最後の夏休み



      「っ!?お、お前っ」


      桜前線が関東から東北に移動してから二週間後、聖ルドルフ学院では

      男子テニス部の対校試合が行われた。

      校舎の隣にあるテニスコートの中央に引かれたネット越しに二つの学校の代表が並び、

      各顧問やマネージャーはその脇の古ぼけたベンチに、非レギュラー陣達はそれを

      囲むようにフェンスの外に出された。

      まるで四面楚歌のようだと、自然とその緊張感が伝わってきてこちらも身が引き締まる。

      二年前までその中にいた赤澤は今や部長となり、自分では他校で有名な同じ柱に

      選ばれた者達のような逸材ではないと口走ったりするが、その横で控えている観月や

      付いてきてくれる部員達にはそれに劣らぬ才能があることを知っていた。

      尤も、知らぬが華と言う諺もあるので何回も口にするような無粋は誰もいない。

      気が早いソメイヨシノは山吹色の葉を萌やし、その根元に散った花びらはまるで別れを

      告げるように風にさらさらと揺れた。

      その薄ピンクから茶に変色したそれは落ち葉のように風に舞うことは叶わず、地を這うこと

      しかできないのが余計に口惜しく、三月の末にはあった凛とした輝きはない。

      テニスコートにまで吹く風はこの季節らしく少し強めで、首まで伸びた長髪が揺れる。

      だが、それよりも目に入ったのはゴミでも虫でもない忘れることの出来ない人物の

      横顔だった。

      思わず声を上げてしまったことに後から気がついて言葉を濁しても遅く、一礼をした後

      勘の良い彼に尋問されたことは言うまでもない。

      今日の対校試合の相手はあの曲者揃いの六角中学校だ、良い意味で簡単には倒せない

      相手を選んでくれたものだと、心の中でベンチに腰を掛けている少年に礼を述べる。

      尤も、本人の頭にはこの試合の行く末しか今は詰まっていないだろうが、千葉の強豪校には

      それに似合うよう名物の監督がいる。

      部員達がオジイと呼ぶだけで正式な氏名や年齢や素性も未詳な老人。

      試合中は寝ているように見えてもさすが監督なのか、小言のように相手の弱点を指摘する所が

      なかなか侮れない。

      去年までは三人掛けのベンチの真ん中で舟を漕いでいる姿が見られたが、今年はその隣に

      指定の赤いジャージに身を包んだ少女が黄色いボールを瞳で追いかけていた。

      しかし、赤澤は部長でありながらその試合がどういったものかあまり覚えていない。

      春風に揺れるセミロングは知らないが、その瞳には覚えがある。

      後で観月に何て言われるか解らなくもなかったが、それ以上に向かい側のベンチで腰掛け

      ている彼女が気になっていた。



      ……似ている。



      いや、恐らく本人だろう。

      彼の目には、細い路地裏のアスファルトにしゃがんでこちらに向かって泣きながら何かを

      叫ぶ女の子が映っていた。






      と出会ったのは、今から二年前の千葉の海でだった。

      まだスキューバのライセンスを取得していなかった頃だから単純に泳ぐことが好きで、

      海があんなに恐ろしいモノなんて思っていなかった。

      小学校最後の思い出に少し遠出してやって来た千葉は当たり前だが、既に何十人で溢れる

      市民プールとは全く違う深い青が目の中に飛び込んできた。

      バスの窓を全開に開けて潮の匂いを肺一杯に吸い込んでから振り返ると、赤澤達の

      他に乗っていた客がとても嫌そうに髪を片手で押さえていたのを見て慌てて締めたが、

      逆に指の腹をその隙間に挟んで騒いでしまったから余計に迷惑をかけたことだろう。

      家族と何度も旅行に出かける沖縄の海ほどではないが澄んだ海の碧が真夏の日差しを

      受けてキラキラと輝き、まるで、自分が呼ばれているような気分になる。

      それは決して傲りではなく、全くカナヅチな人間でもきっと同じ気持ちになるだろう。

      これが帰巣本能かもしれないと思えたのは、随分後のことである。

      みんなで持ち金を叩き、それまで誰も乗ったことのないバナナボートにまだまだ小さい

      尻を並べて座り足を自然と海に着けた。

      初めてと言う訳ではないのに、浅瀬と違って全く足の裏が地に着かないことにゾクッと

      背筋に悪寒のようなモノを感じたが、ライフセイバーの羽織っている黄色が夏の海に

      眩しいベストを一人ずつ着せてもらったのだ、いざという時はそれに頼れば良い。

      それなのにこの緊張感は一体なんなのだろうか、ボートがスピードを上げる度動悸が

      鼓膜まで押し上げ警報のように何かを伝えようとしている。

      波の飛沫は腰まで上ってくるが、鉄より硬くはないがバナナの形はしてもそれほど柔らかくも

      ない船内には捕まる所はない。

      客を海に落とすだけが目的で造られたこの無機質なボートに掌を置いてると、次第に

      体温を失って行く足下とスピードに絶えることくらいしか自分達には用意されてない。

      今は水深何メートルだろう、当然学校のプールよりもテレビの画面でしか見たことが

      ないが、競泳用のものよりもずっと深い。

      海に泳ぎに行くのはまだ指で数えられるほどだが、それでも断じて初めてではないことを

      自分自身に言い聞かせるが、それでは何が違うのだろうか。


      「っ!?」


      未だ理由が分からず頭を捻っていたその瞬間、ボートは大きくシュプールを描き年頃の

      子供らしい黄色い声を上げたのが誰かと判明する前に体は頭から塩辛い水を被っていた。

      突然のことに思考回路を現実に戻すのを忘れ、鼻から思いっきり息を吸い込んでしまった。

      その隙を見逃さない海水は食道を通り、肺に入る寸前で咳き込んだのは良いが、口を

      開いた所で体内に残されていた空気を全部吐き出してしまった。

      しかし、おかしいことに先刻から感じていた恐怖はまだ足に残っており、本能は酷にも

      少年に強く閉じた瞼を開くことを命じた。

      再び仰いだ瞳には上半身に羽織っていたはずの黄色いベストは遙か彼方の海面に浮上して

      おり、まるで嘲笑するように背を向けずこちらを見ている。

      当然、先刻まで守られていたはずの赤澤の浅黒い胸には何もなく、ただヤケに冷たく

      感じる海底に向かって静かに沈んで行く。

      浮上したいにも体に残った息は全て吐き出してしまったため、何メートルかは泳げたとしても

      一緒にバナナボートに乗った友人の誰かが気づいて引き上げてもらわなければならない。

      こう言う時、嫌な方向に物事を考えてしまうモノで、彼もその例外ではなくこのまま

      海の藻屑になってしまったらどうしようとかこんな所に友人と一緒だからとは言え家族と

      離れて来るんじゃなかったと息苦しさの中、後悔ばかりを脳裏に焼きつけていた。

      薄れ行く意識の中、碧の世界とは全く逸脱した長い黒髪の人魚がこちらに近づくるのを

      見た気がした。


      「……ここは……どこだ?」


      次に目覚めた時には、見知らぬ寝台に仰向けに寝かされていた。

      まだ焦点が合わない瞳には白一色で何の洒落っ気もない壁が映り、ここが天国でもまして

      自室でもないことが解って体を今まで覆っていたブルーのタオルケットをはね除け、

      行儀良くその下に二つ揃えられていたサンダルに足を伸ばした時、無音だった室内のドアを

      誰かが静かにノブを回して入ってくる。

      それは先程目覚めたばかりの彼にとっては状況が掴めなかったが、鼻先を擽った消毒液の

      匂いと風邪を引いてしまった時などに世話になる地元の駅前にある診療所と室内が似て

      いるため、ここが病院か何かの施設くらいは把握できた。

      だが、その閉鎖された空間に何故、自分が仰向けで寝かされていたのだろう。


      「……っ!?」


      ドアの影から現れたのはどこか見覚えのある、日本人形のように腰まで伸びた黒の

      ストレートヘアを揺らした少女だった。

      彼女は喉を詰まらせたような声とも吐息とも言えぬ音を発するとまた引っ込み、どたどたと

      恐らくそう長くはない廊下とこの部屋は繋がっているのだろう、数歩目で忙しない足音が

      遠退いたと思えば、大人の男性を連れてきたのかその小さかったモノに地響きにも似たモノが

      こちらに近づいてきて今度は蹴破るような音を立ててドアが開かれた。

      室内に入ってきたのは、先程の少女とお世辞にも親子とは言えない高年のふくよかな

      体型をした見るからに優しそうな男性だった。






      「……はぁ……それで、どうしたいんです?」


      「どうしたい……っと、言われても、な…」


      「そんな心許ない返事をしないで下さいよ。…貴方は我が部を背負う部長でしょうが」


      形の良い眉を潜める彼の言いたいことはこの三年間で把握済みだ、何を言われているかなど

      理解は出来る。

      だが、それを認めてしまうことが恥ずかしくもありまた怖くもあり、用意された答えを

      自分から避けている。

      こんなことではいけないと解っているのに、大地震の爪痕のようにひび割れたアスファルトに

      躓いて転んだ少女の瞳と今年の春の対校試合でベンチに腰掛けていた彼女のモノはあの日

      焼き付いた色と同じで、普段聖ルドルフ学院男子テニス部主将である赤澤吉朗のこれまで築き

      上げてきたモノが全て崩された。

      破片の中から現れたモノは小学六年生の……小学校最後の夏休みを過ごしていたはずの自分。

      友達の前だから強がってはいたが、本当は初めて家族と離れて遠出したものだから内心

      ビクビクしていた。

      その結果が、ありえないあの事故を引き起こした。

      しかし、あの件がなかったら自分はに気が付けていたのかなんて自信は元よりない。

      ……あの時、赤澤が海で溺れた際に薄れ行く記憶の中で見た人魚の名前。

      彼女が助けてくれなかったらきっと、今の自分はここにはいない。 

      碧の世界の住人に再会した時、少女は言葉をあの海の中に置き去りにしてきた。

      人魚は話すことができないと、昔親に寝かしつけてくれた時に片手にしていた物語を

      思い出す。

      正確には人間に姿を変えてもらう条件に声を魔女に渡してしまったためなのだが、そんなこと

      は当時の赤澤少年にはどうでも良く、ただ海への渇望が生まれるきっかけの一つになった。

      まだテレビの画面でしか見たことのないあのだだっ広い水溜まりの中に人魚がいる、

      そう思うと、とても居ても立ってもいられない衝動になる。

      彼女は自分が見つけてみせる。

      物語の中では声を出せないがため愛する人に気づいてもらえず、泡となって天使になった

      けれど自分ならば気づけるはずだ、と不確かな根拠だけを理由に始めたスキューバが

      今では、それを忘れてほとんど趣味になっているなんてさすが子供と言う所だろう。

      そんなエピソードを持っている自分とは違い、祖父だと名乗った高年の医者の背後に

      隠れるにはない。

      彼の話によれば、彼女は元々言葉が話せなかった訳ではない。

      だが、小学二年の夏からの様子が次第に明るさを失っていった。

      それは些細な勘違いが火種を生み、ターゲットにされた少女は口数が少なくなり、四年生に

      なると登校拒否を始めた。

      翌日、学校に行くよう説得しに部屋に入った父親が第一発見者だった。

      恐らく、朝の挨拶を言おうとしたのだろう、寝起きのが発した言葉は空気に掻き消され

      風邪で喉を痛めた時よりもハスキーな声が吐息に変わった。

      たまにテレビで特集を組んだりして知識としては把握していたが、目の前にその

      成れの果てが現れると対処に困る。

      それはも同じようで老人の背後に隠れ、白衣を皺ができることを気にせず握りしめる

      掌が震えていた。

      対人恐怖症……、メディアは面白さを追いかけているだけで信憑性には欠けるが、何度も

      放送された内容は強ちガセではなかったようだ。

      一緒に来た友人達は診療所に運び込まれて何分かはいたが、やがて予め調べておいた

      時刻五分前を短針が指す頃には彼の家に連絡を入れて名残惜しげに帰っていったらしい。

      しかし、性を覚え始めた12歳の少年にはそんなことはどうでも良かった。

      例え、先に家路に着いている友人達に話した所でこの時代でそれは古いと嘲笑されても

      構わない。

      …可愛い。

      それは父性的なモノから生まれ出たのか、あるいは事前に彼の中に用意されてあった条件と

      数oのズレもなく適合したのだろう、初恋を未経験のまま小学校に上がってしまった

      赤澤にとって天使が地上に降臨したように思えたに違いない。

      礼を述べてから浅黒いはずの肌に熱を感じ、膝の辺りまで下ろしたタオルケットを一気に

      頭まで被った。

      二人は何かしらを察したのだろう、彼が顔を隠した数分後室内の灯りを消して出て行った。






      ……結局、ここまで来てしまった。

      目的の駅まで着くと、自主トレと部活で鍛えた足で初めて会ったあの海岸に行ってみた。


      「また……またっ、……来年になったら、泳ぎに来るからなっ!」


      それが別れ際にに言えた精一杯の言葉だった。

      やらかしたことからしても彼女のことからしても、母親にこの診療所に来られてはまずい。

      気は進まないが、出された朝食を早々に済ませ大して中身が入ってないテニスバックを

      背負い、先に駅へと迎えに行こうとした所をまたもや勘の良い人魚に嗅ぎ付けられ、

      昨夜のままの赤いランニングの裾を遠慮がちに掴まれた。

      振り返った先のの顔はやはり、朝の食卓で再会した時と同じく暗雲が垂れ込めた空のように

      いつ泣き出してもおかしくない目をしている。

      多分、祖父に適当な理由を付けて世話になったことに礼を言っていたところを知らないの

      だろう、瞳がどこに行くの?とこちらに尋ねてくる。

      の心を壊したのが自分と同い年の子供、この唇から奏でられた声がどんな調べか彼らは

      知っていると思うと、胸が痛んだ。

      尤も、本人は彼が何故悲しそうな顔をしているのか解らず、不安そうな素振りで首を傾げた。


      「また……またっ、……来年になったら、泳ぎに来るからなっ!」


      情けなかった……、不安でこの世からいなくなってしまいそうな少女の頭を優しく撫でる

      ことも背中をさすることもせず、まるで花を手折らずそっと触れているような力で掴んでいた

      ランニングの裾を振り解き、それだけ言って走り出す。

      背後でがその反動かバランスが取れなかったかして地面に倒れ、何かを言葉にしようと

      したのに気がついたが、一度弾けた足を止めようとはしなかった。

      今、この足を止めたら彼女が通っている小学校のクラスメートを一人ずつ殴らなければ

      気が済みそうにない。

      それは恐らく、心の優しいのことだ。

      心では思ったことはあったとしても、いざとなったら泣いても止めさせるだろう。

      彼女の涙は見たくないしそれが自分に向けられるのはきっと、耐えられない。

      だから、あの場所にを一人置き去りにした。

      段々小さくなる少女の唇が何を紡いでいるのか解らなくなっても尚、足は速さを増した。


      「……久しぶりだな、


      東京はまだ初夏の風を呼んだばかりだがさすがと言うべきか、こっちの駅を降りてからと

      言うモノ夏に似た温かさを感じる。

      海岸には気の早いサーファーと恐らく近くの小中学生だろう、波打ち際で黄色い声を上げて

      何人かで遊んでいた。

      その両者共からかなり距離を取って砂浜に座り込む六角中の制服を着た少女に言う。

      夕日にも負けない紅に染め上げられたセーラー服の肩がいつかのように震えたが、振り

      向いた顔は酷く怒っているようだ、無理もない。

      あれだけ劇的に別れたくせに、翌年もこの海に現れることはなかった。

      あの日、駅で母親と再会すると、二度とこの海に行こうとするなと言われた。

      理由は分かるがまだ目にちらつくあの少女と約束した方は、そう安々と首を縦に振れない。

      だが、それならば今にもスキューバも辞めなさいと言わんばかりの彼女に何て言えば

      いいのだろう。

      初恋の相手を隠したとしても、命の恩人とは言え少女と約束をしたからだなんて言ったら

      家族に何て言われるかは目に見えていた。

      電車の車窓を逆流する景色に、ライセンスを早く取ってを迎えに行くことを誓った。

      それは嘘ではないが、資格を取るのに三年の月日が経つとは予想していなかった。

      制服のスカートを軽く叩き、砂を落とすを改めて見下ろす。

      あの頃も可愛いと思ったが、今はそれ以上に彼のピンポイントを抉っているようで息を

      するにも苦しい。


      「そのぉ……祖父さんは元気か?それに、その髪はどうしたんだ?」


      その時だった、頬にピシャリと衝動が走り熱を帯びた瞬間に軽い痛みが走る。

      何が起こったのか解らなかったが先刻まで目にした映像を再生すると、彼女が何かを

      噛みしめるような顔をして赤澤の頬を平手で叩いた。

      三年前の少女にはあり得なかった事態に人違いをしたのかとさえ思ったが、すすり泣く声が

      聞こえてぎょっとした。


      「……っ……、ずっと……ずっと待っていたんだから」


      「っ?!」


      彼女は拭いもせず瞳から涙を流している。

      それは目の前に突然、宇宙人が現れたり恐竜に襲われたり海賊の財宝を発見したりするよりも

      驚きの真相だった。

      彼が帰ってから初めて家族以外のそれも異性から声を掛けてもらい、その嬉しさから

      もう一度声を出してみようと気を起こした。

      リハビリの甲斐もあってどうにか一年後の夏に間に合ったが、当然赤澤の姿はビーチにも

      診療所にもなかった。

      騙されたと思い始めたのは去年の夏の終わり、声を取り戻し中学校に週に一、二回通い

      精神的にも身体的にも慣れ始めていた頃、心機一転も兼ねてそれまで伸ばし続けた自慢の

      黒い長髪を夏休みで持ち帰っていた家庭科の裁縫箱からラシャ鋏を取り出して短く切った。


      「ごめん……ごめんなっ!」


      赤澤にとっては恋の始まりだった夏休みでも、彼女にとっては勘違いとしても失恋の

      夏休みだったようだ。

      泣きじゃくるを胸に抱き寄せ、あの時出来なかった背を今度は自分が遠慮がちにさすった。

      都内よりも温かい春風に揺れるセミロングはあの頃の面影は全くないが、それでも泳ぐこと

      よりもたった一人の自分に想いを伝えることを選んだ人魚にはとても似合っていた。









      ―――…終わり …―――









      #後書き#

      こちらは、「春待ち人.」様への参加作品として作業しました。

      私の赤澤Dream小説は今回が諸作なので勉強させて頂きました事に感謝しております。

      それでは、ここまでご覧になってくださり誠にありがとうございました。