唯一欲しい言葉ではなかったから……

        「還れ……元いた場所に」

        それは唐突過ぎる雨の夜だった。

        耳には地に叩きつけられる水の音が、心には彼が放った言葉が虚しく木霊している。

        胸が痛い。

        その言葉を直視する度に目元が歪み、声が出てこなかった。

        どう…して、そんなことを言うの?

        そんなありふれた台詞しか思い浮かばなくて悔しかった。

        自分はこんなにも想っているのに、それさえ伝わらなかったと言うのか。

        この世界は何を意味指しているのだろう、……確か…………以前、一人の

        死神が去った時にも豪雨が降った記憶がある。

        あの時の少女は今、無事だろうか。

        瞼を閉じれば、幾筋も辿らせた涙の跡まで思い出せる。

        あれは酷い事件だった。

        あんな顔を、思いをさせたくなくてこの運命を選んだのに…。

        檜佐木は去り際に別れの挨拶も言わずに、瞬歩でその姿を闇の中へと消した。

        「修兵っ…!」

        残されたのは僅かな匂いと先程まで立っていた場所にある足跡だけで、

        はそれだけはどこにも行っちゃやだと、まるで、駄々をこねる童のようにそれを

        両手で抱きしめる。

        瞳からは今まで抑えていた涙がどっと溢れ、雨に濡れた頬をさらに濡らした。

        どうして、こうなってしまったのだろう。

        ただ、檜佐木の傍にいられれば良かったのに、それ以上を望んでしまった。

        最低だ、こんな自分に嫌いになってしまっても仕方ない。

        雨で濡れた死覇装はやけに重く、屈んだつもりだったのに両膝を付いてしまう。

        この地は彼と初めて会った場所で、最も思い出が深い。

        だが、本来ならばここをそれに選んでしまったことが災いしたのかもしれない。

        「…っく……ごめんなさいっ」

        彼に謝る訳もなく、ただ嗚咽が漏れた。

        あの時のものは温度差を感じられないほど零度に近かったけれど、今、降る雨は

        それとは違いとても優しい気がする。

        まるで、誰かに背中をさすられているようで余計に涙が溢れてくる。

        今だけは…思い切り泣かせて下さい、と誰に断る訳でも、彼女は地に頭を沈めた。


        誰?誰なの?脳裏に浮かぶ人物が煩く何かを叫んでいる気がした。

        その声は物質的に表れるわけではないが、何故かそう思う自分が変だ。

        こんな見てくれは上品そうなおじいさんに知り合いがいるはずもないのに…。

        しかし、彼には不思議と親しみを覚えている。

        目の前には髪と同じような長さだと思われる顎髭が足下に落ちているのを見ると、

        何だか滝を見ている気分になる。

        眉間にはシワが寄っており、それがまた顔に刻みつけているのだと解っているだろう。

        あの人が何を言っているのかは立ち込めた霧の中に封ぜられてしまったけれど、

        確かに自分を呼ぶ言葉だけが幾度もその口から放たれる。

        ……と。

        左手に握った杖の先をこちらに向けて何かを言っているようだが、勿論自分には

        さっぱりその言葉を読み取ることは出来ない。

        それよりも目元がやけに明るくて、今度は別の誰かに呼ばれている気

        がしてその瞳を向けた。

        「……気がついたか」

        瞳を向けると、右頬から顎まで深い傷跡が残っている青年がこちらを見ている。

        彼にはどこかで会った記憶がある……だけれど、その意図を辿ろうとしただけで

        電流が走るような痛みが脳内を締めつける。

        その表情は全く温度差がなく、先程の声色も気がつけば月が上がっていたかのように

        聞こえた。

        蒲団に寝かされていることに今更気づいて、上半身を起こそうとすると両肩を捕まれ

        元の位置に戻されてしまう。

        それでも、何かを口にしたくて飛び出た言葉は何ともだらしのないものだった。

        「…ここは?」

        「無理に喋らない方が良い。……ここは尸魂界内の瀞霊廷、死神や極少数の貴族だけが

         住むことを許された場所だ」

        一端、停止してもまだ二日酔いや偏頭痛のような鈍い痛みに襲われ、思わず眉間に

        シワが寄ったのを青年が思い当たる節があるのかそう諭す。

        その無愛想な表情の割にはちゃんと自分を見てくれていると解り、少し胸がきゅっと

        温かくなったのを不思議に思った。

        「死……神?」

        「お前は死神を知らないのか?」

        「うん……それに私……何も………解らない」

        彼の言った場所にも死神にも覚えがなければ、自分が何故ここにいるのかも解らない。

        目の前に広がる純和風な天井でさえも、彼女にしては違和感があった。

        ここはどこなのだろう?

        この何の感情も浮かべない青年が言うことに百歩譲って理解したとしても、自分が

        何者かどうして温かい蒲団の中にいるのかその経路が全く思い出せない。

        「お前、記憶がないのか?自分の名前とか覚えていないのか?」

        「……解らない。思い出そうとしたら、頭が酷く痛んで何も思い出せない」

        こめかみに指を当てて目を閉じてみるが、やはり深い霧の中に隠れているのか

        記憶断片も見出すこ とができなかった。

        だが、頭の角であの老人が自分を呼ぶ言葉だけが煩く浮遊し、気づけば

        寝ているにも関わらずその艶めかしい唇を動かしていた。

        「ただ……私の本当の名前かどうかは解らないけれど、頭の中で誰かに「」って

         呼ばれ ていたような気がするの」

        「か……俺の名前は檜佐木修兵だ」

        「知っているわ」

        仄暗い木製の天井を見上げたまま何も考えずに行灯の明かりに照らし出される

        唇はまるで、紅を指したように色っぽく、きっと耳を掠めた言霊に気づかなけれ

        ばこの青年を虜にしていたことだろう。

        「何?」

        しかし、檜佐木は眉をピクリと動かせ蒲団に横たわっている彼女を見た。

        それは全くと同時で、視線は宙で触れ合った。

        「えっ……な、何……今の?」

        その刹那に触れ合っただけなのに胸のどこかでまた温かくなり、胡座を掻いて

        こちらを見ている彼から思い切り視線を外して蒲団を鼻まで被った。

        だが、自分の体臭とは全く異なった匂いにその鼓動が煩く鳴り呼吸がうまく出来なく

        苦しい。

        自分はどうしてしまったのだろうか、このどこの馬の骨とも解らない自分を

        拾ってくれ、介抱してくれた檜佐木には感謝している。

        きっと、彼でなく違う人ならこうは行かず、そのまま放置されるか売買されるか、

        どのみちこうして温かい蒲団で目覚めることはなかっただろう。

        「……すまない。急なことで驚かしてしまったか」

        「う、ううん……私こそごめんなさい。あなたのことを知らないはずなのに、

         口が勝手に…」

        「もしかすると、以前、俺のことを見て知っているのかもしれないな。……そうと

         来れば取るべき選択は一つか」

        顎に長い親指と人差し指の腹を備え、何かを考え込むと彼は言った。

        その瞳にはやはり、何の温度差も感ぜられなくて悲しい。

        疑問を抱きながら檜佐木の言葉を待つ彼女にはあんな終わり方が来るとは

        この時はまだ知らなかった。

        「お前の記憶の鍵はどうやら俺にあるらしい。拾ったのも何かの縁、その記憶が

         戻るまでならここにいても良いぜ」


        あれから何日が経ったことだろう、あの日彼から死覇装と姓を渡された。

        いくら記憶喪失とは言え、名だけでは出会った死神一人一人に不振の種を

        撒き散らすと言うことで檜佐木を名乗る許可をもらった訳だが、隊士どころか

        誰とも出会さない。

        最も、こちらとしては好都合な訳だが、こうも見事に独りの時間を過ごせるなど

        思わなかった。

        妙な雰囲気はいつも感じてはいたが、檜佐木には馬鹿な真似をするなと言う条件に

        反してしまうため、  瀞霊廷を出て行こうとは思わなかった。

        それは、今まで自分の名しか覚えていない女をここまで庇ってきてくれた彼に仇を

        返すことになる。

        その前に心の角で深い眠りに着いたもう一人の自分が拒んで、その度に以前と

        同じ激しい痛みが を襲い、それ以上を追求させなくする。

        ここまで面倒を見てくれた檜佐木のためにも早く記憶を思い出さなくては、と

        考える反面、ずっと傍にいたいと願ってしまう自分もいる。

        その感情は思い出さなければいけない記憶の欠片でもあるが、今の彼女を

        彩らせる感情でもある。

        は恋に落ちていた。

        寧ろ、自分の名かも定かではない名前を頼りにしている自分を介抱して

        くれている異性に何も抱かない方が不自然なのかもしれない。

        檜佐木の姓を名乗って良いなど簡単に言えることではない。

        まるで、彼の妻にでもなったみたいだと思っている自分は、かなりこの恋に

        溺れている。

        最も、その本人は自分の妹が新しく死神になったとでも紹介するつもりなのだろう

        が、今の彼女にはそれで十分だった。

        しかし、きっと、過去の自分は檜佐木のことを知っていて今の自分のように

        恋をしていたのかもしれない。

        そう思うと、自身のことだが、とても気に食わなくてもっと檜佐木修兵という

        死神を知りたくなると言う悪循環に陥っている。

        「〜ん!……あ〜、気持ちいい」

        日光浴するにはちょうど良い時間を見計らって、九番隊の部屋の屋根瓦に

        よじ登った彼女は、大きく伸びをした。

        癖のない髪を靡かせ、両手を組んで枕にすると青空を眺めた。

        今日も相変わらずの良い天気だ、こうして洗濯物のように体にその柔らかな日差しを

        受けているとどんな悩みもちっぽけなものに思えてくる。

        小さく欠伸を吐けば、瞼が壊れ掛けた御簾のように何度も行き来を繰り返して下りる。

        は空からこの瀞霊廷を目掛けるように真っ直ぐ落ちてきたと彼は言った。

        何者かは解らないが、気を失った相手を牢に放り込むほど野暮な性格はしていない、と

        顔を背けて話してくれた。

        そんな道端に置かれた名もない雑草を踏まず、敢えて遠回りをするような優しさが

        嬉しいし心の中がほぉと温かくなる。

        それは未だ深い霧の中にいる過去の自分ではなく、今、実際彼と言葉を交わしている

        の気持ちだ。

        失った記憶なんて思い出さなくても良い、檜佐木の傍にいたい。

        そんな気持ちだけが今の彼女を強くする。

        だが、そう思うのと同時に考えてしまうことがある。

        彼は自分の前ではなのか、感情を押し殺したように笑わない。

        それは檜佐木の言う「死神としての心得」と言うものなのかもしれないし、

        違うかもしれない。

        きっと、過去の自分は笑った檜佐木修兵を知っている。

        やはり、今のままではその失った記憶には勝てないと思い知らされて独り縁の下に

        座り、琥珀色の月を見上げた。

        頬を伝う涙の数だけ狂おしい気持ちが溢れ、嗚咽を堪えるのに精一杯だが今なら、

        虫の音と古から変わることのない月が包む夜ならば泣いても良いだろう。

        自分は檜佐木に愛されているのか、それとも単なる哀れみなのか、その答えが欲しい。

        しかし、勿論両者から返答はない。

        それでも、他に泣く場所も人もいなく全てが闇に還った時だけが自分に素直になれた。

        「………その願い、叶えてやろう」

        彼女が睡魔の中を漂っていると、見慣れた人影が足音も立てずに現れた。

        「あっ……あなたは…」

        あの立ち込めた霧の中から現れたのはずっと夢に出てくる上品な老人だった。

        夜着のように白い着物に樫の木だろうか、身長ほどの大きな杖を左手に、体を

        支えると言うよりもお洒落かもっと他の理由で携えているように見える。

        あ、そっか、ここは自分の夢の中なんだっけと納得し動揺を外に漏らさず、

        あの人をじっと見た。

        大地を蹴る足音もひたひたとした足音もしないのは当然だ、そう思い直そうと

        したがそれでも腑に落ちないのは何故、今、あの人と会話しているかと言うことだ。

        「わしなら、そなたの望みを叶えても良いが、その代わり条件がある」

        「条件…ですか?……私に…私に出来ることであれば、その条件お呑みします」

        「宜しい。もし記憶を取り戻し、想いを遂げても受け入れなかった場合、

         そなたは本来あるべき場所に戻りなさい。これが条件だ」

        「解りました。その条件、お受け致します」

        杖の先が白く輝きその強い光に目を瞑り、薄れていく意識の中で馬鹿な子、と言う

        胸の中に住まうもう一人のが呟いた気がした。


        「……話しとは何だ?」

        豪雨の中、二人は向き合っていた。

        死覇装と雨ざらしになった体が冷たいがそんなことはどうだって良い。

        全て思い出した。

        彼が部屋に戻ってくるのを待っていたら、雲が何やら集まりだし気がついたら四方を

        灰色に染め上げていた。

        「私、全て思い出したんです。自分が何者かも……修兵に伝えなければならないことも」

        「俺に?」

        軒下から空を睨んでいると、檜佐木が傍に立ち何やっているんだ、と声を掛けられる。

        その刹那に慣れたはずなのに、鼓動はバクバクと言い慌てて退こうとして死覇装の裾を

        踏んでしまい、倒れそうになるのを覚悟してぎゅっと瞼を強く閉じた。

        だが、一向にその衝撃はやってこなく恐る恐るその瞳を開けると何やってんだと床の上に

        下ろされた。

        先程まで彼が触れていた肩が温かい。

        体制を崩した彼女を何の躊躇いもなく抱き留めた。

        その何気ない優しさが愛しいほど悲しい。

        もし、自分が拒絶されれば檜佐木のことを忘れなければならない。

        それが、もう一人のが縋ってしまった代償なのだから…。

        彼女の本名は、これでも天女である。

        姿消しの呪文で入り込んだ真央霊術院で檜佐木を見たのが全ての始まりだった。

        彼があの傷を負った事件を見てしまった瞬間、は初めて死神のために力を使った。

        それは天界では罰則に値する行為だが、今はそんなことは言っていられない、

        早く助けたかった。

        しかし、虚の呪いは強く傷跡は深く彼の右頬に残された。

        「……言いたかったことはそれだけか。なら、俺は帰らせてもらおう」

        「待って!」

        瀞霊廷から少し離れた所に何もない芝生の茂った場所がある、この地こそ神と

        賭をして記憶を失い天空から墜ちる彼女を檜佐木が助けた。

        自分に背を向けた彼を後ろから抱きしめて瞬歩を遮る。

        「……離せ。用件は済んだんだろう、この場所にいるよりもさっさと」

        「いやっ!だって、……だって、私が言いたいのはそれだけじゃないから」

        「なら、さっさと言え。俺はそれなりに忙しいんだ」

        ため息を一つ吐き、の腕を解き正面を向く彼は悔しいくらいに平然とした顔だった。

        檜佐木があまり感情を露わにしなくなった理由は二つの事件が深く尾を引いている。

        口調も出来損ないのからくり人形のように事務的で冷たい。

        それでも、言いたい言葉が彼女にはある。

        「修兵が好き……だから、これからもずっと傍にいたいのっ!」

        他にもいろんな言葉が心を燻っていたが、結局口を付いて出たのはそんな有り触れた

        台詞だった。

        しかし、彼からの答えは唯一欲しい言葉ではなかった……。

        「還れ……元いた場所に」


        雨は夜には止み、どこの空へやら雲は散り散りに消えてしまった。

        神との賭……それは記憶を無くしてもまた好きになり思いを遂げることが

        出来るかだった。

        結局は、あの時のように何も出来なかったけれど、檜佐木と短い間だったが

        過ごすことも出来た。

        彼と言う死神を記憶から除外されても、後悔はない。

        神と契約をした際、先程同様に条件が言い渡されていた。

        この賭に負けたら、即刻天界に還り檜佐木の記憶を全て消されるのだ。

        死覇装を彼の部屋の前に置くと、障子と満月を交互に見て目を瞑ると他人事のように

        失礼しますと言って障子を開ける。

        今まで彼女の姿を誰にも見せないようにとの彼の働きで姿を消していた訳だが、今は

        その威力も期限外のため尽きてしまった。

        静かに障子を開け、中に入ると最初とは違い檜佐木が蒲団の中で寝息を立てている。

        彼は副隊長を任されている死神だ、空に還る自分と違って忙しいはずだ。

        「修兵……ごめんね」

        寝息を立てる唇に接吻を施すと、檜佐木の左頬に涙が零れた。

        唇を離すとまた小さくごめんなさいと呟き、来た時同様に音を立てずに白い格子を閉めた。

        彼に最後にもらった言葉は、唯一欲しい言葉ではなかったから……。


        昨夜、立った場所は一晩経ったと言ってもぐしょぐしょに濡れ、気を取られていたら

        泥に足を取られてしまいそうだ。

        左頬には消えない爪痕が、右頬には一滴の涙が、そして唇にはの温もりが残された。

        最初に出会ったあの日、本当は天女だと気づいていた。

        何者かは解らないが、気を失った相手を牢に放り込むほど野暮な性格はしていない、など

        ただの強がりな綺麗事に過ぎない。

        本当にそう思うのであれば、治癒を得意とする四番隊に預ければ良かったのではないか。

        しかし、実際はそうしなかった。

        感触が残っている唇を男性特有のごつごつした長い人差し指で押さえると、まだ自分の

        傍に彼女がいるのではないかと言う気にさせる。

        檜佐木は唇から指を離し、そして、空を見上げた。

        「仕える人がいるなら還れ。……俺はのことをずっと想い続けているだろう…」

        誰に対して出もなく無口な唇を動かす。

        空は今日もまた果てしなく広がっている。

        まるで、何かを地上に置いていったように、見上げた先は澄んだ碧が眩しかった。



        ―――…終わり…―――



        ♯後書き♯

        「唯一欲しい言葉ではなかったから……」は、いかがだったでしょうか?

        今作は、『護廷十三隊長/副隊長に片思い夢企画』の参加作品として

        作成しました。

        前回の市丸Dream小説は甘く閉めさせて頂きましたが今回は柊沢としては

        珍しく悲恋ものに致しました。

        最近、Dreamラッシュなので口直しに書いたのが裏話…(殴)