五月が始まり、もう明日にはGWが始まる平日と休日の境にある昼休み、
グラウンドで何十人かの男子生徒がボールを蹴りながらその白と黒の残像を
追いかけ回している頃、誰もいない体育館裏ではか細い声が呼び止めた。
「?……自分か、こんなん人の下駄箱にいれたんは」
「ご、ごめんなさい!…でもっ」
わざわざ四時間履き慣れた上履きから下校時間でもないのにローファーに
履き替えさせられた方は堪ったモノではない。
五月晴れ……とは行かないが、風が少し強いがそれも日中温度24度と言う
暖かさなら
多少グランドの砂埃が気になっても少年達の野望は揺るぐことが無く、
誰かがゴール
を決めたのか遠くでまだ真新しい歓声が聞こえてくる。
覚え立ての者もいれば、もう何年か経過している者もいる声変わり、男なら
誰しも通らなければならないことだが、自分が今の声を自分のモノとしたのが
いつの日だったか
なんて正直言って正確に覚えていられるものではない。
「でも、私っ……、忍足君のことがずっと好きだったからっ……だから、その…」
それと同じように目の前にいる小柄な少女は熱の籠もった瞳の端に涙を浮かべ、
こちらを年相応に愛らしく見上げている。
きっと、自分ではなく他の男子生徒ならばこんな青春真っ盛りのシチュエーション
を見逃すことはしないだろう、だが…。
「すまんな、俺はもう売約済みなんや。他をあたってくれへん?」
少し軟派な口調も入ったが、それさえも忍足侑士と言う一個人を作り上げている
所為か、厭らしくは聞こえない。
けれど、そんな微妙な優しさで引き下がるような柔な人間があんないかにも
直送便と言わんばかりのラブレターを寄越すとは彼も考えてはいなかっただろう。
案の定、少女らしい恥じらいも全てかなぐり捨てて忍足の少年としては逞しすぎる
胸に寄り掛かり、映画女優のように泣き何度も念を押す。
それでも、好きだ。
今、付き合っている子とは別れて。
私の方がその子より忍足に釣り合う。
…等々、芝居がかった女子中学生達が言う台詞は相場が知れている。
こんなことはいつものことで、その度に妬いたり傷ついたりするなんて莫迦莫迦しい
と思っていたが、いざとなるとそんなことを考えていた自分自身が遠く思えた。
昼休みの体育館には誰もいない……けれど、五時間目に体育の授業を控えている
クラスは別格だ。
女子の制服から動かし安さを重視した白い布地の上着ともうどこの学校も廃止に
しているだろうブルマの姿に着替えた一人の少女は足を抱え、木製の床に座り込む。
その傍には熟れた果実のような鮮やかな色のバスケットボールが何十個モノ乗せた
車突きの鉄製籠が二台ある。
誰もいない昼休みの体育館に一人佇んでいると、何だか海辺に取り残された
本来の形が
何なのか解らない貝殻のカケラのような気持ちにさせる。
こっそり開け放った引き戸式のドアからは暖かい陽気と一緒に緩やかな風が舞い込み、
GWが落ち着いた頃になったら美容院に行ってカットしてもらおう、と心に決めている
大きすぎる瞳に時折掛かる少し伸びた前髪が今は気持ち良さそうに宙を泳いでいる。
だが、の心はいつだって雨雲が立ち込めており、それが晴れることはない。
ブルマから艶めかしく伸びる足を胸に抱き寄せ、膝で顔を覆い自分に言い聞かせた。
……大丈夫、彼ならきっと断ってくれる。
いつものことだ、そうとは知っていながら何度この言葉をおまじないか呪文のように
繰り返しただろう。
遠く聞こえるボールを蹴る音と声変わりを終えた男子生徒達の声、すぐ傍とまででは
ないが近くで必死に愛を叫ぶ女子生徒に対して冷ややか過ぎる言葉を返す忍足侑士。
でも、心の底では彼女の不幸を願っている自分が厭で、昼休みが終了してクラスメート
達が体育館に入ってくるまで両耳に掌を当てて強く瞼を閉じた。
最初……、彼とはただのテニス部員とマネージャーだった。
お互い先輩の動きを追っていてその視線が交わることはなかったのに、それは本当に
突然やって来た。
『こいつ、さっき、サッカーの試合の時に転んじまったんだ。手当てしてやってくれ』
氷帝学園中等部では毎年この時期になると、球技大会が開催される。
勿論、運動部は所属する部活に関係のある種目でエントリーをすることは許されない。
この日のために一時的部活を退部する者もいたりするが、大体の生徒達は
そんな面倒臭いことはやらない。
各保健委員は出場する種目によってシフトが組まれてあり、今はさっきまで一緒に
組んでいた隣のクラスの女子生徒が出場するバドミントンが始まる時間だと言うことで
心細いながらもこの場は一年生である独りになってしまった。
大会の最中こんな所に好きで来る者はいないだろうが、イベントがイベントなだけ
脱臼や突き指など様々だ。
そんなありとあらゆる怪我に自分が対応できるのか自問自答していると次第に
暗くなってしまうが、よく担任に悪い癖だと指摘され
ていたことを思い出す。
そんな刹那に舞い込んだ怪我人だ、だらしなく前屈みになっていた背をまだ記憶に
新しい健康診断時に身長計に凭れたように背筋を伸ばし、恐る恐る扉の方に振り返る。
『何や、やん。保健委員やったんか、自分』
ぴりぴりと張りつめられた室内にそんな悠長な方言を喋る知り合いは彼女の人生の
中ではそう多くない。
聞き間違いと安堵を求めたくて瞳を何回か瞬いてみるが、を待つ怪我人は
友達に肩を貸されていると言う姿でにやりと笑い、空いている方の手で
ひらひらと左右に振っている。
一瞬、仮病で球技大会を抜け出したのかとも思ったが、顔から膝に視線を滑らせれば
どう転べばそうなるのか両膝とも黄色い膿が赤く染まった場所を隠している。
どうやら、本当のようだ。
その容姿と軽薄な性格が彼女の中で「忍足侑士=軟派+天才」と言う方程式を
弾き出させているため、同じ部活に所属していてもあまり接することもなかった。
しかし、今はそんな自分の常識をとやかく言っている場合ではない。
先輩や自分くらいの年頃の子供がいそうな女性養護教諭がいつも目の前で披露して
くれる鮮やかな手捌きを思い出し、一つずつ確認するように手当を始める。
これが初めてではないが、通常の緊張ともう一つ知人……とまではいかない
同じ部活動に
所属し何度かすれ違っているだけの相手の肌に触れているのだ、
思春期のど真ん中にいるの指先が治療のためとは言え、正直な気持ちが
鼓動の速度を急がせ手に厭な汗が滲む。
そのため、切り取ったガーゼも冷蔵庫でひんやりと冷やされた湿布を消毒した
傷口に貼り付け
るのも楽に出来たような気がする。
『おおきに……そう言えば、思うたんやけどな』
後は、ホワイトテープをガーゼの上に貼るだけで手当は終わる。
一端、ゴミ箱に空になった湿布の袋などのゴミを捨てるのを機に、
洗面台の取っ手に
備え付けられてあるタオルで掌の汗を拭いた。
自分がこれほど治療云々に緊張するなんて思わなかったし、またこれほど
緊張した治療も今しか見当たらない。
いつもならば、手つきがまだまだでもそれなりには対応できる方だ。
適当に忍足の言葉に返事をし、手にしたホワイトテープをびっと伸ばした時だった。
『部活ん時はジャージ穿いとったけど、結構足キレーやなぁ』
『っ!?』
自分だけだと解っていながらこの緊迫した室内で何を言われるかと思っていたが、
彼の薄い唇から零れた言葉の熱さに軌道が圧迫され、手にしていたホワイトテープが
彼女の肩幅よりも伸び、こないだの数学の授業で習った放物線のように凹む。
普通の女子生徒ならば、ここで黄色い声を上げるのだろうが、はそれとは違う。
いつも軽薄なことを言っているとは思っていたが、やはり忍足は本当にどうしようもない
少年だ、ほんの少しでもその甘い言葉に動揺してしまった自分が憎らしい。
『……何、オヤジみたいなこと言っているのよっ』
『イっ!……つぅ……もうちょい優しゅうしてくれてもええやないか』
だらしなく伸ばしてしまったホワイトテープを均等に指の腹で切り、「井」の字の
ように膝に貼り付けその上から気持ちを込めてキツク包帯を巻く。
どんなに軽口を叩いた所で痛いモノは痛いらしく、端正な顔立ちがまるで出来損ない
のピエロのようで、また良心とは別の気持ちが痛んでもう一度巻き直した。
それに今のこの顔を入学時から騒いでいる彼のファンが見たら、きっと文句を言い
に押しかけてくるだろう。
消毒の匂いに交じった膿と湿布の匂いがもう包帯に染みついているが、そこは
まだ駆け出し
とは言え保健委員だ、厭とも気持ち悪いとも思わない。
一年生の二人しかいない保健室は静か過ぎるのか、グランドで行われている
競技の歓声と
時々鳴るホイッスルの音がラジオ代わりにこの沈黙を埋めてくれる。
『そないなつもりで言うたんとちゃうんやけどなぁ…』
そんな忍足の小声もBGMに掻き消され、ムキになっている彼女の耳には届かなかった。
「……なぁ、」
「え?」
放課後、中間試験二週間前に入り、全部活動は停止に入った。
結局、中学三年間一度も同じクラスにならなかった彼が教室に迎えに来ると決まって
近所の図書館でデート半分に勉強会をするのが習慣になっている。
忍足はさすが医者の家で産まれたと言おうか、理数系が強い。
天才と普通の恋…。
彼と付き合いだしたのは、去年の正レギュラー陣が選抜された日だった。
彼にとっては保健委員とは言え身近な存在に恥ずかしい所を見られたのだ、言い訳
がましく何かを口にしていなければその場の空気で息が詰まっていただろう。
自分だって、あの時はそれこそいっぱいいっぱいだった。
だから、あの日のことは忘れよう……そう思う所でまた別の感情が胸の奥で燻って
いたが、元々妙に意地っ張りな彼女に恋の女神は勇気を与えてはくれなかった。
実際、男子テニス部に所属はしていても大体が一言二言で済んでしまうのが、
部員とマネージャーの仲だ。
他人が羨むような関係を築けるほど、大した言葉を交わす時間があるものではない。
『俺と付き合わんか?』
着替え終え、部室のドアを開けると悔しいほどに球技大会より背を伸ばした彼が
テニスバックを背負ってこちらを見下ろしていた。
初めはそんなどこかの軟派男が言うような台詞を言われ思わず、誰もいない
部室の中を見回してしまったことをよく覚えている。
その日から言われ続けた具体的な言葉が、「天才と普通の恋」これだ。
忍足と比べ、自分は容姿も成績も全てに置いて月並みだ、自覚はしている。
その言葉が的を射ている分、口出ししようともしたいとも思わなかった。
自分だけ絶えていれば、傷ついていれば、彼に迷惑を掛けないで済むのなら
それで良い
なんて重傷だし、何よりそんな自分よがりな気持ちは重い。
だけど、実際はその鞘を抜いてしまった。
あれから、何十人もの女子生徒達の忍足への告白を盗み聞きしてきた。
告げては散り告げては散りを繰り返されているとまるで、拷問のようだ。
彼と付き合っている自分が悪い?
彼を独り占めにしている自分がいけない?
彼に自分の汚い部分を見せたいから苦しめているの?
「今日、な。二年の後輩の子にコクられたんや」
「へ…へぇ」
親にも友達にもまして、忍足に言えない内面の部分には未だ自分以外の立ち入りを
許さない。
頬杖を付く彼の顔をまともに見られなくて、解読不可能な数学の方程式を睨んだ
返事をしたが、声が上擦っていて上手く聞こえたのかは解らない。
意地っ張りで素直じゃない自分。
「せやけど、「ごめんな」って言うた」
彼はいつも誰に告白されたが断ったと言うのが、最近の一日の報告だ。
「「俺には、って言う可愛え今カノがおるねん」って言うたら泣かしてしもうた
けど、最後には「お幸せに」って言うてくれたんや。……せやから、これからも
ずっと一緒に居よ」
涙が内側の汚れた部分を一緒に流す。
数秒も経たない内に漏れる嗚咽の声も、温かい忍足の唇で塞がれる。
ごめんね……今まで苦しんでいたことを話さなくて、ごめんね。
―――…終わり…―――
#後書き#
こちらは「brihigh」様に参加作品として作業しました忍足Dream小説です。
良い経験をさせて頂いたことを心より感謝しております。
それでは、こちらまでご覧下さり誠にありがとうございました。