
学力の達成度の主な要素は、教師と子どもとのその奇跡の関係による。誰もがそれをわかっているし、それを立証する学校での日々には素敵な記憶を持っている。そのことは、国を超えた教育者や教育委員会のメンバーが同伴したキューバへの最近の視察団の間でも理解された。
AASAがスポンサーとなったこのユニークなミッションのアレンジは、テキサス大学のノーラン・エスティス教授がやった。
私はキューバで生まれで、9歳のときにキューバを去ったから、私にとっては、特にこの旅は重要だった。44年後、私はここにいて、キューバの教育制度を学んでいるのだ。私は、好奇心が強いし、疑い深い。どの子どもも健全な教育にアクセスできているのかどうか、少なからず懸念していた。たとえ、どこに住んでいようとも、すべての子どもは、ある意味で私たちのものだ。
私は何を学んだか。まず、私は、キューバには文盲解消の一助となった教育へのかなりのコミットメントがあることを学んだ。教育の経験は、チャイルドケアや保育園から始まり、大学レベルまで広がっている。どの学生にも高等教育やプロの資格を追求する機会がある。例えば、キューバ当局は、国内の120人の住民あたりに訓練を受けた医師がいることを誇っている。
第二に、私は、いくつかの最良のキューバの中学校が居住施設であることを発見した。学生たちは、月曜日から金曜日までそこで暮らし、週末に家に帰るのだ。学校では、彼らは、アカデミックな準備と労働経験の厳格な体制に従う。また、彼らは社会主義と共産主義のドクトリンに服従させられる。
革命史を研究する人々は、教化の最初の目標として、キューバの若者を募集することに焦点をおいたフィデル・カストロの識字力向上キャンペーンのことを知っている。次には、それが、キューバ全体に社会主義を普及させるツールになるであろうとの前提があったのだ。まことに、教育制度はカストロの人々の批判的な思考と自由な表現を阻むのにおいて最も効果的な手段のひとつだ。
第三に、私は米国の教室では本質的と考えられるモノの不足を見出した。私たちは豊富な設備、材料と供給物に慣れている。それらがキューバの教育環境ではただ手に入らないのだということがわかると、グループとして私たちはひどく驚かされた。コンピュータは稀だし、一般に古く、時代遅れだ。学校図書館で適用されているのは、埃をかぶった鉄製の棚の古書の収集だ。
第四に、キューバの学校が、モノ不足で運用されているという事実にもかかわらず、子どもたちがとても規律ある環境で学んでいることを観測したのだ。教師は、知識を伝えたいと思っており、創意の豊かな心は、学びたいと思っている。ある意味で、どんな教育であれ、その最も基本的な要素である教師と子どもにゆきつくということを想起させるものとして、この事例は役立つ。
同時に、この視察団での私たちは、もし、こうした学校や教師たちが、ほとんどの米国の学校が教授している豊かなカリキュラム、教材、設備、供給にアクセスできたなら、どれほど過程が効果的であろうかと思った。旅では比較ができるようになる。疑問の余地なく、キューバの学校は、政府のプロパガンダの普及のための道具であり、われわれの学校では当然とされる資源が著しく欠けている。米国での教育は、学生たちが自分の考えを持つのを助けて、自由で民主的な社会と自由な市場経済に完全な参加するようデザインされている。ドクトリンは大きく異なる。にもかかわらず、キューバ人たちがほんのわずかなものしか手にしていないのに生み出しているという成功の度合いは印象的だ。
彼らは、私たちが不可欠だと考える教育学やハイテクの整頓なしで達成がいまだに可能であることを示している。私たちにとっての教訓は、あらゆるやり方で教育を改善し続けることが必要でありながらも、私たちは学力達成のための主成分、すなわち、教師と子どもからはぐれるべきでないということなのだ。
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