海を固めた宝石



　　　　　　　　「……っ」


　　　　　　　　それは、ある夜のことだった。

　　　　　　　　虫の音がすっかり心地よい子守歌を歌い出した頃、誰もが寝静まったのを

　　　　　　　　見計らって彼はやってくる。

　　　　　　　　今日も責務に追われてクタクタだと言うのに、はなかなか眠りにつけず障子を

　　　　　　　　開け、縁側から月の光に映し出された夜の闇にも負けない碧眼で空を見上げ

　　　　　　　　ていたのが悪かった。

　　　　　　　　彼女は無防備にも寝間着のまま夜風に当たり、ほんの少しだけ見事な十六夜の月

　　　　　　　　に見惚れていただけなのに、心がある人物のことを映像として映し出しそれに

　　　　　　　　従うように目を閉じた。

　　　　　　　　どうして、こんなにも辛いのだろう。

　　　　　　　　願いは叶っているのに、こんなにも心が痛む。

　　　　　　　　ただ、あの人の傍にいたいだけなのに、どうしてこんなことになってしまった

　　　　　　　　のか、どこから道を踏み外してしまったのかなんて最初から理解している。

　　　　　　　　そんな自分の弱さをどんなに罵っても足りない。

　　　　　　　　それを選んでしまったのを今もまた、受け入れてしまうから。


　　　　　　　　「え、……っ！」


　　　　　　　　瞑った瞬間、風の匂いが変わり、再び瞳を見開く前にその華奢な体は抱き

　　　　　　　　寄せられ、一言呟いた唇を何の躊躇いもない動作によって奪われた。

　　　　　　　　その衝撃に驚いては碧眼を溢れ出すくらい丸めるが、相手の方は常に冷たく

　　　　　　　　笑った顔を崩さず、寝癖予防のために後頭部でまとめた黒髪を簡単に

　　　　　　　　ほどかれてしまう。

　　　　　　　　紐から自由になったそれは肩や背中にぶつかって飛び上がり、まるで、荒々しい

　　　　　　　　岩を超える川のような動きをする。

　　　　　　　　だが、男の腕で固定された腰に辿り着くとそれまでが偽りだったと言わん

　　　　　　　　ばかりに大人しくなり、犬が尻尾を振るように左右に揺れその動きを沈めた。


　　　　　　　　「っ…」


　　　　　　　　唇に押し当てられた対と近すぎる市丸ギンの顔が恥ずかしくていつも瞳を

　　　　　　　　閉じてしまう。

　　　　　　　　ずっと、好きだったあの彼が自分に口づけをした…それだけで気がどうにか

　　　　　　　　なってしまいそうなのに、心の底ではこんなのは嫌だと思っている。

　　　　　　　　それは、贅沢なことだと把握しているが、これ以上、こんなことを続けて

　　　　　　　　いると自分が壊れてしまいそうで怖かった。

　　　　　　　　だから……


　　　　　　　　「…もう、止めて下さい」


　　　　　　　　自分からこの終わりのない呪縛から逃れよう…そう、決心した。

　　　　　　　　碧眼からは涙が溢れ、頬を伝い廊下の木目を濡らす。

　　　　　　　　少しの間を束縛されていた唇は名残もなくされたのと同じで、市丸から

　　　　　　　　離される。

　　　　　　　　その空虚さがいつも彼女に寂しさと一緒に愛しさを植えつけ、再び求めさせる。

　　　　　　　　もし、彼をこの世で一番憎んでいてもきっと、今と同じ運命を辿っていた

　　　　　　　　と思う。


　　　　　　　　「もう、止めて下さいっ！市丸隊長っ！」


　　　　　　　　 は震える声でもう一度、先程の口づけの余韻が残る愛らしい唇で拒絶の

　　　　　　　　言葉を叫ぶ。

　　　　　　　　日毎に増すこの感情は好意より愛情に近い。

　　　　　　　　だからこそ、このままでいてはいけないことくらい解かっている。

　　　　　　　　しかし、いくら頭で理解していても気持ちまで整理することができない自分が

　　　　　　　　情けない。

　　　　　　　　だから……別れようと決意した。

　　　　　　　　きっと、この人にとっては遊びのつもりだと知っているから。


　　　　　　　　「せやけど、もう、子供扱いは嫌やろ？」


　　　　　　　　目の前に立つ市丸は両手で彼女の顔を覆い、男性のものとしてはきれいな

　　　　　　　　親指の腹で涙を拭い、残酷な言葉を呟く。

　　　　　　　　それも、自分で言ったことだから弁明も言い訳も口にすることができない。

　　　　　　　　冷たく笑う口元が堪らなく、愛しいから。

　　　　　　　　それは、あの日から変わらないのが悔しすぎてまだ余韻の残る唇を強く噛んだ。

　　　　　　　　「松本副隊長っ！これでご指定されました資料全部です」


　　　　　　　　それは、いつもと変わらない日常が始まりだった。

　　　　　　　　執務室のソファーをまるで、自分のものだと言わんばかりに体を横たえて

　　　　　　　　いる姿はグラビアアイドルにも匹敵するほど艶めかしい。


　　　　　　　　「ん…そこに置いといてくれる。今、ちょっと生き抜きで昼寝しようと

　　　　　　　　　していたの」


　　　　　　　　大人で、どこまでも自由奔放で、見た目が１６歳くらいのにとっては憧れの

　　　　　　　　存在だった。


　　　　　　　　「はいっ！お休みの所失礼致しましたっ！」


　　　　　　　　慌てた手つきで机の上に重さ１０�sはある書簡を置く。

　　　　　　　　振り返れば、瞼を伏せた上司がすやすやと寝息を立てて眠っている。

　　　　　　　　こんなに熟睡していれば音の心配なんてしなくても良かったのかな、と笑いが

　　　　　　　　こみ上げそうになって両手で口を塞いでどうにか抑えた。

　　　　　　　　普段は三席にいる彼女にとっても遠い存在なのに、今はこんなにも近い。

　　　　　　　　無防備な寝顔にお疲れ様です、と呟き執務室を後にした。

　　　　　　　　仕事も一段落したし部屋でお茶でも飲むか、と廊下を歩いていると反対側から

　　　　　　　　こちらに向かって歩いてくる存在に一瞬の内にして目を奪われた。

　　　　　　　　黒い隊服に羽織った白がその威厳の高さを物語るそれは、隊長を表している。


　　　　　　　　「いつもいつも、ご苦労やな」


　　　　　　　　歩く際に揺れる銀の髪を持つ者なんて瀞霊廷に多くはない。


　　　　　　　　「え…」


　　　　　　　　その髪の軽やかさに見とれていると不意に声を掛けられ、見上げる先には

　　　　　　　　いつの間にか自分の近くに来ていた彼と視線が合った瞬間、まるで、影を

　　　　　　　　踏まれてしまったかのように動けなくなる。

　　　　　　　　息をするのも遠慮がちになり、言葉を交わすのも躊躇って頭を深く下げるしか

　　　　　　　　この場を乗り切る対策が思いつかない。

　　　　　　　　まるで、霊圧に当てられたみたいだ。

　　　　　　　　しかし、がこうも体を硬直させているには別の理由がある。


　　　　　　　　「そないに頭を下げんでええよ。ほんま、自分は可愛ええな」


　　　　　　　　その言葉が舞い降りてまた、胸の鼓動が一段音を高くさせる。

　　　　　　　　市丸に「可愛い」と言われただけなのに、体はすべての自由が一瞬の内に

　　　　　　　　して封じられてしまったかのように硬直してしまう。

　　　　　　　　こんなのお世辞とかに決まっているのに、それを受け入れない本心がある。

　　　　　　　　彼は気づいていないだろう、霞む意識越しに自分を見ている存在がいることを。

　　　　　　　　この気持ちが恋だと気づくのに、時間は掛からなかった。

　　　　　　　　十番隊に配属されたばかりの頃、先輩達から雑用を頼まれ走り回っていると

　　　　　　　　廊下で松本が市丸と楽しく話しているのを見てしまった。

　　　　　　　　強い劣等感と一緒に嫉妬が胸を締めつけ、夜、誰もが寝静まったのを見計らって

　　　　　　　　縁側で月を見上げながら声を殺して泣いた。

　　　　　　　　その時、誓った「誰よりも強く美しくなってやる」と言う願いはまだ三席

　　　　　　　　という身分では 叶ってはいない。

　　　　　　　　最も、あの彼女の下で働いているのだから嫌でも毎日それを認識させられる。

　　　　　　　　それでも、十番隊に配属されてから目覚ましく出世した自分を彼は注目して

　　　　　　　　くれるだろうか。

　　　　　　　　ようやくこの地位に就いて隊長格に会う回数が増えた。

　　　　　　　　院生の頃よりも彼らを神のような存在だと見ていたが、今では目の前で寝息を

　　　　　　　　立てたり頭上でお世辞を言われたりなど、あの頃から考えれば信じがたい

　　　　　　　　現実を日常としている。

　　　　　　　　依然として顔を上げようとしない頭の上に何か大きな物が落ちた。

　　　　　　　　その正体を確かめようとして持ち上げた瞳にまた、いつもの冷たく笑う市丸と

　　　　　　　　視線が合ってしまう。


　　　　　　　　「あ、あのっ」


　　　　　　　　今度こそは何かを言葉にしなくては、そう頭の中が雑用に追われている

　　　　　　　　時だった。


　　　　　　　　「ほんまええこやわ、そないに気にせんでええんやで」


　　　　　　　　その一言が彼女の視線を暗くし、プライドをズタズタに引き裂いた。


　　　　　　　　「隊長っ！私のことを子供扱いするのは止めて頂けませんか！」


　　　　　　　　わなわなと震える怒りに拍車を掛けるように彼の右腕が見え、その先が自分の

　　　　　　　　頭上でとぎれているのを知り、涙が出そうになるのをキッと睨むことで

　　　　　　　　何とか瞳の中で堪えてみる。

　　　　　　　　だが、目の前にいる市丸は至って普通で逆に、この事態を楽しんでいる

　　　　　　　　ようにも見える。


　　　　　　　　「し、失礼しますっ！」


　　　　　　　　こんなに苦労しているのに、それさえも気づいてもらえないことが悔しく

　　　　　　　　て、それでも市丸を憎むことなどできない自分が嫌でもう一度深くお辞儀をし、

　　　　　　　　踵を返して歩き出そうとした。

　　　　　　　　しかし、その足はその先に行くことを許されなかった。

　　　　　　　　彼に左手首を捕まれていたから。


　　　　　　　　「……離して下さい」


　　　　　　　　「嫌や。何か怒ってるやろ」


　　　　　　　　「怒っていませんっ！」


　　　　　　　　「声上げよって、そないに他の奴らに見つかりたいんか？それとも……

　　　　　　　　　見せびらかしたいんか？」


　　　　　　　　市丸の言葉の意味が解らない。

　　　　　　　　こんな場面を見られても、隊長に叱られて逃げようとしている一隊士にしか

　　　　　　　　見えないだ ろう。

　　　　　　　　今の立場も考えずにその真相に考え込んでいると、の手首が強い力で

　　　　　　　　引っ張られる。

　　　　　　　　その勢いで体制を崩した先にいた彼の顔はやけに近かったことを最後の記憶に、

　　　　　　　　その先に何が待っていたのか思い出すのに、部屋に戻って急須にお湯を注ぐ

　　　　　　　　まで掛かった。

　　　　　　　　唇にはまだ市丸の温もりが残っている。

　　　　　　　　何故、どうして、そんな気持ちばかりが頭を過ぎって別れ際の彼の残酷な捨て

　　　　　　　　台詞を思い出し、彼女は体中の力がどっと抜け堪えていたはずの涙が畳を

　　　　　　　　幾度も濡らした。


　　　　　　　　「子供扱いが嫌やならこれからは大人扱いをさせてもらうで、」

　　　　　　　　「市丸隊長っ……まっ」


　　　　　　　　「嫌や」


　　　　　　　　冷たい声色が心を貫いてそれ以上動けなくなる彼女を狙ってか、いつも口づける

　　　　　　　　前にこんなやり取りが二人の間で交わされる。

　　　　　　　　まるで、彼の斬魄刀で射殺されてしまったかのような刺激が胸を襲い、衝撃と

　　　　　　　　共に凍えてしまう。

　　　　　　　　自分に決定権はない、と冷たくあしらわれた。

　　　　　　　　いつも勝ち気な性格のでも片思いの相手にそう言われてしまうと、何もできなく

　　　　　　　　なってしまう。

　　　　　　　　悲しい。

　　　　　　　　憎いよりもそんな気持ちが口紅になってまた、唇を奪われる。

　　　　　　　　その数が枷になり、重たくなる度に身動きさえ忘れて涙で頬を濡らす。

　　　　　　　　自分はここまで弱かっただろうか。

　　　　　　　　誰もが認める存在になってあの人を振り返らせたかっただけなのに、今は

　　　　　　　　それさえも遠いように感じる。


　　　　　　　　「ほな、な」


　　　　　　　　数分後、いつも市丸の方から唇が離され手を左右に振り、まるで、何事も

　　　　　　　　なかったように瞬歩で消えてしまう。

　　　　　　　　残された彼女は床に崩れ落ちるように座り込み、口を両手で覆い涙腺より溢れる

　　　　　　　　雫が頬を伝う。

　　　　　　　　こんな関係になりたくて市丸に近づきたいと願った訳ではない。

　　　　　　　　始まりのあの日、何故、断らなかったのかと何度後悔したことだろう。

　　　　　　　　だが、答えとは言えないほど幼すぎてあまりの自分の馬鹿さ加減を

　　　　　　　　罵ってしまう。



　　　　　　　　（隊長…）



　　　　　　　　唇を噛んでもやはり、彼が愛しい自分が嫌いだ。

　　　　　　　　温もりの数だけ増える疑問さえも今のには枷に変わるだけで、羽根に変わる

　　　　　　　　ことなどない。

　　　　　　　　両手を廊下に置いてそのまま座り込んでいると、女性の声が背後で聞こえ、風が

　　　　　　　　その存在の香りを届ける前に、肩を掴まれ大きく揺すられた。


　　　　　　　　「？こんな所に座って…。アンタ、どうしたのよっ！」


　　　　　　　　「松本……副隊長？」


　　　　　　　　また馬鹿をやってしまった。

　　　　　　　　いつもの彼女ならば、誰かに見つかる前に瞬歩で消えている。

　　　　　　　　こんなみっともない自分を見られたくない、と言うほんの少しだけ残った

　　　　　　　　プライドだったのに。

　　　　　　　　しかし、そんな元からない意地を張った所で結果は目に見え、次の瞬間には

　　　　　　　　彼女の体に抱きつき声を上げて泣いてしまった。

　　　　　　　　その姿はまるで、鳴かない兎が、月が欲しいと泣いているようだった。

　　　　　　　　執務室のイスに座らされ、目の前に置かれた湯飲みからは白い湯気が

　　　　　　　　上っている。

　　　　　　　　いつもは一方的にお茶汲みを担当しているのに、と明後日な感動にまた涙ぐみ

　　　　　　　　そうになるのを松本が遮った。


　　　　　　　　「それで、どうしたの？いつものらしくないじゃない」


　　　　　　　　「実は……ある人から会う度に……接吻をされるんです」


　　　　　　　　今、自分が精一杯できる優しさはこんなことぐらいだ。
　　　　　　　　
　　　　　　　　それにあんな現場を見てしまえば、素直に口に出すことも躊躇われたが、

　　　　　　　　どうすれば良いものか悩んでいるは他人の決定権が欲しかった。

　　　　　　　　最早、自分の考えなんて信じられない。

　　　　　　　　狂っていない正常な答えが欲しい。


　　　　　　　　「何それっ！婦女暴行もいい所じゃない！アンタ、今までそれを我慢してたの？

　　　　　　　　　そんなことをしなくても女性死神協会に訴えればいいでしょうが」

　　　　　　　　彼女はそれだけ聞くなり眉をつり上げ、こちらに向かって叫ぶ。

　　　　　　　　まるで、自分が怒られているようで、体を余計に縮める。

　　　　　　　　松本はとても部下思いだ、こんな憧れと嫉妬の間にいるのに心配してくれるの

　　　　　　　　が、何だか とても恥ずかしくて正面を見ることができなくて湯気に視線を

　　　　　　　　落とした。

　　　　　　　　緩く動くそれは、今の自分に似ている。

　　　　　　　　どこに行くも悩んで、一歩踏み出してもまた戻りを繰り返して結局は、風に

　　　　　　　　流されている。


　　　　　　　　「ですが、…その人は、私がずっと…片思いしている人なんです」


　　　　　　　　あまりの恥ずかしさで顔が熱くなるのが解る。

　　　　　　　　こうして誰かに話したのは初めてだ。


　　　　　　　　「へぇ、にそんな人がいたの。誰？まさか、うちの隊の奴らじゃないわよね？」


　　　　　　　　「ち、違いますっ！」


　　　　　　　　横道に逸れたことに即答で否定する。

　　　　　　　　本末転倒とはこのことを言うのだろう。

　　　　　　　　ここで私が好きなのはあなたの好きな人です、と言えたらどんなに良いだろう。

　　　　　　　　勿論、そんなことはできない。

　　　　　　　　彼女がそれ以上、口にしようとしないのでふざけるのもここまでにしようと思った

　　　　　　　　のか、一つ咳をし、またその妙に色っぽい唇を動かした。


　　　　　　　　「それって、弄ばれているんじゃないの？アンタって、真面目で意外とプライド

　　　　　　　　　高いし」


　　　　　　　　そう…願っていたはずなのに、自身も薄々想定していた答えが返ってきて

　　　　　　　　何故か愕然とした。

　　　　　　　　その後、松本が何かを言っているように見えたが、今の彼女にはどんな言葉

　　　　　　　　も届かない。

　　　　　　　　きっと、彼にとっては遊びのつもりだろう。

　　　　　　　　そんなことは解かっていたが、それ以上に罪が深くなる度にあの唇を恋い

　　　　　　　　　接吻しとうなる」

　　　　　　　　今夜も涼しい…けれど、今、抱きしめられている彼の体中はその表情と

　　　　　　　　違って熱い。

　　　　　　　　黒い衣を跡が残るくらいにぎゅっと握りしめ、天を仰ぐ。

　　　　　　　　すっかり臆病になってしまった彼女にとってはそれが唯一できる方法だ。


　　　　　　　　「では、もう一度してくれますか？……せ、接吻」


　　　　　　　　影が重なる時、市丸はひらひらと左手を背後で左右に振った。

　　　　　　　　それを見た誰かがはぁ、と深いため息を吐いたのは言うまでもない。

　　　　　　　　十六夜が満ちる頃、兎が二羽いることを祈りながら片思いに別れを告げた。









　　　　　　　　―――…終わり…―――









　　　　　　　　♯後書き♯

　　　　　　　　この作品は、「護廷十三隊長/副隊長に片思い夢企画」への参加作品です。

　　　　　　　　十番隊三席黒髪碧眼少女と言う設定で作らせて頂きましたが､お楽しみ頂けた

　　　　　　　　でしょうか。

　　　　　　　　初めての作品ですが、お楽しみ頂ければ幸いです。