伯君?」
             「そう。今朝、教室で歌ってたんだろ?バネがすごい気にしてたからさ、ちょっと余計な
             お世話を焼いてみました」
             「……」
             「まさかいきなりここまで引っ張ってくるとは思わなかったけど」
             「……一緒にバカやってれば、羨ましいなんて思わなくなるだろうって。
             有無を言わせず、かなり強引に引っ張ってこられたわ」
             「―――そっか。バネらしいな」


             小さな声で笑いながら、コートの中で誰かに(多分あれは天根君だわ…)蹴りを入れてる
             黒羽君を見て。

             何を考えているのかわからない、でもとても穏やかな笑顔で私の方に向き直って、言った。



             「俺に出来なかったことを、バネならやってくれるかもしれないな」




             ―――コートから。
             こっちに向かって大きく手を振り上げて「サエー!ダブルスの相手してくれー!」と
             黒羽君が叫んだ。
             それに笑って手を振り返して、佐伯君は「じゃあ、あとで」と言って走っていってしまった。

             大声で笑いながらコートの中を走り回る男の子たちを見つめながら、ペットボトルの蓋をひねる。
             一口飲んで。
             口の中に広がった甘さに、どうしてか少し切なくなった。






























             その日の帰り。
             半ば無理やりに、私は黒羽君たちに海まで引っ張っていかれた。


             「こんな時間に海行って何するの!?」
             「いーから付き合えって!」
             「バネさん強引……ごーいんグマイウェイ……」
             「うるせぇんだよダビデ!!」


             容赦なく天根君の背中に蹴りを食らわせて、さっきと同様私の腕を掴んで引っ張って
             歩いていく。
             蹴られた背中をさすりながら天根君が私の横に並ぶ。
             後ろからは佐伯君や木更津君や樹君が笑いながらついて来る。


             9月に入って間もないから、まだ空は充分に明るい。
             潮の匂いのする風は程よく涼しくて、まだ僅かに残る日中の熱を拭い去ってくれるようで
             気持ち良かった。
             波打ち際を歩いていくと、何人もの子供たちが砂遊びをしているのが見えてきて。
             その中の一人がこっちに気付いて、ブンブンと手を振りながら走り寄ってきた。



             「やっほーい!バネさーんサエさーん!」
             「おー剣太郎!」
             「遅いよー!あれ?このお姉さん誰?」


             ひょこん、と首を傾げた坊主頭の男の子は、大きくてくるくるとよく動く目で私の顔を
             覗き込んできた。
             小学生、かな?でも私より背が高い……。
             真っ黒に汚れた泥だらけの顔で、屈託なくにこにこと笑う。

             「こんにちは!」
             「こ、こんにちは」
             「俺らの同級生。ってんだ」
             「ちゃんかぁー!ボク、葵 剣太郎です!」


             葵君は顔と同じく泥だらけの手で私の手を掴むと、ぐいっと引っ張った。


             「じゃあちゃんも一緒に遊びましょう!」
             「え、え!?」
             「もうちょっとでお城が完成なんだよー!」
             「わ、まっ…待って待って!」


             そのまま走り出そうとする葵君を黒羽君が止めた。


             「剣太郎、はあんまり走ったり出来ねぇんだ!ゆっくり連れてってやれよ!」
             「そうなの?わかった、気をつけるよ!」


             にこぉっと笑って、葵君はさっきよりも優しく私の手を引っ張った。
             おろおろして振り返った先で、黒羽君はにっと笑って手を振った。


             「行って剣太郎たち手伝ってやれよ」
             「だ、だから何を?」
             「行きゃあわかるって!」


             そう言って笑った黒羽君の後ろで、佐伯君たちがスニーカーも靴下も脱ぎ捨てて走り出した。
             私も葵君に引っ張られて他の子たちのところまで行く。
             そこら中にスコップやバケツが散乱していて、中心にある大きな砂山は近くで見ると確かに
             お城っぽかった。



             「凄いでしょー!?」
             「う、うん……皆で作ったの、これ?」
             「そうだよ!ちゃんも手伝ってね!」


             小さなスコップを手渡されて、子供たちの輪に引きずり込まれる。
             子供たちにあーしてこーしてと言われるままに、大きな山の一角を掘ったり削ったり。
             最初は戸惑っていたのに、だんだんと夢中になって。
             気がついたら皆みたいに裸足になって、制服が泥だらけになるのも構わないで、砂山と
             格闘してた。



             水平線が夕日で赤く染まり始めた頃に、砂のお城は完成した。



             「うわーい、完成ー!!」
             「ふぅん、なかなか立派じゃん?」
             「キレイに出来たのねー」
             「ねーねー!写真!写真撮ってよサエちゃん!」


             男の子の一人がねだると、佐伯君が笑って頷いて、放り投げてあった鞄から使い捨てカメラを
             取り出した。
             わっと声を上げて砂山に群がる子供たちのあとに、テニス部の仲間が続く。
             最後に歩き出した黒羽君が、ふとこっちを振り向いて口を開いた。


             「?どうしたんだよ、行こうぜ!」
             「あ、うん……」
             「何だよ、ボーっとして。もしかして具合悪かったりするか?」
             「え?ううん、そんなこと……」


             答えて一歩踏み出す。
             足の裏に、ひやりと冷たい砂の感触。
             波の音。潮の匂い。笑い声。

             ―――私の名前を呼ぶ、声。



             一歩進んで足が止まった。
             待ってくれていた黒羽君が、不思議そうな顔で私を見て、ゆっくりと近寄ってくる。



             「?」


             名前を呼ばれて、ゆっくりと上を振り仰ぐ。
             泥で汚れた顔の中から、真っ直ぐに私を見る、目。
             優しい顔で、黒羽君は笑って。



             「お前、顔真っ黒」


             伸ばした手で、そっと私の頬をこすった。



             「うぉ!?悪ぃ、俺の手も泥だらけだった!余計汚したかもしんねー!」
             「あ、いいよ、全然平気……」


             そうか?と頭をかく黒羽君の顔を見ながら、私は思わず……本当に思わず、笑ってしまった。
             唐突に笑い出した私を、黒羽君は驚いた顔で見下ろして。
             そして、ふっと笑顔に戻ると一緒になって笑い出した。



             「バネ、ー!写真撮るぞー!」


             佐伯君が呼ぶ声に、二人して顔を見合わせて、笑いながら歩き出す。


             「バネ君」
             「あぁ?」
             「私、こんな風に遊んだの、初めて!」
             「面白かったか?」
             「すっごく!!」


             そう答えた私の手を、バネ君の大きな手が包み込んだ。
             葵君たちが大きく手を振って私たちを呼ぶ方へ歩きながら。
             胸の中に温かいものがゆっくり染み込んでいくような、不思議なくすぐったさを感じていた。






             ずっと欲しかったものがあった。
             でも、失う時がくることが怖くてずっと逃げていたの。

             バネ君が、手を引いてくれた。
             誰も踏み込まなかった私の世界に、躊躇なく飛び込んできて、私の手を取ってくれた。
             誰かと一緒に過ごす時間。ただ馬鹿みたいに騒いで、笑いあって。
             そんな場所を、時間を。ずっとずっと欲しかった。
             それを、バネ君がくれた。


             この日から、バネ君は、私にとって特別な人に、なった。













             それから私は。
             毎日テニス部の練習に付き合って、帰りは皆と一緒に海遊びをしたり、オジイの作った
             公園の遊具で遊んだり(私はブランコくらいしか使えないけど)、コンビニに寄って
             買い食いしたり。
             バネ君・サエ君・いっちゃん・亮君・ダビ君……そんなくだけた呼び方が、自然になって。
             彼らも、当然のように私を『』と呼んで。

             それはとてもささやかな、誰でも当たり前に思うような日々。
             でも、私にとっては夢にまで見た『日常』で。
             毎日が楽しくて、楽しくて。
             気がついたらいつの間にか秋は過ぎ去り、冬も終わりに近付いていた。


             瞬く間に過ぎていく日々に浮かれて、だから気がつかなかった。
             『嫌悪』という強い感情を私に向ける人たちが、現れたことに。



             あの日まで、気付くことが出来なかったんだ。































             3学期ももうすぐ終わりという、ある日の朝。
             上履きを取り出そうと開けた下駄箱から、一枚の封筒がすべり落ちた。
             何も書かれていない真っ白い封筒。
             その中にあった便箋には、ただ一言。


             『今日の放課後、北校舎裏に来て下さい』


             ちょっとクセのある、女の子っぽい丸っこい文字。
             ……何だろう、これ?
             じっと見つめていたら、不意に後ろから声がした。



             「?何やってんの?」
             「うひゃっ!?」


             驚いた拍子に手の中の封筒と便箋がぱさりと床に落ちた。


             「さっ、サエ君!」
             「おはよう。何、この手紙?ラブレターでも貰った?」


             拾ってくれたサエ君の手から、慌ててそれを取り戻して鞄にしまい込む。
             怪訝な顔でこっちを見るサエ君に、取り繕うような笑顔を向けて。


             「何でもない、何でもないよ!」
             「怪しいなぁ」
             「何が怪しいって?」


             狙い済ましたようなタイミングで、サエ君の後ろからバネ君が顔を覗かせた。
             そっちを振り返ったサエ君の開きかけた口を塞ごうと、咄嗟に飛びついたら
             身長差の所為でサエ君の首にぶら下がるような格好になって。
             ぐっと息を詰まらせたサエ君から、バネ君が慌てて私を引き剥がした。


             「、何やってんだ!?」
             「え、あ!さ、サエ君、ゴメン!」
             「……っダイジョーブ」


             どうにか息を整えたサエ君が、何か言いたげに私を見る。
             言いたいことはわかっていたけど、あえて何も答えずに私はひたすら謝って。
             そのまま、手紙のことには触れることなく、放課後を迎えた。
















             放課後、いつもどおりテニスコートには向かわずに、サエ君に声をかけられる前に教室を出て。

             指定された場所に行くと、3人の女の子が立っていた。
             一人は1年生の時のクラスメイト。けど、特に親しく言葉を交わした覚えもない。
             他の2人も、同じ学年だし顔と名前は知ってるけど、口をきいたことのない人だった。


             「……あの?」
             「ふぅん、逃げないで来たんだ」


             冷たい口調で。
             言葉が、私の鼓膜に突き刺さった。


             「さんさぁ。身体弱いか何だか知らないけどさ、最近調子に乗り過ぎじゃない?」
             「え……」
             「見ててウザいんだよね」
             「テニス部の人たちが優しいからって、図に乗らないでよね」
             「あ、あの、何」
             「佐伯君とか黒羽君とかと、引っ付きすぎだって言ってんのよ!」
             「ちょっと優しくしてもらったからって、付け上がらないでって言ってるの!」


             きつい言葉、きつい眼差し。
             混乱する頭の片隅で、少しずつ状況を理解する。



             ―――うちの学校じゃ、テニス部は人気者だから。
             当然、彼らのファンなんかもいる訳で。
             つまりこの人たちは、彼らのファンで、彼らと仲良くしてもらってる私を。

             ……呼び出したんだ。


             その時だった。




             「ちょっと聞いてんの!?」

             感情的な叫びに続いて、私の肩を強く激しく突き飛ばした、手。


             どん!と強く押されて、後ろの壁にぶつかった瞬間。
             ドクリ、大きく心臓が跳ねた。


             「……っ」
             「何よ!?」
             「……っは……」


             ―――声が、出ない。
             苦しくて、息が詰まる。


             『発作』だ。
             いつもならすぐ飲めるように持ち歩いている薬は。
             今は、教室の鞄の中で。

             ずるずると壁を背中が滑って、身体が力を失って横に倒れこむ。
             頬に冷たい土の感触。



             「な、何よ、そんな苦しそうなフリなんか、したってね……!」
             「ちょ、ちょっと、ヤバくない?」
             「さん、さんっ!?」


             最近起きた中で、一番ひどい発作かもしれない。

             女の子たちがおろおろと声を上げる。
             その声が、少しずつ少しずつ遠くなっていく。

             暗闇が迫ってきて。もうダメだって、そう思った。
             その時、閉ざされかけた意識の中へ、切り込んできた一筋の光。
             あの優しい声。




             「!?」



             その声を聞いたのを最後に、私の意識は闇に飲み込まれた。




















             ―――私はね、バネ君。
             いつの間にか、とても贅沢になってた。

             欲しかったものを、あなたのおかげで手に入れて。
             もっともっとたくさんのものを、望むようになった。


             私が望むもの、それはね。
             あなたと一緒に進む未来。



             あなたはもう、私にとっての神様なんかじゃなくて。

             神様以上に特別な、たった一人の男の子になっていた。





















             
……please go to next side.