桜の時

      まだ先月の記憶が新しい二月上旬、房総半島に護られ関東地方では比較的温かい千葉にも

      雪は静かに舞い降りた。

      昨日の朝方から厚い雲に覆われた空は夜になっても星を映すことはなく、代わりに

      現れたその白さに地上は全ての偽りを閉鎖され、静寂と孤独だけが生き物に与えられ

      ている所為か他のどの天気よりも気が滅入る。

      最近クラスで話題の女性予報士が一週間前、朝のニュースで報せていたのが脳裏を

      掠めたが、今の佐伯虎次郎にはどうでも良かった。

      年代物のストーブが音を立てて燃えている室内には他に、机や本棚などの隅々に置かれた

      ぬいぐるみのファンシーさからここが彼のものではないことが誰でも察せられるだろう。

      だが、当の本人は全く気にしていない様子で視線はただ一点を見つめただけで、

      それから外そうとはしない。

      その先には眠る同い年くらいの少女の顔があり、その肌の白さはベッドの直ぐ横にある

      引き戸式の窓の外に降る雪にも劣らない。

      包み込むように両手で握った彼女の右手はいつかのものとは違い、ピンク色のパジャマの

      袖から現れた手首も少し痩せ、青白い線が緩やかに引かれてある。

      これが消えないタトゥーならどんなに良いだろう、そう思った所で苦笑している自分が

      弱っている事に今更気がついた。

      出された食事には、大して口をつけていない。

      別段、空腹じゃない訳ではないが、簡単な雑炊や好物の雪花菜でさえ胃が受け付けず、

      箸を手にしても数分後に冷えたお盆の上に返している。

      温かい掌を握りしめていると落ち着く……なんてきっと、同じ年頃の少年や母性を

      覚え始めている少女でさえ知らないだろう。

      このか細い熱を感じることで生死を確認するなんて当たり前だが、友人や家族でも

      経験したことがない。

      しかし、いくら心電機の冷たいアラームが規則正しいリズムを刻んでもこの死人のように

      眠るを見ていると次第に不安になり、こうして悴むまで白い掌に口づけ、何度も

      同じ言葉を繰り返していなければ気が狂いそうになる。


      「……起きろよ。頼むから、もう一度だけ俺を見てくれよ…」


      だが、耳元に届くか届かないかくらいの声で囁いても、彼女は眉をぴくりとも

      動かさない。

      少女が紡いでいるであろう夢の中には、誰を住まわせているのだろう?

      その中に自分はいるだろうか―――― いや、いないだろう。

      この少女がであった記憶に、佐伯は登場していない。

      ……不意に、医者の言葉が脳裏に甦り、嫌な予想図ばかりを考え、自然と呼吸が

      荒くなる。

      こんなに心臓に負担を掛けることは、今までもそして、これからもないだろう。

      桜の時にはいない風に揺れるセミロングを思い、瞳の端から溢れた涙が頬に一筋流れた。






      彼女と出会ったのは、全国大会の緒戦で惨敗してしまったその翌日の部室前でだった。

      まだ八月の記憶を覚えている太陽は踏み入れた程度の九月にその熱を変える訳もなく、

      遅く生まれ出た蝉たちのためにか、その日差しはどことなく強く感じた。

      一生に一度の恋をした者か、はたまた不慮の事故に遭った者かは解らない夏の残像が、

      コートの角で蟻によって運ばれていくのを久しぶりに足を踏み入れたレギュラー陣が

      最初に目にした光景だった。

      もう、自分達三年は必要ではない。

      季節は動き出したのだ、以前から解ってはいたが、この使い慣れたコートを一、二年に

      託すその時がやってきたことをこの瞬間になってようやく実感として悟った。

      覚悟はしていたはずなのに、こんなきっかけがなければ今までケジメが着かなかった

      自分が情けない。

      今は残された葵や天根だが、明日には新しいレギュラー陣の中で笑ったり悲しんだり

      しながら絆を深めていく。

      黒羽が入学時のように無条件で高校に行けたらとぼやいていたのを軽く受け流し、

      もう最後である部室のドアを開けて帰宅しようとドアノブを回した彼の耳に黄色い声が

      届いた反射的にそのままの体勢で固まった。


      「どうした?サエ」


      佐伯と一緒に部室に残っていた何人かのレギュラー陣を代表し、普段は無口な木更津が

      声を掛けてきた。

      彼の双子の弟は、東京にある聖ルドルフ学院中学校にいる。

      元々は同じくこのコートで汗を流していた仲間だったが、二年のある日観月はじめと言う

      少年に勧誘され、躊躇うことなくこの生まれ育った千葉を後にしたのだ。

      まぁ、生まれてこの方、ずっと意識し続けていた兄を知らない世界から必要にされたと

      言うのが一番の理由なのかもしれない。

      六角中学校指定のエンジのユニフォームに合わせた深紅のキャップを深く被って

      いるため、初対面の人間にはその意思を十分に酌み取ることは困難だが、同じ三年間を

      過ごしてきた自分には本人が怒っても見下してもいないことが直ぐ解った。

      ドアノブを握ったままの姿で後ろに振り返ってみると、木更津の他に部室にいた

      全員がこちらに注目していることに気付き、急に決まりが悪くなって苦笑いを浮かべた。


      「ああ……今、何か聞こえなかったか?」


      「いや、俺達は何も聞いてないぜ。なぁ?」


      黒羽が半裸のまま周囲を見回して同意を求めるが、一様に不思議な表情を浮かべる前に

      首を縦に振って答えた。

      しかし、この野郎所帯の中で明らかに違うソプラノだったことを踏まえても、空耳の

      可能性を疑うのは正しい考えではない。

      仮にレギュラー陣の誰かの家族だとしても、記憶している声紋とはどれも一致しない。

      部室内が静まるのを待ち、ドアノブを握ったままの掌に力を入れ、恐る恐る外へと押す。


      「あっ、あの……!」


      だが、ドアの隙間から照明を点けていない薄暗い部室に差し込んだのは、移り変わり出す

      夕日の色ではなく、先刻彼が耳にした甘い声を発する茜に染まった一人の少女だった。

      着替え終えた者はそちらに視線を走らせ、そうでない者は手にしたモノをはらりと床に

      落として鳩が豆鉄砲を喰らったような顔を浮かべたまま身体を硬直させている。

      彼女の身なりは、赤を基調とした六角の制服を着ておらず、季節から取り残されたような

      真っ青なワンピースの上に白いカーデガンを羽織っていた。

      胸に添えられた両手には少女のモノにしては大きな麦わら帽子が握られ、瞳が何かを

      言い淀む度にその部分がギリリっと、音を立てて押し潰される。

      男子テニス部の部室は何十年も昔から浜辺にある、その分、海水浴にやって来た

      観光客が脱衣所だと勘違いをして中にまで入り込んでくることが多い。

      この彼女もその類ではないだろうか?


      「あのっ……私、道に迷って…………そのっ」


      しかし、誰もがその線を踏んだであろう次の瞬間、リップも塗っていない唇から飛び出た

      真実はあまりにも定番過ぎる結果だった。

      少女の名前はと言い、千葉にはつい最近引っ越して来たらしい。


      「じゃあ、どうして一人で出歩いたりしたんだい?ご家族の誰かと一緒じゃないの?」


      テニスバックを肩に担ぎ、彼女が覚えていた住所を頼りに自宅とは逆方向を歩く。

      あの後、の背後から現れたオジイの提案もあり、佐伯が家まで送り届けることになった。

      正確な名前も年齢も全てが謎に包まれている存在だが、お手製のウッドラケットや試合時

      の助言などなかなか侮れない彼のことを誰も老人だからと莫迦にしたりはしない。

      それにどちらかと言えば、尊敬している者の方が六角中学校の関係者には多いのでは

      ないだろうか。


      「えっ?」


      その蚊が鳴くような声は彼の耳を微かに擽っただけで、頬を染めて俯く少女の

      意思を上手く酌み取れず、なるべく刺激しないように聞き返す。


      「…………海を……見たかったんです」


      「そっか。なら、仕方がないか」


      の返答を聞いて何故だか、一年生部長や幼い頃の自分もいた六角予備軍にするように

      頭を優しく撫でた。






      その日から放課後、少女が六角中学校のテニスコートに現れることが日課になった。

      初めは覆い茂る木々に隠れるようにフェンス越しからボールを追いかけていた瞳に

      偶々受験の合間を縫って部活に顔を出した佐伯が気付き、いつもオジイが座っている

      木製のベンチに誘ったのだ。

      だが、誰とでも心を開いた分、最初に感じた虚ろがフレグランスとなり、見えない壁が

      境界線を隔てていることに気付いているのも佐伯虎次郎しかいなかった。


      「私ね、自分でも解らないんだけど……記憶喪失なんだって」


      浜辺で初めて逢った日の帰り道、まるで他人事のようにそう語ったはやはり他人事の

      ように首を傾げていた。

      彼女が最初に目覚めた時には両親だと言う中年の男女が涙を流しながら抱きしめて

      くれたが、本人の方は何が起こったのか解らずただ瞬きを繰り返すばかりだった。

      彼らの話しによれば、交通事故に遭い手術は成功したが、何日もの間眠り続けた影響で

      脳に障害が発生し、家族や友人と積み上げてきた記憶を一切失くしたのだと教えられた。

      主治医からの勧めもあって今は自宅で療養生活を送っているが、千葉に帰ってきても

      落ち着かず、二人が出逢ったあの日、何かに誘われるように海岸までやって来たと話す

      に恋をしていると気づいたのは、インスピレーションを覚えた時だった。

      恐らく、彼女自身は自覚していないだろう。

      他の誰よりも彼を見る目はとても懐かしそうで、とても悲しそうだった。

      多分、失った記憶の中に自分と似た存在が身近にいたのだろう。

      しかも、その視線を向けるような相手だ。

      その対象も莫迦ではなかったら、うっすらと自覚していただろうが、もう手遅れだ。

      、この名が正しくても誤ったモノであろうともその心は最早自分に向けられている。

      彼女が六角中学校のテニスコートに現れてから初めて出逢ったあの日のようにオジイに

      命じられ、自宅まで送り帰す担当に選ばれて数日後、二人は付き合い始めた。

      例え、に記憶なんて戻らなくても構わない。

      これからは二人で新しい記憶を作っていこう。

      そう思っていたのに、年も明けた二月、試験会場から六角中学校に戻ってきた佐伯が

      いくら探しても彼女の華奢な姿はテニスコートにも二人が浜辺にもなかった。

      胸騒ぎがする、部活動から退いてしまった身体はすっかり衰え、走っても風に

      抵抗を感じて言うことを聞かない。

      白い息を幾度も吐き出して向かった家は、が暗記していた住所を頼りに探したあの日、

      ちょうど本人を心配して外に出てきたご両親に会った時よりも静まり返っていた。

      例えようがあるのならば、家族でどこかに外出したと言うよりも家主を亡くしても尚、

      存在し続ける世界遺産に似ている。

      呼吸を整えてから試しに呼び鈴を鳴らしてみるが、やはり誰かが応答してくれる

      様子はない。

      空き巣みたいでなるべく憚りたかったが事は一刻を争う事態だ、以前男手が必要だと

      彼女の母親に呼ばれ、庭師の真似事をした時に見つけた二階にも届きそうなぐらい

      長い梯子を物置から運び、 の部屋の前にあるベランダに立て掛けて登る。

      しかし、その姿はテレビのサスペンス劇場に登場する犯人よりもドキュメンタリーで

      取り上げられるレスキュー隊のように颯爽で尋常ではなかった。

      ベランダに軽やかに忍び込むと、窓の中からは冷たい機械音と誰かがすすり泣く声が

      最小限に聞こえた。

      きっと、無邪気な子供時代だったら、この場でガラスを両手で力一杯叩いているだろう

      が、今年の誕生日には16歳になる自分にはそんなことはできなかった。

      白を基調としたコンクリートの床に座り込むと、初めて会ったあの時のようにこちらに

      気付いた二人は慌てて窓を開けてくれ、靴をその場に残し何度か入ったことのある

      彼女の部屋に上げてもらう。

      窓の鍵を閉めると、途端に妙な震えが背筋に走り、六角中学校からここまで走ってきた時

      よりも心臓が狂ったように胸の中で暴れているのにも関わらず、体中の熱は次第に

      引いて言葉が上手く出て来ない。

      重たい沈黙が落とされたファンシー過ぎる部屋には不釣り合いな医療器具が置かれ、

      その細長い管の先には彼女が眠っていた。






      三月上旬、六角中学校では卒業式が催された。

      彼の学ランに付いていた金ボタンは全て名も知らない少女達にむしり取られてしまった

      が、第二ボタンだけは予め取って置いた。

      三年間通い慣れた通学路を惜しむように一歩ずつ踏みしめ、自宅とは全く逆方向の

      道を歩く。

      校庭の梅の木を見てもそう思ったが、春は直ぐそこまで来ているようで気の早い

      小さな青い花がチラホラと咲いているのを発見するとこちらまで胸が温かくなる。


      「…………どうして、こんな……」


      ようやく口から出た声は滑稽にも震え、頬は癇癪を起こしたように引きつっている。

      緑色の半透明な酸素マスクはテレビではお馴染みだが、実際に目にすると圧倒される

      モノがある。

      覆われた唇は呼吸を繰り返すだけで、いつものように佐伯の名を呼んだり甘酸っぱく

      好きと言ったりはしない。

      に近寄りたい気持ちを必死に堪えて唇を強く噛むと、間もなく鈍い痛みが走り、

      端には生暖かい涎よりも濃厚な何かが流れた。

      背後にいる母親がごめんなさいごめんなさいと繰り返しているのが聞こえたが、そんな

      事はどうだっていい。


      (誰か……これは、夢だと言ってくれ。彼女の他に何も望まないからっ!)


      だが、へなへなとフローリングの床にしゃがむ彼に夢魔は果てを見せてはくれない。

      代わりにこれは現実なんだと突きつけられたのは、の父親からその容態を聞かされ

      た時だった。

      もし、このまま眠り続けたら彼女は間違いなく死人になってしまう。

      ただでさえ、脳に負担を掛けているのだ。

      佐伯と入れ替わりに病院に戻った主治医は出来る限りの処置はすると約束はしたが、

      こう言う症状は本人の気力の問題だと家を後にする間際、そう言い残して去っていった。

      この中年の夫婦は、の本当の両親ではない。

      彼女の本当の名は、田沼と言い、六角中学校長の一人娘である。

      事の発端は今から二十年前に遡り、まだ中学教諭の一人だった彼は家族を顧みない男で

      家庭は崩壊の危機にあった。

      物心付いた頃から顔を合わせればケンカしている両親を見て育ってきた彼女は壁を

      作るようになり、それが爆発したのは中学三年の今頃、遂に離婚が成立し親権を

      得た父親からそのことを聞かされた時だ。

      その場に倒れたは二十年間眠り続け、去年の夏の終わりに永き眠りから目覚めたが、

      自分は誰の子どもで今までどう生きたのかと言う記憶を全てクリアにしていた。

      校長は責任を感じ、自分達では与えられなかった家庭の温もりを教えてやって欲しいと

      子どものいない妹夫妻の養子にしたが、前日、彼らが真相を話していたのを聞いて

      しまった は再び眠りに就いてしまった。

      佐伯が辿り着いたのは、二人が初めて出逢った浜辺で、吹く風はやはりまだ冷たい。

      今日で着納めの学ランの胸元には白地のリボンに赤で「卒業おめでとう!」と書かれた

      バッジがあり、潮風の強さに暴れ出したそれを外してズボンのポケットにしまう。


      「ごめん、待った?」


      「ううん、虎次郎君こそ大丈夫なの?男子テニス部のみんなと約束とか合ったんじゃ…」


      「そんなこと心配しなくても大丈夫だよ。逆に、「彼女を大事にな」って笑って

       送り出してくれた」


      「いい人達だよね。私も、どんなに救われたか」


      部室前の砂浜に汚れを気にせずに座っていた少女がこちらに気がつくと立ち上がり、

      スカートを叩いてからサクサクと香ばしい音を立てて歩み寄る。

      肩に掛かるか掛からないかくらいの髪が風に持って行かれないよう片手でこめかみを

      押さえた姿が愛らしくて、つい抱きしめてしまう。

      初めて逢った頃よりもしっかりとした歩調で歩く人魚は、もう、と文句は言うが

      その声は微笑を含み、華奢な身体は肯定を望んでいた。

      この血色もいい彼女がつい先月まで記憶を失くし、おとぎ話に登場する姫君のように

      眠り続けていたなんて誰が信じようか。

      か細い力で握りしめていた掌を握り替えしてくれたことを今でも思い出すと、涙ぐんで

      しまうのは本人には秘密にしている。

      目覚めたはすべての記憶を取り戻しており、勿論彼のことも覚えていた。

      佐伯を初めて目にしたあの日、二十年前男子テニス部のマネージャーをしていた

      当時好きだった部長に似ていて本能的に意識したのだと話してくれた。


      「その彼に俺が似ているだけ?俺を好きだって言ってくれたのは」


      「……バカ。……解っているくせに」


      この歯痒い束縛が、彼にとっては心地良い。

      もうすぐ、この房総半島に護られた千葉にも春はやってくる。

      桜の時はこの揺れるセミロングの肩を抱き寄せて見に行こう、みんなで。









         ―――
終わり―――









      #後書き#

      こちらは、「春待ち人.」様への参加作品として作業しました。

      今作は、以前、当サイト「光の闇の間に…」掲載しました作品を元ネタにした

      佐伯Dream小説にしてみました。

      皆様に喜んで頂ければ、幸いかと存じます。

      それでは、ここまでご覧になって下さり誠にありがとうございました。