本当は大事にしたいのに。


















        瞬嵐













        腕時計の針がカチリと小さな音を立ててまた一つ進む。
        二段飛ばしに階段を駆け下りる長身の影に、通り掛かった女性教諭が小さな悲鳴を上げた。

        「危ないでしょう……!」
        「すいません、急いでたもんで!」

        早口の謝罪の言葉が女性教諭の耳に届いた時には、声の主の姿は階下に消えてしまっていた。
        呆れて口を閉ざした女性教諭の背後に、また一人、背の高い影が現れる。

        「……今のは土浦かぁ?」
        「あら、金澤先生。ご存知の生徒ですか?」
        「普通科二年の土浦ですよ、学内コンクールに出場した」
        「ああピアノの!あんなに急いで、転んで手首なんか痛めなきゃいいですけど」
        「ま、大丈夫でしょ。運動神経いい奴ですから」

        教師としては少しくらい心配しても良さそうなものを、金澤は軽く笑い飛ばして職員室へ向かって
        再び歩き出した。























        L字廊下を曲がって、予約を入れてあった練習室まであと数メートルのところで、唐突に土浦の足は
        止まった。
        視線の先には三人の人影。
        土浦が待たせていた当の本人と、そしてそこにいる予定のない二人。

        「日野ちゃん、ホントにレパートリー増えたよね!」
        「そうですか?でも皆に比べたらまだまだだし……もっと増やさないとですよねぇ」
        「数が多いことに越したことはないが、一つの曲を何度も反復練習することも大切なことだと思う。
        完全な演奏なんてものはこの世にはないんだ。だからこそ、どんな名演奏家であろうと日々の練習
        は欠かせないのだから」
        「……そっか、そうだよね。ありがとう月森君!」
        「さっすが月森、カッコいいこと言うよな!」

        和やかに話すその中で楽しげに声をたてて笑う香穂子の声が、一層土浦の表情を険しくした。
        ――-コンクールの中盤頃から、香穂子を見る他の男の目が気になってしまうようになった。
        最初からフレンドリーに接していた火原や柚木、志水はともかく、第1セレクションの頃はこれでもかと
        いうほどそっけない態度を取っていた月森までもが、いつの間にか香穂子に対して笑顔を向けるよう
        になっていた。
        コンクールが終わった今でも、音楽科の面々は何かと理由をつけては香穂子に会いに来る。
        明るく活発で裏表のない香穂子の性格ゆえなのだろうが、土浦にとっては気に食わないことこの上
        ない。

        ―――コロコロ態度変えやがって……。

        香穂子自身が気にしていないのだから自分が怒る謂れなどないとわかってはいるが、月森たちに
        香穂子が笑顔を向けるたびに苛立ちは募る。
        一際高く朗らかに響いた香穂子の声が引き金となって、土浦は不必要に靴音を大きく響かせて
        三人の方へと歩き出した。
        いち早く土浦の存在に気付いた香穂子の顔がぱっと輝いたのを見て、月森と火原の顔が一瞬だけ
        曇ったが、土浦も香穂子もそれには気付かなかった。
        少し歪んだ笑みを浮かべて、土浦が月森を睨む。

        「……よう」
        「……どうも」

        二人の間に流れる冷めた空気にも最早慣れてしまったのか、香穂子は変わらない笑顔で土浦に話
        し掛ける。

        「掃除当番ご苦労様」
        「土浦掃除当番だったの?この時間まで掛かったってことはもしかして北門前?」
        「当たりですよ。まいりますね、あそこは。無駄に広くて時間ばっかり食っちまう」
        「やんなっちゃうよな、正門前と北門前の当番割り振られちゃうと。俺も去年正門前やらされた時
        思は泣くかとったよー」

        表面上はにこやかな土浦と火原の会話を打ち切ったのは、淡々として感情の見えない月森の声。

        「――― そろそろ失礼する」
        「あ、うん。付き合ってくれてありがとう、月森君」
        「大したことじゃない。―――今度、君さえ良ければ練習向きの題材をいくつかピックアップして楽譜
        を持ってくる」
        「本当?ありがとう!」
        「それじゃ」
        「あ、待てって月森!俺も行くし!じゃね、頑張ってね日野ちゃん!」
        「はーい、火原先輩も頑張って下さいね」
        「おうっ!」

        屈託のない笑顔で手を振る火原はさっさとその場を離れて歩き出した月森に追いつくと、二人肩を
        並べて先ほど土浦が来たL字廊下の向こうへと姿を消した。
        きつい眼差しでその背中を追っていた土浦のブレザーの袖が、軽い力で引っ張られる。
        振り向いた先で香穂子が驚いたように目を見開いた。

        「……どうしたの土浦君。怖い顔して」
        「……なんでもないさ。練習始めるか」
        「なんでもないって顔じゃないよ?何かあったの?」

        心配そうにこちらを覗き込む香穂子の顔。
        いつもならその顔を見れば気持ちも治まるのだが、今日に限っては苛立ちが増すばかりで。

        「土浦く……!」

        苛立つ気持ちに背中を押されるがまま、香穂子の細い腕を乱暴に掴んで練習室へと引き摺り込んで
        いた。
        叩き壊しそうな勢いで扉を閉め、鍵を掛けて、香穂子の身体を力任せに扉の横の壁に押し付ける。
        注がれる怯えた眼差しを無視して、土浦は強引に香穂子の首筋に唇を這わせた。
        華奢な身体が大きく震えて、ふわりと甘い香りが鼻先を掠めた、次の瞬間。






        「やだぁっ……!」






        涙混じりの悲鳴が土浦の鼓膜に突き刺さるように響いた。
        その声にはっと我に返って顔を上げる。呆然とする土浦の腕の力が緩んで、香穂子の身体は壁に
        寄り掛かったままずるずると床に沈みこむ。
        大きく見開いていた目に堰をきったように涙が溢れて、いつもの笑顔の片鱗も見えない顔がくしゃっと
        歪んで。

        「……土浦くんのっ……ばかぁ……っ」
        「……っ」

        今まで一度も見たことがなかった香穂子の泣き顔に一気に冷静さを取り戻す。
        両手で顔を覆って声を殺して泣き出した香穂子の前に慌てて膝をつき、宥めるように何度も髪を撫
        で下ろしてはおろおろと俯いた顔を覗きこんだ。

        「ごめん香穂子!俺が悪かった!」
        「……ばかっ……」
        「本当に悪い!ごめんな、ごめん……!」

        うろたえまくった土浦の声に香穂子はやがてゆっくりと涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
        時折しゃくりあげながらまだ少し怯えの色の残る眼差しが土浦の顔を伺い見る。
        ひたすら謝る以外どう対処していいかわからずに途方にくれている土浦を見た香穂子の瞳に
        再び涙が湧き上がって、土浦は一層慌てふためいた。

        「―――ごめん!どこか痛むか!?俺力加減苦手だからっ……」
        「……違……」
        「え!?」
        「良かった……」

        自分の髪に触れたままの土浦の手にそっと自分の手を重ねて、香穂子は泣きながら小さく笑った。

        「……いつもの土浦君に戻った……」






        その言葉を聞いた瞬間、いてもたってもいられなくなって、土浦は香穂子の肩を抱き寄せて腕の中
        に包み込んだ。

        ―――こんなにも大切に思うのに。
        なんであんなひどいことをしてしまったんだろう。
        香穂子は自分の持ち物でもなんでもないのに、自分一人だけに向けてほしいと願っている笑顔を
        他の奴らにも向けるのが嫌だと、馬鹿みたいに独占欲を募らせて、嫉妬して。
        苛立ちを抑えきれずに、こんな形で傷つけて。大切にしたいと思っている癖に。

        ―――ガキだな、俺は……。






        自己嫌悪に陥った土浦の腕の中で、香穂子が苦しそうに息をつく。
        慌てて腕の力を緩めた土浦の顔を見上げて、香穂子は赤く泣き腫らした目をいつものように優しく
        和ませて、もう一度笑って見せた。

        「……あのね、土浦君」
        「……なんだ?」
        「私、土浦君が好きだから、ね?」

        眼を丸くした土浦の頬にそっと手のひらを添えて、香穂子が笑う。
        さっきまで土浦に怯えていた表情は綺麗に消え失せて、気遣うように優しく笑う香穂子を見て、
        土浦は不意に泣き出したいような気持ちに駆られた。
        少し口元を歪めて笑うと、もう一度、今度はそっと、壊れ物を扱うように香穂子の背中に腕を回した。

        「……サンキュ」






        抱きしめ返す腕の優しさに、土浦はそっと笑って瞼を閉じた。
























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                             土浦嫉妬する。ホントにただそれだけの話です、すいません。
                                   タイトルは造語。「一瞬の心の嵐」つうことで。