雨の日はあなたを想い出そう 〜知身雨〜






           「えっと、こっちのカレ、仁王くん。こないだ転勤して来たばっかりなんだ」
          手塚は後輩の仁王と会社の帰りに飲みに来た店で、偶然同じ店に来ていた恋人の
           に紹介した。
           「こんばんは」
          はにっこりと笑って仁王にぺこりと頭を下げた。
           「あっ、ども。こんばんはっ」
           「じゃごめん。私、会社の人たち待ってるから…。またね」
          は手塚に向かって言うと、もう一度仁王に笑顔で会釈して店の奥に行った。
           「…俺のカノジョ。まさか同じ店で飲んでるなんて、悪いことはできないな」
          手塚は笑うと、また前を向いてグラスを傾けた。
           「手塚先輩のカノジョって、こないだ俺の歓迎会のときに、結婚するかも
           しれないって言ってた…そのカノジョですか?」
           「ああ、そうだ。そんなに何人もカノジョいるように見える、俺は?」
           「い、いえいえ、そういう意味じゃないっすよ」
          仁王は苦笑して、チラリとが歩いて行った方を見た。
           「…アイツとは友達の期間が長くて、かれこれ4年ほど付き合ってるんだよ。もう
           そろそろかな、って思ってるんだ」
           「はぁ…そういうもんなんですか、ね?」
           「俺はそういうもんだと思ってるんだけど」
          手塚はそう言って、ははっと笑った。



                ☆☆☆




          営業で外を回ってる途中に本屋に寄った仁王は、仕事で必要な本を見つけた後、
          なんとなく店内をぶらりと歩いていた。最近は転勤に伴う引越しの片付けなんかで
          忙しくて、話題の新書も興味があったがその表紙さえも拝んだ事がなかった。
          入り口付近の雑誌コーナーなんかとは違って、奥の棚の辺りは静かで、何人か人は
          いたがみんな静かに本を選んでいる。座り込んでひとつずつ背を指で辿ってお目当て
          を探している様子の女性や、ちょっと
          読んでみるつもりがストーリーに入り込んで真剣になってしまってるという感じの
          初老の男性。
          その次の通路で、一番上の棚に欲しい本があるのか一生懸命背伸びをしている
          女性がいた。取ってあげようかとも思ったが、なんとなく安物のドラマみたいで
          こっぱずかしい。どうしてもダメなら店員を呼ぶだろうから放っておこうと思った
          その時、その女性がこちらを向いてバッチリ目が合った。
           「あ」
           「あっ…」
          ほぼ同時にお互いが誰だか気づく。
           「手塚先輩の…」
           「こないだ手塚さんと一緒にいた会社の人、ですよね?」
          は、こないだと同じ笑顔で。
           「はい、そうです。こんなトコで偶然ですね。あ、届かないんだったら、俺、取り
           ましょうか?」
          「お願いしてもいいですか?すみません」
          「えと、どれ…っすか?」
          「あ、その隣の…はい、それです」
           に本を手渡すと、仁王を見上げてとてもうれしそうに笑い、またちょこんと頭を下げ
           た。髪が揺れてはらりと落ちる。はそれを耳にかけた。
           「あ…えと、じゃ、俺はこれで」
           「はい、ありがとうございました。お仕事…がんばってくださいね」
          胸のあたりで小さく手を振る。細く白い手首にドキリとしつつ仁王はそそくさとレジに
          向かった。




          それから数日後、また同じ本屋の近くを通りかかった時、がいないかと思い、仁王は
          店に入った。
          同じ棚のところまで歩いて行く間心臓はドキドキと高鳴り、息苦しさを感じた。当然
          ここで働いているわけではないので都合よくいるはずも無く、が背伸びしていた棚の
          通路には、今日は誰もいなかった。
           「カノジョさん、何を読むんだろう?」
         こないだはなんだか焦ってしまって、取ってやった本のタイトルさえも見てなかった。
          が買っただろう
         本の場所はまだ隙間ができたままで、隣の本が反対隣の本に寄りかかっていた。
           「本のタイトルもだけど、俺あの人の名前も知らないぜよ」
         そう呟いた時、仁王は気づいた。
           「…ヤバ。俺、なんで気になってんだ……」
         言葉にして言ってしまったことにすら罪悪感がある。思わず右手で口を押さえた。
           「…コーヒー飲んでから戻ろ」
          本屋のすぐ近くにコーヒーショップがあることを思い出し、出口に足を向けた。このまま
          すぐに帰社したら、手塚の顔をまともに見れないような、そんな気がしたからだ。
          コーヒーショップは意外と混雑していた。どこか空いてないかと買ってしまったコーヒー
          の紙コップを片手にキョロキョロしてると、ちょんちょん、と背中を突かれた。
          驚いて振り向くと、が仁王の立っているところのすぐ後ろの席に座っていた。
           「あっ…!」
           「こんにちは、また会いましたね。ひとりですか?よかったらここどうぞ」
          は手のひらを上向け、自分の前の席に座るよう仁王に勧めた。もちろん気になって
          仕方ないあの笑顔もついている。
           「いや…えと、その…」
          座りたいけど、座れないような。それよりもなんという予想外の偶然なのだろう。
          仁王は頭がパニックになりそうだった。
           「あ、ごめんなさい。無理にとは言いませんが…」
          が慌てて言うと、仁王はさらに慌てて
           「いえ!とんでもない!座らせてもらいます!」
          どっかと前の席に腰を下ろし、えへへと笑った。
          話せば話すほど、知れば知るほど仁王はのことが気になる。先日バッタリ会った本屋の
          話からいろんな本の話題になった。30分だけ時間を潰すつもりで入った店だったが、
          席を立つのが名残惜しくて仕方なかった。
           「その洋書、たしか俺持ってますよ。こないだ引っ越したときに荷物触ったから間違い
           ない、まだ持ってます。お貸ししますよ」
          が仕事で使いたいのにどうしても手に入らない本があるという。聞けば仁王が大学時代
          に知人から「もう使わないから」ともらった本だった。
           「いいんですか!?」
           「俺ももう使わないし、あげてもいいです」

          そして二人はお互いの携帯番号を交換し、次に会う約束をした。



                ==========




           「あ、この本見つかったんだ?」
          手塚はの部屋のベッドの上に1冊の本を見つけた。久しぶりにお互いの休日が一緒に
          なった。手塚は土日が休みの仕事だったが、の仕事はなかなか土日に休みがない。
          たまに休みが一緒になると、普段は行けないような場所まで遠出をしたり、逆に部屋で
          一日中のんびりするかのどちらかだった。
           「うん、見つかったっていうか、借りたの。偶然持ってるって人がいて…。さて、
           誰でしょう?」
           「え?俺の知ってる人?」
          手塚は驚いた顔をして、宙をみて誰だか考え始めた。は得意げな顔をして、手塚を
          見ていた。
           「うーん、わかんない。降参、誰?」
           「仁王さんでしたっ」
           「え?仁王…って俺の後輩の?」
           「うん。うふふ、すごい意外な人物でしょ?でも助かった。知らなかったんだけど、
           絶版になってたんだって」
          は屈託なく笑った。そしてこの本を借りた経緯を話した。
           「そういやこないだ本屋でとばったり会ったって言ってたっけ、アイツ。でも…」
           「でも?」
           「ううん、いや、別に。よかったじゃない手に入って。どこ探しても見つから
           なかったんだろ?」
          手塚はベッドに座り、の腰に手を差し伸べた。
           「…おいで」
          手塚は囁くような声で名前を呼び、そのままの身体を優しく抱き寄せ自分の膝に
          座らせると、頬に手を添えた。そしてゆっくりと顔を近づけ唇に口づけて、頭を手で
          支えふんわりとベッドに押し倒した。
          柔らかなの唇に角度深く口づけながら、手塚は思った。本を貸すという話は仁王から
          聞いただろうかと。         
          の様子からしても特に猜疑する事由になりそうもないが、少し引っかかった。
          まだ明るい部屋でどうしようもなくを抱きたくなった。胸のふくらみにそっと手を
          置き、ブラウスのボタンに手をかけた。
           「ちょ…っと待って…」
           「ん、待てない。今すぐを抱きたい」
          手塚にしては珍しくストレートな告白だったから、はどきっとした。こんな風に求められ
          ることは、付き合い始めてから今まで一度もなかったような気がした。
           「どうしたの…?」
           「何が?…だめ?」
           「う…あの…、お願い…カーテン閉めて?」
           「…あっ…そうだな、OK」
          手塚はふふっと笑って、手を伸ばしカーテンを引いた。






                ==========



           「仁王、ちょっといいか?」
          手塚が仁王を呼び止める。ここはオフィスの廊下、突き当りには観葉植物と自動
          販売機が置いてある。
           「あ、はい。いいっすよ」
          仁王は素直に頷いて、手塚の後ろをついていった。
           「どうしたんっすか?なんか問題ありました?」
          いつもそんなに明るいタイプではない手塚だったが、今の手塚はいつもとは違う
          寡黙さがあった。怒ってるというのともなんとなく違う。途惑っているというのに
          少し似ていた。
           「いや、…何か飲むか?」
          自動販売機のところに来ると手塚は仁王に振り返り、聞いた。その顔はいつもと
          変わらなかった。仁王はさっき感じた違和感は勘違いだったのかと思い始めた。
           「いえ、いいです」
          だが言いながら仁王は急に、はっとした。
           「……。あっ、そういえば、こないだ先輩のカノジョ…、…さんに会って、本を
           渡したんですよ。もういらないんであげるって言ったんですけど、返すって
           おっしゃるんで、手塚先輩からもいらないみたいだって言っておいてください」
          仁王は一気に話した。今の言葉のどこにも嘘やごまかしはない。ないけれど、
          自覚しつつある後ろめたさが自分にはある。そのことに観察眼のある手塚が
          気づいたのかと思った。
           「ああ、あの…ええと、タイトル忘れてしまったけど、のベッドに置いてあった本。
           本当にもう要らないんだ?」
           「…ええ、ホントに要らないんで、どうぞって言っておいてください」
          平静を装うが、仁王の胸は手塚の言葉に痛みを覚えた。恋人同士なんだから、
          当然部屋に行ったりするだろうけれど、下世話な生々しい想像をしてしまって、
          胸に不協和音が響いた。


          ―――俺は今さりげなくけん制されたのか…?



                *****



          仁王を廊下で呼び止めたが、特に変わった様子は見られない。特技とまでは言えない
          が、手塚は人の表情くらい多少は感じ取れるつもりだった。
          一度本屋で会ったという話はふたりからそれぞれ聞いたが、本を貸すとかあげる
          とか、そういう話はから聞いたのが初めてだった。手塚はここのところの出来事から、
          仁王がに傍惚れしたのかと感じた。その考えを今ここで払拭したかった。しかし本当に
          他意なくと会ったのだとしたら…。
           「何か飲むか?」
          休憩に誘ったことにでもして、少し雑談でもしてみようかと思いつく。まさか「お前は
          が好きなのか?」などと聞けるわけがなかった。だからと言って他にどういえばいいの
          かも思いつかない。しかし仁王は何の前触れもなく、との本の貸し借りの話をし始め
          た。まるで自分の考えが仁王に読まれたかと思った。単に仁王は言い忘れていただけ
          なのだろうか。そして、仁王の話は から聞いたことと全く同じだった。



          ―――男の嫉妬はみっともないな…。




                ===========



          仁王の本を結局もらうことになったは、そのお礼に何かをしたいと申し出た。仁王は
          特に要らないと言ったのだが、後になって一日だけ休みの日に付き合って欲しい
          と連絡が来た。
          一番間近なの休みが平日だと知ると、仁王はさっそく自分の仕事のスケジュールを
          調節した。
           「おまたせ!」
          待ち合わせの場所に来た仁王は、スーツ姿でどこから見ても“仕事中です”という感じ
          だった。
           「え…と、たしか今日は、お弁当を持参の遊園地とかそんな話だったよ…ね?」
           「スーツで行くのはやっぱおかしい?」
           「おかしくないけど、目立つ…かな?」
           「ま、細かいコトは気にしなさんな」
          仁王は笑っての手を引っ張った。




           「当然観覧車は乗るでしょ!遊園地に来て観覧車乗らないっておかしいよ?平日
           だから並ばなくていいのに、キミは一体何をしに遊園地に来たのかしらっ?」
          は、高いところはちょっと苦手…なんて言い出した仁王を引き摺るように連れて行く。
           「サンってドS…!」
          泣く泣く、仁王は観覧車に乗せられた。
          ゆっくりゆっくりと二人を乗せたボックスは上昇していく。
          対面に座っている視線に落ち着きのない仁王を見て、はぷーっとふきだした。
           「…あのー、なんかバカにしてますか?」
          むっとした様子で仁王はに問う。だけど本気で気を悪くしたのではない。むっとして
          みせたのは、照れ隠しもある。
           「ううん、ゴメンなさい、笑っちゃって。遊園地に行きたいとか言い出したのもカワイイな
           とか思って。これもゴメンなさい」
          いくら同い年だからといって、いっぱしの社会人の男性に向かって言ってはいけない
          言葉だということは、自分も仕事をしている上で承知していた。しかし、今の仁王は
          やっぱりカワイイと思ってしまう。
          その時、仁王の携帯が鳴った。ポケットから携帯を出しディスプレイで相手を確認した
          仁王は、チラと を見遣ると人差し指を口に当てて「しー」という仕草をした。
           「…はい、仁王です。…ええ、大丈夫です。えーっと、今から名古屋を出ますんで、
           帰りは…」
          は仁王の言葉に耳を疑った。静かにするように合図されて外を見ていたのだが、
         思わず仁王を振り返った。たしか仁王は「今から名古屋を出る」と言った。
          通話を終えると、仁王は真面目な顔をして言った。
           「手塚先輩だった。…実は今日は出張だったんだけど、前日に行って仕事終わらせ
           て、直接来た。だからスーツ…。俺たちとサンの休みが一緒になったら、サンは
           手塚先輩と過ごす、だろ?俺、どうしてもサンと一緒にいたかったから。…出張してる日
           なら、手塚先輩、俺のこと疑わないかなと思って…」
           「…」
          はなんて言えばいいのかわからなかった。仁王の言葉の意味をどう受け取ればいいの
          だろうか、急には考えがまとまらない。
           「そっちに行ってもいい…?」
          観覧車は、もうかなり高い位置まで来ていた。さっきまでなら即「いいよ」と答えたと、
          思った。でも今は、少しだけ返事に困った。
           「…隣、いい?」
           「…うん」
          仁王が立ち上がり、グラリとボックスが揺れた。狭いベンチに長身の仁王が座ると、
          たとえ精一杯距離を置いたとしても身体が当たる。
           「困らせるつもりはないんじゃけど…。今日のこと、やっぱり手塚先輩には知られない方
           がいいんじゃないかと思ったから…」
          確かに仁王の言うとおりかも知れない。もらった本のお礼とはいえ、こうやって仁王と
          二人で、まるで恋人同士のようなデートをしてるのだから、本当の恋人が聞いたら気分の
          いい話ではないだろう。は、仁王は手塚の後輩だから安心だと軽々しく行動した自分に
          も恥ずかしくなった。
           「そうよね…。私うっかり手塚さんに言ってしまうところでした。ごめんなさい、
           気づかなくて」
          手塚に言うかもしれなかったと言ったの言葉に、“秘め事”気取りだったのは自分だけ
          だったのかと思うと、まるで相手にされてないような気がして、仁王は一抹の寂しさを
          覚えた。
           「俺、サンが好きですよ?」
          仁王は、うつむき加減になっていたの顔を覗き込んだ。




                ==========




          たまに早く帰れる日は一緒に食事でもと思い、手塚はに誘いのメールをいれた。しかし、
          急に仲間内で打ち上げをすることになってしまい、中止と謝罪のメールを入れようとした。
          それを目ざとく見つけた者に上手く言いくるめられ、の友達も呼んで一緒に…という
          話になった。
          手塚は渋々にそう頼んでみた。そしてそれをは快くOKしたので、結局打ち上げは半分
          合コンになってしまった。



          にとって、微妙な席順だった。
          の横に手塚、正面には仁王がいた。
          飲み会はそこそこ盛り上がり、がトイレに立った時を見計らって、仁王は携帯が鳴ったふり
          をして席を外した。
          トイレは公衆電話のある通路の奥になっていて、席からは見えにくい。仁王はが出てくる
          のを待っていた。
           「…久しぶり」
           「ん、そだね」
           「もしかして俺、避けられてるんかのう?」
           「…そんなことないよ」
           「困らせた、か」
          困ったかもしれない。でもなぜ困るのか自分でも分からないから、は仁王からのメールに
          返信できなかった。『今度はいつ会える?』というメールに、はっきりと『手塚という恋人が
          いるから好きだと言われた相手と軽々しく会えない』と返せばいいのに。
           「…あ」
          の声に仁王は振り向いた。そこには帰って来るのが遅いを心配して見に来た手塚が
          立っていた。
           「が遅いから、気分が悪いのかと思って…」
           「ごめん、大丈夫よ」
           「すいません。俺がちょっと呼び止めてしまったから」
          仁王はエヘと頭を掻いて「手塚先輩は優しいなぁ」とひやかして先に席に戻った。
           「ごめんね、心配かけちゃって」
           「いや、…何もなければそれでいい」
          手塚は微笑んで「俺たちも席に戻ろう」と向きを変えた。今見たことを問いただすことは
          しない手塚だったが、仁王とのムードを見て何も思わないはずがなかった。



                **********




          そろそろ飲み会もお開きの時間になった。手塚はに「送って行くよ」と小さい声で言った。
          さっきの事が気になっていたは一瞬迷ったが、素直に送られた方が普通だろうと思った。
           「オトコ連中だけで次行きましょ〜う!」
          叫んだのは仁王だった。ノリのいいヤツが次々に乗っかる。手塚の先輩が「お前も行くぞ」
          と手塚の腕を引っ張った。
           「あ、いや、でも…」
          手塚の言葉は程よく酔っ払った先輩には、届かない。
           「私は大丈夫よ」
          は手塚のスーツの裾を引っ張って、こっそりと耳打ちした。元は仁王だったが、今では先輩の
          誘いになってしまっている手塚を気遣った。
           「ご、ごめん…。気をつけて帰ってくれ。今日はホントいろいろとごめん」
          手塚は心底申し訳ない顔をして謝ってくれたが、元々仕事や仲間優先の手塚には、今までに
          もこういうことは何回かあったことだった。




                **********



          嫉妬した。
          手塚がを送ると言ったのが聴こえてしまったから。仁王は自己嫌悪になりながら、次の店で
          酒を煽った。
           「おい、明日も仕事なんだからそんなに深酒するな」
          手塚は仁王の自棄的な飲み方を咎めた。
           「…手塚先輩、すいません…オレ、…さっきわざと次行こうって言いました」
           「……ああ、そうだと思っていた」
          手塚も仁王も互いのセリフにはさほど驚きを見せない。もう大体お互いの胸の内は見えて
          いたからだった。
           「ゆっくりと燃えていく恋もあれば、一気に燃え上がる恋もある。…お前、のことが…」
           「それ以上は…っ」
          手塚が終の言葉を口にしようとしたが、仁王が遮った。
           「…言わない方が、いいと思います。実は俺、今日部長に辞表を出したんです」
           「そうか…」
          先日、転勤してきたばっかりの仁王が手塚に相談を持ちかけていたことがあった。
          ばったり会ったあの日のことだ。
          将来的に家業を継ぐ予定の仁王は、同業の今の会社に修行のつもりで入社した。実家に
          戻るのはまだ少し先のことだったが、父親が体調を崩して入院したのがきっかけで
          気弱になり、退院するや否や、早く家に戻って仕事を覚えて欲しいと言い出した。
          転勤したばかりなのにと一度は拒んだ仁王だったが、父親の強い希望と手塚のアドバイスも
          あって、いろいろ考えた結果、今月いっぱいで退職することに決めたのだった。






          話があるからと仁王はを呼び出した。七つ下がりの雨は次第に雨脚が太くなり、ワイパー
          を止めたフロントガラスに水のカーテンを引いていた。タイトルは分からないけれど、仁王には
          あまり似合わない哀しげな曲がFMから流れている。
           「あの…話って、なに?」
          は車を停めてからずっと黙ったままの仁王に、ちょっと居たたまれない気分になっていた。
          こんな風に気まずい沈黙はニガテだったし、今の仁王が黙り込むとすごく不安になる。
          仁王のことはキライじゃない。こうしてふたりで会うくらいに。
          の言葉に意を決したか、仁王は水滴でほとんど何も見えない前から視線を落とす。そして
          ふうと息を吐き、ハンドルに片手を置いたままを見た。今日の仁王は少し怖い。は早く
          何の話か教えて欲しいと思った。
           「手塚先輩と結婚するんだろ?
          初めて名前を呼び捨てにされて、それだけでもどうしたのかと思ったのに、気がつけば
          仁王は の座る助手席の背に手を置き、身体を預けるように傾けてきていた。
           「…えっ?」
          慌てて仁王の胸に両手を伸ばしたが、仁王はすばやく背もたれを倒しての両手首をつかんで
          顔の横に押し付けた。
           「…!」
          恐怖と戸惑いの色が浮かんだの瞳を仁王は強い視線で見下ろす。できるだけ思い切り
          拒んで欲しいと願いながら、仁王は用意していた最後の言葉を唇に乗せる。
           「…ね、ヤらせてよ。結婚するまでの遊びで済む女だから、は後腐れなくてちょうどいい。
           手塚先輩にはもちろん黙ってるからさ、俺だって立場悪いし。だって同じ気持ちだったん
           だろ?」
          仁王は言いながら顔を近づけてきた。
           「…いやっ!」
          が思い切り身体を捩ると、仁王はの腕を放した。失望に哀しむ瞳で仁王を見ると、
          傘もささずに車を飛び出していった。
          こうなることを望んでいた仁王はため息をつくと、運転席に体を沈め髪をぐしゃりと
          かき混ぜた。しかしやっぱり追いかけようと衝動的に弾かれて車から出た。だけど足は
          すくみ、「」と唇は動くけれど声は飲み込んだ。走って行くの白いワンピースが、まるで
          ウエディングドレスのように見えてしまったから。
          仁王は自嘲して呟いた。
           「我ながら鮮やかな幕切れだぜよ。ごめん、…っ。手塚先輩と…どうかしあわせに」
          “もっと早く会っていたら”なんてありふれたセリフ、まさか自分が言う日が来るなんて。
          遣らずの雨にならなかった雨が募る。仁王は濡れるのも気にせず天を仰ぎ、しばらく
          そのまま目をつぶっていた。







           好きなのに 好きだから

           偽りの言葉で わざと傷つけ 無理に終わらせた恋

           忘れたらいいのか 情けなく笑えばいいのか

           まだ迷いながら

           身を知る雨に打たれていよう

           生まれる前から好きだった あなたが想い出に変わるまで










           おわり


          †ありがたくもない柊沢の感謝状†

          前号と続いて参加して下さり、誠にありがとうございます。

          今回も大人の魅力溢れる作品をありがとうございます。

          しかも、大人仁王君かっこよすぎて柊沢はノックアウトされました。

          それでは、次号も宜しくお願いしますね。