弱くも強い、君が。

      「っ!」


      七月も下旬を迎えた比嘉中学校では男子テニス部の強化合宿が始まり、スパルタで

      有名な早乙女監督の元、全国大会に出場するレギュラー陣が決められた。

      テニスは好きでも彼の理不尽いっぱいの一週間から解放された部員達は名残惜しさも微塵

      の欠片もなく、逆にいそいそと家路に付いてしまいグラウンドにもテニスコートに

      も生徒の声は聞こえないはずなのに焦る気持ちを抑えられないと言うような手つきで

      体育館倉庫の錠前を開ける木手の表情はいつもでは考えられないほど青くなっている。

      何十年も使い古された鉄の厚い扉を簡単にこじ開け、試合時とは全く違う冷や汗が

      額から頬に伝うが、今はそれを拭おうとは思わなかった。

      夕日を刻まれた時間とは言えまだ威力が残っている太陽の光から隔離された中には

      同じく、何十年も使い古されたライン引きやサッカーボールなどのグランドを使用する

      競技の道具がぎゅっと押し込められ、まるで忘れ去られたおもちゃ箱のように

      置いてある。

      光の中からいきなり暗闇に飛び込んだ瞳に数分間何も映らなかったが、次第に慣れ

      ていく内に何か蠢くモノを見つけ、躊躇せずその中学生としては逞しすぎる腕に抱き

      しめた。

      それはいつもの彼ならばとても考えられない行為だが、それから伺えるように本人

      には常の冷静さや非情さの欠片も残されていなかった。


      「木手…君っ?」


      「えぇ、そうですよ」


      抱かれた方は夢からまだ覚めたばかりなのかまだ状態の把握をできず、何故こんな

      にもこの少年と呼べない容姿の持ち主の顔が至近距離にあるのか疑問に思っていない

      だろう。

      暗がりから現れた少女の左頬は他の肌の色とは明らかに違う色を帯び、腫れている

      のが一目で把握でき唇の奥で歯が軋んだのが自分でも解った。


      「つっ!……いた、いよ……」


      彼女の身なりは夏休み期間にも関わらず他校の制服を着ていたが、それも砂埃に

      汚され何が行われたのか大体察しが付いて思わず彼女を抱きしめる腕に力が入って

      しまった。


      「……我慢しなさいよ」


      まだ眠りから覚めたばかりの重たい瞳でこちらを見上げるいばら姫の唇を王子に

      扮した殺し屋が熱を移すように、奪う。

      そのガラスのような瞳の中に汚れきった自分が映る前にもう一度、感触を味わうか

      のようにキスを繰り返す。

      まるで、それが贖罪だと言っているみたいに…。






      初めてと出逢ったのは、期末試験を一週間に控えた朝のHRだった。

      季節外れの転入生に男女共にこの年頃のクラスメート達はがやがやと騒いでいたが、

      彼はその中には加わらず窓の外に眼鏡の奥の瞳を移動し、今日も暑くなりそうだと

      空を見上げる。

      抜けるような蒼さに昨日まで天候が少しぐずついていた所為か、峰の高い雲がいくつも

      目立つ。

      校庭のどこかで鳴いているクマゼミの声がヤケに煩く聞こえ、あまり歓迎したくない夏の

      風物詩がやって来たことでこの季節を痛感するなんてまだ自分にも年相応の少年

      らしさが残っているのだと感じ、鼻で息を吐き捨てた。

      そんな感情なんて自分には不必要だ。

      自分には彼らよりやらなければならないことがあり、それを成し遂げる義務があり、

      年相応的考えに溺れる余裕など持ち合わせてはいない。

      使い慣れた眼鏡の奥でつまらなそうな瞳を隠し、まだクラスメートが騒いでいる教室に

      担任に呼ばれて廊下からおずおずとした歩調で入ってきた人物が現れた途端、今

      までとはまるで違った色を持ったざわめきが狭い室内をいっぱいにした。

      それに誘われるかのように窓の外から目を外し、振り返った木手の瞳の中には教壇

      の隣に立っている一人の少女が飛び込んできた。

      瞳は伏せがちでハッキリとは見えないがその分、この季節でしかも、今日も暑い中

      ヨレヨレに疲れた冬服の制服に身を包み、何だか見ているこちらの方が参ってしまい

      そうになる。


      「さんだ。お家のご事情でこの時期に転入してきたが、仲良くしてくれ」


      三十代も後半に入っても未だ独身の男性教師はこの職に就いておりながら場の空気

      が読めないのか、暑苦しく言い本人にも挨拶するよう促したが、窓際の最後部席にいる

      彼の耳には届かなかった。

      それはクマゼミの所為でもましてクラスメートの所為でもなく、きっと、最前席に

      腰を下ろした所でそれは大して変わらなかっただろう。

      彼女の声は乾いた空気中を引っ掻いただけで、声を発さなかったのだから。


      「…えっと……まぁ、なんだ。は転入してくる前に病気になって一時的声が出なくなって

       しまったんだ。そういう訳で、お前らイジメんなよ?」


      担任の冗談めいた口調に笑いながら反論するクラスメートの中、真一文字に唇を

      結ぶを見ていた。

      …いや、観察をしていたと言った方が良いだろう。

      彼に挨拶をするよう言われた時、まるでそんなことは聞いていないと言わんばかり

      の形相で見返したが、不安を拭おうとはせず本人は全く悪気のない顔で促すだけ

      だった。

      その結果、声が零れることはなく、ようやく静かになった教室にまるで翌日になっ

      てヘリウムが漏れて萎んでしまった風船のように息が空に還った跡が音に鳴って

      聞こえるのと同時、少女の表情が苦痛に歪み薄く開いた唇を噛んだ瞳は何だか泣き

      そうに見えた。






      あれから数日経ち、程なくして木手達三年生にとっては中学生活最後の終業式が

      終わった。

      元々、期末試験一週間前くらいにがやって来たので何となく駆け足でやって来た気

      がするが、それがどうしてなのか彼には解らなかった。

      彼女が転入してから数日間一学期を共にしたが、多分前の学校のモノだと思われる冬服

      の制服を着続けており、身なりも性格も助けてか本人に近づこうとするのはクラス

      メートどころか校内中の生徒達からも避けられている。

      このことを本人はどう考えているのか相変わらず何も話そうとしないが、何かを

      言おうとしている瞳だけが幼気でそれが余計に同性の女子生徒の反感を買ってしまい、

      何度か詰め寄られている現場を見たことがあった。

      だが、そう言うことは誰かが庇ったとしてもそれは逆効果になるのが目に見えている

      からだろうか、例えそれを目にしたのが教師だとしてもその輪に割り込む真似はしない。


      「あぁ、木手。まだ残っていたか」


      今年で最後の一学期の通信簿を確認し、学生鞄兼用のテニスバックの中に入れ、肩

      に担いで教室を後にしようとするとドアの方で後数pで担任とぶつかりそうになり社交

      ダンスのステップみたいに軽やかに片足を後ろに戻した。


      「はい、今、帰ろうと思った所です」


      「いやぁ、ちょうどいい。HRで言い忘れていてな、今日、が風邪で休んだだろ?

       だから、仲が良いお前に通知票届けてもらおうと思ってな」


      別に自分は彼女とは何でもない、と否定したかったが、裏を返せばクラスメートな

      らば誰でも良く彼自身行きたくなかったのではないかと悲観的に考えては胸がチクリ

      と痛んだ。

      また、だ。

      最近、に対して考えると鈍い痛みを感じる。

      対して断る理由も見つからず、結局、用意周到な彼に渡された家までの地図を渡さ

      れてしまい、渋々メモを頼りに家とは逆方向の道を歩く。

      こちらには小さい頃、何人かの友人達と探検気分で自転車を乗り回した覚えがうっすら

      あるが、それも大分前のことで正確なルートはかなり怪しい。

      第一に、あの頃はサイズが小さかった訳だから目線も道幅も大分違う。


      「っ!?」


      少しの懐かしさとあの頃感じていたはずの冒険心の糸を辿って歩いていると、重み

      のあるガラス瓶とビニール袋の音を耳にしてそちらの方に不意に目を向けた。

      見慣れた後ろ姿がレンズ越しに見え、思わず縮地法でその弱々しい手から中高年

      男性が好んで選ぶだろう酒の肴と何本もある一升瓶で溢れた半透明の袋を奪い、前のめり

      に体勢を崩した人物の肩を抱きしめた。






      彼女が以前までいた中学校の冬服を着続けている理由、それは、伯父夫婦の虐待で

      受けた傷や痣を隠すためだった。

      本土とは全く違う暑さにずっとそのか細い体で絶えていたのかと思えば、抱きしめる

      腕にもつい力が入ってしまうのが自然というモノだろう。

      転入してくる前、帰宅したを待っていたのは縄で首を吊った両親だった。

      死因は会社内のイジメだったらしいが、当事者である上司も同僚もそれを認めず、

      結局、退廃に終わってしまい、賠償金狙いで彼女を引き取った伯父夫婦の虐待はその日

      から始まり、伯父に買い出しを言いつけられることも屡々あった。

      次第に光を失う水鏡の瞳は、意識と一緒に声も深い眠りに落ち、言葉は空気の中に

      溶けた。

      その悲しみは時に違う方向を刺激し、彼が彼女達の嘲笑う声を聞いていなかったら、

      きっと、他の部員のように家路に付いていただろう。

      年頃の女子生徒としては軽すぎるを背負い、彼らとは何時間も遅れて自宅に向かっ

      て歩く。

      すやすやと寝息を立てる少女が愛し過ぎて、つい、本当に自分の背中で眠っているのか

      足を止めて振り返ったが、伏せている瞼も規則正しいリズムを刻む両肩も偽りには

      見えない。


      「好きですよ、……弱くも強い、君が。……


      目を覚まさない内に囁く自分がとても弱く思え、何ヶ月ぶりかにようやく声を取り戻した

      彼女にこれほど惹かれているのが今更恥ずかしくなって背負い治すフリをして次第

      に熱を失うアスファルトを蹴って歩いた。









      ―――・・・終わり・・・―――









      #後書き#

      こちらは「brihigh」様に参加作品として作業しました木手Dream小説です。

      良い経験をさせて頂いたことを心より感謝しております。

      それでは、こちらまでご覧下さり誠にありがとうございました。