
ハバナのベダドにあるオルランド・パントハ小学校は、1959年の革命勝利後にキューバから逃亡した大金持ちの二軒の上品な大邸宅内にある。
弓形のポーチ、ギリシャ風の柱、鍛鉄や豪華なタイル張りの床で飾られたクラッシックな邸宅は、以前のエリートのために建てられた快適な住まいだ。
ベダドはスペイン語で「禁止」という意味だが、ハバナのこの地区がどれほど排他的であったかがよくわかる。そして、この邸宅は、今は、キューバの唯一の「特権階級」である子どもたちのために役立っているのだ。その名は革命のヒーローにちなむ。603人いる生徒たちの中には、キューバの有名な国家バレエ・トレーニングで全国から選ばれた105人の子どもたちもいる。私は、グリセル・ラミレス先生が教えている一年生のクラスを訪ねてみたのだが、あらゆる人種の子どもたちが一緒に学んでいて、完全に統合されていた。私は、国語の勉強がどうかを子どもたちに聞いてみたのだが、「シー!」という返事がコーラスでかえってきた。
マルサ・サンチェス校長は、適切な食事から小どもの病気への免疫摂取まで、キューバの子どもたちにはすべてが提供されており、そのほとんどは、キューバの優れた公共学校制度を通じてのものだ、と言う。政府は、毎日のミルクを含め、適切な食事も保証している。
「学校はどの子も無料です。子どもたちは、毎日来ますし、私たちは本、書類、鉛筆を供給します。無料で昼食も提供しています。28人の教室の教師、15人の教育補佐、そして、10人の非教育職員がいます。6年生の子どもたちには英語の教師がいます」
「本校は、革命後にキューバを去った裕福な工場主のものでした」と、校長は言い足す。「1961年に、それは学校に変わりました。在校生が増えると、通りの向こう側の家にも広げたのです」
革命以前は、キューバ人のほとんどが文盲だった。1961年に、キューバは、人々に読み書きを教える識字力向上キャンペーンに着手する。
「それは社会主義の業績のひとつです」と、サンチェス校長は言う。
「私たちは、あらゆる費用をかけて、この成果を維持しなければなりません。経済封鎖で困難にはなっていますが、どの学校も閉鎖していません。すべての学校の状態を国が保証しています」
識字力向上運動で、キューバの識字率はラテンアメリカ最高の95.2になり、それは、キューバの子どもたちの幸福さの鍵の指標でもある。キューバの厚生省は、1月1日に1,000人あたりのキューバの乳児死亡率が1995年の9.4人から1996年には7.9人に低下したと発表した。革命翌年の1960年には、キューバの乳児死亡率は65人だった。
キューバはいま、乳児死亡率が米国のそれよりも低く、世界のトップ20にランクされている。私が米国を出た週には、資格としての福祉に幕を引く後退があった。さらに100万人の子どもたちを貧困へと押しやる法律だ。米国の子どものほぼ4分の1はすでに貧困状態におかれている。
学校組合の代表、メルセデス・バエズ・ムロさんは言う。
「私たちは全スタッフと同じく、この学校には全教師とのミーティングがあります。教師の指導力向上を奨励するエムラシオン制度があり、毎年、私たちは「その年の教師」を選びます。また、労働条件について懸念を述べる機会を労働者に与えるミーティングもあるのです」
キューバにはキューバ版のPTAもある。
「私たちは、それを学校委員会と呼んでいますが、そこでは、各クラスの両親が、問題やそれに関して何ができるかを議論するために集うのです」と、サンチェス校長は言う。コミュニティ組織や地元政府も学校を維持するためにこうした取り組みに加わっている。
「経済封鎖がそれを難しくしました。例えば、いくつかの医薬品は手に入れるのが困難です。ですが、人民、そして、まずなによりも子どもたちの状況を改善するために、党により講じられた行動をご自分の目で確かめられるでしょう。ですから、経済封鎖にもかかわらず、私たちは戦っているのです。私たちは降伏するつもりはありません」
昼休みに、運動場に出てみた。赤と青色の若者パイオニアのバンダナを付けた子どもたちが、ハンバーガーをほおばっていた。私は、にぎやかで、健康で、幸せそうな子どもたちの写真を撮った。ひとりの大胆な少年、身体が大きく、前歯が欠けて、ニコニコしている1年生、ホルヒト・ベガ)君は、疵のない英語で、「僕らを訪ねてくれてありがとう!」と言ったのだった。
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