うたかた

      新しい年も明け、緩やかに刻んでいたはずの砂時計はもう下旬を告げている。

      本土とは比べて平均気温が15度以上ある沖縄では当たり前だが、冬服を着慣れ

      ている人はあまり多くない。

      雪を見ずに大人になったと言う人も多く、それ故にが小学生の頃チラホラと熱帯の

      空に一分間舞った霙は当時の話題を浚った。

      温暖化の原因と言うより情報や旅行先で知っていたとしても、それが地元で見られる

      とは思っていなかったのが大半だったのかもしれない。

      直に雪に触れた事は指折り数えられるぐらいしかないから胸を張って威張れる

      ことではないが多少なら、東京生まれの東京育ちである自分でもあの寒さと冷たさ

      をまだ短い命のロウソクに刻みつけている。

      今思えば、あの倦怠感も嫌いではなかったと思い出せることに随分時間が流れ

      たのだと悟り、また感傷的になった。

      だが、アスファルトの街には少ない大地から背を伸ばした霜柱も吐く息の白ささえ

      も、ここにはない。

      あるとすれば、終わらない季節の中に取り残された違和感と孤独ぐらいだろう。

      しかし、それもまた今の自分には合っている気がして、この時から見放された

      島にしか居場所がない彼女に温度ではない寒さがショールのように身を包み、怒りや

      哀しみも虚ろに変えていく。


      「この世はうたかただ」


      そう言っていた人はもうこの世にはいないが、その言葉は今もの心に残っている。

      全てはうたかた……ただの幻想にしか過ぎない。

      例え、この本土から切り離されたように海に囲まれた沖縄とて同じ事だ。

      誰かがいつか誰かを殺し、被害者とその遺族は世間からいらぬ哀れみを買い、

      その反対に加害者やその繋がりのあるモノ全てをありとあらゆる行動で非難し、

      それがまた新たな哀しみを生む。


      「んっ…」


      放課後の比嘉中学校は帰宅部と所属部に急ぐ生徒達で校舎中が賑わい、理科室

      から漏れるその吐息は掻き消され、誰一人として気づく者はいない。

      開け放った窓から入る風の強さにモスグリーンのカーテンが踊り、その旋律が長身の

      男の腕で覆われた華奢な身体が抵抗しようと身悶えるのを最小限に抑える。

      唇に宛われた温もりを感じるほどに心が乱れ、先程まで考えていたことも今何を

      されているのかも簡単に理解することもできず、力任せに肩や顔で拒絶しても

      自分より力のある男子に叶うはずもなかった。

      押しつけられた壁のひんやりとした冷たさが名ばかりの冬服の薄い生地を通り抜け、

      まだ誰も許したことがない柔肌に伝わる。


      「っ!?」


      震える左手に力を添えて宙を舞ったが、相手の頬に当たる瞬時で手首を掴まれ、

      逆にアルコールランプ臭い机の上に押し倒されてしまう。

      同時に唇が離されたが、うまく抵抗が出来ないこの状態で何かを言葉にすることは

      肯定を指している気がして、少年と言う身分を越えた知念の目を直視すること

      ができない。

      「まな板の上の鯉」の気持ちはこんな感じだろうか?

      しっかりとした強さで握りしめられた手首が熱い。

      それは、彼の熱かそれとも…。



      は小学校六年生までは、極普通のどこにでもいる少女の一人だった。

      学校の帰り道に友達の家で宿題を済ませてそのまま夕方の放送が鳴るまで自宅

      に帰らなかった事も、気に入ったオモチャの前で何十分も座り込んだこともある。

      毎日が楽しくて、あの日が来るまで継続するものだと信じて疑わなかった。

      卒業式を間近に控えた二月下旬、真夜中の家を襲ったのは突発的な強盗や酔っ

      ぱらいと言うかわいいモノではなく、着々とこの家で育まれて来た罪だった。

      今思い出しても、その日の食欲も気力も失せるほど噎せ返る血の臭いが二階の

      自室で眠っていた彼女の目を覚まさせ、聞こえてくる階段を登る足音が次第にこちら

      に近づいてくるのをベッドの中で丸くなりながら聞いていた。

      助けて助けて、と先日家族で見に行った映画の主人公に救いを念じるが、当然

      そんな架空の人物が颯爽に窓から現れ、小脇に少女を抱き上げ家々の屋根を

      ぴょんぴょん跳び回って逃亡するなんて現実がある訳がないことくらい知っている。

      それでも何かに求めずにはいられないことを初めて知り、脳裏には以前サスペンス

      番組で窮地に立たされたヒロインが何故全速力で逃げなかったのかと莫迦にしたこと

      を思い出した。

      こんな場面に遭遇してしまえば、安易に身体を動かすことも上手く窓の鍵を開け

      ることも震えてしまってできない。

      いつもとは違う静寂に包まれた家にひたひたと低く響く足音に、何かが落ちる

      のも一緒に聞こえる。

      それが何だろうと考えるのも恐ろしく、いけないと思いながらも次第に薄れていく

      意識の中、ドアノブが静かに回されたのを聞いた気がした。

      次に気が付いた時は病院のベッドの上いた。

      以前、授業中に咳が止まらなくなって保健室で横になっていた時とは違い、

      オキシドールの匂いはしない。

      まだ夢の中にいるんだ、そう思い上半身だけを起こした少女が残酷な現実を知った

      のは、鈍い痛みを感じて右手首をよく見た時だった。

      ギブスのように包帯が何十にも巻かれてあるその場所は確か、気を失う前に

      カッターで切った所だ。

      尤も、夜目の利かない目で感触を頼りにしていたからどちらかと言えばなぞっ

      たと言った方が正しい。

      やはりアレは夢ではなかった、絶望と一緒に恐怖が震えとなっての身体を襲う。

      あの後、自分はどうなり今に至るのだろう?

      真実を知りたいのに知りたくない矛盾が小六の少女を無駄に焦らせ、わずかな

      理性でさえ失いそうになる。

      両親は?兄は?みんな無事だろうか?

      真新しいアイロンに掛けられた布団の匂いを肺一杯に吸い込む前に、個室のドア

      をノックして入ってきた中年の警察官達は、TVで見るモノよりも渋い顔で目を

      伏せていた。

      昨夜、家を襲ったのは、先日19歳になったばかりの実兄だった。

      彼は去年大学受験に失敗し、予備校に通い詰めたが今年も落ちてしまった。

      警察はそのノイローゼーだと考えているらしいが、実際は全く違う。

      「この世はうたかただ」と言っていた兄は、裏では両親を憎んでいた。

      それが何でだかは、妹の自分には教えてくれなかった。

      だが、その言葉が染みてきたのは沖縄在住の伯父夫婦に引き取られることが決まった

      頃からだ。

      まだ右手首の包帯が取れていないのを確認してから抱きしめてくれた伯母の

      温もりが何故かぎこちなく、それは自宅に帰ってからも変わらなかった。


      「どうするのよっ!もし、あの子まで暴れ出したらっ!!」


      「知るかよっ!親戚中で話し合って父親の兄貴である俺が引き取ることになっ

       たんだよっ。文句があるんだったら、子ども産めば良いだろう!!」


      伯父夫婦の養子として引き取られたその日の夜、客室に使っていた二階の部屋が

      新しく与えられたがなかなか寝付けずにいると、階段を伝って一階からそんな

      声が聞こえてきた。

      昔、家族で沖縄に旅行に来た時、この客室に泊めてくれた。

      あの時は優しかった二人が今は、30以上も歳の離れた小娘を怖がっている。

      笑おうとして歪めたはずの顔に何かが落ちたのを感じ、頬を触った指先から手の

      甲にも伝ったモノに初めて自分が泣いている事に気づいた。


      『……この世はうたかただ』


      以前、そう言っていた兄のどこか寂しそうな声が甦り、それが余計に涙を溢れ

      させる。

      今なら彼が言っていた意味が解るような気がして毛布を深く潜り、シーツの上に顔を

      押し当てるけれど、去年この家に遊びに来た時の誰かの温もりは当然残ってお

      らず、今では嗅覚の発達した犬にしか判別は不可能だろう。

      それから数日も経たない内、生まれ育った市の中学校に進学するはずだった彼女に

      予定よりも早く小学校から送りつけられてきた卒業証書が届いた。

      予想以上に薄っぺらく感じたそれを道端で拾った青い百円ライターで文字が見え

      なくなるまで燃やし、ポケットティッシュに包んでスーパーの可燃物専用の

      ゴミ箱に捨てた。

      何かが中に入っていると思われないために焼け焦げた証書を熱がなくなるのを

      待ってから素手で千切り、三枚ほどの薄い紙でカムフラージュして置いたから発覚

      する恐れは低い。

      それに誰かが焦げ臭いと疑った所で、それが卒業証書だと頭が働く大人がいる

      訳ないし、小さくティッシュで丸めたモノだから辿り着くのだって困難なはずだ。

      自分が六年間いたあの場所はもうない。

      現実に言えば被害者なのだが、加害者の家族でもある少女に知人や友人は当然

      以前のように接してこないだろうし、入学する予定だった中学校からも断られる

      だろう。

      ずっと続くと思っていたことがこうも簡単に消えてしまう、それはまるで水面

      に浮かんでは消える泡沫のようだった。



      知念寛とは、そんな絶望に気づき始めた比嘉中学校の教室の中で出逢った。

      彼は他のクラスメートと違って彫りの深い日本人離れした容姿をしていたし、その

      外見とは裏腹な無口な性格が第一印象だった。

      方言の問題もあり、教室に馴染めないでいたは必然的に同じ美化委員会を選択

      した知念と過ごすことが多くなり、そのお陰かは怪しい所だが今は少しなら相手の

      言っていることが解るようになれたが、相変わらず肝心の相方の事はその性格

      と男子テニス部に所属していることしか知らない。

      それなのに、彼はキスしてきた。


      「…………何故、俺には笑わない?」


      机の上に組み敷かれた時、知念はいつもより温度の低い声色で耳元に囁き、硬直

      する彼女を残して理科室を後にした。

      彼は何を言いたかったのだろう?

      確かに、記憶にある範囲では一度も笑ったことはない。

      それは3年間同じクラスだった知念にも言えることだ。

      学校でも自宅でも笑う機会はないのに、何を勘違いしたのだろう。

      指の腹で唇をなぞる。

      端から見れば、恋を覚え始めた少女の戯れだと思われるだろうが、夜の浜辺に

      は恐らく自分しかいない。

      黄昏時を大きく回った空には星々の中に交じり、下弦の月が青く光を灯している。

      あのまま名ばかりの自宅に帰ることができず、行き場を探していたら海まで

      来てしまった。

      太陽の熱気で温められた風も夜になると少し肌寒いが、スカートを気にしない

      でしゃがみ込んだ腰を持ち上げようとは思わない。

      今頃、家では自分が帰ってこないことを喜んでいるだろう。

      この世はうたかた、友人や周囲の人々も彼らも……そして、あの少年も。

      一種の「お年頃」と言う奴なのだろう、手頃な異性を実験台にして自分の欲求を

      晴らす身勝手な解消法をされたのかもしれない。


      「あれ…」


      そこまで考えて初めて自分が泣いていることに気が付いた。

      夜風から眼球を護るために溢れ出てきたモノかとも思ったが、例えそうであっても

      いくら親指の腹で拭っても、間を開けず視界が滲むことはそうないだろう。

      まるで、伯父夫婦の自宅に連れてこられた夜のようだ。


      「………………何を泣いている?」


      「ひゃっ!?」


      全く人影を感じていなかったのに、いきなり誰かに声を掛けられ、思わず悲鳴

      を上げてしまう。

      闇にも大分慣れた瞳に映った知念は、何だかとても疲れているように見えた。

      涙はあまりの驚きですっかり止まってしまったが、今度はどうしようもない緊張が

      胸を騒がす。

      自分が先刻まで考えていたことが彼に見梳かれてしまいそうで恥ずかしい。


      「あっあの…」


      いつもの沈黙も今はとても居心地が悪く、何も会話が思いつかなくてもと声に

      出してみたが、やはりネタがないとその先は続かなかった。

      ただ唇を噛んでいるのもあの感触を思い出してしまうのが恥ずかしくて俯いている

      と、いつの間にか回された大きな掌に背を押されて優しく抱きしめられる。

      他人にこうされるのは、もう何年ぶりだろう。

      先刻までうるさかった鼓動も一定の心拍数を刻んでいる気がする。


      「無事で良かった」


      「え?」


      抱きしめられたままの格好で問い返すと、放課後の理科室でのことがフラッシュ

      バックして顔を背けた。

      頬が熱いのに気づかないフリをして月を見上げるが、何億年も前から空にいる

      それはタイミング良くも群雲に隠れてしまっている。

      知念の話によると、伯父夫婦の家を訪ねたが、室内は真っ暗で何度呼び鈴を鳴らし

      ても誰も出てこなく、今の今までを探していたらしい。

      きっと今頃、二人で外食に出かけ祝杯を挙げているか、いつ自分達が狙われる

      か解らない恐怖よりか二階にいる恐怖を選んだかのどちらかだろう。


      「家の人も気にしている…」


      「はっ?何言ってるの?……あんな奴らが私のこと心配するわけないでしょ!」


      その刹那、二人しかいない浜辺に何かを軽く叩いたような音が短く響いた。

      彼女はあまりのことに赤く腫れた頬を手で押さえる事もなく目を丸くさせ、叩いた

      本人もその瞬時に驚いたような顔をしていたが、色黒の掌を見つめた後何かを

      思い詰めたようにぐっと握る。

      頬の痛みよりも何か別のモノが痛みを訴えている気がしてそれが次第に涙へと

      変わり、顎にまで伝った雫が雨垂れの軒下のように落ちた。


      「家族をそんなふうに言うな」


      ご尤もだ、彼の立場だったらそう言っただろうが、の場合は違う。

      売り言葉に何とやらで、口から滑り出てしまった真実が明るみになるほど胸の支え

      が消え、全てを吐き出した後に残ったのは居心地悪さだけだった。

      再び訪れた沈黙に耐えきれず胸を押し返そうとしたが、逆にその腕を引き寄せ

      られ、反射的に知念の顔を仰ぐ形になる。

      闇に慣れたとは言え、夜目の利かない彼女には彼の顔が怒っているように見えた。

      また何か怒らせるような事をしてしまったのだろうか、そう思いかけた耳には

      理科室で最後に聞いた温度差の低い声が胸を弾かれた。


      「俺は…俺だけはうたかたなんかじゃない!」


      「っ!?」


      入学当初は本土の人間と同じ委員になったことを面倒なだけだと思っていたが、

      一緒に過ごしている内にそれは恋慕に変化していた。

      昨日の件があるまではこの気持ちを知らずに終わったのかもしれない、と家ま

      で送り届けられた時に独り言みたいにぼやいた横顔は微かに赤かったように思う。

      部活を終えた帰り道、本の包みを小脇に抱えたがすれ違った散歩中の大型犬に

      振り返り、口元を緩めて笑っていた。

      それは学校内では全くあり得ないことで、彼女と割合一緒にいる時間が長い知念にも

      そんな表情は見た事がない。

      しかも、相手は自分の嫌いな犬だ、沸々と怒りが煮えてくるのを感じていると

      ろくに寝られず、放課後の理科室の掃除が終わって二人きりになるタイミングを

      狙って決行した。


      「俺は…俺だけはうたかたなんかじゃない!」


      そう言ってくれたことが嬉しくて今度は自分からキスを強請った。

      あの時強引に奪われたモノとは違って柔らかい唇に、ああそうかとようやく

      気が付いた。

      自分はうたかたを誰かに否定されたかったのだ、と…。

      今度は彼が目を丸くする番だが、どうか受け取って欲しい。

      この覚え立ての初恋が泡と化して消えない内に……。






      †終わり†

      #後書き#

      こちらは「lovesick ster」様への参加作品として作成させて頂きました。

      私の知念Dream小説は諸作なのですが、皆様に楽しんで頂けると光栄です。

      それでは、良い経験をさせて頂いたことを心より感謝しております。