海へ行こう!
ミーンミンミー……ン。
季節は夏。
海沿いに面しているはばたき市はこの時期になると、普段から多い人通りに
拍車が掛かる。
春は花見、秋は紅葉狩り、冬はスキー、そして、夏は花火大会と海水浴であった。
遠くから来ている者も入れば、近場の休日を楽しむものもいる。
小高い丘の上にあるはばたき学園も今日は終業式が行われ、昼過ぎには学生達が
いつも以上に賑わって街中を歩いていた。
そんな彼らを制する存在である教師達も今時期に限ってはそれもすることはせず、
各々の家路に着いていた。
「ねぇちゃん、ねぇちゃん。最新情報を教えてやっても良いよ」
公園通り付近の一軒に三年前に引っ越してきた家がある。
「どうせ、何かと引き換えなんでしょ」
今は夕暮れ時であってもまだまだ涼しいとはいかない。
自室で下敷きを扇子代わりに煽っていると、六歳下の弟の尽がドアを勢い
よく開けた。
毎回言っているにも関わらず、入室する前にノックするという最低限のマナーを
実施したことなんか一度も無い。
「えへへ…。今月、何かとピンチで」
「…はぁ、しょうがないわね。それで?」
近所や友達から似ていると言われている少年の顔をじっと見た。
この頃の自分の写真はアルバムにあるが、全然そんな風には思えない。
姉がそんなことを考えているとは全く想像していないであろう尽は、悪戯っぽく
笑って片方の掌を遠慮せずこちらに差し出してきた。
喫茶店のアルバイトと小遣いで節約しているので、机の上にある貯金箱には
いくらか詰まっている。
その掌にいくらか納めればまるで新聞の集金にやって来る中年の女性のように
毎度、と景気の良いことを口走った。
「それで、何なの?最新情報って?」
「最新情報って言うよりねぇちゃんに伝言があるんだよ。葉月から」
葉月というのは、彼女の通っているはばたき学園の王子様的存在である
葉月珪のことだ。
尽は何故だか、姉と同じ高校に通う男子学生を呼び捨てにする。
いや、正確に言ってしまえば、に興味を持っている青年たちのみだった。
姉思いで始めたような「良い男リサーチ」だったが、いざ自分以外の者が姉に
近づくのは弟としてつまらない事である。
だが、自分の感情でこの少女の人生を台無しにはできないとでも考えている
のか、今日はやけに積極的だった。
彼は孤高に気軽に話す友達などいなく、噂では学校の裏に住む猫の一家と
仲が良いらしい。
だが、それは本当で、この前その現場を目撃してしまった。
自分と同じ名前の子猫を抱く何かを遠くに見ているような本当の葉月珪を…。
それを思い出すと、胸が熱く絞めつけられると同時に無償に悲しくなる。
彼は周囲を気にして独りでいるのだ。
このどうしようもないくらいお人好しなにさえ……。
「葉月君っ!?何?何なの、伝言って!尽っ!!」
言われた瞬間はぽかんとしてしまったが、我に返ってみると体中が熱く
火照りだす。
目の前では、それをにやにやとしたまま見ている少年の胸座を掴んで引き寄せる。
「言いなさい、尽っ!」
「うわっ!?わ…解ったよ!だから、放してってば!!」
初めはいつものようにオーバーに言っているのかと思ったが、次第に染まっていく
顔を見る内に真実だと解り、黄色いパーカーから両手をそっと離した。
「あっ……ごめん」
「ごほっ、ごほっごほっ…。ちっとは女らしくなったかと思ったらコレだもんな」
自身の小さな胸をトントンと叩きながら姉の悪口を言うが、その本人は自業自得だ
と心の中で笑っていた。
「それで、葉月君が私に何だって?」
さり気なく笑顔を寄せてみる。
目の前の少年はそれに気づいたのか、無邪気に笑い返した。
「おめでとう。ねぇちゃん」
「へっ?」
いきなり祝福の言葉を掛けられて鳩に豆鉄砲のようにこんな言葉しか出てこない。
瞬きを何回も繰り返しても答えなど見つかるはずもなく、目の前の彼を
もう一度視界に入れた。
「尽?」
「さっき、家の前で葉月が立っていたんだ。それで、俺が訳を聞いたら、伝言を
頼まれたんだ」
「えっ!?葉月君が家に来てたの!!」
ベッドに腰を下ろしていたは自室の窓を開けようとしたが、弟の掌がそれを
制する。
「何するのよ!」
「あいつならもう、いないぜ。俺に伝言を託したら走っていったからさ」
尽の声が何だか無常な響きに思え、今度は腰に力が入らなくなり。
会いたい…。
最近、彼と出かけることはあるが、いつもそれだけと言うのに違和感を
覚えていた。
それはある意味危険な考えかもしれないが、そんなことなど考えてなどいない。
ただ、一人の男性のみを強く求めていた。
「尽、お姉ちゃんに聞かせてくれる?葉月君の伝言を…」
次の日、は新はばたき駅の前に立っていた。
人ごみの中、自分が待ち浴びている存在がどこかにいるのではないかと辺りを
不安そうにきょろきょろと落ち着きのない仕草をさせている。
さすが、全国の学校が休みの季節というのか、彼女と同い年くらいの若者も
いればこの少女をここまで連れてきた弟と変わらない子供たちが何人かで
走り回っていた。
今頃、彼もその中にいるのかと思うと、いくらか気分が落ち着く。
『明日の10時、新はばたき駅で待っていてくれ。海に行こう』
昨日、自室で尽に聞かされた葉月珪のMessageだった。
それを耳にしてから妙に緊張して昨夜はなかなか寝付けなかったが、今朝は
時間通り早起きができ、朝食を早めに済まし、お気に入りの緑のキャミソールに
アクアブルーの膝丈プリーツスカートに着替えた。
仕上げに、スクエアバレッタをアクセントに付ける。
彼はこういった髪飾りが好きなのだ。
それを二人で遊びに行き始めてから何日かして知ったは偶然を装っては秋と
冬以外は毎回身に付けている。
少しでも、葉月の笑う顔が見たかったからなのかもしれなかった。
あの青年は、めったなことでは他人に笑顔など見せない。
それが、アルバイトのモデルと言う仕事でもそれは変わらなかった。
もっとも、その彫りの深いお面のような彼がウケているという話は別だ。
彼女自身、常の葉月珪と言う人物に惹かれている一人なのだから否定することは
できなかった。
だが、だからこそ、あの青年に掛けられている魔法を解きたいと考えている。
『私は旅立たなければなりません。でも、どうか悲しまないでください。私の心は
あなたのもの。たとえ世界の果てからでも、いつか必ず迎えに参ります』
いつか聞いたあの少年の言葉が胸に過ぎった。
(葉月君……私は、ここにいるよ?あなたを大好きな私はここにいるよ…)
新はばたき駅には、何店かのショッピングモールがあるためか時間が過ぎれば
過ぎるほど人ごみが激しくなってくる。
時々、アルバイトで貯めたお金でここに遊びに来ることがあるが、行きはそうでも
ないのだが、店を後にする時はこの混雑で家に帰るのも一苦労だった。
改札口から離れた場所で瞳を伏せ、まるで、神に祈るように両手を組んだ。
「……」
「葉月君っ!?」
その途端、彼の声が聞こえ、急いで瞳を開けた。
「お前…目、閉じて何やってたんだ?」
最初に飛び込んできたのは、顔を上気させている彼女の王子様だった。
こんなことを本人に言ってしまえば、嫌な顔をされてしまうだろう。
それでなくても、年頃の男性はそういった関連から逃れたがろうとする。
気持ちは解らないでもないが、彼女自身はこの青年にとってのお姫様に
なりたかった。
「あはは…。見てた……よね?葉月君がどこか他のところで待っていたら
どうしようって不安だったから、つい…」
「俺……遅れたな。…………怒っているか?」
「ううん!私も今来た所だから大丈夫だよっ!!」
「悪かったな、待たせて」
彼は軽く微笑むと、自然に額を拭った。
そこには、今まで気づかなかったが汗がびっしょりと濡らしている。
もしかしたら、この青年は待ち合わせ場所に先に着いていたのではないだろうか。
一度それを確かめようとするが、唇を開く前に葉月と目が合ってしまった。
「どうした?」
「ううんっ!何でもない。さっ、海に行こう!!」
『海に行こう』
昨日、尽に伝えられた彼の言葉をそのまま促すものへと変えてしまう。
それに気づき、慌てて笑ってごまかすが、本人は察しが早く、あぁと微笑んだ。
浜辺に着き、レンタルでパラソルを借りるとお互い更衣室へと向かった。
家から服の下に着てきたとはいえ、やはりこの姿を彼に見せるというのは
戸惑うものがある。
先日、公園通りのブティック・ソフィアで買ったピュア系のピンクのビキニ。
何気に紐止めだから、もしかしたら、その部分が手伝って鼓動を速くさせているの
かもしれない。
だが、この場に何時間もこもりっぱなしではせっかく誘ってくれた葉月に
悪い気がした。
あの青年だって全く感情を表さないというわけでもない。
それもここ最近では、一つの革命が葉月珪の中で起こっているとは知る由も
無かった。
勇気を振り絞り、必要最低限の荷物だけ手にすると、更衣室を後にした。
室内から外に出ると、激しい日差しが彼女を襲う。
UV対策はまず彼の元へ行ってからするつもりだったが、顔くらいは自宅から
してくるんだったと後悔をした。
照りつける太陽の光りが砂浜で反射して上下から容赦ない肉眼では決して見ることの
出来ない刺激がこの場にいる人々を攻撃する。
だが、そんなことなどお構いなしなのか、みんなはそれぞれ楽しんでいた。
岸辺では寄せては返すさざ波と戯れる者。
磯では海水生物を観察する者。
力いっぱい沖を目指して泳ぐ者。
そして、どちらにも当てはまらない者は…
「……」
「えっ…と……どうかな?やっぱり、変かな?」
おずおずとした足取りで先程借りたパラソルの下には、既に、水着に着替えた
葉月がのんびりと座っていた。
彼女が声を掛ける前に気配で気が付いたのか、こちらに振り返る。
こちらが赤い顔をして何かを言おうとすると、いきなり立ち上がられたのだった。
上から下を穴が開くのではないかと思うほど見られる。
ただでさえ緊張をしているこの少女としてはたまったものではなかった。
「やっぱり、着替えてくる!」
「待て」
沈黙に耐え切れなかったは、それから逃げるかのように彼の方に背を向ける。
やはり、この水着は自分には似合わなかったのではないかと思うと悔しいという前に
悲しかった。
毎度ワンピースだった彼女は、この水着を着ることで今までの自分から別れ
られると考えていた。
ビキニを着ることでこの青年にふさわしいと誰でも納得するような自分に
なりたかった。
でも、そんなことは到底目指すことの出来ない幻のようなものなんだと、思う
と、余計涙が滲んでくる。
砂浜なので走る事は出来ないので、彼を見ないように歩き出すつもりだった。
だが、それは、青年の大きな掌によって阻止される。
左手首を掴まれ、驚いたは瞳に涙を溜めたまま振り返った。
先程耳にしたあの言葉は空耳ではないのか。
淡い期待が少女の胸を締め付ける。
「良いんじゃないか。……と思う」
あいまいなその言葉には似合わないほど、葉月は柔らかい微笑を浮かべていた。
その様子に笑い返した彼女の瞳からは溜めた雫が頬に一筋流れる。
その一言ために先程までどんな辛い思いをしたかなんてどうでも良かった。
ただ、彼のために何か出来ると思えるのが嬉しかったのかもしれない。
緊張した葉月の感想を訊いた彼女達は、何をすることもなくレンタルパラソル
の中に身を潜めた。
彼との海水浴はこうして時間が過ぎる。
初めて、葉月を誘った時は冗談半分で日常の生活を切り出した。
だが、それを本当に喜んだ彼を心の中では複雑な思いで驚いたものだ。
「ふふっ」
「何、笑ってんだ?」
当時のことを思い出していたら、つい、口元が緩んでしまった。
隣ではその原因の元である本人が不審な顔をこちらに寄せている。
彼女は頬を赤らめながら何でもないっと言ったが、その深い緑の瞳から逃れることが
出来なかった。
青年はしばらくそのまま少女を見つめると、急に立ち上がり、自分の数少ない
荷物の中をごそごそと探してからこちらに振り返る。
「?」
「お前、少し焼けたんじゃないか?」
「そうかな?」
「そうだ。俺がオイルぬってやるからちょっと背中をこっちに向けろ」
「こう?」
状況が解らず、とりあえず背を彼に向けてみた。
その間、何が起こるのかと期待したり戸惑ったりと複雑ある。
だが、そんなことにはお構いなしなのか、背中の向こうはピチャピチャと軽快な
水音を立てていた。
それにさらに動悸が早くなるのを感じる。
頬には火照る熱が服を着ているよりも直に、体中に伝わり、それがさらに少女
を悩ませた。
「あっ」
すると、背中にがっしりとした大きな掌が水着のブラを留めている紐のすぐそばに
置かれる。
「何だよ?変な声を出して」
「ううんっ!何でもない!!」
背中越しの青年が笑った気がしてさらに、顔に赤みが増した。
場所が場所で余計感じてしまっているのかもしれない。
いつ、何かの弾みで解けてしまったらどうしようと冷や冷やしていた。
だが、そんな考えなど無用で、紐はしっかりと留められている。
それなら、何故こんなに動揺しているのかなど当たり前のことを思ったりした。
途中で漏れそうな声を飲み込んで、必死に目を閉じる。
もしかしたら、葉月に溺れている瞳を誰にも見られたくないのかもしれなかった。
しかし、彼の掌には何の迷いもなく何度も上下に往来させる。
こんなに感じているのは自分だけなのかと考えると脳裏に哀しさが過ぎった。
だが、それに浸る余裕は彼女には許されない。
鼓動は手を伝って青年にも解ってしまうじゃないかと心配になるほど高鳴っていた。
しかし、いくら平静を装うとしても、それは空回りで終わってしまう。
葉月珪の掌の感触に酔いしれていた。
同年代の少女達とは全く違うそれは、大きくがっしりしている。
それでいて壊れ物を扱うように優しく自分に触れている。
瞳を閉じながら心の中で好きだと何回も繰り返した。
だが、すぐそばに本人がいるためか妙に緊張してしまう。
「…」
「えっ!?」
急に彼が自分を呼んだと思ったら、何か大きなものに背中から抱きしめられた。
「けっ珪君?!」
「…ずっと……ずっと、お前が好きだった」
その温もりは少女の肩を抱きしめる両の腕に力を加える。
それは何故かもう、どこへも行くなと訴えているように感じた。
はるか昔でもない幼い頃、はある少年と約束をしてから何日かして親の都合で
はばたき市を去る。
まるで、それは、二人の間で語られていた王子と姫の物語のように…。
だが、本当は、この青年が先にこの場所に戻っていた。
「珪君…」
長い寂しさを抱えていた深い緑の瞳が不安そうな少女の表情を捉える。
彼女だって、全く彼をあの時の少年だと思わなかった日はなかった。
しかし、実際、本人に尋ねることはできなかった。
今から考えてみれば、それは、否定されるのが怖かったのかもしれない。
そうしたことで、自分の中の葉月を失いたくなかった。
青年はの前に姿を現すと、顎をキレイな指でしっかりとした力で掴む。
「だっ!ダメだよ!!人が見てるよっ」
「大丈夫だ。誰も見ていない。それに見られたとしても見せつけてやれば良い」
彼女は顔中を赤らめてそれから逃れようとするが、どこに力があるのか
びくともしなかった。
正面から抱きしめられてしまったことで既に、少女の鼓動はこの青年に伝わって
しまっただろう。
端整過ぎる顔がゆっくりと、こちらに近づき出した所為もあるから余計だ。
観念したように瞳を閉じ、葉月に身を任せた。
これから起こる人生最大の事件に胸の動悸も速くなって来る。
「好きだ」
その掠れるような不意打ちを耳にしたかと思うと、彼の唇が降って来た。
触れ合うそれは、一瞬、互いにぎこちない素振りをみせたが、氷解するのに
時間はいらない。
青年の方から唇を深く求めだすのと同時に、首筋に腕を絡める。
「んっ」
それは今までの時を埋めるような甘いものにも思える。
だが、その唇は初めての刺激を帯びたためか数分でその場から離れた。
葉月の言ったとおり、この現場を目撃した者などいなかった。
それに、こんな恰好のデートスポットにそんなヤボな輩は存在しないだろう。
まして、今は夏真っ盛りである。
自分達のことで精一杯だというのに、他人のことなど一々気にも留めないだろう。
熱っぽい眼差しで見つめあう二人の姿がパラソルの下にあった。
「私も……ずっと好きだった」
「っ…」
彼女はもう一度瞳を閉じ、彼を思う。
確かめた瞳には、何年も前からこの少女が映っていた。
それは、数えられない奇跡の中で起こったたった一つの真実。
「ずっと、あなただけを愛しているよ」
が愛を囁いた瞬間、二人の唇が重なり合った刹那だった。
―――・・・終わり・・・―――
♯後書き♯
今年になって初めてGS作品を仕上げました。
初葉月健全ドリはいかがだったでしょうか?
前作は裏でしたからかなり新鮮なものに感じているかと思います。
最近は、『テニスの王子様』のキャラクターの誕生日に乗じて何作かupして
何とか更新を続けている柊沢です。
言い訳を申しますと、輝かしい『Streke
a vein』初回号だというのに私以外は
『テニスの王子様』作品なので編集する側として頑張ってみました。
それでは、次回も宜しくお願い致します。