「はぁ…」
長い梅雨も過ぎ、初夏の陽気が次第に足音を立てて来る頃、一つの邸からそんな
ため息が吐かれていた。
水干に包まれた体を縮めた体を抱きしめるの目には、今朝から空を覆う雲も
邸内を行き交う女房達の姿も見えなかった。
軒下に腰を下ろし、時々素足を宙に泳がせてみるが思案は答えを追求するばかりで、
ますますその数は更新されていく。
心優しい小さな星の一族達も心配してはくれたが、こればかりは彼らに頼れない。
二人は芯のしっかりした性格とは言え、実際は十歳の何も知らない子供だ。
こんなことを相談出来るはずがない。
こうしている間にも、影のくすくす声が聞こえてきそうで耳を掌で覆うが、脳裏
に過ぎる走馬燈まで消せることはできない。
幸鷹さん…っ!
愛しい人の名を強く呼んでみるが、一端迷い込んだノイズの中には光は差さない。
初めてこの京に来た頃より伸びた髪は背を滑り、肩から落ちる頃にはそれと同じくし
て重力に負けた一粒が短いスカートから伸びた彼女の艶めかしい足を濡らす。
それはようやく梅雨明けした京に降り出した初夕立ではなく、の顎を屋根にして落ちる
雫にはもう、神々しさはない。
それでも彼女を護っていた八葉にとっては何にも代えることは出来ない唯一の存在
であって、それは今でも変わらない。
それは、信頼でもあり誰かにとってはもっと、深いものなのかもしれない。
だが、が最後の戦いに選んだのは、同じ白虎である翡翠に「堅物」と言われていた
藤原幸鷹で、彼も勿論それを望んでいた。
なのに、今はこんなにも苦しい。
幸鷹の好きな淡萌黄の文を出しても、好きな侍従の香を衣に薫いても足りない。
考えることは彼のことばかりで、毎日でも傍にいたいと言う気持ちが彼女をより
我が儘にさせる。
この悩みは誰にも言えず、泣いては塞ぎ込み泣いては塞ぎ込みを繰り返すだけだ。
歩も前には進まない勿論、本人には伝えてはいない。
こんな自分は幸鷹に嫌われてしまうのではないか、そんな恐怖がの唇に偽りの紅
が差されてある。
膝を抱える頃、女房とも紫や深苑でもない異なった足が彼女の傍に佇んでいる
ことを当の本人は気づきもしなかった。
「今日は、どこへ行きましょうか?」
「ん〜…、あ、今日は神楽岡に行ってみませんか?そろそろ藤の花が見頃の時期です
よね?」
梅雨の中休みを見計らってやって来た彼に少し困った顔をするが、数秒も経たない
内にそれは笑みへと変わる。
それは、まるで高貴な花が蕾から恥ずかしげに咲き出したかのような光景と似ている。
幸鷹はそれを眩しそうに見て微笑む瞬間が彼女もまた、好きだった。
百鬼夜行と戦ってから半年が過ぎた。
龍神に呑まれるかもしれない恐怖から救ったのは、鈴の音よりも尊い彼の声だった。
を支えていた白雲は消え、その体は宙に優しく投げ出され、幸鷹の掌は自然とその
温もりを求めて動いた。
自分が生まれてから16年間育った世界を捨て、この京に留まることを決めた時、
全く怖くなかった訳ではない。
ただ、繋いだ掌が温かかったから……そんな理由だけでは選考の基準に反する
だろうか。
あれから彼が忙しくない時は二人でどこかに出かけたり、文を交換したりしている。
逢瀬の最中でも言いにくい言葉は植物に染め上げられた紙に添えると、向こうも
何かしら抱いていることが解り、今更次に逢うことが恐くなるのが屡々ある。
幸鷹は自分より大人だからきっと、他愛のない一言でも何かを感じ取って本人も
知らないことを推測し、いつかカマを掛けてくるかもしれない。
そんなことを考えながら結局、いつも彼のことを想いながらため息を吐いているこ
とに気づき、泣き笑いのようにその可愛らしい唇を緩めた。
この恋は一方的過ぎるほど、自分が幸鷹に入れ込んでいる……そう思うのは、やは
り、年の差というのも関係あるだろう。
「……」
彼に逢う度に恋をしている自分が恥ずかしい。
そんな事実を本人に知られたくなくて今宵も侍従の香を薫こうと立ち上がれば、
どこからか女性のひそひそ声が聞こえてきた。
「この邸に通われて早、半年……あの方は何をお迷いなのかしら?」
何だ、また月を見上げながら誰かが自分のように恋に悩んでいるのか……
そう、思おうとした彼女の耳に今度は違う女性の潜めた声が聞こえてくる。
「神子様は、そんなに身持ちの堅い方なのかしらね」
私っ!?
聞かなかったことにしようとした自分が話題の中心だと知り、まるで、背後を
鋭利に光る矢に心臓を射抜かれたように息が止まった。
きっと、この言霊の主は女房達なのであろう、この邸にいる神子は自分くらいな
ものだ。
しかも、星の一族が住まう邸とくれば尚、確実だ。
声の主達が、自分達のことを噂している。
耳を今以上に傾け、音を立てないよう身の回りに注意していると、尤も言って欲しく
て尤も言われたくない言葉を最初に耳にした女房の声が一突きした。
「もしかしたら、幸鷹様は異世界の少女というだけで珍しがっているだけなのか
もしれませんわね」
「殿…」
その声にはっと顔を上げると、いつの間に晴れたのか雲間の隙間から漏れた光が
背後に立つ男性を照らす。
その瞳に涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔が映されているのかと思うと、不自然
に視線を外した。
一歩、二歩と近づく度に頬を掠める明るい緑の髪も、着ている着物さえも、全て
茜の中に溶け込んでしまっているが、その色だけは陽の気も欺けない。
「…私は、どうやらあなたを悲しませていたようですね」
「い、いえっ!…これはっ」
「弁解などしなくても、理由は解っています。……すみません、今まで気がつかない
ふりをしてしまって」
彼は右の人差し指で涙を拭ってから彼女の後頭部に掌を回し、まるで、長い間
会っていなかった恋人達がするような抱擁をしてきた。
幸鷹がこんな情熱的なことをしてくるなんて今までなく、それだけに優しいはずの
温もりに呼吸をするのを躊躇ってしまう。
「私は、この手で殿を壊してしまうかもしれない。でも……それと同時にあなた
を私のものにしてしまいたい……そんな邪な思いが私をただの男に変えてしまう」
「ですからっ……すみません…私だけこんな情に流されてしまって」
いきなり押し当てられていた胸から外されたかと思うと、今度は互いの鼻の頭を
擦り合わせるように至近距離まで顔を寄せられる。
彼の瞳をこんなに間近に見るのも、また、初めてだ。
幸鷹の頬は夕日に照らされているためか、どことなく火照っている。
そう言えば、先程目元を拭ってくれた細長い指もほんのりとした熱を帯びていた。
ふと、気づけば、自分の顔も火桶に放り投げられて赤く燃える炭ように熱い。
きっと、今、自分は彼に強請るような顔をしているに違いない、彼女は答える
代わりに目を閉じた。
吐息は悩みより恋で吐く方が良い。
それを教えてくれるのもやはり、幸鷹だから自分のできる限りのことで答えてあげた
いが、今のにできる羞恥心の限界は、わざと唇を少し開けることしかできない。
「っ……あなたって方は……そうやって、私の理性をいつも簡単に外させてしま
うのですね」
しかし、彼女の後悔は形になり、彼の苦しそうな息遣いに瞳を開けようとして唇が
柔らかい感触に奪われると同時に裏腹な侵入者が口内を激しく攻め立てた。
「…ゆ、鷹さんっ……もうっ…」
日入り果てた京には、それとは相対する闇がやって来る。
それを照らす月はまるで夜の番人のようなのだが、今日に限ってはその怪しげな
光は姿を現さない。
「あ、ああっ…ん……んんっ」
それを言い訳にしたのではないが、簾を乱暴に下ろした暗い室内では二つの影が
淫らに動いていた。
初めて下腹を攻められたの唇は、自身でも気づかない内に喘ぐ声が男を虜にし、瞳
を反らすことを許さなかった。
異性を受け入れた場所からはイヤらしい水音が休みなく室内に響き、それが余計
に彼女を煽らせる。
「ん…ぁ、あっ…あっ」
股を潜るようにして初めての感覚から逃げようとするの腰を掴み、更に奥の方まで
突き上げる。
その度に肌がぶつかり合うが、痛いと言う感情より愛欲を無意識に彼女の潤んだ
瞳は求めてしまう。
一番敏感な部分で幸鷹と繋がっている、その事実だけでも死んでしまいたいぐらいに
恥ずかしいのに一方で、やめちゃやだ、という淫乱な自分もいる。
「ぅ……み、見ない、でっ…くださいっ」
「…どうしてですか?」
「はっ……恥ずかし…ぁ」
更に文句を言おうとするの右首筋に彼が顔を寄せたと思ったら、次の瞬間、痛み
が体中に走った。
その場所は……
「どう、ですか?……私が八葉でした時……っ……そこであなたを感じていたので
すよ?」
体中で息を吐くため上下する二つの丘に片手が伸び、指の腹でその頂を軽く潰される。
「ぁ……幸鷹さんっ」
幸鷹の何かに堪える顔を見ていると、何だかとても切ない気分になる。
裸眼の彼は、まるでいつも抑えている本能を剥き出したように、荒々しい。
暗闇の中で輝く無数の涙を唇で吸い、頬から顎に移ったかと思えば喉に鼻を擦り
つけ、反射的に震えた体を狙って腰を片手で抱き、更に激しく動き出した。
「あ、ああっ…」
「、殿……っ」
幸鷹が自分のことを呼ぶ度、下腹にいる異物は大きさを増すのがよく分かる。
だが、彼はそれだけで満足することなく、荒々しい吐息よりも快楽を本能的に
欲している。
それは、彼女とて同じことで、自然と腰がそれにつられて淫らに動かしてしまう。
脈打つだけで妙な安心感に襲われ、行き来を繰り返す律動が少し触れただけで
大人の女性のような色っぽい鳴き声を上げてしまう。
「ゆき、たかさんっ……幸鷹さんっ」
「くっ……はぁ…はぁ…」
その呼びかけに反応するように涙と情意で滲み出る汗で濡れた唇に何度も口づけし、
離れたそれは銀色の糸をに預け、彼は熱い吐息を繰り返している。
初体験の彼女には体内で幸鷹自身を強く握りしめていることが判るはずもなく、
今は本能のまま動いている彼にもそれは理解でき、敢えて虐めようとはしなかった。
「うあっ……もっ……」
「…っ……ぁ…ああっ……アアっ!」
幸鷹の顔が苦痛に歪んだ頃、体内では何かが大きく弾けたのを白く霞む意識の中
で感じていた。
乱れた髪を優しく撫でられた感触と一緒に、彼が耳元で愛を囁いたが、その時にはも
う、夢路に旅立った後だった。
「ねぇ、幸鷹さん。子供に名前付けるとしたらなんて名前が良いと思います?」
あれから一年後の夏、初めて彼に抱かれたは藤原邸にその身を移していた。
事実上は名ばかりだった通い婚はあの日を最後に、二人は婚礼を済ませ正式に
夫婦となった。
夫婦の寝室から見上げる今宵の満月は、白い華が咲き誇っているかのように見事
な美しさだと見る者に抱かせる。
幸鷹にお酌をしながら見惚れていたがあることを思い出し、お盆の上に持っていた
提を置き、着物の上から腹部を恥ずかしそうに掌で抑えた。
「…そうですね。女子はお好きな名前でも宜しいのですが、男子でしたら名前の
一文字に「鷹」を付けたいと考えています」
「「鷹」ですか?」
「えぇ、代々我が家の男子には名前の一文字に「鷹」を付ける家訓があるのですよ」
「うーん……それは生まれてくる子に良いような悪いような気がしますけど、私
は好きですよ。あなたの名前…」
「ありがとうございます……私も好きですよ、。あなたのご両親にお会いできる
のでしたら、感謝したいほど愛しています」
「幸鷹さん…」
彼は優しい……こんな性格だから自分はいつだって藤原幸鷹という人物に恋を
してしまう。
これを束縛と言うのなら、やさしい束縛と呼ぶに相応しい。
夫にことの真相を聞かれ、あのね、と一呼吸置いて口にする二人を満月だけが
見ていた。
―――…終わり…―――
♯後書き♯
藤原幸鷹裏Dream小説、いかがだったでしょうか?
今作は「花夢祭」への参加作品として作業しました。
一年以上も作業していなかったので参加するのをちょっと躊躇いましたが、
これを逃しては、と思い参加させて頂きました。
……しかし、我ながら裏の割に……浅い。(爆)