ジャン・ジグレール 世界の半分が飢えるのはなぜ?
たかお まゆみ・ 勝俣 誠 訳 合同出版 (2003年8月)
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ジャン・ジグレール教授のこの本はいつか読まなければならないと思いながら、ずっと手にせずにいた。だが、読み進めるうちに、意外な発見があった。ジグレール自身がキューバ革命に深い関心を寄せ、チェ・ゲバラと会っており、アフリカの革命家サンカラもゲバラに関心を持っており、さらに国連砂漠化対処計画のハマ・アルバ・ディアロ事務局長は、サンカラの友人だったのだ。ハマ・アルバについては、拙著「1000万〜」でも多少ふれて興味を抱いてはいたが、恥ずかしながら、その裏にこんな広がりがあるとはこの本を読むまで知らなかった。キューバという国にこだわり続けると、もうひとつの世界が見えてくる。これは、私なりのひとつの「仮説」だが、いみじくもこの本も、それを実証することになってしまった。
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この本が出たのは1999年とほぼ十年前になる。だが、当時から「格差」問題は深刻だった。教授はFАОの数値をあげる。
例えば当時も深刻な飢餓状態にある人々は3000万人、慢性的な栄養不良状態にある人々は、8億2800万人いた。栄養不良は、視覚障害や知能発達の遅れを起こす。1980年以降、ラテンアメリカ、アフリカ、アジア等の発展途上国では年平均700万人、約1億4600万人が視力を失った。そのほとんどは子どもたちだ。そして、毎年50万人もの若い女性が、体力が低下しているため、少しの感染症にも耐えられず、子どもを産むと死んでしまう。
慢性的な栄養不良状態にある人々の75%は農村、25%は発展途上国の大都市とその周辺部で暮らしている。だが、農村に居住し、自分で食料を生産できるはずの農民たちが、なぜ飢餓に苦しまなければならないのだ。この子どもでも浮かぶストレートな疑問に、教授は、それは食べものの値段を穀物メジャーがシカゴで決めているからだ、と答える。
教授によれば、人々が餓えるのは、ただひとえに食料が公平に分配されていないという構造的な理由のためなのだ。
FАОによれば、地球上には120億人分を養うだけの食料がある。穀物収穫量も十分にある。だが、穀物の取引価格は人為的にコントロールされている。コンチネンタル・グレイン(アメリカ)、カーギル・インターナショナル(アメリカ)、アンドレS・А(スイス)、ルイ・ドレフェス(フランス)、ブンゲ(オランダ)。こうした穀物メジャーが、シカゴのミシガン湖のほごりにある「シカゴ穀物取引所」で主要農作物を売買し、価格を決めていく。世界の飢餓は、シカゴの投機家の手に委ねられている。慢性的な飢餓に苦しむ国々や国連食糧計画(WFP)、人道的援助団体は、その食糧を決められた価格で買わざるを得ない。
世界はいま、農村社会の終焉と地球規模の都市化という荒波の中にある。19世紀初頭には、ロンドンが100万都市であったが、20世紀末には100万を越す都市が世界で数百にも登り、5億4000万人がそれらの都市に住んでいる。都市部の人口増加率は4.7%であり、このまま推移すると2015年には71億人のうち、60%が都市に住むことになる。国連人口基金の『世界人口白書』(2001)によると、2015年には、東京2640万人、ボンベイ2610万、ラゴス2320万、ダッカ2110万、サンパウロ2040万、カラチ1920万、メキシコシティ1920万、ジャカルタ1730万、上海1460万、北京1230万となっている。
ラテンアメリカではすでに全人口の75%が都市部に住んでおり、その大部分がバラックやトタン屋根、粗末なプレハブ小屋である。スラムは、ペルーでは「バイアダス」、チリでは「ポブアシオネス・カラムパス」、ブラジルでは「ファベイラ」と称されているが、ラテンアメリカの総人口の45%はこうしたスラム住民である。
なぜ、人々は都市へと流入し、スラムへと移り住むのか。ジグレールは、それは農村からはじき出されるためだ、と主張する。そのひとつは、プランテーション農業があるだろう。だが、環境問題や戦争の影響も大きい。
世界では陸地の四分の一、乾燥地域の可耕地の70%で砂漠化が進行している。その速度は加速化しており、国連砂漠化防止会議(UNCОD)によると1997年現在、毎年600万ヘクタールが荒廃している。近いうちに10億人が砂漠化の脅威の影響を受けるとされている。
1996年、砂漠化対処条約が発行し、ボンに事務局が設けられた。砂漠化対処条約に基づき、先進国の農業、水、気候等の専門家の援助を受け、専門家と現地の住民とが協力しあいプログラムを作り、実行していく。だが、様々な対策が講じられたものの、砂漠化は泊まらず、1998年にセネガルの首都ダカールで開催された「第二回砂漠化対処条約会議」では、100万人単位の農民が砂漠化で牧草地や畑を失い、収入を得る道を失ったことが明らかになった。こうした人々は「環境難民」と呼ばれるが、政治的な難民とは異なり、1951年の難民条約に規定された難民としての権利は認められていない。UNEPや国連砂漠化対処条約(UNCCD)によると、現在2億5000万人の環境難民が発生しており、今後10年のうちにさらに10億人まで増えると推定されている。
人々を飢餓に追いやるきわめつけは戦争である。アフリカの総人口は世界人口の15%だが、飢餓人口の25%を占める(2000年)。世界に約2500万人いる政治的難民の半分はアフリカで発生している。1970〜99年の間にアフリカでは43回戦争が起きた。その結果、家や畑、家畜を失い、故郷を追いだされた人は300万人以上と推定されている。
世界の資産家225人の総資本は1兆ドルを超え、これは最貧国に住む25億人の年間収入に匹敵する。世界の資産家15人の資産は、南アフリカを除くサハラ砂漠以南のアフリカの全諸国のGDPに匹敵する。世界のトップ企業100社の売上げは、発展途上国120カ国の全輸出総額よりも多い。だが、格差は先進国内でも広がっている。ビル・ゲイツの資産は、アメリカ人の低中所得者1億1250万人が所有する総資産と同じである。ゼネラル・モータス社の売上げはデンマークのGDPよりも多く、アメリカの石油大手エクソン・モービル社の売上げは、オーストリアのGDPを上回る。そして、1999年の世界銀行統計によれば、金融資本は世界中のGDPの63倍にも達している。
ジグレールは、飢餓問題の抜本的な解決には、各国が自給自足経済を自らの力で達成していくしかない、と主張する。求められるのは、与えられる援助から、自ら考え立ちあがるためへの援助への発想の転換であり、現地での改革のためのアクションであると述べる。
実際にそうした改革はラテンアメリカでは60年代から起きていた。
1960年代、北部ブラジルでは、フランシスコ・ジュリアンが中心となって改革を進めた。大規模農場を会報誌、土地を持っていなかったインディオと白人との混血、カボクロスたちにわけ与えたのである。数千ヘクタールものサトウキビ畑が、野菜や果樹、トウモロコシ畑へと転換した。だが、この改革は1964年3月に起きた軍事クーデーターによって崩壊し、多数の農民は再び飢餓に悩むこととなった。
1970年、チリでは左翼政権と労働組合が「人民戦線」を結成。元小児科医であったサルバドール・アジェンデ大統領が選出される。アジェンデは、子どもたちの栄養不良状態を解消するため、毎日すべての子どもたちに無料の粉ミルクを配給することを公約に掲げる。アジェンデの打ち出した政策は、チリの自立性を高め、国内の社会的公正を強化することを目指したものだった。もし、このプログラムが打ちだされれば、米国の多国籍企業は恩恵を得られなくなる。1973年9月、CIАとの協同でピノチェト将軍率いる軍部がクーデターを起こした。アジェンデ大統領と同志たちは、武器を手に大統領府で応戦したが、午前11時に国民向けに最後のラジオ演説を最後に肉声が途絶えた。このクーデターでは、大学生、知識人、芸術家、一般労働者など数千人が殺害された。
チリのアジェンデ政権は、中部と南部の原生林を守るべく、原生林についても包括的な保護法を決定していたが、ピノチェト将軍はその法律をすべて廃棄し、捨て値のような価格で外国企業に売り払った。北米のミニコ社、テラノバ社等が主な売却先だが、原生林に居住していた原住民マプチェ族を追いだし、広大な原生林を破壊した。
1979年7月、ニカラグアではサンディニスタと呼ばれる民族解放戦線が首都マナグァを制圧。独裁政治を行なっていたソモサ大統領は米国へと逃れた。サンディニスタは慢性的な国民の飢餓を解消するため、抜本的な農地改革を行なう。だが、この改革も1982年以降は米国のレーガン政権が介入し内乱へと陥っていく。
アフリカでも改革はあった。サハラ沙漠の南端には、ブルキナファソという人口1100万人ほどの貧しい国がある。2002年現在、一人当たりの国民所得が208ケ国中193位という最貧国である。国土は27万平方kmだが、地下資源もなく、大半が乾燥地で耕作可能な土地は全体の25%しかない。穀物収穫量もヘクタールあたり540gという低さである。
ブルキナファソは元フランス領で、1960年に共和国オートポルタとして独立した。が、事実上以前の宗主国であるフランスに管理され、1966年以後軍事政権が続き政治腐敗がはびこっていた。3万8000人いる役人が国家予算の70%を自分たちの給与にあて、10月に予算を使い果たすと外国の援助に頼り切るというありさまだった。
役人たちはたいした仕事をせず、全住民には人頭税がかけられていたため、支払いができない世帯には、村の徴税係が容赦なく家財や牛、ヤギ、農産物などを取り立てた。差し出すものがないと強制労働に従事させられたり、女性が未納税のツケとして要求されたりしていた。
トーマス・サンカラという人物が登場する。サンカラは、モシ族とフルベ族との混血で聡明で快活な人物で、国民を養うための食糧を生産するには、社会的公正が不可欠である、とこう考えた。サンカラは軍の大尉だったが、仲間の若手将校団とともに83年8月4日にクーデターを引き起こす。そして、政権を取ると「革命防衛委員会」を組織。人民・民主主義型の政治改革に取り組んでいく。84年には国名を「高潔な者たちの国」という意味を持つブルキナファソに変え、まず役人たちのリストラに手を付ける。
国内には公的機関以外には働き口がなかったが、国内を各地域の持つ文化や歴史に配慮して30の行政区に区分し、各地域で住民たちが地域を治めていく「自主管理政策」を導入した。住民自身が役人たちを雇い、道路、建設、水道、保険・医療事業など本当に自分たちの暮らしに必要な公共サーヴィスを実施していくやり方を導入したのである。
また、評判の悪かった人頭税を廃止し、開墾可能な土地を国有化した。村の運営責任者が自分たちの判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作付けすれば良いのかを指導する。そして一人ひとりの作業量に応じて金銭や収穫物、人的サーヴィスという形で支払いを行なった。
それぞれの家庭の必要に応じて土地が配分。強制的な徴収に脅かされることがなくなった農民たちは安心して農作業に汗を流していく。
改革がはじまり4年も経たないうちに、農業生産は急増し、財政赤字は大幅に削減され、余剰資金は、道路建設、小規模な水道敷設、農業教育の普及、地域毎の手工業の促進等、住民に密着したプログラムに投資されていく。わずか4年の短期間で自給農業への転換が図られ、人々は人間としての生きる誇りと尊厳も回復させていく。
希望に燃えた人々は、例えば、サンカラが呼びかける鉄道敷設事業に、金銭的な報酬がないにもかかわらず、ボランティアで参加し、灼熱の太陽の下で数千の人々がレールを敷き、鉄道建設に汗を流していく。サンカラの改革とブルキナファソの名は、西アフリカはもとより、中部アフリカ地域にまで広まった。
だが、このサンカラの改革は、困ったことだった。政治的に腐敗していた近隣諸国にも影響を及ぼしかねなかったからである。事実、象牙共和国、ガボン、トーゴ等の各政権は多いに揺さぶりをかけられた。サンカラの改革をそのまま見逃しておくわけにはいかなかった。こうして、外国勢力をバックとした国内の軍事勢力により1987年サンカラは暗殺される。サンカラの死とともに、ブルキナファソは、政治腐敗、それと表裏一体の外国の支配、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、慢性的飢餓、絶望する農民たちという普通のアフリカの状態に戻った。
さて、ジグレール教授は、スイスのジュネーブ大学の社会学の教授で、フランスのパリ・ソルボンヌ大学でも教鞭をとっている。発展途上国の問題や飢餓問題に精力的に取り組み、2000年9月には国連人権委員会の「食糧に対する権利」の特別報告者にも任命されているという。
だが、そもそもジグレール教授が飢餓問題に関わることになったのはなぜなのか。ここでキューバが登場する。若きジグレール青年は、当時、誕生したばかりの「キューバ革命」にあこがれていた。そして、1964年(本では68年となっているが誤植)にスイスのジュネーブで国連貿易開発会議(UNCTАD)が開催され、キューバからチェ・ゲバラ(1928〜67)が参加した際、まだ、学生だったジグレール青年は、チェが滞在していたホテルを訪れ、開口一番こう頼んだという。
「革命に参加したいのです。私をキューバに連れて行ってください」
だが、チェは彼の手を引いて、レマン湖を見下ろすバルコニーまで連れていき、対岸に輝く製薬会社バイエル社や食品企業ネスレ社のネオンサインを指してこう語ったという。
「君はスイスに残って、この怪物と戦うのだ」
ジグレール30歳。チェは36歳だった。
国際砂漠化の事務局長であるハマ・アルバ・ディアロは大変な切れ者で、2003年9月にハバナで開催された第七回砂漠化会議でも、フィデル・カストロの取り組みを高く評価している。このハマ・アルバはフルベ族出身で、ブルキナファソのサンカラとも親しい友人だった。そして、サンカラの死を契機に、豊かな国と貧しい国とが共に行動していくための国際的な活動を行なおうと決意したのだという。
ジャン・ジグレールは、サンカラが殺される年の9月のある晩、国務でアディス・アベバに来ていたサンカラと偶然と出くわした。そして、自らの死を予感していたのであろう。サンカラはこう口にしたという。
「チェ・ゲバラは殺されたとき、何歳でしたか」
ジグレールが39歳と8カ月だと答えると、サンカラは「そうですか。私はそれまで生きていられるでしょうか」と考え深げに述懐したという。
トーマス・サンカラ、享年37歳。その死はゲバラよりも短かった。
(2004年6月11日)
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