夜にみた海の月の道




      今年も猛暑が続き、そのため各地で水を求めた人々の不慮の事故に遭い、まるで今も無事に生き

      長らえている誰かの暇潰しかのように報道に何度も流れた八月も後僅かで終わる。

      その所為だろうか、夕暮れに聞こえた蜩の調べが鎮魂歌に聞こえ、より一層物悲しそうに鳴き、

      聞き入る人々の心に染み入る。

      気がつけば、全国的に夏休みがやって来た七月中旬くらいの空にはあった峰の高い入道雲の姿

      はもうなく、その代わりに何かをちぎり捨てたような鱗雲がどこまでも続いていた。

      だが、それも夜に溶ければその形さえも闇の一部になってしまい、光によってその存在を許された

      モノの侵入を拒み、覇気は白い残像でさえ支配する。

      天に輝くのは、幾夜も照らす月の光。

      時折、透明な空気に溶けた吐息のようにもなるが、ほとんどは今にも掌に掬えそうな微笑みを眼下

      に向ける。

      それは、地球に生まれ落ちた生命が夜を怖がらないためのモノか、それとも懺悔を促すためのモノ

      だろうか。


      「何をしているんですかっ!」


      「離してっ!!」


      その遙か下に広がる浜辺では昼間でもないのに浅瀬に腰まで浸かって、じゃれ合う二つの影が

      あった。

      こんな時間に友達同士ではしゃぐような無謀な性格の持ち主は恐らくいないだろうとは思うが、

      まだ太陽が東の空でジリジリと大地を熱で覆っていた頃には多くの家族連れで賑わっていた海岸

      には今、一筋の月の光がまるで、深紅のヴァージンロードのように細く伸びている。

      それに少し足を踏み入れた場所で新婦の右手首を掴み、一緒にこの場を逃げることを促す新郎と

      は全く違う男性が険しい表情のままこちらを見た。

      いや、どちらかと言えば、睨んでいると言う方が正しいだろう。


      「お願いだから、死なせて……ひゃっ!?」


      しかし、狂ったように身を捩ったり跳ねたりと抵抗してはみたが、返って拘束が激しくなるだけ

      で最終的には何かを呟いたかと思えば海水から抱き上げられ、下手に動けないようにされて

      しまった。

      この姿は例え夜だからと理由を付けたとしても納得行く答えではなく、代わりに衣服から滴り

      落ちるモノと海水を押し上げる音が虚しく耳に聞こえた。






      手塚国光と出会ったのは、高卒で大手商社の一般職に転がり込んで三年経った四月のある花曇りの

      朝だった。


      「、今日は早く帰ってくるの?最近、あなた、年頃だって言うのに帰り遅いじゃない」


      その日もいつもと変わらない小言を深緑のマットの上に仁王立ちして言う母親に、まるで耳に

      タコとでも言いたそうな顔で腰を下ろし、三p高いヒールに足を入れる。

      社会に出てその一年目に成人式を迎える前に、何百日の朝を迎えるよりも直に大人に囲まれて

      一緒に仕事をしてきたと言う経験が子供からようやく大人の仲間になれたのではと考え始めて

      いる一人娘としては、いつまでも以前と変わらない接し方をする彼女を疎ましいとはさすがに

      言えないが、それでも何か今までとは違った待遇を味わってみたいと言うのは贅沢だろうか。

      家には彼女と明日を迎えれば、五十になる清掃会社のパートに汗を流す母親の二人しかいない。

      父親のことは何故かあまり語りたがらないが、まだがその名も持たない胎児の頃に交通事故

      で若くもこの世を後にしてしまったと聞いている。

      まるでその残像も覚えていない娘にとってはただの昔話と同じくらいにしか聞こえないが、実際、

      話したりケンカしたり、そして恋をした記憶がある彼女には重すぎて無情の時が何かの思いを強く

      させているのだろう。

      亡き夫のことを重たい口で語る母の瞳がとても悲しそうで、子供心にそれ以上聞いてはいけないと

      悟り、それからは「父」に関するあらゆる関連を見ないフリをして他の話題を探すのが上手くなった。

      最近、月末に向けて毎度お馴染みの締め切りが総務職だけではなく、彼女達一般職まで及んで

      残業することが多くなっている。

      母親には社会経験が勿論あるが、それを我が子も経験しなければならないのがどうしても納得

      できないらしい。

      いつものようにそそくさとその場を退散して腕時計を覗き込めば、通常出かける時間に五分遅れ

      たことに気づき、足早に自宅から十五分離れた駅に急いだ。

      電車に揺られ、四十分以内の近場に今年で勤続三年目になるが勤める会社がある。

      正確に把握はしていないが、社内には約千人以上働いており、なかなか顔見知りと朝すれ違うのは

      難しい。

      この会社でどうしても慣れない所があるとすれば、この時間帯のエレベーターぐらいだろう。

      一階フロアには何箇所にか設置されているが、それでも通勤ラッシュには追いつかず、毎回ギュー

      ギュー詰めになりながら降りる階のボタンを押すのが精一杯で、黒い背に押されてほとんど酸欠状態

      になって扉の外に押し出される。

      いつも比較的行列が少ない方を選んではいるのだが、それはみんなとて同じことで品の良いベルの音

      が辺りに響く頃には背後に悪寒を感じ、前列に続いて早足でエレベーターの中に駆け込み、満員電車

      のように肌をぴったり合わせなくてはならない。

      これでも年頃である彼女にしてはこの瞬間がとても気持ち悪く、頭上を掠める誰かの息さえもまるで

      痴漢されているように思え、早くこの場所から脱出したいと心の底から願っていた。


      「……大丈夫ですか?」


      「えっ!?」


      小刻みに震える体を押さえようと腕を掴んだ際、遙か頭上で誰かの声が舞い降りて敏感に反応

      した の瞳は直に相手のものと宙でぶつかってしまい、頬が赤くなってしまう。

      今、いる場所はエレベーターの最後尾で誰も彼も真っ正面を向いて光の文字を視線で追いかけており、

      一人が声を上げたとしてもその耳には届いていないみたいだ。

      目の前にいる青年は自分より年上だろうか、同僚の男性社員とはまるで声色が深く思える。

      よく見れば、スーツどころかラフに着崩した服装で眼鏡の奥の瞳だけ見ていたらそのまま仕事が

      出来てしまいそうだ。

      どこの部署だろう、忘れモノでもあるのだろうか?

      何を言って良いのか解らず辺りにキョロキョロと視線を走らせていると、今、自分が置かれている状況

      が解り肩に余計な緊張が走り顔には妙な汗を感じた。

      誰も見ていないエレベーターの壁に背を預けている彼女とは反対に、壁に両手を当てこちらを見下ろし

      ている姿はまるで、これから愛を囁こうとしているようだ。

      それに、見方に寄ればこの体勢はまるで……と考えた所でベルの音が狭い室内に響き、ワンテンポ遅れ

      て鉄の扉が開く音がした。

      前方にいた何人かが人並みを掻き分けてくれたお陰でドアの横で輝く光の文字が見え、表示されてある

      それが降りるフロアだと知って一気にドラマのヒロインから現実に戻され、降りますと声を張り上げ

      名前の知らない彼をすり抜けて飛び出した。

      タイムリミットには間に合い、エレベーターから降りたすぐ後で、鉄の扉は再びその口を

      閉ざした。

      だが、今日、の心に宿ったのはいつもの倦怠感ではなく、まだ残る瞳の色とその性格が

      知れる深い声色がストールのように包み込む温かさを覚えた。


      「はぁ、はぁ……あ、……お礼言うの忘れてた」


      しかし、そんなちっぽけな後悔は、何時間後に消えることになる。

      青年の名前は、手塚国光。

      営業部の手塚部長のご子息で今年から大学一年になり、早く独立心を養うため一人暮らしを初め、

      アルバイトを探していた所父親が勤めるこの会社の雑用係として採用されたのだと、書類を取りに

      来た彼と再会した時にそう話してくれた。

      彼女と言えば、その事実より年下と言う真実に久々に乗ってない体重計よりも恐ろしいことを

      突きつけられたようで当時はショックが隠しきれなかったことを覚えている。






      海辺から乱暴に上げられ、浜辺にゆっくり下ろされると共に頬を掌で叩かれた。

      自分より母親より大きなサイズのそれが離れた場所はまるで、鈍い痛みが火を噴いたように熱を伴い、

      暫しの間歪んだ唇が重たくなる。

      多分、力を加減してくれたのだろうが、それでもこの衝撃は数十分経ったとしても何かの痣みたいに

      腫れていることだろう。

      それほど、自分はバカなことをしてしまったのだ。

      当然と言えば、その通りである。

      手塚本人と言えば隣に腰を下ろして無言で夜空を仰いでおり、時折、その瞳がきらりと光ったように

      見え、それに誘われて視線を宙から暗闇の中に泳がせた。


      「あっ」


      まだ空気の中に吐息が溶けるのは早いが、その残像が白く燃えることを許さない夜は真昼と全く違う

      潮風に浚わせた。

      目の前には闇よりも尚、美しく輝く星や怪しく細波を促す月が人工のモノとは明らかに比較できない

      ほどの光をその身に宿している。

      まぁ、科学上によっては語弊があるのだが、それを込みにしても人間に、いや、生物にこんな発光体

      を作り出すことは恐らく何億年経ったとしても不可能だろう。

      その何も言わぬ銀の光に宥められたような責められたような気がして自然と涙が目尻を熱く押し上げ、

      夜風ですっかり冷え切った頬に雫が一筋流れた。

      今更気がついても遅すぎるしくだらなすぎるけれど、あのまま死を選んでいたらこの空を見上げること

      もなかったんだなとふと思えば、本当に糸が途切れたように悲しみが一気に押し上げてきて色気も

      大人気もかなぐり捨てて泣きじゃくった。

      まるで、小さい頃一度だけ友達と夜遅くまで遊んで家に帰った時、凄い形相の母に頬を叩かれ

      何十分も家の外に出されたことを思い出し余計目頭が熱くなる。

      あの頃の彼女はもう、どこにもいない。

      少なくとも、本人の心の中にはと言う存在は二十二年間のデータをデリートでもして

      しまったかのようにない。

      ちょうど軋みだしてきたのは、彼と出会った夜からだった。

      その日も結局、夜の九時を回って帰宅をし、玄関の真っ正面にある自室で私服に着替えた後、

      リビングに足を踏み入れてようやく不自然さに気がついた。

      母親も二十年以上使い古した鳩時計が深夜の十二時を告げれば、五十になる。

      目には見えない老いが次第にそれまでの体の自由を失わせ、重さと一緒にシミと皺を刻んでいく。

      パートから戻り、家族二人しかいないテーブルの上に食事を何品か拵え、いつも帰りの遅い一人

      娘より先に夕食を済まし、疲労で重たくなった体を横にするのが彼女の日課だ。

      それはこの二十三年間変わることのないモノで、がこの年甲斐もないあどけない寝顔に毛布

      を掛けようとすると反射的に目覚め、目元をコシコシとこすりながらまだ完全に起きていない視界

      にくたびれた我が娘を映した。

      ぽつりと言った言葉にはまだ眠気を感じさせる声色だが、あれは一生忘れられない。


      「…………あれ?ご飯、まだだっけ?」


      あれから六年、母がふと言ったあの寝ぼけがアルツハイマーの初期症状だと解った頃はもう、

      手遅れだった。

      のことは、ただの近所の誰かの娘かはたまた病院関係者か何かしか認識していないのだろう。

      朝が来るたび何かを忘れ、夜になれば本人の寝顔を見るたび明けることを恐れている自分自身

      が嫌で、その日の内に荷物をまとめて高校時代の友人の家に転がり込んだ翌日、天罰は下った。


      「はい?…………えっと、……どちら様ですか?」


      それは、中途半端な気持ちで介護をしていた彼女に夢魔が突きつけた現実だった。

      今まで病院には休憩時間の合間に連れて行っていた。

      素人の浅知恵で調べ予防もしていたはずだ、こんなのは単なる夢の続きだ、そう思いたかったのに

      震える指で抓った頬は痛かった。


      「さん……、海に行きませんか?」


      いつの間に車の免許を取ったのか、運転席に座ってハンドルを握る姿が板に付いていた。

      全く自分は何をやっているのだろう、真夜中だと言うのに、男性と二人きりの車体に乗り込ん

      でいるなんてあの件がある前には考えられなかっただろう。

      沈黙が何時間も続き、耳には対向車線を通り過ぎる自動車の音がうるさく響く。

      手塚がプロの世界に入るまでの四年間の短い間に少し垣間見たぐらいだが、口や性格が軽い方

      ではないことくらいは雰囲気で大体解っている。

      そう言えば、彼は何故まだニートに成り立ての自分と海に行こうなんて誘ったのだろう。

      それも、こんな季節外れな日の姿も大きく西に傾いた時刻だ。

      会社員じゃないからとは言え、手塚だって暇ではないはずだ。

      横顔をちらりと盗み見た瞳も今と同じ街灯の光を受けて輝いていただけで、敢えて何かを口に

      しようとはしなかった。

      だが、寧ろ特別な言葉などいらないのかもしれない。

      例え、何かを言葉にされても気の利いた受け答えが今の自分に出来るとは思えない。

      車内に微かに残るタバコの匂いが何となく二ヶ月前までいた会社を思い出したが、今はそれさえも

      柵になり楽しかったことさえも忘れてしまいたい。

      それなのに、死ぬ勇気も薬物に溺れる勇気もなくて結局ずるずると今に来ている。

      九年間勤めてきた会社を辞め、実家からそう離れてないアパートで一人暮らしをしている友人の

      家で何もすることなく日中、彼女の様子を見に行く以外無気力になってしまい、最近では死を

      簡単に考えてしまうくらい弱り切っていた。

      ……なんて勝手なエゴだと、情けないことに年下の手塚に頬を叩かれたことで気づかされたなんて、

      遅すぎて余計に目の前が涙で滲む。

      闇に濡れた腰から下は水と全く違う湿り気を帯びているせいか、下半身が重たく感じる。

      まるで、この広い海のどこかにいる人魚にでもなってしまったように浜辺から立ち上がることを

      恐れていることに気がついた。


      「……さんっ」


      あれから何分経ったことだろうか、両手で目を覆ってもその伏せた瞼の中からはそれとは違う

      重さを持たない雫が掌から溢れ、焦れったく手首から腕を這った。

      その刹那を切り裂くように彼がの名を呼び、それに気づかないフリをして泣き続ける彼女を

      抱き寄せる。

      多分、海水でずぶ濡れになっているからだろう、薄着の背に回された七部のTシャツの袖が湿り気を

      帯びて冷たい。


      「て、手塚…君っ?!」


      「……頬を叩いてしまったことは悪いとは思っていません。ですが…………あなたが泣いている時に

       俺は何も出来なかった。それに対して、俺は謝りたいんです」


      最初は何を言っているのか解らなかったが、彼は全て知っていたのだ。

      最も、この青年が真実を知ったのは、悪戯にもお盆のために帰省した夕食時に父がふと思い出した

      ように話した何時間も前のついさっきだった。


      「悲しいなら思い切り泣いて下さい。……それが、俺に出来る限りの贖罪ですから」


      失礼します、と一度断り、背中を優しくさすられた。

      撫でられる感触に嫌悪はなく、当たり前にも母とは違う大きな掌に安心し、泣き疲れて重たく

      なった瞼を閉じる。

      きっと、父親が生きていたらこんな気持ちになるのだろうか、と本人に聞かれたら気を悪く

      しそうなことを思い、その胸に額を預けて一瞬だけの幸せを願った。


      「っ……、さん、あなたをあの美しい月に渡したくはない。あなたを悲しませるなら、

       お母さんにも渡したくない!」


      思わず、華奢な体を強く抱いてしまったが、そのまま夢魔に誘われたにはどれも届かなかった。

      幻想の中にいる彼女が今宵の事実を知るのは、朝、目覚めた途端、友人に車で送ってきた男は

      誰かと質問攻めに遭い、日課になっている彼女の様子を見に行った帰り道で再び本人に会った時、

      気持ちと一緒に寝ている自分に思わずキスをしてしまったと言われる頃だった。

      夜にみた海の月の道は、誰をも狂わし通常では考えられない行動を起こさせるが、それを「月の魔力」

      と呼ぶが本当は人間が心の底で描いていたことを実行に移しただけなのかもしれない。

      少なくとも、光の道から花嫁を奪還した手塚国光には強く否定できないだろう。

      物言わぬ闇はやがて、東から上り始めた眩しい影にその場を明け渡した。









      ―――
…終わり…―――









      #後書き#

      こちらは「春夏秋冬」様に参加作品として作業しました手塚Dream小説です。

      良い経験をさせて頂いたことを心より感謝しております。

      それでは、こちらまでご覧下さり誠にありがとうございました。