キューバはゆっくりと世界経済へ再統合しているが、地域的な自立とグローバルな交流とのバランスを取れるであろうか?。それともマネーや消費主義の大きな波によって、その足元をさらわれてしまうのだろうか?。カンクンからハバナへと向かうアエロカリブのフライトは、その前のマイアミからカンクンへのアメリカン航空の飛行よりもずっと絶叫的だった。老朽化した機体は、ちょうど40分飛行した後、キューバの滑走路にぶつかると痛ましく音を立てた。そして、暗い滑走路上に現れた数十人の人々はどうみても観光客でなかった。彼らの荷物は、歯みがき粉、トイレット・ペーパー、食料といった必需品をいっぱいに詰めこんだビニール袋からなり、そうした品々は最近ではハバナでは簡単には見つけられないのだ。
私たちの1957年製のシボレーは、町へのメインロードのでこぼこの深いくぼみに沈んだ。町へのドライブは「もうフロリダにいない」というメッセージを強調するものだった。夜間でさえ、路上にはそれ以外の車がなく、旅が妨げられることはまったくなかった。そして、目が暗さに慣れるにつれ、道の脇を歩いたり、自転車でハバナへと向かう何百人もの人々を目にすることができたのだ。
あることについて洞察を得る最高の方法は、それが、そうではない所へ行くことだ。世界的に資本の流れは、個人マネーの空前のうねりとなり、それは世界に対して重大な影響をおよぼしているのだが、その流れは、キューバをおおきく迂回している。その島国家は、30年以上の中央計画から脱しようと試みているのだが、ちょうどの90マイル北方にある超大国によって35年間の経済封鎖されたことで、世界経済の縁辺にそらされてきたのだ。
キューバにとっての現在の問題は、より持続可能な社会を開発し、同時にその経済や政治システムを次第に開放していけるか、ということだ。私は、1997年2月中頃に、ヨーロッパが主催する国際環境シンポジウムで、ハバナに招待された。ヨーロッパ人たちは、キューバの専門家たちに外国の専門家とアイデアを交流しあう機会を提供したがっていたのだった。
今日の世界では、経済封鎖は、経済的な貿易のみならず知的で文化的な交流も阻害する。国際メール、電話回線、そして、インターネットへのアクセスでさえ限られているため、私が出会ったキューバの研究者たちは、私たちが供給できるどんな環境についての情報にも飢えていた。「ワールド・ウォッチ」のスペイン語版を少し提供すると、あっという間になくなり、何十人ものキューバ人が紙の切れ端に名前を走り書きした。そして、一旦私がワシントンに戻ったならば、本か雑誌を送ってくれるように頼んだのだった。
1991年、ロシアが30年もの大きな経済援助から突然に手を引いたとき、バレルあたり2ドルの石油やトラクター、肥料、そして消費品でさえ、突然に停止したのだった。当時、キューバはまだ1957年の革命以前にあったのと同じひとつの商品、サトウキビの輸出に依存していた。そして、米国はその経済封鎖を解除することを拒否し、米国系企業がキューバに投資をすることやキューバが世界銀行やその他の多くの国の貸し主からローンを得ることを認めることすら妨げたのだった。
結果として生じた経済危機は、スペシャル・ピリオドとしても知られているが、多くのキューバ人を飢餓に近い状態にさせたのだった。圃場で使う肥料はなく、トラクターを走らせる燃料もなかった。ロシアから廉価に輸出されたおかげで、小麦はキューバの食事の主要作物となっていたが、熱帯気候では、小麦を育てることはほとんど不可能である。これに応じて、多くの人々は、米や豆という伝統食に戻らなければならなかった。
一方で、キューバの農民たちは持続可能な農業へという応急コースに乗り出した。畑を耕すため牛に換え、生物学的防除をモスクワの農学者によって計画された農薬の代用とした。同時に、ハバナでの多くの空き地が、たちどころに都市の野菜菜園で満たされた。
こうした最初の数年間に、公式の経済は、驚くべきことに40%まで低下した。石油輸入は半分まで落ち、12時間以上の電気停電がたびたび続いた。年代を重ねた米国製の自動車やバスを走らせる燃料がなく、キューバ人たちは何千台もの自転車を輸入した。そのいくらかは中国から購入され、残りは北米やヨーロッパの支持者から贈与された。重要なサトウキビや重んじられた葉巻の生産さえ、急落した。
だが、キューバが、ほとんどの海外の観察者たちが予測したよりもずっとはやく回復したこともわかっている。ソ連が消滅してから5年、フィデル・カストロはいまだに政権を握っている。1997年には早くもトラクターが畑に戻り、停電はほとんどなくなり、経済は再び拡大している。そのひとつの理由は、キューバ政府が次第にその経済統制の一部を手放したことだ。1993年以降は、主にサービス業において約100もの自営業が許可されている。そして、ハバナの中心街は、新鮮な食料や工芸品、照明具、製造品を販売する市場でいっぱいになっている。
その一方で、政府は、多くの規制をしながらも、世界の資本市場とキューバとのつながりを再開した。外貨を求め、現在ブームとなっている重要ないくつかの部門、観光ホテル、石油、鉱山、砂糖にヨーロッパ、カナダ、ラテンアメリカの投資家が、投資することを奨励した。60以上の海外企業が、キューバに事務所を開き、すでに50億ドル以上を国に投資している。
観光業が、国の主要な外貨の稼ぎ手となり、すみやかにサトウキビにとって代わった。ほとんどがヨーロッパとラテンアメリカからだが、1995年だけで、キューバは80万人もの観光客を呼び込んだ。キューバには世界でも最も素晴らしい珊瑚礁が残されており、ネーチャー・ツアーへの大きな可能性がある。そして、北部群島でのエコツーリズムの奨励も検討されている。近年、もうひとつ優先されているのは、輸入石油を代換するための、風力、バイオマス・エネルギーといった再生利用エネルギー源の開発である。
1993年には、カストロは、米ドルを通貨として認可するという並外れた手段をとる。以来、ドル経済が繁栄している。私がキューバにいた間中、1ペソさえ目にしなかった。2人か3人の以上の米国人にしかあわなかったのにである。国内にある米国製の唯一のものが通貨と40年以上も前の旧式車であるというのは何か奇妙である。
牛肉、ガソリン、そしてタクシーといった商品さえ今では利用可能だ。だが、人々がそれを購入したり、借りるにはドルを持っていなければならないのだ。無論のこと、これは経済的な不平等を増やしている。キューバ人のほとんどはペソだけを稼いでいるし、闇市場や為替相場では、年間1,000ドル未満の平均収入を得ているからだ。典型的な医師や教授の生活水準は、1990年の段階よりも、はるかに下がっている。車を所有する人さえ、車を動かすのは週につき2回の余裕があるだけなのだ。それでも、キューバの平均寿命や識字能力は、いまだにメキシコをはるかに越えており、米国のそれに近い。
政治改革は、さらによりゆっくりと生じている。東ヨーロッパとは異なり、キューバ革命は、外から強要されたものではなく、悪い旧体制に応じて生じたものである。カストロはここ数年は、一部で人気を失ってはいるが、かなりの支持率を保持し、権力を掌握している。総選挙はなく、国内報道も慎重にコントロールされ、異議表示は違法で、多くの反体制派は刑務所で苦しんでいる。現在は、地方選挙が許可されており、国際報道は比較的自由にキューバへアクセスでき、人々は自分たちが選んだ教会で礼拝する権利を持つ。
米国は、もちろん1996年のヘルムズ・バートン法律により、その同盟国に圧力をかけることでキューバが経済改革をできないよう強制している。そして、キューバに投資するヨーロッパの他の会社に対しても罰則で脅している。だが、ハバナに数時間いるだけで、このことがどれほど無意味で、潜在的に逆効果であるのかがよくわかる。ビジネスの流れはキューバの細い穴から急速に染み込んでおり、経済的な不平等を広げてはいるものの、また、新たな機会を開き、政治的な変化に対する欲求を加速化させているのだ。
旧ソ連と比較し、キューバは米国の経済封鎖によって強化された団結感と同様に、豊かさを経験した市場から提示された機会を得ている。ほとんど40年もの間、キューバ人たちは起業家(アントレプレヌール)的でなければならず、創造的でもなければならなかったのだ。でなければ、こうした旧式の米国車をこれほど長持ちさせることができただろうか?。
私が驚かされたことに、数人のキューバ人は「米国の経済封鎖はある意味では好いことだ」とまで語ったのだ。彼らは、1957年にカストロやその1団がハバナに入る以前に、キューバを支配していた植民地スタイルの資本主義に戻ることを望んではいないのだ。彼らが言うには「経済封鎖は、グローバルな市場にコントロールされながら少しづつ再入することを可能とさせさせているし、キューバがその政治的なシステムを民主化する機会を与えているし、同時に、政府が提供したヘルスケアと普遍的な公教育を含めた最近の10数年間でやっと手に入れた社会益を存つ機会を与えているのだ」という。
「スペシャル・ピリオド」は、マルクス主義の死んだ理論にかわり、持続可能性という新たな倫理をキューバが考慮する機会を与えた。だが、米国が、キューバを窮乏状態に強いることによって、苦闘する国家に、より持続可能な活動への転換をはじめる必要性のインセンティブを与えたのかも知れないと考えるには少しだけ時間がかかろう。だがその活動は、米国それ自体がいまだに中毒におかされているよりもはるかに持続可能なのだ。
剥奪の結果、多くの人々が車から自転車や歩行へとシフトし、農薬集約型の農業から有機農法や家庭菜園をより多く重視するようになり、補助金に大きく依存した中央経済から、独立系企業を新たに奨励するまでシフトしている。環境保護主義者にとり、両面価値をもって理解すれば、そうした国家が西半球、あるいは、この惑星上に存在することに、反応することは困難ではない。
問題は、より開かれた社会としてやって来る新たな富や自由な思想の流れを受け入れながらも、キューバがこうしたイニシアティブを保ち続けることがどうかということだ。おそらく、キューバは、ローカルな自立とグローバルな交流という、両世界の最上のものを選択することで、新たな種類の事例を提示することができるだろう。
とはいえ、多くの国と同様に、現在アジアやラテンアメリカの多くを均質化しているマネーと消費主義の大きな波によってその足を救われ、キューバが両者の最悪のものを取って終わるという危険性も残っている。この冷戦の最後の戦場は、慎重に再考し、そして困難な今後の年月への友好的な支援に値するものなのだ。
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