私を忘れないで


      都大会も終わり、青学は束の間の安息を手に入れていた。

      優勝を治めた男子テニス部は、今は束の間の学生生活に戻り、授業に部活にと

      取り組む彼らは他の学生と変わらないただの少年達だった。

      不動峰との戦いで腕を負傷した河村はあれから数日経ったある日、学校前にある

            石碑を見ていた。

      それは、中等部の歩みを記録したものだった。

      いつもならこのようなものに目もくれないのに、今日は何故か無償に気になっ

      てこうしてマジマジと見つめている。

      もしかすると、ちょうどこないだTVの歴史番組で、第二次世界大戦を取り上げて

      いたことなのかもしれなかった。

      (『1945年アメリカ軍により施設接収される』って終戦した年じゃないか)


      「こんな所で何やってんすか?」

      彼が瞬きを何回か繰り返していると、背後からいきなり声を掛けられ驚いて振り

      返る。

      すると、そこには同じように右目を負傷した男子テニス部の新人、越前リョ―マ

      がこちらを見ていた。

      「あっ、おはよ。ちょっと、これが気になってさ…」

      「ふーん。…でも、良いンすか?もうすぐで、学校始まりますよ」

      彼に言われ、右手首にはめている腕時計に目を通す。

      「あぁーっ!?もう、こんな時間。越前、走るよ!」

      「うぃーす」

      二人でパタパタと校内を走っても河村の脳裏から何かが離れ様とはしなかった。


      いつもの練習が終了し、彼は家路を急いだ。

      何かスッキリしない気持ちは今も続いている。

      「俺、どうかしちゃったのかな?」

      そんなことをぼやくように言うと、遠くから飛行機のエンジン音が大きく聞こえた。


      (今日は、随分と低く飛んでいるなぁ…)

      河村がそんなことを思っていると、それと同じ様に誰かの足音が耳に入る。

      「危ないっ!逃げてぇ!!」

      「へっ?」

      彼が俯いた顔を上げた頃には走ってきた何者かによって、手首を勢い良く掴まれて

      一緒に駆け出していた。

      「ど、どうしたの!?」

      自分の目の前で疾走している人物に尋ねてみる。

      「訳は後っ!早くっ!!走って!!!」

      訳もわからず腕を引かれるまま走った。

      その人物はまるで防災訓練をしているかのように頭巾を被り、服の所々に継ぎ

      はぎがある。

      (農家の子かな?でも、この辺に農家ってあったかな)

      そんなことがずっと脳裏にあって、周囲の変化に気づこうとはしなかった。

      視界にやっとこの人物より大きな障害物が入り、二人はその影に急いで隠れる。

      「静かにしてて」

      「あっ、うん」

      促されるまましばらくの間沈黙を保ち続けた。

      すると、頭上からまた飛行機のエンジン音が世界を包み込む。

      横にいる人物の表情はまるで何かに怯えているようだった。

      それは飛行機が遠くに飛び去るまで続く。

      「……はぁ。もう、行ったみたいね」

      「ねぇ、どうして走ったんだい?」

      「あなた、自分の置かれていた状況がわからなかったの!?」

      胸を撫で下ろした人物に尋ねると、逆に問い返されてしまった。

      「えっ?俺、何かした?」

      河村が不思議そうに指差すのを見た人物は厭きれて深くため息をつく。

      「幸せな人ね。あなた、B29ってわかる?」

      「あぁ、第二次世界大戦で使われた飛行機のことだろ?」

      「『使われた』じゃなくて『使われている』よ。さっき、あなたはそれに狙わ

       れていたのよ」

      「まさか。だってあれは第二次世界大戦時に使用されたきりだよ?」

      「あなた、何処か頭でも打った?それともこの暑さで頭がおかしくなった?」

      顔をマジマジと見つめられ、頭に手をやった。

      「じゃあ、今、何年だか解る?」

      「2004年でしょ?」

      「何で、59年足しているのよっ!今は1945年八月一日よ」

      「そんな、馬鹿な!俺は80年代に生まれたんだよ。はっ!?もしかして、俺、

       タイムスリップしたのか?」

      それなら理解できる。

      だが、そうなら何故1945年にタイムスリップしてしまったのだろうか。

      今更のように辺りを見回すと、信じられないほどに野山に囲まれていて所々に

      茅葺屋根の民家があった。

      このようなものは青春台にはない。

      空には野鳥が鳴きながら寝床へ飛び急いだ。

      「ともかく、今日は遅いし私の家に来なさい。私は一人暮らしだから返って

       歓迎するわ」

      日も暮れて街灯がないこの時代は、太陽が山の陰に姿を消すと、暗闇に包まれる。

      その代わりにこの地を照らすのが、月や星などの闇の住人であった。

      彼が助けられた人物は先程、二人が助けられた障害物の中に案内してロウソク

      に火を灯す。

      すると、そこが民家の一つだと、今更のように気づいた。

      「助けてくれて、どうもありがとう」

      「別に、良いのよ。それにしてもあなたが本当に未来からやって来たの?」

      その人物が、顎の辺りに防災頭巾を蝶々結びで止めている紐をゆっくりと解く。

      「あぁ、間違いないよ。どうしたら、信じてくれるかな?……あっ、ちょっと

       待ってて!」

      河村はそう言うと、今まで背負っていたテニスラケットを入れているケースの

      ファスナーを開けた。

      その内に解き終わった人物は、頭を左右に振って息を吐く。

      「どうでも良いけどね。私、夕飯、持って来るね」

      「あっ!?ちょっと待って!!これを見て欲しいんだ……っ?」

      そう言うと自分の物を手にして振り返ったまま目を丸くした。

      「どうしたの?」

      「いや…そのぉ」

      口篭もる彼を見て、タンスの上に置いた防災頭巾を取ったことで、姿を現した腰まで

      伸びた黒髪に手で触る。

      「あっ、そうよね?これを被っていたから老若男女の区別なんて余りつかない

       わよね。私はこの通り、麗しの十五歳よ」

      「あっ、俺と同い年だ。俺は、河村隆って言うんだ」

      「っ!?へ、へぇ〜……じゃあ、隆君だね。えっ、それって庭球のっ!?」

      「うんっ!俺のテニスラケットだよ」

      「ダメよ!戦争中は英語を使っちゃいけないの!!何処で日本軍が聞いている

       か解らないわ。英語を使っている所を見つけたら大変なことになるわよ」

      「あっ、ゴメン!!」

      彼女の言葉で慌てて口を塞ぎ、しばらくの間二人に沈黙が訪れた。

      ロウソク一本だけ灯した家の中を上下左右に視線を動かしたが、人の気配は無く

      ただ虫の音が耳を支配する。

      「……どうやら、聞かれなかったようね」

      そう言って安堵の息を吐くと、河村の振るえる右手からラケットを取った。

      「凄い。これ、木製じゃないわっ」

      言葉を失っているにとっては、こちらの方がショッキングだったようだ。

      「これで、僕が未来から来たって信じてもらえるかな?」

      それを見つめたまま動かない彼女に不安そうに訊いた。

      「えぇ。でも、どうやってここに来たっていうの?」

      「それは……わからないんだ。ただ、俺は普通の中学三年生で家に帰ろうとしただけ

       なんだ。そしたら、急に飛行機の音が聞こえて…」

      「私が訳もわからないあなたを命辛々引っ張ってきたってことね」

      「ごめん」

      彼がそう呟くと、良いのと呟いて首を横に振る。

      「さぁ!それじゃあ、今夜は楽しくなりそうね。隆君から未来の話をたっぷり

       聞けそうだもの」

      「俺の知っていることなら何でも。でも、俺はまだ中学生だから詳しくはわから

       ないよ」

      「それでも良い。私ずっと一人きりで寂しかったの。だけど、あなたが来て

       くれて嬉しいのよ。私」

      そう言ってが微笑みドキドキした。

      同い年といっても何だか大人っぽい彼女がすごく遠くに感じられる。

      「でっ…でも、どうして一人きりなんだい?」

      すると一頻り笑っていたことが嘘のように消え去り、涙の粒が頬を伝った。

      「えっ!?俺、何か変なこと訊いた?」

      それに慌てた彼を見て、首を横に振りもう一度笑顔を浮かべる。

      「ごめんなさい。あなたには、関係ないのにこんなみっともない所を見せちゃって」

      「大丈夫だよっ!何があったか、話してくれるかい?」

      「私にはね、昔は家族がいたの。父と母と兄四人と姉一人と私と妹と弟が一人

       ずついたの。でも、戦争が始まって父と兄四人は連れて行かれて戦死、妹は爆風で

       体がばらばらになって死に、母は過労死、弟は栄養不足で衰弱死、最後に残っ

       た姉は従軍慰安婦にされそうになり自ら命を絶った。私には同い年の許婚が

       いるんだけど、特攻隊に配属されたからもしかしたら、明日には逝ってしまう

       かもしれないの」

      口にする事も辛かったのだろう、話しが進むに連れて涙を瞳から溢れさせた。

      心の中でパニックを起こしながら、の顔を自分の胸に押し当て背中をゆっくり

      擦った。

      「ごめん。辛いことを思い出させて……本当にごめん。……だから、そんなに

       泣かないでくれ」

      彼女がこんな表情をするとは予想外のことだ。

      河村はせいぜい、事故で家族を亡くしたぐらいしか想像できなかった。

      そんな自分が腹立たしくて瞼を強く閉じて、彼女の体を抱きしめる。

      「…隆君、痛いよ。ごめんなさい……心配かけちゃって。もう、大丈夫だから」

      しかし、彼はそんな言葉が耳に入らなかったのか、そのままの体を抱きしめ

      続けていた。

      他人を泣かせた自分が心底憎いと思ったことは、生まれてから一度もなかった。

      「さん、ごめん…」

      彼女を抱きしめる腕に自然と力が入るのが解った。

      「隆君?」

      少女は流していた涙を忘れてしまったかのように瞳を瞬きさせる。

      「あっ、ごめん!また、俺、こんな勝手なことを…」

      その様子に我に返った河村は慌てて腕を放した。

      その所為なのか、胸の鼓動が激しく波打っている。

      「あっううん。そんなんじゃなくて……ありがと…」

      「へっ?」

      「だって、隆君が抱きしめてくれたから…私、今独りじゃないんだって実感し

       ちゃった。あっ!ごめんね、ご飯作ってくるからちょっと待ってて!!」

      パタパタと奥の方に走るを見送ると、何故だか体中の力が抜けて座り込んだ。

      胸に大きな掌を当て、深呼吸を一つする。

       しかし、明らかに正常ではない体内のポンプがリズムを高鳴らしていた。

      「どうしたんだ、俺は?俺は、ただ彼女を慰めたくて…」

      そんな言葉を口にしたとしてもこの状況はなかなかもとに戻りそうはない。

      わけもわからず、少女の姿を消した方を見つめた。

      彼女を思い出せば思い出すほど覚えたての痛みが彼の体中を走る。

      それは大きな歪であったりドアを激しくノックするよう、小刻みに河村を

      襲ってきた。

      「た〜か〜し〜君!ご飯、できたよぉ!」

      そんな思いを知ってか可愛らしい声が少年を襲う。

      「あ…あぁ、今行く!」

      ともかくを不安がらせないよう、先程までの平静を保つように心がけた。

      暗い道を彼女が灯したロウソクを頼りに長い廊下をゆっくりと歩く。

      台所だろうか、先程歩いた場所の近くから水が力なく落ちる音がした。

      「こっちだよ」

      ほのかな明かりが灯った部屋から彼女の声がする。

      その声に覚えたての感情を抑え、個室の中に入った。

      部屋の中は薄暗く、ロウソクの明かりを借りて本当の姿がかろうじて解るくらいだ。

      「ごめんね。今はこんなものしか私にはできないの」

      そう言ってすまなそうな顔をするの前には水に通した菜のものと蒸かした芋が

      あった。

      「ははっ…、気にしなくたって良いよ。それよりこれ何?」

      頭の後ろに手をやると、水に通した菜っ葉のようなものを指す。

      「ん……まぁ、食べれるとは思うわ。さっ、少ないけど食べて頂戴」

      お茶を濁すような笑顔に不安を感じながらそれを口に運んでみた。

      「どう?」

      心配そうに彼を見つめる彼女がまるで、自分で実験をしているのではないかと

      疑いたくなる。

      「えっ?どうって……大丈夫だけど…」

      「良かった〜。隆君が死んじゃったらどうしようか心配だったの」

      そう言うと、はほっと胸を撫で下ろした。

      蒸かし芋を皮がついたまま頬張る。

      その姿に少々の疑問を抱きながらパクパクと箸を進めた。


      「ねぇ、さん」

      四畳の部屋に布団を敷いて隣にいる彼女に話し掛けた。

      今の時代は食べ終わると直ぐ寝るということでこうして横になっているが、現代人

      の彼はなかなか寝付けないでいる。

      「何?隆君」

      しかし、それは彼女も同じ事でその声に応対した。

      ロウソクの火は消したので今、お互いがどんな表情をしているのか解らない。

      「ん。さんの許婚の人って、どんな人かな…って考えてたんだ」

      「っ!?」

      先程の応対とは違い、この声には何も返って来なかった。

      「どうしたの?」

      「……」

      そう呼びかけても返事はない。

      いくら何でもこれはおかしいと思った彼は隣にいるはずの彼女を手探りで肩を

      触った。

      「さん?」

      「……っく」

      「へっ?」

      先程のように頬に掌を添えると、不意に何かが当たる。

      それは…、二回目の彼女の涙……。

      「さんっ!お、俺、また、余計なこと言っちゃった!?」

      河村が慌てていると、彼女が近づくような気がする。

      だが、それは、単なる気のせいではなかった。

      「へっ?」

      彼がまた、そう拍子抜けした声を発すると、が胸の中で泣いている。

      気づけば、彼は彼女に抱きしめられている格好になっていた。

      「さん…」

      そう呼びかけてもずっと、彼女は泣き続けている。

      長く伸びる漆黒の髪と小刻みに震える背中がまるで、それが生きているかの

      ように見せた。

      自然と胸が高鳴ってくるのが解り、ぎこちなくを抱きしめたことに自分ながら

      驚く。本来、河村はラケットを持たない限り、極力強気な姿勢を取ることをしようと

      はしなかった。

      それは、自分がそうなることでまわりの皆に迷惑を掛けたくないからだ。

      それなのに、今はこうして女性を慰めるように抱きしめていた。

      胸に押し当てた少女の顔を感じると鼓動は半音上がり、先程とは異なる調べを

      奏でる。

      「泣かないで…よ?俺も……そんなさんを見ているのは辛い。……だけど、

       俺はさんが泣き止むまでこうして傍にいるから思いっきり泣いても良いよ?」

      「隆君っ」

      「俺がっていうか……彼が戻ってくるまで俺がさんのことを守るよ」

      「でも、それじゃあ、あなたの本当の世界はどうなるのよ?私のためなんかに

       隆君の一生を無駄に出来ないわ!」

      河村の胸からキッと、顔を上げた。

      意志の強そうな眉が一度掲げられた場所から動こうとはしない。

      真っ直ぐに結ばれた唇が何故だか艶やかに感じ、彼を誘惑した。

      息を飲み込むと、落ち着けと、自分に言い聞かせて至って平然とした顔で口を開く。

      「帰り方は解らないんだ。もしかしたら、ここへ来た時みたいに明日の朝には

       元の世界に戻っているかもしれない。それでも、俺は今いる時間だけでもさんを

       守りたいんだ。ダメかな?」

      背の低い彼女を見下ろすように俯けば、の火照った顔を近くに感じた。

      「ど、どうしたの?」

      何回も瞬きを繰り返してようやく彼女に聞く。

      彼女はそれを聞くと、さらに顔を赤く火照らせた。

      「隆君…」

      「な、何だい?」

      「やっぱり、あなたってやっぱり、彼に似ているわ」

      「彼?彼って、許婚の?」

      当たり前の事なのにそう、聞かずに入られない。

      河村の胸の中はこの少女を独り占めしたがっていた。

      しかし、そんなこととは思いもしないのかは、恥かしげに頷く。

      「えぇ。だからかな?こうしていても違和感がないの。もしかしたら、私の

       彼は隆君の遠い親戚に当たるのかもしれないわね」

      泣き笑いのように笑って見せるが、瞳は悲しみを映したままだった。

      「急にごめんね。……でも、本当に似てるの。ううん、似てるって言うより

       生き写しって言った方が良いかしら?最後に抱きしめられた感触と同じ…」

      「さん…」

      何故だろう、河村の胸は二つの思いが渦を巻いている。

      一つは、先程彼女を自分のものにしたいという気持ち。

      そして、もう一つは、今もこの少女の胸で生き続けている会ったこともない男性への

      嫉妬だった。

      (嫉妬?どうして、俺が嫉妬しなければならないんだ?俺は今日、会ったばかり

       の さんにそんな気持ちを持っているわけないじゃないか)

      唇を強く噛み締めて自問自答してみるが、答えらしい答えは見つからない。

      ただ、無償に彼女を欲しがっていた。

      少女は彼を見つめたまま目を細める。

      「ごめんね…でも、今はこうさせて」

      「っ!?さん!!」

      彼女は自らの腕に力を加えて身動きさえできないほど体を密着させた。

      体が一つになり、お互いを強く感じる。

      微かな息遣い。

      体の隅々から火照り出す体温。

      重なることで鼻を掠めるお互いの温もり。

      意識しなくとも自然と高鳴る鼓動が伝わっていく。

      「さん」

      不意に呼ばれた少女は胸から顔を持ち上げる。

      「なぁに?隆…」

      その言葉の続きを彼女は言うことが出来なかった。

      「んっ!?」

      河村の唇がそれを阻止したからだった。

      彼女は瞳を大きくさせ、彼の顔をじっと見る。

      邪心のないような彼と今、唇で繋がっていた。

      思わず、瞼を下ろそうとした少女の脳裏に許婚の姿が映る。

      親同士が友人同士でもし、両方に男と女が生まれたらその子を結婚させるとそんな

      軽はずみな許婚だったが、二人は幼少時代から仲良くそんな仲になるのはごく当たり

      前だった。

      彼が中学校に通った日、彼女たちは正式に「許婚」になった。

      『…幸せにするよ』

      「いやっ!」

      「っ!?」

      彼そっくりな少年が脳裏で優しく微笑み、閉じようとした瞳を見開いた拍子に思いっきり

      突き飛ばす。

      河村は豪快に背後の障害物にぶつかり、後頭部を軽く打った音が短く聞こえた。

      魔が差したと、自覚している。

      いくら似ていても大好きな彼以外の男性を受け入れてしまった唇を掌で覆った。

      まだ、感触が残っている。

      「どう……して…?」

      「……」

      そんな言葉より謝罪を述べるべきだろうに、それを聞かずに入られない。

      この少年と出会った瞬間、彼女は面影というレンズ越しから一目惚れをしていた。

      暗闇の中、彼がいるだろうと思われる場所に近づく。

      「隆君?」

      手探りで頬を軽く触ろうとした。

      すると、伸ばした腕を力強く引き寄せられ、再び、胸の中に納められる。

      「さん…」

      彼の胸に耳を寄せると鼓動が激しく脈打っていた。

      呼ばれるままに見上げると、顔を蒸気させる少年と目が合う。

      彼女も知らぬ間に体中の力が入らなくなり、河村にすべて預ける形になっていた。

      「…さん」

      荒くなった呼吸を整えると、もう一度、彼女の名を呼ぶ。

      「何?」

      「俺、さんが好きです」

      「っ!?」

      「彼が君の心の中にいても、俺は、さんが好きです」

      光のような瞳の輝きしか彼女にはわからなかったが、それには真実しか映っていな

      かった。

      「わ、私、あなたに面影を見ているだけなのよ?それでも私のことなんて想って

       くれるの?」

      「彼のことを大事に想っているっていう証拠じゃないか。それより他人

       の彼女を好きになる俺の方がおかしいんだよ」

      そう言って苦笑したが、すぐに止んでしまう。

      少女が自らの唇を押し当てるように、彼の唇を塞いだ。

      思えば、この行為からすでに面影と言うレンズ越しから河村隆と言う男性を見始め

      たのかも知れない。


      「隆くぅ〜ん!起きて!!」

      そんな声が耳を掠めると、勢い良く起き上がって辺りを見回した。

      あれから気がつけば互いの唇が腫れるほど口づけた。

      「んっ」

      何度目かに彼女の口内に篭った声にどきっとしながら理性を保っていたが、どうやら

      いつの間にか寝てしまったらしい。

      開いた視野にはどう見ても自室とは違った空間が広がっていた。

      両親の寝室に置いてあるような桐タンスが何台かある。

      良く見れば物置のようにいろんな物が室内一杯にあった。

      昨夜は良く転ばなかったなと、自分に感心して障害物を跨いで呼ばれた方へ向かっ

      て歩く。

      大きく欠伸をすると、唇にまだ真新しい感触が残っているのに気がついた。

      それは当然、熟睡中に彼が無意識に作った形ではない。

      そっと指で触り、昨夜の出来事を夢ではないことを確信して安心した。

      もし、あれが夢ならば河村はそこまでに欲情していたことになる。

      強気な彼女の心には繊細で傷つきやすいもう一人の少女がいた。

      そんなにどんどん惹き込まれて次の瞬間、有無も聞かない内に唇を奪っていた。

      自分だけを見ていて欲しい。


      正直言って、自分より他の男のことを想っているのが許せなかった。

      そう思うと、彼の前からこの少女を浚ってみたい気持ちで一杯だった。

      危険な考えだと知っていても、この想いを止める気はなかった。

      いや、止められなかった。

      会ったこともない同性に知らない間に妬ましいほどの嫉妬を覚える。

      『そんなに悲しい顔をさせるなら…そんなに寂しいなら…俺が君を守る。だから、

       泣かないでっ』


      何度も抱きしめ合いながら心の中でそう、呟いた。

      彼女の綺麗すぎる涙に邪心が溶けていくのが甘い痛みと共に体中へ伝わっていく。

      本来、この少年は他人の所有物などを大して欲しがらない温厚な性格である。

      だが、今は違った。

      覚えたての愛しさが胸を締め付け、を必要以上に求めている。

      『恋は盲目』とはよく言ったものだ。

      昨夜のように長い廊下を渡りきると、乱れた髪のまま朝食の準備をしている少女がいた。

      それは自分がさせたものかもしれないと思うと、余り意識しなくても頬が赤く

      火照り出す。

      「お、おはよう…」

      「あっ、隆君。おはよう、良く眠れた?」

      背後から声を掛けると、が満面の笑みで振り返ってくれた。

      その顔だけでもう一度、唇を味わってみたかったが、そこはぐっと堪える。

      彼女の中には彼がいるのだから。

      良い気分ではないけれど、この少女を大切に想えば想うほど、彼女の気持ちを尊重

      しなくてはいけないと言う自分がいる。

      笑みを浮かべながら昨夜は薄暗くてよく見えなかった木製のちゃぶ台の前に座った。

      今朝は蒸かし芋だけが皿の上に乗っている。

      「ごめんね。隆君が昨日、美味しいって言った草が見つからなくて…」

      それをじっと見つめる彼に、すまなそうに俯いた。

      「別に良いよ、気にしなくて。ちょっと青臭かったけど」

      「ごめんなさい」

      そう言うと、更に少女は背筋を丸くする。

      またしても失言を言ったのかと、おろおろしていると、が苦笑しながら顔を上げた。

      「でも、今は大事な食料なの。どんなものでも食べていかなきゃ生きていけないの。

       だから、隆君が未来の世界に帰るまでは辛いだろうけど、食べて、ね?」

      彼女が一言口にするたび、河村の胸が締め付けられていく。

      「そんなっ!俺、元の世界なんかに帰らないっ!!ずっとここでさんと暮らすんだ」

      険しい表情を作ってみるが、少女は笑っていた。

      「隆君…。でも、あなたは全国に行く夢があるんでしょ?なら、こんな所に居ちゃ

       駄目よ」

      「でもっ!」

      「さぁ、これを食べたら今日は隆君にも働いてもらうわよ」

      「えっ?」

      話題を急に変えられ、瞬きを何回も繰り返す。

      彼女は先程までの哀しい顔を微笑みの中に隠して言った。

      「働かざる者食うべからずってね。今日は畑に行きましょう」


      二人はその後、家から何分もしない彼女の所有地であろう畑に出かけていった。

      外出する際の服装はの父親の物を拝借したが、土地勘の全くない彼はその後を付い

      ていく。

      半ば男装に近い年頃の少女の姿を目にすると、どんなに今が過酷な時代なのかが解って

      見ないふりをしてみたかった。

      だが、今、この胸に宿った愛しさを前にそれもできない。

      ようやく気づいた気持ちは少しズレたけど、には婚約者という失恋の未来があった。

      それでも、この世界にいる間は彼の変わりに彼女を守っていこう。

      そう、心の中で誓った。



      「わぁ〜!本物のお寿司みたい!!」

      その夜、今日の収穫で、河村がもっとも得意とするすしを握って見せた。

      まだまだ未熟だと解っていても何かで彼女に恩返しをしたかった。

      目の前でどんどん握られて行くのを見守っていたは目を輝かせている。

      この時代ではそれは当たり前のことなのかもしれないと思うと、やはり、胸が痛くなる。

      「へっへ……俺ん家、寿司屋なんだ」

      「えっ!そうなの!?すご〜い、私なんか俵おにぎりになっちゃうよ」

      「さん。……俵おにぎりとすしは違うんじゃないかな?」

      「あっ……そう……だよね?」

      彼女は一瞬、罰の悪い顔をしたが、彼と目が合うと照れたように笑う。

      それにドキドキしながらも笑い返す。

      そんな当たり前の日常が続くと、その時はまだそう思っていた。


      毎年、TVで放送されるのを直に耳にしたのは、畑仕事から帰ってきた時だった。

      それを聞いた途端、泣き崩れたを抱きかかえた彼には何を指しているのか熟知していた。

      いや、覚悟していたと言った方が良いのかもしれない。

      たくさんの代価を払ったのにも関わらず、敗戦。

      本当は誰も戦争など望んでなどいない。

      誰が人並みに言葉を覚えさせ、個人の才能を持つ子供を殺したいと思う親がいる

      だろうか。

      この時、どこの家でも彼女と同じように泣き崩れたことだろう。

      「さん、大丈夫だよ。彼は……彼だけは帰ってくるよ!」

      「そんなこと言わないでっ!父達も必ず帰ってくるわよ!!」

      「そ、そうだね。ごめん」

      「あっ、ごめんなさい。私、つい、むきになっちゃって…」

      「いや…俺こそごめん。縁起のないこと言っちゃって」

      「ううん。隆君は、私を慰めるつもりで言ってくれたんでしょ?なら、私が悪いわ。……

       でも、今はこのままでいさせて落ち着くまで」

      そう言うと、は河村に抱きとめられたまま顔を埋めた。

      「…うん」

      それをしっかりと支える彼の腕に力が入った。

      こんな時、どうすれば自分の大切な人の心が温まるのか必死に考える。

      どうすれば、彼女が元通りに大好きな笑顔を見せてくれるのか。

      「さん」

      「何?…っ」

      河村が不意をつくように彼女の名を呼ぶと、幼すぎる口づけが唇に触れた。

      「ごめん。でも、俺、さんが好きだ」

      「隆君っ?!ダメよ。私には彼がいるし、その前にあなたは…」

      「解っているだけど…」

      「私はあなたが生まれてくる頃にはこの世にいないかもしれないのよ」

      「そんなこと解っているよ!だけどっ……だけど、俺は十五日間で君のことが好き

       になったんだ。こんな理由じゃ、ダメなのかい?」

      「隆君…」

      彼の気持ちには、嘘はない。

      それは彼女自身も良く知っていた。

      だけど、許婚がいる前に許されない想いである。

      河村は未来から来た少年であって、彼から見てみれば過去の自分なんて時代を

      超えすぎている。

      しかし、だって所詮、一人の女だった。

      あの人に瓜二つな少年があの人と同じ声で自分に愛を囁いている。

      ずっと我慢していたものが崩れ落ちる瞬間。

      「私も…」

      「あっ」

      彼女が重たくなった唇を開いた瞬間にそれは起こった。

      河村の体が青白い光に包まれ、あっという間に消えてしまったのだ。

      今まで強く抱きしめられていた形になっていたため、急に支えを無くしたの体は木製の

      床に激しい音を立てて倒れた。

      だが、それ以上に痛かったのは、自分の不甲斐なさである。

      結局、伝えられなかった。

      彼と過ごした15日間に何も感じなかったことなど一度もない。

      初めてあの少年と出会った時や「河村」と言う名前を聞いた際も、あの人を感じて

      いたから…。

      「私も隆君のことが好きだったよ・・」

      彼女が涙を拭わずにうなだれていると、遠くでフクロウの声が耳に入った。

      だが、今のにとってはそれはまるで、鵺の声に聞こえる。

      一人部屋に残された少女は声を上げて泣いた。


      「おーい!隆。いつまでも寝てねーでさっさと出て来い!!」

      「んっ…」

      耳に入るのは懐かしい父親の声。

      今まで抱きとめていたはずの女性の温もりは腕の中にない。

      「さんっ!?」

      いつの間に戻ったのか、暗闇に閉ざされた自室の中へ愛しい女性の姿を探していた。

      しかし、そんな存在は初めからいない。

      「クソっ!!何でこんな時に帰って来たんだよ!!!」


      ダンッ!!!!

      自室の壁を穴が開くのではないかと心配になるほど強く殴った。

      伝わってくるのは、激しい怒りと切なさへの痛み。

      彼女とこんな別れ方をしたくなかった。

      願わくば、彼女と共に戦後の時代を生き抜いてみたかった。

      「クソッ…クソッ!……クソッ!!」

       悔やんでも悔やみきれない。

       自分勝手な思い込みかもしれないが、とて一緒に暮らしたかったのではないだろうか。

       なぜならば、河村が最後に見たのは、いつもの大人っぽさではなく、同年代の少女

       が今にも壊れそうな顔だった。

      血だらけの右拳を今度は畳に力無く落とす。

      その際、ぼとりぼとりと鈍い音が涙と一緒に降った。

      「おいっ!隆!!でけぇ音、出すんじゃねぇ……ぞ……ってお前、どうしたっ!?」

      声を殺して泣いていると、数分も経たない内に先程の父親が自室の襖を激しい音を

      立てて開く。

      この部分は、やはり、血は争えないと言ったところだろう。

      だが、最初は鬼の形相で畳の上に四つん這いの姿勢だった息子の胸座を掴んだ際には、

      いつもの父親に戻ってしまった。


      「放してくれよ、親父。今は、誰にも会いたくないんだ」

      「そんなこと言ってもなぁ。今日は、ばぁちゃんの命日だって知っているだろ?ほら、

       さっさと食っちまえよ。残りは、隆だけだぞ。飯を食いたくねぇ時でも今日は食って

       もらわなきゃいけねぇ」

      先程まで腕の中に彼女がいた感触はまだ腕の中にあった。

      あれから95年後の世界、勿論、どこに行ってもアノ甘い痛みを胸に宿らせた少女

      には逢えない。

      「なぁ……親父。ばぁちゃんの旧姓って解る?」

      「ん?確かぁ……旧姓はだったかな?それがどうした?」

      しかし、少年の淡い期待など戻されてしまった時の中では無力だった。

      打ちひしがれた河村の瞳からは再び視界を曇らせ、木製のカウンターを静かに濡らし

      始める。

      自分の出生に関わる人に恋をしてしまったことを悔やんでいるのではない。

      むしろ、その逆で、生前の彼女に逢わせてくれたことに感謝していた。

      だが、この痛みが思い出になるまで、今はこうして泣き続けていたい。

      それが、を愛してしまったことへのささやかな償いならば、迷わず選ぶだろう。

      自分の傍で咲いていた花をキレイだったといえる日まで…。



      ―――・・・終わり・・・―――



      ♯後書き♯

      皆様、こんにちは。

      今回は、「光と闇の間に…」には、取り扱わない悲恋系の話にしてみました。

      ちょっと…というよりかなり河村君に悪い気を感じますが、これには、私がなぜ、

      小説を書こうとした成り行きの元に誕生しました。

      実は、この作品は、私の母方の祖母に捧げた話です。

      かと言って、彼女の若い頃がモデルというわけではありませんが、私は、幼い頃

      おばあちゃん子でした。

      ですが、その祖母が他界し、いつか必ず彼女をヒロインに私の作品

      でずっと傍にいてもらおうと考えたのが始まりでした。

      まぁ、その前からも絶対に書きたいという信念はありましたが、それを一層強くさせた

      のがこの事がきっかけでした。

      それでは、皆様のご感想をお待ちしています。