『強さの価値は』





          倒れそうだった。世界が回り、見慣れた景色が異世界へと変わっていく。

         僕はなぜこんなところを走っているのだろうか? 確か今日はテニス部の練習で、先輩たちがコート
         を使っているから一年生はランニングで……。そう、ランニングだ。体力をつけるためにランニングを
         していて、それで……。

         そこまで考えて僕は吸い付けられるように地面に倒れこんだ。夏の日差しで極度に熱せられた砂の
         上に頬がつき、一瞬肌が焼けるような感覚がした。もしかすると火傷をしてしまったのかもしれない。
         今すぐ立ち上がるべきなのだろうが、足にまったく力が入らない。目の前が白い煙がかかったように
         霞んでいた。しかしどこか気持ちいい感じがして、僕は心のどこかでしばらくこのままでいようかとも
         思っていた。

         そんな不思議な感覚の中、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。それは山びこのように繰り返し、僕の
         耳を震わせた。不安定でまるでエコーのかかったような声。その声がもう一度聞こえた。今度ははっ
         きりと。それも僕のすぐ近くで。

         「大丈夫かい!? 不二君!?」

         その声で僕は閉じかかっていた目を開いた。

         「大和部長、ですか?」

         「よかった、不二君。君はランニング中に倒れたんだよ。憶えているかい?」

         目を開くと、大和部長が心配そうな目で僕を見つめていた。

         「ええ、憶えています。僕は、倒れたんですね」

         「ああ、そうだよ。最後まで走り続けたのは君と手塚君だけだよ。まったく、君たちには驚かされてば
         かりだよ」

         そういって部長は微笑んだ。それはどうやら安心の笑顔らしい。気づくと僕の周りには人だかりがで
         きていた。その人だかりの中、大和部長の後ろには“彼”がいた。

         最後まで僕と走っていた手塚国光。

         彼は僕の顔を見るなり表情を崩さずにいった。

         「無理はしない方がいい。少し休んだ方がいいかもな」

         口数少ない彼にしてはめずらしい発言だった。僕は素直にうなずいた。

         「保健室へは僕が連れて行きますから、みんなは練習を続けていてください!」

         部長はそういうと、急に僕を抱きかかえた。世に言うお姫様抱っこというやつだ。

         「大丈夫ですから! 部長! 自分で歩けますよ」

         僕は恥ずかしくなってそういったのだが、部長は、

         「年上の言うことはきいておくべきだよ」

         といって僕を降ろそうとはしなかった。

         結局、僕はそのまま校舎の中へと運ばれることになった。部長に抱かれている間、僕は頭が熱くなっ
         ていくのを確かに感じていた。



          保健室には誰もいなかった。そのため、僕は部屋の一番奥のベッドに寝かされることになった。グ
         ランドの方から聞こえる野球部の掛け声が妙に部屋全体に響いており、その掛け声がすぎると、
         今度は異常なまでの静けさが小さなこの空間を支配した。

         「今日一日はゆっくり休んだ方がいいね」

         ベッドに横になった僕に大和部長はそういった。

         「大丈夫ですって。まだ練習も残ってますし」

         その言葉をきいた部長は顔をしかめた。

         「あのね、不二君。僕は君の事を思っていっているんだよ。それにまた倒れたら他の部員たちにまた
         迷惑がかかってしまう。だから早く練習がしたいのなら、早く身体を治すことだね」

         部長は真顔で言った。普段やさしい部長からは想像もつかない厳しい声に、僕は少しの間言葉を
         失った。反論をしようとも思ったのだが、頭に反論の言葉が浮かばなかった。

         「わかりました。今日は休みます」

         僕はしばらくたって、仕方なくそういった。

         「そうしたほうがいいよ。僕はもう行くけど、ちゃんと寝ているんだよ」

         部長はそういって笑顔に戻った。そして、彼は出口へと向かっていった。部長は出口の扉に手をかけ
         たまま一度振り返って、僕を見た。

         「無理はしないほうがいいよ、不二君。特に、君の年齢の頃は」

         部長はそういって出て行った。

          そんなに早く寝られるとは思っていなかった。しかし、部長の心配そうな顔が頭をよぎり、僕は目
         を閉じた。

         今日一日のことが一瞬のうちにフラッシュバックする。僕はまだまだだと思った。手塚は余裕にこなし
         ていたことが、僕にはできなかった。部長も、3年生も2年生もできていたことができなかった。体力
         の無さ。それはテニスをするにおいて致命的なことはわかっていた。僕にはその致命的な欠陥が
         縛り付けられている。テニスは体力と精神力の戦いだと昔、越前なんとかというプロテニス選手が
         いっていた。僕はその欠陥を取り除かなければならない。そのためには努力しかないのだ。手塚
         以上の努力。それが今の僕には必要なんだ。努力こそ最大の才能。努力こそ最高の練習……。

          僕は頭の中を廻るさまざまな思いを整理できないまま、いつの間にか深い眠りについていた。



          誰かが呼んでいた。遠いどこかで、僕の名前をゆっくりと。僕はその声が耳にまとわりつくのが嫌
         で耳をふさごうとする。やめてほしかった。僕を呼ばないでほしかった。この心地のいい空間の中から
         引きずり出さないでほしかった。初めて勝てるんだ。あの手塚に、もうすぐで勝てるんだ、もう少しで、
         もう少しで……。

         「不二君! 不二君!」

         僕はその声ではっきりと目を覚ました。

         「もう学校が閉まるから、今日はもう帰りましょう」

         目を開けた先には大和部長がいた。彼は2つのテニスカバンを背負っている。僕の荷物も持ってきて
         くれたようだ。外はすでに日が沈んだらしく、部屋の電灯がついていた。蛍光灯の特徴的な光が部
         屋を照らしている。

         僕は上半身をベッドから起こした。

         「よく眠れたかい?」

         部長はきいた。とても柔らかい言葉遣いだった。

         「僕、夢を見ていました」

         「どんな夢だい?」

         「僕が大きなテニス場で試合をしているんです。相手は手塚でした。そして、僕は数点の差で勝っ
         ているんです。あと一ポイントで僕の勝ちだったんですけど、目が覚めてしまって」

         僕はそういってため息をついた。

         「僕が起こしてしまったせいだね。手塚君に勝ちたかったかい?」

         部長の柔らかい言葉が続く。

         「はい、勝ちたかったです」

         僕は正直にいった。その言葉をきいて、急に部長はベッドのそばにあったパイプイスに腰掛けた。

         「いいかい? 不二君。夢の中で勝っても何にもならないんだよ。現実は夢の中のように甘くは無い。
         それを理解しない限り、現実で勝つことはできないんだ。

         君は手塚君に対抗心を抱いているよね? それは別に悪いことじゃない。競争心は人を成長させ
         るからね。でも時には彼のことも認めてあげなきゃ。そうすれば、彼の強さの秘訣が少しながら理解
         できると思うよ。若い頃は、よいライバルはとても重要だからね」

         彼は僕の目を見ていった。

         「わかっています。でも僕は手塚には勝てないんです。どんなに努力しても」

         僕は下を見ていった。

         「なんでわかるのかな?」

         部長が力強い声でいったので、僕は再び顔をあげた。

         「努力したわけでもないのになんで勝てないなんてわかるのかな? 僕は君が勝てないなんて思
         わないよ。むしろ才能は君の方が上だとも思っているしね。

          こんな言葉がある。『努力こそ最大の才能。努力こそ最高の練習』あの有名な越前 南次郎プロ
         の言葉だ。僕はその通りだと思うよ」

         部長はそういって黙った。しかし、部長の目がさらに僕に訴える。諦めることは負けることだと。

         「その言葉なら知っています。昔からそれが僕の信念でしたから。でも、手塚に出会って気づい
         たんです。努力じゃ超えられない才能という壁があるってことに」

         部長はいきなり立ち上がった。そのせいでパイプ椅子が倒れる。

         「君はなにもわかっていないじゃないか! 僕はそんな考えが大嫌いなんだ! 僕は君に期待して
         いるんだ、だからそんなことは言わないでほしい!」

         彼の目が僕を見下ろす。僕はその視線に耐えられなくて目をそらした。

         「僕はよく思うんだよ、不二君。あいつは努力をすれば絶対にプロになれる、とか。あいつは全国レ
         ベルの身体能力を持っているのになんで努力しないのかって思わせるヤツがいるんだよ。でも努力
         も才能なんだって気づいたとき、僕はそんな人間には永遠に負けることはないんだって思った。

         だからね、僕は年下でも努力をしている手塚君に負けることはまったく恥ずかしいとは思っていな
         いんだ。でも、今の不二君には負ける気がしないよ」

         そういって彼は僕の寝ているベッドに腰掛けた。部長の大きな背中が僕に向けられる。

         「すいませんでした。僕、努力してみます。手塚にも負けないくらいの」

         「そうだね、それでこそ不二君だ」

         彼は背を向けたまま僕にいった。

         「そうだ、いいことを教えてあげよう」

         思い出したように部長は声を出した。

         「つばめ返しって知っているかい?」

         急な質問に僕は少し驚いた。

         「あの、宮本武蔵と戦った佐々木小次郎の得意技の名前ですか?」

         「そう、あのつばめ返し。刀を一度下げたあと、一気に上に向かって切り上げる技だよ。でもね、テニ
         スの中にもつばめ返しって呼ばれる技があるんだ。強烈なトップスピンをかけてボールに地面を這
         わせる技なんだ。上手く決まれば相手は打ち返すことができない。あの南次郎プロも公式試合では
         わずかに3回しか使っていない。それほど難しい技なんだ。でもね、君ならマスターできるんじゃない
         かって思っているんだ。見たところ君はテクニックでは手塚君に負けていない。どうだい? やって
         みないかい?」

         僕は考えた。僕にできるだろうか? そんな高度な技は見たこともきいたこともない。しかし、部長
         が僕ならできると認めてくれたのだ。それにこたえなければならない。僕にはその義務がある。

         「やってみます。僕にできるかわからないけど、でもやってみたいんです」

         僕は彼の背中を見つめながらいった。

         「よし、なら明日から練習だね」

         そういって彼は黙った。僕も黙った。

          なぜかそのまま妙な静けさが続いた。僕は部長の背中を見つめているうちに、急に寂しい気持
         ちになった。

         もう大和部長は今年で卒業なのだ。一緒にいられる時間もあとわずか。僕の心の支えがまた一つ
         消えていくのだ。

         僕は背を向けて座る部長を見た。その背中が急に愛おしくなって、僕はその背中に顔を近づけた。
         シャンプーと汗の交じり合った不思議な匂いがした。僕は自分のひたいを部長の背中にぴったりと
         くっつけた。暖かい体温が伝わってくる。部長は何も言わずにそのままでいてくれた。

         僕はそのまま、部長の背中で泣いた。それでも部長は動かなかった。僕は声を上げて泣いていた
         のに、涙で部長の背中が濡れているのに、部長は何もいわなかった。

         僕はいつまでも泣いた。泣き続けた。部長の背中が涙の匂いで染まっても、僕は泣き止むことがな
         かった。それでも、部長の背中は暖かかった。



         ボールが綺麗にコートの上を滑っていく。高速で回転をするその球を、手塚は返すことができなかっ
         た。これで僕が1セット取ったことになる。

         「つばめ返しだ!」

         誰かが叫んだ。

         「どこでこんな高等技術を身につけたんだ?」

         手塚は不思議そうに僕を見ていった。

         「さあ、どこだったかな? たぶん場所は保健室だよ」

         「どういう意味だ?」

         「そういう意味だよ」

         僕はそういって微笑んだ。初めて手塚から取った1セットに、僕は笑わずにはいられなかった。ラケッ
         トを握り締めて手塚を見つめる。彼は鋭い目線を返してきた。

         「2年生って、こんなにレベル高かったか?」

         3年生の誰かがいう。僕はまたその声に微笑んだ。

          去年の夏、僕は大和部長と約束したことを忘れてはいない。『努力こそ最大の才能。努力こそ最高
         の練習』。その言葉は大和部長の魂となって僕の心の中に残っていた。そして僕はこのつばめ返し
         を習得した。部長から教えてもらったこの技。僕はこれからも、この技で勝ち続けるだろう。努力あ
         る限り。

         「まだ試合は終わっていないぞ」

         手塚がボールを握り締めていった。彼はサーブの体勢に入る。僕も身構えた。心地のいい音がコー
         トを包む。

          太陽の光がまぶしかった。その太陽に部長の笑顔が重なって見えている。

          まだまだ、僕は強くなれますよね? 部長。僕にはまだあの部長の言葉が胸の中にあるから。

         そう、試合はまだ始まったばかりなのだ。



         〜The End〜

 

 

         †柊沢のありがたくもない感謝状†

         すばる君、素敵な作品をどうもありがとうございます。

         私はYF(青春)小説を取り扱ったことがないので、とても斬新でした。

         しかし、BLになりそうでならないところにちょっとドキドキしてしまいましたね。(笑)

         今作品は私にとって忘れてはいけない感覚を間近に思い出させてくれるものです。

         この作品を最後まで読まれたあなたは、何か大事なことを諦めようとはしていませんか?

         当時の私も不二君と同じ立場にいました。

         『努力こそ最大の才能。努力こそ最高の練習』。

         とは言われませんでしたが、それと同じような存在感で私を包んでくれました。

         私は今だ大和君を取り扱ったことがないので、とても羨ましく拝見させてもらいました。

         では、次回もどうぞ宜しくお願いしますね。