Senior


          10月4日。

          今日は、氷帝学園中学校に通う一人の少年の誕生日だった。

          「きゃ〜!跡部様ぁ!!」

          「お誕生日おめでとうございますぅ!!!」

          彼が黒塗りの車から姿を現すと、数名の女生徒が我先にと

          駆け寄ってくる。

          だが、それはいつも少年専属のSPによって取り押さえられ

          るのが当たり前だった。

          今朝も昇降口の前には数名の観客に見守られながら彼女達は

          相変わらず黄色い声を上げている。

          いつもの跡部ならこんな時に何か言うのだが、今日は

          それどころではなかった。

          季節はすでに秋で、校内に植林されている落葉樹は色を

          染め始めている。

          その光景を黙って見つめる彼には、一人の少女が言った言葉が

          頭から離れなかった。

          『もし、こんな私を好きだと言ってくれるなら二年後の

           景吾君の誕生日に会いましょう』

          「おはよーさん。どないした?こないな所で立ち止まって」

          昇降口の前で立ち止まったまま校庭を眺めていた彼に一人の

          少年が声を掛けてきた。

          「何だよ。朝っぱらから、らしくない顔してんな」

          その背後からは遅れて赤みを帯びた髪を両肩の上で揺らす

          少年も顔を覗かせた。

          「…あぁ。何でもねぇーよ」

          鞄を肩に担ぎ直すと、再度落葉樹を見つめる。

          あの言葉を最後に消えてしまってから何故自分は彼女を浚って

          しまわなかったのだろうと後悔をしていた。

          なのに、出来なかった。

          自分と一緒に暮らそうとはいえなかった。

          当時の少年はあまりに無力すぎた。

          自分の思い通りに地球さえ回っていると真剣に考えていた。

          だが、それは誤ったことだと教えてくれた人物がいた。

          不意に跡部の掌の中に落ち葉が一片はらはらと降ってくる。

          気が早いものは九月の中旬で色を染めていた。

          多分、彼の掌に舞い降りた堕天使もその中の一人だろう。

          (…)

          それに一瞬、愛しい少女の顔が浮かび、その名を呼ぶ。

          彼はあれから変わった。

          声も体も身長だってあの時のままならとっくに彼女を

          超えている。

          だが、あの頃から変わらないものが一つだけある。

          「おい、今日は気分が悪い。休むぞ」

          「はっ!解りました」

          たくさんの贈答品を腕に抱えたSPの一人が返事をすると、

          もう一人が携帯電話を胸ポケットから取り出した。

          「おっ、おい!気分悪いって部活どーする気…」

          「あぁ、監督には後で、俺から話しておく。じゃあな」

          「跡部様、大丈夫ですか!!」

          取り押さえられている一人がまた黄色い声を彼に掛けるが、

          やはり彼は何も答えようとはせず、足早に車内に身を隠した。

          すると、数分も経たない内にエンジンは掛かり、甲高い

          クラクションを一声上げ、物凄い勢いで正門の外へ走らせる。

          その姿は誰もが黒い獣を予想したことだろう。

          残されたギャラリーの中にいた二人も呆然と見えなくなるまで

          目で追っていたが、再び歩幅を速め昇降口に向かい出す。

          もうすぐ、朝のHRが始まる時刻だ。

          「そーゆえば、今日やったなぁ」

          ローファーから上履きに履き替えた彼は思い出したような

          口で、階段に足を踏み入れた。

          「何々、侑士?何か面白いこと?」

          隣で同じように上がる向日は目を爛々と輝かせている。

          そんなあどけない行為が愛らしく、つい口元が緩んでしまう。

          心の中でどこかの道路を走っている跡部に謝りながら

          実はなと、語り始める。

          すでに、校舎中は静まり返り、階段には二人の足音とひそひそ

          声が良く響いた。


          昼休み、すっかり秋一色となった氷帝学園中学校では

          今月から冬服に衣替えをした。

          入学してからやっと着慣れた夏服から何ヵ月後に袖を通すと、

          何故か新品で少し小さく感じてしまう。

          それは、まだまだ成長期にいる少年達にとっては当たり前の

          出来事で大して深くは考えないだろう。

          一人の少年は、交友棟のサロンから何かを見つけると、

          読んでいた洋書を軽い音を立てて閉じた。

          確実に大人に近づく彼ら。

          それに対して跡部景吾の視線の先にいる少女は進化の過程から

          見放されたのか150cmで世界が固定され、コートを眺めている。

          彼女の名は

          ここ氷帝学園の三年生で、今では退部してしまったが、

          元テニス部のマネージャーだった。

          最高学年と言えば、ほとんどの学生が受験のため部活を退部

          するが、彼女が所属していた部活はその常識を覆している。

          氷帝学園が誇るテニス部は毎年全国行きで、三年をなかなか

          引退させてはくれなかった。

          歴代のレギュラーは特待生としてプロを本気で目指している。

          そのマネージャーもサポーターとしての道を選ぶのが

          当たり前だった。

          しかし、夏休みが終わった始業式後、顧問である榊の机に

          置かれたのは退部届けだった。

          「先輩っ!」

          少年は四階のサロンから駆け下り、彼女の元へ駆け寄ると

          その名を呼んだ。

          振り返った少女は驚いた顔を覗かせたが、それは

          一瞬で笑顔の中に葬られる。

          「あら、跡部君。こんにちは、最近は調子どう?」

          ちょっと屈んだ状態で彼を見る目は笑ってはいない。

          そう、の真の微笑みは夏休みに入ると次第に色褪せ、

          終了日にはカウントダウンに入っていた。

          そんな様子に少年は心配して何度も声を掛けようとしたが、

          全て未遂に終わってしまった。

          元々、テニス部の紅一点だった彼女に特別な感情を持つ部員は

          星の数ほどいる。

          だからと言うわけではないが、当時まで声を掛けることは

          なかなか困難だった。

          その手が届かないはずの存在が自分のことを知っていて名を

          呼んでくれている。

          それは本当ならば感動に酔いしれるほどの力があった。

          だが、少女の茶色い瞳は全く笑ってはくれない。

          それどころか自分に触れようとするものを眼力で貫くほど

          避けていた。

          あの夏が一体、この少女をどうしてこんな風にしてしまった

          のだろう。

          跡部は両手を握り締め、それに対抗できるように険しい表情を

          作ってみせた。

          「何故、テニス部を退部したんですか?皆、心配しています」

          「心配?誰も私の心配なんかしないわ。それは上辺だけ

           であって、本心は紅一点だった私を珍しがっていたからよ」

          「違いますっ!」

          「誰も私なんか見てはいない。人が欲するものなんて

           一時の欲望のためよ」

          「違いますっ!!」

          「だから、こっちから辞めてやったのよ。あんな部に

           戻る気はないわってみんなに伝えてくれる?」

          「本気でそう思っているんですか!?先輩はそんな気持ちで

           三年間あそこにいたんですか!!」

          怒りと共に、目頭が熱くなるのを感じる。

          悔しかった。

          こんなに半年も惹かれていた自分に腹が立った。

          自分はまだいい、彼女と同じ時を過ごしてきた三年生や自分

          より先にエールを送られていた二年生はどうなるのだろうか。

          瞳に移る少女を追い求めていたあの頃はなんだったのか。

          今、テニスコートのギャラリーに腰をかけたまま、こちらに

          向かって冷笑を送るが悲しかった。

          「えぇ、その通りよ。もう、どこかに行きなさい。

           私も教室に戻るから」

          彼女の予告したすぐ後、予鈴はまるで彼に向かって指図する

          ように鳴り響く。

          ここに来る前腕時計を見ると、終了時間15分前だった。

          胸の中で今もまだもやもやしているのに、目の前の少女は

          呑気なもので両腕を天に上げて思い切り背伸びをしている。

          中学一年生にしては大人びた顔をしている少年はまだ険しい

          表情で黙っていた。

          その瞳は鋭く、標的はばっちりとに定まっている。

          だが、口は堅く閉ざされ、その行為が何かを言うのを

          必死に堪えているのだと容易に察することが出来た。

          そんな後輩を見てだろうか、彼女はほんの一瞬、瞳を細めたか

          と思えば、自分よりも背の低い跡部の髪をクシャッと掌で

          優しく撫で、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。


          「お前、本気でそないなことを信じとるんか?」

          「んなわけねぇーだろ。……ただ」

          放課後、苦渋の表情を浮かべている同期を見つけた忍足侑士は

          ボール拾いをしながらこちらに話しかけてきた。

          最初は何でもないと言っていたのに、こうして昼休みの

          出来事を簡単に口から吐き出してしまう。

          彼はそんな不思議な力を持っていた。

          「ただ、どうしてあんな目しているのか」


          怖かった。

          いつも自信に満ち溢れている少年は、珍しくそう思う。

          この世にそんなものがあったなんて考えたこともなかった。

          あの茶色い瞳の中には、まるで雪の結晶が入っているようだ。

          あんな風に冷たいことを平気で言える少女ではなかった。

          だが、実際、目にした光景を無視することはできない。

          『心配?誰も私の心配なんかしないわ』

          『誰も私なんか見てはいない』

          笑わない瞳。

          凍えた声。

          それなのに、一瞬見せた表情は哀しそうで何かを求めていた。

          「ほんま好きやったらそう言うたらえかったやんと違うか?

           滅多にないで、そないなシチュエーション」

          隣で勝手なことを言う同期の少年は、額の汗を腕で拭う。

          「ばっ、馬鹿ヤロー!でけぇ声で言うんじゃねぇよ!!」

          「ええねん。俺らのほかは練習に夢中になっとる。それより

           跡部の気ーはどないするんや?」

          「……知るかよ」

          気持ちを吐き捨てるように手にしたテニスボールを向こうの

          壁に放り投げると、見事に甲高い音を立ててぶつかった。

          なのに、彼の顔は一向に晴れることなく、瞳を細くし

          地に落ちた黄色い存在を眺める。

          ちょうど、少年もあのボールと同じだった。

          勢いはあるくせに壁に遮られると、瞬時に跳ね返ってしまう。

          その視線に気づいた忍足もそれを見ていたが、やがて

          彼の方を見ずに口を開いた。

          「先輩は何か悩んどるとちゃうか?せやから、辞めた」

          「悩みって何だよ?」

          「解らん。ただ、あの人があそこまでなる理由やからな。

           跡部、お前が先輩を救ってやれ」

          「…何で俺様なんだよ。第一、年下にそんなことされたら

           気にするんじゃねぇのか?」

          「今更何ゆーてんねん。好きなるのに年下年上なんて

           関係あらへん。よは好きやつぅ気持ちや」

          力説する彼は跡部の背中をバンバンと叩きながら、

          きばってしーやと何度も言った。


          「先輩っ!」

          翌日の昼休み、一人の少年の声が誰もいないテニスコートに

          響いた。

          今日も朝からの秋晴れで、陽射しが気持ち良い。

          だが、彼の目の前にいる少女は昨日と変わらない良く出来た

          作り物の人形のような顔をしていた。

          「なぁに、また来たの?昨日はっきり言ったでしょ?私は…」

          「俺と付き合って下さい!!」

          「えっ?」

          突然の申し出に一瞬驚いたので、瞳の中の異物が溶け出したの

          かと思った。

          だが、それはしぶとく次にはお馴染みの冷笑されてしまう。

          「急に何を言うのかと思ったら、気は確か?跡部君に

           何の特典があって私と付き合いたいの?」

          「特典とかそう言う問題じゃなく、俺があなたのことが好き

           だからそう言っているです!!!」

          もう、後には退けない。

          腕時計に瞳を走らせてから強引にを抱き寄せると、

          唇を奪った。

          そのBGMには始まりの序曲が奏でられている。

          「んっ!」

          自分のもので覆った口内から苦しそうな吐息が聞こえてくる。

          だが、彼はそれさえも許さなかった。

          空気を求めて開いた唇から舌を滑り込ませ、歯列を丹念に

          確かめてさらに奥で振るえている彼女自身に甘く絡みつく。

          ここから始まりたかった。

          昨日終わってしまった気持ちを取り戻すために、わざと

          この時間を選んだ。

          「んっ…ぁ…」

          体をビクッとさせるのも顔を思い切り赤らめるのも全て

          自分のもの。

          堪能した後、唇を放すと、彼女は支えを失ったかのように

          少年の体に凭れかかった。

          「アンタはこれから俺の女だ。つべこべ言ってねぇで、

           俺様と付き合えば良いんだ。解ったな、

          まだ、息も荒い彼女を腕に抱き上げ、保健室を目指した。

          授業に少し遅れるぐらいどうということもないだろう。

          先程までの表情は消え失せ、大きすぎる瞳には溢れるほどの

          涙が宿っていた。

          何か言うにも可愛らしい唇を動かすだけで彼に届ける

          声を発さない。

          そんなに応えるように大人びた微笑を湛えれば、頬を微かに

          火照らせ頬に雫を流した。


          いつもの帰り道。

          季節はすっかり秋になってしまったおかげで、18時も回ると、

          辺りは闇に包まれる。

          空には佳句が多く残されている月が煌々と光っていた。

          隣で黙々と歩いている影を気づかれないように盗み見た。

          拗ねたような顔をしていても歩調を彼に合わせている。

          ずっと、前から見ていた存在が今こうして一緒に歩いている

          なんて信じられなかった。

          「

          彼女の名を呼ぶと、弾かれたような顔をして自分を見る。

          頬は赤らみ、それだけで動悸が速くなったようで向けられた

          眼差しが熱く感ぜられた。

          そんなどうでも良い一つ一つの仕草でさえ、愛しい。

          不意打ちをするように少女を抱きしめ、昼休みのように

          深い口づけをした。

          「っ…あ…ふっ」

          この時間、誰もこの道を通らない。

          と言っても、周辺が民家のため誰かを呼ぼうと思えば、

          簡単なことだった。

          しかし、は少年を拒んだりはしない。

          されるがまま、受け入れる舌は甘く絡めることを既に

          覚えていた。

          ぎこちなくだが、跡部はその行動が嬉しかった。

          唇と放すと、彼女はまた泣いている。

          その涙の一つ一つに口づけをしながら強く抱きしめ、

          耳元で囁いた。

          「俺様にこんなことされるのはイヤか?」

          「……ううん」

          蚊の鳴くような声で言う少女が自分と同じように鼓動を

          速くしているのが解った。

          「ただ…」

          「あん?」

          腕に抱き上げたようには何かを言いたそうに口ごもる。

          「「ただ…」なんだよ。俺様に言えないことか?」

          「違うけど…ただ誰かに真剣に私のこと好きって言ってくれる

           人がいるなんてびっくりしちゃって」

          「はっ、そんなことかよ」

          「そんなことじゃないわよ!私にとっては大事なことなの」

          「そう怒鳴るなよ。ここ、どこだと思っているんだ?

           そんなにギャラリーに観られたいなら別だがな」

          「あっ」

          彼女はそう言うと、また黙った。

          もしかしたら、顔から火を噴いているかもしれない。

          笑いをかみ殺しながら耳元に唇を近づけながら熱っぽい

          口調で囁いた。

          「何度でも言ってやるよ。……のことが好きだっ」

          「跡部君っ!?」

          「景吾で良いっつってんだろ」

          顔を上げた彼女はやはり顔が赤かった。

          だが、その瞳は雪の結晶が溶け出したかのように涙で

          揺れている。

          「何で、泣いてんだよ」

          「ごめんね…ごめんなさいっ!」

          少女はそう叫ぶと、跡部を強く突き飛ばして闇の中へ

          走って行ってしまった。


          (最低だっ!)

          風を切りながら前に進む彼女は涙を冷たいアスファルトに

          落とす。

          瞳の中の異物は氷解し、その代わりに目覚めれば今まで

          自分が何をしてきたのか解って恥ずかしかった。

          彼の前にも告白されたことがある。

          だが、どれも愚弄して相手を傷つけた。

          この少女だけが世界中で一番苦しみを抱えているんだという

          勝手なことを周囲に宣伝したかったからだ。

          そうすれば、次第に誰も近寄らなくなり、自分がいつ

          消えても誰も思い出さないだろうと考えていた。

          自身が覚えているだけで…。

          明日には、もう、日本にはいない。

          両親の離婚が成立し、彼女はイギリス在住の母方の叔母夫婦に

          引き取られることになった。

          元々、彼らが結婚したのが間違いだった。

          少女が物心着いた頃には、諍いが絶えない両親の姿しか

          覚えておらず、しまいには家に寄りつかなくなり小学校に

          入った頃には一人暮らしが板についていた。

          一番、両親の愛情を欲しがっていた時期には、一人大きな

          ウサギのぬいぐるみを抱いて泣いていた記憶しかない。

          そして、氷帝に入って今年の夏休み、成立した両親から

          言い渡された判定は「いらない」だった。

          身寄りのないを引き取ったのは、今まで全然知らなかった

          異国の叔母夫婦だった。

          どうやら、まだ物心の着かない頃に一度きり会ったようだ。

          パスポートの取れ次第、イギリスに旅立つことになり、

          それまでに身近なものを一つ残らず整理するはずだった。

          だが、そこに跡部景吾と言う存在が現われた。

          テニスのセンスも悪くない。

          むしろ、夏合宿を終えてからますますその力に磨きをつけた。

          あの少年ならこのまま行けば、正レギュラー間違いなしの

          逸材であろう。

          「はぁっはぁっ……景吾」

          マネージャーを辞めてから早一ヶ月、徒歩で十分の道のりが

          関の山だった。

          乱れた息と共に彼の名を呼んでみる。

          最初は可愛くて生意気な一年生としか見ていなかった。

          だが、いつ頃だろうか、少年の魅力に段々溺れていく

          自分に気づいた。

          解りきっていたのに両親から「いらない」と言い渡されて

          ショックを受けていた彼女の中に入ってきた唯一の存在だ。

          跡部は他人を中傷し続けたにも関わらず、自分に好きだと

          言ってきた。

          唇を指でなぞる。

          まだ、彼の感触が残っていた。

          これからも、どこへ行っても覚えているだろう。

          「ごめんね…ごめんねっ、景吾」

          冷たいアスファルトに手を着いて座り込んだ。

          遠くではバラエティ番組でも見ているのだろう、家族の

          笑い声が響いてくる。

          ずっと、あの場所に憧れていた。

          「うっ…」

          鳴かないウサギのように明日からはいつもの自分に戻ると、

          誰に誓う訳でもなく目頭を熱くした。


          「……何だよ、これ」

          翌日、跡部家のポストに一つの飾り気もないシンプルな封筒が

          入れられていた。

          明らかにどこかのコンビニで売られてあるものだったが、

          あて先は確かに彼のものである。

          口をナプキンで拭った後、ぺティーナイフで封を切った少年が

          目にしたのは、丸っこい女性の字だった。

          だが、跡部が言葉を失ったのはそんなことではなかった。

          跡部景吾様へ

           昨日はごめんね。

           本当は誰にも言わないつもりだったけど、あなたには

           話しておいた方が良いと思ってこの手紙を書きました。

           私の両親はずっと前から諍いが絶えなく、小学校に

           入学した頃には海外で仕事をしていました。

           だけど、今年の夏休みが終わった頃離婚が成立して……

           私は「いらない」って放棄されました。

           こんな愛想のない子供だから仕方がないよね。

           私は、今日、イギリスに発ちます。

           身寄りのない私を唯一可愛がってくれた母方の叔母夫婦が

           養子に貰ってくれたの。

           だから、今度こそ愛想が尽かされないように頑張ってみる。

           あなたには見苦しいことを言うけれど、最後だと思って

           どうか聞いて下さい。

           景吾君、大好きだったよ。

           ずっと前から私もあなたのことが好きでした。

           もし、こんな私を好きだと言ってくれるなら二年後の

           景吾君の誕生日に会いましょう。

           より

          「クソッ!」

          「落ち着いて下さいっ!景吾坊ちゃん!!」

          「これが落ち着いていられるか!!!」

          封筒を握りつぶすと、イスを激しい音を立てて倒した。

          何十年もこの家に仕えている白髪の執事が彼を宥めようと

          するが、それは返って逆効果である。

          昨夜は先回りして彼女の自宅で待機をしていたが、

          本人は帰ってはこなかった。

          その内に少年付きのSPがどこからともなく現れ、有無を

          言わさず跡部家に強制送還されたという訳である。

          だから、一睡もしておらず、自室の大きすぎる窓から

          あの時頭上に輝いていた満月を見ていた。

          そのしっぺ返しがこれかと思うと、自分の不甲斐なさに

          厭きれてしまう。

          「今すぐ車を出せ!空港に行く!!」

          「お待ち下さい。それでは学校の方はどうなるのですか。

           旦那様も奥様も心配なさりますよ」

          「クソッ!!!」

          唇を強く噛む少年自身も解っていた。

          この手紙は大分前に書かれたものだ。

          例えば、跡部が窓を離れた瞬時に投函されたものだとしたら、

          もう、空港に行ったとしても、後の祭りだろう。

          まだ、唇にはたった二回だが、少女の温もりが残っている。

          車に乗り込んだ跡部は運転席にいるSPに気づかれないように

          涙を流した。


          「着いたな」

          後部座席から青い花束を持って降りた彼は自動ドアを潜ると、

          到着ロビーのソファーにどかっと腰を下ろした。

          跡部家の力を持ってすれば、搭乗リストを調べることは

          何でもない。

          各国の言葉が脳裏を過ぎり、解読しようとする耳を塞いだ。

          今は彼女のことだけを考えていたい。

          が乗った便が辿り着くのは12時ジャスト。

          もうすぐで、二年ぶりに会えるのだ。

          様々な言葉が思い浮かぶが、どれもパッとせずにうやむやに

          消えてしまう。

          片手に握り締めたままの青いブーケを見つめながら唇を

          指の腹でなぞった。

          あれから少女のことを一度も忘れたことがない。

          たった半日の奇跡だったが、少年にとっては手にすることが

          出来る幻想である。

          今度こそどこにも行かないように放したりはしない。

          初めてキスをしたように腕時計を見ると、もうすぐ

          12時だった。

          がゲートを抜けるであろう時間を計算しての時間だから

          そろそろ立ち上がろう。

          どんなに年月が経っても変わらない想いがある。

          視線の先にはやはりあの頃のままの愛しい彼女が歩いていた。

          「っ!!!」

          パチンッ!!!

          雑音に消されないように少女の名と一緒に甲高く指を鳴らす。

          「景吾君っ?!」

          だが、その心配は無意味だったようで、彼女は第一声で

          こちらに向かって駆け寄ってきた。

          「会いたかった!」

          「あぁ、俺もお前に会いたかった」

          スーツケースをそっちのけで飛びつく少女をあの頃とは

          逆に頭を撫でる。

          「背、伸びたね」

          「あぁ」

          「声、大人っぽくなったね」

          「あぁ」

          「じゃあ、モテるよね?」

          だが、次の瞬間、哀しそうな顔をしたに片手に持っていた

          花束を見せた。

          「桔梗?……景吾っ」

          彼女もその意味が解ったらしく、彼の首に自らの腕を回す。

          二人はここが空港だと言うことも忘れて久し振りの互いの

          唇を味わった。



          ―――・・・終わり・・・―――



          ♯後書き♯

          皆様、こんにちは。

          今作は、跡部君の誕生日に間に合わせて作成しました。

          忍足君と向日君にも友情出演して頂きました。

          最後に登場してきました桔梗の花言葉は「変わらぬ愛」です。

          彼は見た目が派手ですが、一回お相手の方を好きになると、

          とても一途になると思うんです。

          それでは、皆様のご感想楽しみにしております。