殺人事件
「はぁ…」
夏も中頃に差し掛かった夜、一人の少女はメタリックピンクの携帯電話を
見つめては、何回もため息を吐いていた。
その画面には、彼女が何度も電話を掛けようとして不発弾に終わったある幼馴染の
名前が綴られている。
数回にもなるであろうため息を一つ吐き、そのままの表示で一度閉じる。
「……うっ」
すると、瞳からは自然と涙が溢れ、少女は声を殺すため自室のベッドに転がり、
枕に顔を押し当てる形で泣いた。
既に、彼はこの世にはいない存在だ。
そう言い聞かせても心は自然と少年を求めてしまう。
だが、もう、彼女の中では生きてはいけない想いである。
忘れたいと何度試みても彼への思い出を捨てることが出来なかった。
小学生の時に流れていた歌のように忘れようとしても忘れない。
当時から少年を想っていたためそんな日が来るとは思ってもいなかった。
だが、現実は、もう、少女に笑いかける橘は目の前にいない。
彼を好きになるんじゃなかった。
泣きじゃくりながら何度もそう思ったが、心の中でそれを訂正する。
彼がいたから今の自分がいる。
橘に相応しくなるため苦手だった料理や裁縫も覚えた。
彼の誕生日には毎回ケーキを焼いて祝った。
その時の照れくさそうな表情が今も忘れられない。
「忘れよう……あいつはもう、死んだのよ」
その言葉を最後に彼女は泣き疲れてそのまま寝入ってしまう。
ベッドの側の窓からは激しい雨音が響いていた。
今日の天気は、まるで、心の中を現したような台風の渦の中にいる。
風雨にさらされて街路樹がうるさいほど唸っていたが、それも泣き疲れて
しまった彼女にとっては、子守唄のようにしか耳に届いていなかった。
『桔平ちゃん!ガンバレ!!』
『おらっ!』
季節は照り返すような夏、一つのテニスコートには「九州二強」と言われる
少年を見ようとギャラリーが人で溢れている。
『大丈夫だよ、さん。お兄ちゃん、絶対に勝つもん』
その中で、体中に汗を流した少女達が必死になって応援していた。
と呼ばれた彼女は、と言い、隣で一緒に応援している少女は橘の妹である杏だ。
彼らは物心ついてからの幼馴染だ。
橘がテニスを始めた時より二人は必ず応援に駆けつけ、彼もそれに答える
ようにいつも優勝を浚って行った。
実力の差がありすぎだ。
天性の才能もそうだが、橘がテニスに目覚めてからの練習量は馬鹿にならないほど
メニューに組まれてある。
テニススクールに通う一方、筋トレは勿論のことロードワークや球打ちなどを
毎日欠かさず行っていた。
それにも付き合うにはそれが当たり前のことだと思っていた。
『えっ?今、なんて……』
ある日の帰り道、獅子楽中学校に進学した彼女は、目の前で泣きじゃくる
自分の妹のような杏を見た。
もうすぐ彼女も同じく獅子楽中学校に入学する。
気がつけば、もう、そんな歳になったのだと思うとやや母性に切なさが過ぎる。
季節は三月。
先日は杏の通っていた小学校の卒業式があった。
元々小さかったと同じぐらいに成長した彼女は、大粒の涙を浮かべたまま
信じられない言葉を発する。
『東京に引っ越すことになったの!やだよぉ!!さんと離れたくないっ』
そう言って、杏はやっと着慣れた制服であるセーラ服にきつく抱きついた。
だが、延々と泣き続ける同性の背を摩る彼女は絶壁から突き落とされた気分だ。
だって、彼らとの別れが来るなんて夢にも思わなかったから…。
しかし、一番ショックなことは橘本人から告知されなかったことだ。
クラスは違うが、テニス部のマネージャーとエースの仲である。
授業中は時々会うくらいだが、放課後は部活が休みじゃない限り毎日顔を
合わせている。
それなのに何一ついつもと変わらない素振りで笑い、そして、何気ない会話を
交わしていた。
目の前が真っ暗になった。
今、杏を抱きとめていなければ足が震えそうで必死に腕を回し返した。
彼にとって自分は妹や両親のような特別な存在だと信じて疑わなかった。
だが、その考えは甘かったということが、良く解った。
幼い頃から意識せずにはいられなかった。
ずっと応援し続けて解った想い。
だが、それはもはや遅かったのかもしれない。
現に何も彼から伝えられなかったのだから…。
「さんまで泣かないでよっ……私まで悲しくなっちゃうよ」
初恋に別れを告げると自然と涙が頬を伝った。
制服から顔を上げた杏はまだ瞳に渇きを知らない泉を宿している。
ごめんねと一言謝ってから彼女にハンカチを渡し、自分は指で拭った。
今、この瞬間で橘桔平という少年は彼女の中から消えた。
あれからもう一年は経ってしまった。
だが、連絡があるのは妹の方だけで彼自身からは一切ない。
彼女の手紙から僅かに知れる現在の橘桔平という少年は、不動峰中学校の
テニス部で全国を狙っているという話くらいだ。
今までどんなに彼を自分の中で殺したか数え切れないほどある。
でも、忘れることは出来なかった。
今日は橘の十五回目の誕生日である。
去年まで自分が焼いたケーキを美味しそうに食べていた彼に会いたい。
そう思うと、あの時のように涙が頬を伝い携帯電話の画面が濡れた。
もし、この雫が彼を濡らす東京の雨の一滴ならば、このまま泣き続けても良い。
それぐらいはこの恋に一途だった。
だが、今はこうして捨てたくて捨てられないアルバムに苦しんでいる。
忘れよう忘れようとして結局は橘を求めていた。
画面の照明が切れるたび様々なキーを押して明かりを灯す。
四六時中、彼のことを考えてはため息を吐き、気がつけば、涙を頬に滴らせた。
何度も呟きそうになって胸の内に留めた真実。
だが、そんなことはもう、忘れてしまおう。
知り尽くしていたはずの幼馴染から突然渡された別れ。
これ以上のものなど必要ない。
愛しさも…切なさも……もう、何も。
「桔平……ちゃん」
一年ぶりに意中の少年の名を口にする。
すると……
ブー…ブー…ブー…
その瞬間、マナーモードにしていた携帯電話に着信が入ったのだ。
「ひゃっ!?」
手の中に握り締めていたものだから余計に動揺してしまい、ベッドに落とし
体はそれから避けるように後退りをしてしまった。
だが、一度火が着いたように鳴り出した何者からのシグナルは止まらない。
むしろ、少女を突き刺すように煩く木霊している。
こんな時に限ってと雫を指で拭いながら表示画面を見た一瞬信じられず、
言葉が声になるのに秒針が一往復したことだろう。
「な…んで……」
それ以上声を出せない。
彼女の掌を飛び出して柔らかいふとんの上を跳ねた蛙は真実を述べるのみである。
その表示されている着信主は何度見直すことはない。
『橘桔平』。
鈍いメロディーだけを口にする小動物がに決定を煽る。
だが、解りきっているのに、それを前にしてどうしようかと真剣に悩む
自分が憎らしかった。
受話器を握り締めて一年ぶりの彼の声を聞きたい。
しかし、これ以上傷つきたくはない、お願いだからあなたのアドレスから
私を殺して下さいと心の中で叫んでいた。
ブー…ブー…ブー…
残り6秒ぐらい…。
それでも鳴り止まない着信音が彼女に最後の決断を迫る。
少女の脳裏に過ぎるのは、少年とのロストユニバース。
汗水流して応援した日々。
隣で歩いた時間。
言葉を交わした刹那。
その一つ一つが宝物だった。
留守電になる一歩手前なのかもしれない。
もう一人の自分が静止しようとしてその腕を振り払って最後の絆を押した。
「もしもしっ?」
平然を装うとしても声がどうしても上擦ってしまう。
鼓動は喉から吐き出してしまいそうになり、必死にそれを抑えるように胸元で
握り拳を作った。
傷ついてもいい…彼の声が聞きたいっ。
その想いがどんな記憶よりも強かった。
『……久しぶりだな、』
小さな携帯電話の向こうからは機械音交じりの橘の声を聞かせてくれる。
「桔平ちゃんっ……元気?杏ちゃんとは仲良くしている?」
『あぁ、俺も杏も元気だ。そっちはどうだ?』
「ん。学校のみんなも元気だよ。こっちは毎日暑いよ」
『…そっか。お前も相変わらず元気みたいで安心した』
(そんなことないよっ!)
少年が無意識で投げた鋭利なナイフが胸に刺さる。
あれから毎日あなたのことを想って泣いた。
それがどんなに苦しかったか解る?
そう問い詰めてあげたかったが今の彼女には器用に唇を動かすことは
出来なかった。
『?』
「……」
受話器向こう側の少年は沈黙の幼馴染の名を呼ぶ。
そんな声を出さないで欲しかった。
もう、自分の名を呼んで欲しくなかった。
二人の時はあの日のままで止まっている。
動き出すことのないほどに錆びついた歯車を動かそうとでも言うのだろうか。
それとも彼の中ではまだ足跡が残っているのだろうか。
しばらくの間、沈黙が続いた。
受話器の向こうから何の音もしない。
こちらもそれに従うように口を閉じたまま橘の行動を待った。
何か言って欲しい。
だが、それが自分の必ずしも求めている応えではなかったら…。
「私…」
『俺はっ!』
何を言うかは決まっていないが、とにかく言葉を口にしてみた。
しかし、肝心な時に限って肉声がぶつかり合ってしまう。
『なっ、何だ?』
「そっちこそ……何?」
『お前から言えよ』
「桔平ちゃんこそお先にどうぞ」
そう言い終わると、再び重たい沈黙が二人の間に圧し掛かってくる。
一体、彼は何を言おうとしたんだろうか。
そして、自分も何を伝えようとしたのだろうか。
久々に感じた甘い痛みが少女を呼吸困難にさせる。
だが、今、伝えなければいけない言葉がある。
それは、幼馴染ゆえに言えるものだろうか。
少年が知らない少女になれるだろうか。
不安だった。
『俺は……独りじゃないんだ』
「えっ?」
戸惑っていると、不意に受話器の向こうから橘の声が聞こえてきた。
『俺は、東京に越してきてからもずっと独りじゃない。目を閉じれば
がいつも俺の応援をしてくれる…』
「桔平ちゃんっ!?」
『そっちにいた頃は、ずっとテニスコートで戦っているのは俺だけだと
思っていた。だが、こっちに着てから解ったんだ。お前がいてくれたから
勝利への気持ちが強かったん
だってな』
「ん」
じゃあ、何故自分を突き放そうとしたのか訊いてみたかったが、それこそ自殺行為で
はと思い頷くだけにする。
口を開いてしまったら、パンドラの箱のように何かが飛び出してしまいそう
で怖かった。
だが、彼の口調は柔らかでまるで、何かを自分に尋ねている風にも聞こえる。
『だからっ…こっちに…俺の傍に来いよ?俺の傍にいろよ。俺の隣で俺だけに
声援を送ってくれ』
「えっ…それっ……て…」
何が起こったのか理解できない。
しかし、先程耳にしたものは明らかにが予想したものではなく、待ち望んで
いたものである。
もし、今、受話器越しに話している少年がこの場にいたのならば表情を見て本当か
確かめるのにと掌に握り締められるほどの機械をこれほど憎く感じたことはない。
混乱して頭がいつも以上に働かない。
焦る脳裏が少女に見せるのは、二人の最後の日。
それならば、何故、あの時、何も言ってくれなかったのか。
今なら、訊ける気がして思い切って口にしてみる。
「…じゃあ、何であの時私に引っ越すことを教えてくれなかったの?」
『悪い。の泣き顔が見たくなくて……本当にすま
ない』
「じゃ…じゃあ、私告白してもらったと思って良いんだよね?」
『あ、あぁ……だが……そう言われると何だか妙に照れるな』
久しぶりに橘の焦った声を聞いた。
いつかの日々も、そうして照れた声を彼女に寄せたことがある。
それは、少年が小学五年生のジュニア大会だった。
当時、橘が通っていたテニススクールで催された小学生を対象にしたものである。
しかし、彼はその枠から抜きん出た才能の持ち主であったため、優勝は確実だった。
「……桔平ちゃん……ちょっと、屈んでくれる?」
「ん?何する気だ」
鍍金のメダルを首から提げた彼は一瞬、何を言われているのか解らない顔をしたが
素直に空気の抵抗を受けたような姿をさせた。
少女は幼い胸に手を添えると、自分より少し背の高い少年の左頬に唇を寄せる。
「っ?!」
だが、彼女とて年頃の女の子だ。
ちゅっと、愛らしい音を立てたかと思うと、すぐにそれは離れた。
された側は今も紅潮して固まったままだ。
そんな橘を直視することができなくて、顔を背けたまま説明したことを今も
覚えている。
「これは……その……優勝したから私からのご褒美…」
「「ご褒美」ってな。一応、俺たちはもう、そんなことが軽々しくできる歳じゃ…」
「そんなの解ってる!だから……するの恥ずかしかったじゃない」
言い返したものの本人と目が合ってしまい、急いで背けるが、どうも顔が
火照ってしまう。
「…そっか……ありがとな」
彼女が向こうを向いてしまったのを確認してから橘の方も頬をかすかに染め、
頭を掻くマネを
した。
すると、そんな二人を見ていて妹は知ってか知らずかいやらしい笑みを浮かべ、
二人の目の前に飛び出す。
『あ〜、お兄ちゃんとさん赤くなってるぅ!』
『こらっ!杏。やめろ!!』
黄色い声を上げて全速力で逃げる妹を追いかける少年の横顔が、夕日に
染まっていた。
「私も……桔平ちゃんのことが好きだよ。ずっと好きだった…」
『すまなかった。随分…待たせたよな』
「そんなことどうだって良いよ!それより……ごめんね。信じてあげられなくて」
『良いさ。元々、俺が悪かったんだからな』
彼の声が段々愛しく聞こえてくる。
昔、感じてまた、それ以上に大きなものを宿し始めている。
「ねぇ、桔平ちゃん」
『何だ?』
少女が橘に話しかけたのは、今日は、初めてだった。
今までの枷が見る間に消え去っていくのがわかる。
今なら言える。
口を開くことを恐れていたはもう、いない。
今いるのは、昔、彼が知っている彼女自身であって、それ以上に愛しさを
募らせている独りの女性でもあった。
「私、今はそっちに行けないけれど…そっちの高校、受けてみる。そして、
合格したら桔平ちゃんと一緒に住んでいい…かな?」
『ばっ、馬鹿だな。良いに決まっているだろ。親父達には俺から話しておくから
絶対受かれよ』
「うっ!そう言われると、自信ない」
『おいおい、しっかりしろよ。よし、今度、こっちに遊びに来いよ。一緒に
勉強しようぜ』
「うんっ!」
『おっと、すまない。長電話しちまったな』
「あっ、ごめん。私がそうさせちゃったよね?」
『別に構わない。それに何年も待っていた答えも聞けたわけだし、な?』
「桔平ちゃん…」
『それじゃ、楽しみにしている…』
「あっ、ちょっと待って!!」
『どうした?』
「今日、何日だと思っているの?今日、桔平ちゃんの15歳の誕生日だよ。そしたら、
まだ成り立てだけど、彼女としては言いたいものがあるの」
『?』
「誕生日おめでとう。えへっ、これだけは誰よりも早く伝えたかったんだ」
『……ありがとう。俺、今、一番幸せだ』
―――・・・終わり・・・―――
♯後書き♯
皆様、こんにちは。
深夜作業をしてようやく作業終了したです。(眠)
今回は、河村ドリ『私を忘れないで』と一緒に作業しました。
あれは少し手を加えるだけで大丈夫だったのですが、この作品は初めてですから
どうも橘君が捕まえられませんでした。(爆)
しかも、ヒロインの心情が多すぎで台詞も長々としてしまいました。
さて、今作の一番目を引きますのは、タイトルである『殺人事件』だと思います。
これは、忘れもしない去年の秋の詩の時間に考えたものですから名前まで頂いて
きちゃいました。
まぁ、開き直れば、会話は携帯電話なのですから当たり前といってしまえば
そうなのですが。(汗)
今作は、テニプリ手紙で同じくになりましたが、「テニスの王子様」Music Clip
ゲーム『LOVEOF
PRINCE』の彼の歌から頂いてきちゃいました。
歌詞を聴いて私は、「孤独」と「少女」を連想したわけですが、これを
お読み下さる方にプレイした方も居られるでしょうか?
それでは、皆様のご感想をお待ち申し上げます。