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アグロエコロジー 第1章 エール大アグロエコロジー・リポート



はじめに


 21世紀の地球は二重の危機を科されています。ひとつはエコロジーの危機です。ここ数十年、環境保護主義(environmentalism)が高まっているにもかかわらず、保護政策は失敗しています。森林破壊と種の消失が加速化し、かけがえのない生態系はこれまで以上に急速に破壊されています。農業や医薬品にとって大切な遺伝資源が消えうせ、毒性汚染が増え、私たちの惑星の危機は急速に加熱しています(Speth 2004)。ほとんどの国、とりわけ、米国では、遅れた否定的な環境政策を追い求めています。もう一方の深刻なグローバルな危機は貧困と飢餓です。この世界では人口増加よりも食料生産の方がずっと多いのに、人々の約15%は慢性的な飢餓状態におかれています(1)。

 一年や毎月の一部となれば、さらに多くの人々が飢えています。この不必要な飢餓は、貧困と食料生産資源の不平等なコントロールのためなのです(Sen 1990, 1991)。あまりにも多くの人々が食べ物を買う収入やそれを稼ぐための手段を欠いていますし、あるいは、以前には自分や家族向けに食料を生産していた土地を失っています。この静かな危機が、多くのグローバルな不安定と不安定の根本的原因です。飢餓と貧困が自暴自棄を作り出し、それが、民族的宗教対立、そして、テロを引き起こしています。これが、結果として、ほとんど正当化できませんが、征服や占領への新たな戦いを生み出しています。

 このレポートが正そうと努力する深い誤解は、片方を悪化させずには、この二重危機のどちらにも対処できないという信念です。多くの保護論者たちは飢餓を終焉させるためには、多くの森林を伐採し、多くの河川にダムを構築しなければならないと確信し、多くの生物種が破壊されています。ある者は、環境破壊への人間の責任を考え、人間の結果がどうなろうと、唯一の倫理的な姿勢は、自然や他の生物種を守ることだと心から信じています。多くの保護論者たちはこのいらだたしい深い道徳的なジレンマに悩んでいます。同時に、貧しい人々のための多くのアドボケーターたちは、この保存主義のエリート主義と非良心的なスタンスから彼らを認めようとしません。何が保護論者に、誰が食べ、誰が食べないかを決める権利を与えるのでしょうか。そうたずねます。いったい誰の自然環境が人々からフェンスで仕切られるのでしょうかと。

 貧困や開発にかかわる多くの政策立案者と活動家にとって「保護主義」はマルサス主義を内包しています。つまり、開眼して価値に値するわずかの者を除いて、自らの社会福祉、つまり、天然資源の基礎を破壊するまで、人間は愚かさを繰り返し続けるとのトーマス・マルサス(Thomas Malthus)に引き続く19世紀の前提です。

 多くの自然保護派たちは、こうした疑わしいマルサスの概念を超えています。彼らは「人口過剰」や「提供能力(carrying capacity)」などの概念は、絶対的な意味では意味がないと認めています(2)。保護論者の中には世界飢餓は、世界に過剰にある食料の不公正な分配の反映だと理解している者もいます。ですが、これらは、よく知られた環境団体やマスメディアに代表される保護論者の声とはなっていません。結果として、「プチ貧しくpro-poor」と「親自然pro-nature」の声が高まり、お互いを疑うか、またはお互いを相殺するために使われています。

 ですが、このリポートでは、地理学者のカール・ジンメレル(Karl Zimmerer)が有望な傾向を指摘しています。多くの伝統的な保護論者たちが必要に迫られ、農民や他のローカル資源利用者への関心をその保全計画に取り入れています。野心的で、しかし、問題ある中米の生物コリドー(Meso-American Biological Corridor)のようにです。多くの人々が、農業とそれを満たす人間のニーズは、私たちが保全しようとしている原生自然としての環境保護主義にとって重要だと考えられることを理解し始めています。

工業的農業のエコロジーと人々へのコスト


 保護論者と貧しい人々のためのアドボケーターとの誤解の多くは、農業に集中してきました。農業は、断然、全世界の土地と淡水資源の最大のユーザです。多くの森林が農地、牧草、プランテーション拡大のために、材木よりも土地をならしています。それは、農民が森林の敵であることを意味するのでしょうか。そうではありません。潜在的に全く違います。農業と保護とは不和ですが、それらはお互い支えられあえます。これが、このレポートが基づくワークショップをインスパイアーしたエール大学森林環境学部院生たちのフィールド調査結果でした(McAfee 2004)。

 ですが、農業は多くの形態を取ります。米国のほとんどの農業は、大規模農場か巨大なアグリビジネスとの契約下におかれた画一化された栽培者集団です。ですから、こうしたメガ規模での運営では、まさに一種類か、わずか数種の作物を、それぞれが遺伝的に同じかほぼ同じ圃場で生産しています。石油の動力付きの機械によって畑は耕され、作付され、散布、収穫されます。果実や野菜が季節労働者によって散布され、収穫される時を除いてです。工場のようなこの農業の生産力の維持は、製造肥料の継続的な適用と絶えず増え続ける農薬の使用に依存しています。

 モノカルチャー農場に対応した食肉生産では、何千もの豚、牛、鶏が広大なロットに閉じ込められ、悪臭を放つ檻、あるいは狭い檻の中で、単調な穀類か再生動物性たんぱく質を与えられ、成長を促進するためにホルモンと感染病を管理するための抗生物質を投薬されています。作物と家畜は同じ農場で生産されることがほとんどないため、潜在的には飼料や天然肥料となる源が、廃棄物や汚染物質になっています。作物と家畜の空間的な隔離が、アグロエコロジー的には効率的な本物の閉鎖式した循環を壊しています。エネルギーと栄養物のリサイクルは、初期近代のイギリスと合衆国の食糧生産ではかなりブームだったのにです(Duncan1996; Stoll 2002)。

 現在の工場方式の農場の結果は、劣化して浸食される土壌、使い果たされた帯水層、汚染された井戸と水路、作物肥料と動物排泄物の流亡で引き起こされた海洋の「デッドゾーン」です。大型機械により圧縮されて農薬で弱められた土は、より乏しい保水力しかなく、有機物や微生物が豊かな生きた土よりも多くの潅漑を必要とします。モノカルチャーと狭い摂食で、動植物は病気に傷つきやすくなり、殺虫剤と医療化学物質の適用は、昆虫、雑草、微生物の抵抗を生み出し、さらに多くの化学物質か新タイプの化学物質が適用されなければなりません(3)。

 長期的に見れば工業的農業が維持できないことがわかっています。工業的農業は莫大な社会的経費もかかります。必要な投入資材(種子、化学物質、機械)、作物価格、輸送、加工、卸売り、小売業は、どんどんと数少ない巨大コングロマリット企業に牛耳られてしまっています(Hefferman and Hendrickson 2002; Murphy 2002)。農民や家畜飼育者たちは、何を育てるか、どうやって育てるか、どうやってケアするか、そして、どんな値段で自分たちの家畜や収穫物を販売するかについて少ししか口にしません。名目上は独立していても多くの家族農家は、実際には、こうした巨大アグリビジネスとの契約で取り決められているからです。こうした農民たちがほとんどのリスクを堪えしのぎ、わずかの利益しか受け取れず、多額の負債とただ一つの製品だけという農業システムにロックされているのです。何十万もの農民たちがその独立のみならず、土地と暮らしもこのシステムによって失いました。米国の中部にある街通りに多く立ち並ぶ板を張った店先、メキシコの山地に点々と広がる半分さびれた村々が、この社会的カタストロフィーを証明しています。

 この工業的農業の社会的、エコロジー的課題は、簡単には克服できません。全国農民農場連盟(National Family Farm Coalition)のジョージ・ネーラー(George Naylor)会長とのインタビューが示すように、多くの農民たちがそのことを鋭く意識しています。そして、多くの農学者たちも、こうした問題に対処するため懸命に働いています。ですが、残念なことに、その努力は、連邦、州政府、そして、大学農業部からわずかな支援しか得ていないのです。

 事実、米国政府は全世界で化学資材投入型の工業的農業を促進しています。米国の農業政策が主に重視しているのは、(a)そこから最も利益を得る政治的に有力な農業関連企業のための有益な既存システムの維持、(b)他国に対する米国産の農産物、農業投入資材、そして、工業的農法の輸出への補助金、 (c)これに対するオルタナティブではなく、遺伝子工学、持続不可能な工業的農業の強化という誤った「解決策」を促進すること(see Altieri 2004)。なのです。農業貿易政策研究所(Institute for Agriculture and Trade Policy)のクリスティン・ダウキンズ(Kristin Dawkins)氏は「食料安全保障と食料主権:生産、開発、貿易」のワークショップ・パネルで、こうした政策の輪郭と結果について概説しています。

効率の神話


 産業的農業を促進する政策は、その提案者たちの主張によって正当化されています。大規模で、化学資材を大量投入し、機械化された農業が最も効率的な農業だというのです。「米国の農場の気前の良い生産を見て欲しい。米国は全世界の人々を養っているではないか」とこの支持者たちは主張します。ですが、米国政府の海外食料援助は、飢餓を減らすよりも、飢餓と依存度をもっと増やしているのかもしれません。

 大量の補助金が米国やヨーロッパで生産過剰を促進しています。その過剰農産物を益あるものとするため、米国とEUの農業貿易政策は、余剰農産物の輸出市場を世界に開いて、生産実費よりも安く売るように設計されています。これが、社会的、環境的に優しい農場を廃業へと追い込み、輸入された農場投入資材を購入し、その農産物を商業的アグリビジネスの需要へと仕立てあげられる余裕がいる人だけしか残りません。

 このシステムによる動物性たんぱく質を多く含んだ食事は、土地を非常に無駄にしていて、人類史には見られないものですし、世界規模で再生産することはエコロジー的に不可能です。資源利用のパターンも持続可能なものではなく、近代的に機械化された農場は、たいがい地力を破壊します。化学資材高投入型農業、「家畜革命」(工場農業のグローバル化)、「青い革命」(マグロ、サケ、エビなど肉食性の種の海面養殖業)は、それが使う飼育、燃料、作業エネルギーよりもずっと少ない食物エネルギーしか生み出しません(4)。
産業的農業が優れているとの主張は、紛らわしい評価基準に基づいています。それは、二つのディメンジョンしかないからです。彼らは面積(ヘクタールかエーカー)単位あたりの収量を計算します。そして、土壌への影響、第三のディメンジョン、あるいは第四のディメンジョンである時間、将来生産のための農業生態系の能力を考えていません(Fernandez, Pell & Uphoff 2002)。

 標準的な農業経済の評価基準もモノ機能で、収穫高の価格だけを考えていて、社会的な幸せや文化、貴重な作物遺伝的多様性、そして、他の生物種への工業的農業の影響を無視しています。ほとんどの農業エコノミストは、そうした効果を、農場の効率性とは無関連の「外部性」と考えています。自由貿易政策はメキシコに対して米国産の食料輸出の波と、この安くて、奨励金付きの米国産トウモロコシやマメとは競争できない何十万ものメキシコ小規模農民たちの経済的破局へと通じました。米国の穀粒収量の高い数字は、こうした政策を正当化するためにしばしば引用されますが、そうした計算は多くの話を省いています。見失っているのは、メキシコの穀物市場への工業的穀物生産とその遠距離輸送にかかる莫大なエネルギーコストです。見失っているのはエコ的なコストです。栄養分を使い果たし、化学的投入資材で中毒となった土壌、水の損失、肥料と農薬汚染と中毒。見失っているのは、人的コストです。置き換えられた農民たち、混乱させた家族、失われた作物品種、失われた知識、そして、壊された文化的な絆です。

 おまけに、ただ一度の収穫期からの穀物収量は農場の生産性を比較するのに有効な基準ではありません。世界のほとんどの圃場はただひとつの作物だけが植えられているわけではありません。メキシコと中米では、トウモロコシがカボチャ、マメ、他のマメ科植物とたいがい間作されています。他の有用植物が圃場の縁に沿って育てられています。トウモロコシそのものも複数の用途があります。飲料(beverages)と御馳走(treats)用の青トウモロコシ、農家やその家畜が生きるための乾燥トウモロコシ、種子や物物交換のための種子のトウモロコシ、同じくトウモロコシの殻と茎で作られたそれ以外の多くの用途です。

 ですから、どの圃場からの食べ物と経済的な価値は、粒類だけよりもずっと大きいのですが、通常、穀粒収量がエコノミストによって数えられる唯一の要素なのです。同じく、家族によって耕作された水田は魚、甲殻類、軟体動物からのタンパク質を生み出すでしょうし、畦畔から収穫される鉄やプロビタミンAが豊かな青物も栄養的に重要です。ですが、慣行的にトレーニングされた農学者からは「雑草」として捨てられてしまいます。そのうえ、多くの小規模農民たちは、複数で遺伝学的に多様な品種の主要作物、野菜、果実を育て、より広い作物遺伝子プールを保存し、新しくて、潜在的に貴重な作物特色も開発しています。そして、大規模な工業的農場とは異なり、エコ的な砂漠、マルチ作物、小規模な農場とつながり、とりわけ、日陰と果樹があるそこでは、防風林、生け垣、池は、頻繁に野鳥や他の野生生物に生息地を提供しています。

 植物と動物性食品が地力を維持するために再生されなかったり、殺虫剤と肥料が有益な土壌生命を破壊したりすると、傷んだ土地での農業の資金とエネルギーコストは、わずかのシーズンで大きく上昇します。化学肥料を導入された農民は、短期的では収量の大波をしばしば報告しますが、数年後には、こうした投入資材の適用なくしては少ししか育たないことがわかります。農民たちが農薬の購入資金を欠いていても、土から失われる以上に土壌に植物や家畜廃棄物を戻しているところでは、土地そのもの、農民の家族は自分たちを食べる手段があります。ですが、わずかな農学、あるいは経済分析しか、長期にわたるこうした荘重な損失を測定するためになされていません。

 最も工業化された農業の問題と小規模農業のそれとの比較は言及に値します。近代農業のアドボケーターたちは、しばしば米国中西部の単独の農場労働者が、機械化されず、化学的投入資材が少ない農場で働く数人かちょうど1ダースと同じほど多くの穀類を生産していると断言します。この主張は、工場的な農園を可能としている、製造や輸送にかかわる労働、化学物質、そして燃料を無視しています。

 おまけに、農場での少ない労働がいつも良いわけではありません。世界中では、機械化による農業雇用の損失が、農村文化の衰退と膨張都市と海外の移住の重要な要因です。女性、少数民族、土地なき人々が、この失業でしばしば最も傷ついています。人々がそれら自身の労働で自分を食べさせる能力を失うとき、他のものは、その滋養コストを負担しなければなりません。だれも無限の日の骨折り仕事を楽しみはしません。そして、どこでも農民たちは省力の方法を歓迎します。ですが、大規模な機械化と苦労との間の選択しかありません。多目的農場は満足のいくフルタイムかパートタイムの雇用を提供できます。とりわけ、農業が農村の中小企業により補われ、豊かな文化的で都市の人生により活性化する場合はです。


食べ物の生産、それともお金?


 工業的な農業のこうした問題の基礎にあって補強しているのは、最も深遠な問題です。世界で食べ物を生産するよりも、むしろ利益をあげる目的のためになされる農業が増えています。フィリップ・マクマイケル(Philip McMichael)氏は、グローバル企業の食料政権(global corporate food regime)(2004)と呼んでいますが、一握りの多国籍企業が食料生産、加工、輸送、小売を牛耳っています(McMichael2004)。食品チェーンは今、世界中にあります。農場の投入資材と家畜飼料は他国の遠方の飼育場や圃場に輸送されています。こうした場所で生産された農産物が、消費者に届く前に、再び地球上を旅するのです。

 世界貿易機構、世界銀行の構造調整ローンの諸条件、そして、双方と地域貿易条約は、農場と食料貿易政策の自由化を必要とします。このことは、それ自身の国内食料生産者を保護するためにデザインされた農業プログラム、価格維持、あるいは輸入制限を発展途上国政府が維持できないことを意味します。そこで、土壌と気候の最も好ましい組み合わせ、安い土地と労働賃金、そして「技術保護」、すなわち、種子と農薬への民間の特許の実施を求めてグローバルなアグリビジネスは、フリーに惑星上を移動できるのです。

 すでに述べたように、グローバルな北部の多くの農業補助金と農輸出奨励金で、多国籍企業は、生産費よりも安い値段で農産物を取得し、販売できます。発展途上国市場での補助金付きの余剰食料のダンピングによって、農民たちは土地を去り、農地価格や農場労働賃金を下げ、食料の生産源をグローバル化された市場のおかげで、より安価な農業製品を生産するために組織化された、より少なくより大規模な農場へと食料生産資源が集中していきます。土壌が消耗したり、農場労働者か契約裁培者たちが安値で低賃金、あるいは工場の農業方式に反対すれば、グローバルな投資家は、より好ましい場所に移ることができるのです。
2003年9月、カンクンの世界貿易機関の閣僚会議への抗議集会で、約1万人のメキシコ人他の農業者を前に、韓国の農業者クン・ハイ・リー(Kun Hai Lee)は、自殺する前に「WTOは農民を殺す」と泣き叫びました。彼の自殺は最も劇的でしたが、悲しいことに、生産経費以下でローカル市場にダンピングされる輸入食品によって、その暮らしから無理やり引き離された農民や漁民の何千件もの最近の自殺のひとつなのです。

前向きなオルタナティブとチェンジのサイン


 グローバル化した工業的農業により引き起こされた危機の最中に、いくつかの非常に重要で有望な対抗潮流があります。人々はオルタナティブなプリンシプル、政策、実践を探し求めています。世界中の政策立案者や市民が、中央集権的な「社会主義」と同じく自由市場原理主義に疑問視し、グローバル経済を理解し、資源の分配を管理するより良い方法を探しています。

  • 食料の自給と土地の暮らしの権利のための新たな社会運動が世界中に起こっています。 ラテンアメリカ全域、そして、南アジア、東南アジア、アフリカのほとんどで、農民、女性、原住民族、移住者が結団され、彼らの対応者である北側とつながり、学者、活動家、進歩的な政策立案者からのサポートを得て、多くの鎮圧にもかかわらず、凄まじい希望と闘志感覚を生み出しています。
  • 国々がネオリベのワシントンコンセンサスから逃れています。20年間のグローバルな経済自由化は、民営化と貿易を規制緩和から約束された利益のわずかしかもたらしませんでした。多くの政府とさらに多くの社会運動が、現在、「自由な」な貿易圧力に抵抗しています。カンクンでの一方的なWTO議題の敗北は、米国の政策支配の半世紀の最後を告げる最初のきざしへの印なのかもしれません。
  • 米国では、食べ物がつまるところ、政治問題になっています、E.coliと狂牛病騒ぎの中で、食べ物の安全性監視の不信用が深まり、動物福祉が関心、トランスジェニック製品が疑われ、新鮮で地場産であることが、より安全で、よりおいしく、社会的に有益だとの認識が広まっています。有機食品は米国農業でもっとも急成長しており、農民市場(Farmers’ markets)と直接消費者に農業者をつなげるプログラムが、米国、ヨーロッパ、日本、韓国、そして、およびグローバルな南部の多くの都市でとても人気があるようになっています。
  • 栄養と食料政策の人種的、階級的政策が米国では表立って、有色人種や労働者階級のコミュニティは、公共の政策による高品質の食べ物の否定が、結果としての不必要な病弱と短命化をもたらし、彼らが直面する社会的不公正の主要な次元だと認めています。市の食料政策委員会(Food Policy Councils)、都市菜園、ファーマー・コミュニティー・ネットワーク、給食メニューを変えるキャンペーン、そして、ファーストフードのチェーン店への制限は、この問題に対応されているやり方のいくつかです。
  • 農民たちにとって、目に見えるオルタナティブは、フェアトレードと認証 生態的、そして、社会的な優れた実践ラベルのシステムの形で現れ、国際的な生産者と消費者のネットワーク、農場産物により価値を加えるためのコーヒー、チョコレート、果実などのローカルな加工、そして、持続可能な地域開発のための計画することです。多くの選択肢が下から起こっています。上から外から課されるよりも、むしろ農業者他の生産者の実体験、地元に基づいたNGOにより支えられ、科学者、そして活動家によってです。
  • 自然の敵としての農業者を見なした何10年間も後に、自然保護派は、農業と保護とが手を携えなければならないことを理解し始めています。地元資源の利用と彼らの生存ニーズを無視した防護地域プロジェクトが、大きく失敗し、生物多様性と大気保護での農業者の役割が記録されています。いくつかの主な環境団体には、より持続可能な農業を促進し、保存計画に農民を入れる新プログラムがあります。新しい社会運動、この傾向を得て、スローガンは、「公平さがなければエコロジーがない。エコロジーがなければ公平さがない!」です。
  • 主要な国際的な宣言といくつかの国家、地方、そして、市政府の政策は、現在、食物が人権だと認めます。しかしながら、これまでのところ、わずかな政府しか、食物への権利を保護していません。米国政府は、原則として活発にそれに反対し、実際にはそうしています。経済的、社会的な人権の活力あるプリンシプルが、潜在的にはラディカルですが、国際協定への但し書で長い単なる抽象観念となっていたものが、実践的な言い方へと洗練されています。
  • 食料主権の原則は、世界中で支持されています。以下で詳細に説明しますが、食料主権とは、国とコミュニティがそれ自身の食料供給と食料生産資源をコントロールする能力です。
  • 持続可能な農業のためのアグロエコロジーについての知識は深まり、地元の農民の実験と知識を豊かにし、毎年何十万人もの新しい農業者に広まっています。私たちは、今、アグロエコロジーとそれと関連する実践が、豊かに食料を生産し、頼りになり、持続可能に食べ物を必要とする人が、それを得られることを保証する助けとなることを知っています。 米国では少ししか報告されませんが、そうした増加している数の成功がグローバルな北部と南部にあります。


アグロエコロジー的なオルタナティブ


 アグロエコロジーは、慣行農業の農業的な非効率と社会的な失敗に対応したアプローチです。アグロエコロジーの原則と実践は、農耕の利回り、時間的に立証される農法、新たな生態学、収量をあげるためのローカルな農民の知識、持続性、そして、農業の公益性を組み合わせたものです。アグロエコロジーは主に小規模で資源の乏しい農民に適用されていますが、排他的ではなく、その農業をより生産的、手頃で、信頼できるようにします。それは、全領域にわたっていまだに系統的には適用・評価されてはいませんが、アグロエコロジー農業は既に多くの場所で食料のかなりの増産を実現しています(Uphoff 2002)。

 アグロエコロジーの実践者は、自然を征服したり、コントロールすることにはさほど関心がなく、むしろ協働しようとします。病害虫捕食者関係、病害虫種の共進化、植物活力への土壌有機体の効果など、現象の科学的理解と緻密な観察を用います。そうした自然のプロセスを自覚することは、農業問題を予期して、管理するのに役立ちます。このように、アグロエコロジーは、ジーン・マーク・フォン・デル・ウェイド(Jean Marc von der Weid)のこのリポートのケーススタディが明らかにするように、青写真や公式よりも考え方や応用問題なのです。

 アグロエコロジストは、平坦で、境界がある圃場の二つのディメンジョンではなく、土壌、樹木、微気候、水循環などを含め三次元で農業生態系を分析します。たった1収穫のサイクルではなく、時間をかけて、農業生態系の力学を見ます。栄養物とエネルギーの流れ、有機体内の相互作用を研究します。土壌生物相、病害虫、益虫他の動物と植物。さまざまな空間的と時間のスケールでです。

 アグロエコロジーは、農業生態系の弾力性や自己制御力を高めることで、農民や環境のリスクを減らすことを目指します。農薬や他の化学資材の利用をなくすか、最小限にできるようにです。アグロエコロジストは、慣行農業よりも閉鎖システムを維持することで、コスト、廃棄物、汚染を減らすためにも働いています(Altieri 1995; Gliessman 1990)。例えば、緑肥や厩肥の形でエネルギーをリサイクルし、肥料を農場に買う必要性を減らし、家畜排泄物を投機するコストを資産へと転換します。

 アグロエコロジー的な考えは、適切な輪作、複数の間作でさまざまな作物や食料源の植え付けと維持を奨励します。各収穫期毎に、あるいは少なくとも数年は新たに取得し、たいがいは購入しなければならないハイブリッド品種とは対照的に、選抜され、保存され、育種できる自然受粉した種子の使用を認めます。遺伝的均一性が望ましいモノカルチャー(5)とは対照的に、同作物内の品種、遺伝子の多様性がアグロエコロジー農業ではしばしば有利なのです。

 遺伝的多様性は、作物が失敗するリスクを減らし、農民たち自身の品種を高めることを可能にします。より複雑なアグロエコロジーのシステム、とりわけ、植樹を含んでいるときは、しばしば野生種が奨励され、モノカルチャーでやるよりも、しばしば農場やその周囲の生物学的多様性、手付かずの森林さえ大切にします。
アグロエコロジストは、農業を食品工場としては理解せず、人間のコミュニティと共進化する複雑な生態環境内に埋め込まれたダイナミックなシステムとして理解しています(Levins and Vandermeer 1990)。従来の農学や農業経済学と対照的に、アグロエコロジーの枠組みは、工業的な農業企業により生み出される環境的、経済的、社会的なコストではなく、農業が持続性でないときにより広いエコロジーと社会によって産みだされる、いわゆる「外部性」が考慮できます。

 アグロエコロジーの原則は広められますが、生態系、コミュニティとアグロエコロジーの実践は、その場所にとどまっていることが必要です。ですから、アグロエコロジーには、農業者、他の専門家、そして、ローカルの知性の継続的な入力による協力的な研究と実験を必要とします。これは、小規模な農場だけにアグロエコロジーが適切であるとの意味でしょうか。いいえ、その必要はありません。その原則と実践の多くは、同じく大規模農業にも適切です。ですが、スケールと位置の特異性の問題は重要な質問を提起します。大規模、一様性、そして、様々な生態学的条件のへの適応性がおよび不足が慣行農業での「非持続性」の根本的原因なのでしょうか。したがって、完全に小規模でないとしても、持続可能な農業は、より分散され、変えられる必要があるでしょうか。工業的な農耕での一様性は、利益で動かされる農業の緊急事態の結果であるため、これはアグロエコロジーの質問であるのとおなじほど政治上、経済的な問題です。

 アグロエコロジーは一枚岩的な運動ではなく、急速に国際的に成長する傾向があります。それは、農業者、科学者、NGOの国際ネットワークと地元に基づいて開発・実施されています。温暖な気候で大規模農場用にデザインされた慣行農業技術に代わる手段としてみられています。ブラジルでは、例えば、持続農業のための評価サービス(AS-PTA= Evaluation and Services for Sustainable Agriculture)が、コミュニティの農業組織と20年間以上もアグロエコロジーを促進している組織です。AS-PTAの公共政策担当部長、ジーン・マーク・フォン・デル・ウェイド(Jean Marc von der Weid)は「ブラジルのすべての3つの全国家族農業者組織が、農業持続性を達成するメイン戦略のツールとしてアグロエコロジーを定義した」と、このリポートで述べています。このリポートでのロナウド・レク(Ronaldo Lec)とヘスス・レオン・サントス(Jesús León Santos)とのインタビュー、そして、セルヒオ・ロペス(Sérgio Lopes)のワークショップでのプレゼンテーションは、グアテマラ、ブラジル、メキシコのコミュニティにアグロエコロジーがどう適合させられているかを描きます。「地元知識を用いたアグロエコロジーの実践(Practicing Agroecology, Using Local Knowledge)」のブレイクアウトセッションが「ローカル」、「伝統的」、「在来」、そして、「科学的」な知識の意味と用途を探るリポートです。いかに権力関係が生産に影響し、知識をコントロールするのか。そして、慣行とアグロエコロジー農法の基本的な論理の違いです。「アグロエコロジーの実践の教育と普及」セッションのリポートでは、農民から農民へのネットワークと科学者を交えた参加型研究の重要性について議論します。持続可能な農業への制度上とマーケティング上のサポートの必要性、そして、農民たちに影響する大きな政治上、経済の課題です。

 ハーバード大学のリチャード・レビンス(Richard Levins)は、アグロエコロジー運動のパイオニアで先駆的な思想家ですが、エコ‐社会的苦悩シンドローム(eco-social distress syndrome)という大きな文脈と関連してアグロエコロジーについて説明しています。人類と自然との機能不全の関係。彼は科学知識の本質について挑戦的な仮説をなげかけています。実験室で洗練さを高めるても、科学が全体、そして、複雑なシステムと格闘できないパラドックス。 そして、よりホリスティックで効果的な科学が可能である社会的で経済の状態について。

 こうした貢献は、多くの実践者、農民、科学者にとって、アグロエコロジーが技術的なプロジェクトと同じほど社会的であることを例証します。より大きな公平さ、エンパワーメント、食料源や供給への地元のコントロール、成熟するためのスペース、「開発」 のオルタナティブな定義と方向性、いずれもが、食料主権の問題を提起しています。

食料主権のための国際運動


 1996年の世界食料サミットで国際的な農民同盟ビア・カンペシーナ(Vía Campesina)によって進められたとき、食料主権の概念は、国際政策討論に加わりました。食料主権は農民と他の農村社会運動、そして、国際なNGOネットワークを結合させるバナーとなりました。これら同盟は、世界貿易機関の規則が組み込まれるべきだと、彼らが信じる不正を正すために10年間働いています。この目的のために、彼らは、利益の論理にエコロジーと人間のニーズを従属させるWTO協定の農業と他の政策への代替手段を発展させています。食料主権は、こうした代替手段の中心原理です。

 食料主権の簡単な定義は、国やコミュニティが自ら食料供給をコントロールできる能力です。何が生産されるか、そして、どんな条件のもとでかに口を出す。そして、何が輸入され、何が輸出されるのかの発言権を持つために。地方レベルでは、食料主権は、もし彼らが望むならば、彼ら自身と国内市場のための食料生産を続けるために、農村コミュニティが土地を維持する権利を伴います(6)。

 食料主権の提議は、例えば、1996年の国債経済、社会、文化権利条項(International Covenant on Economic, Social and Cultural Rights)で認められた食料権のように、人権が、利潤を追究する個人投資家の推定putativeの「権利」を保護するWTO規則よりも優先しなければならないと主張します。WTO規則は貿易規制で狭く経済の評価基準を実施していますが、食料主権戦略は、貿易や開発計画でより幅広く、複数の評価基準を用いた政府と消費者の権利を進めるでしょう。食料主権は、様々なレベルで政府が、輸入、輸出、投資、クレジット、そして資源利用についての決定するように、生態学的持続可能性、人間味がある家畜処理、ジェンダーの公平さ、公正な労働、その他の社会的目標の規格に従って生産された商品を支持し差別することを可能とするでしょう。

 食料主権は、これまでとは違った貿易協定以上のものです。農業、食べ物、農耕、農村生活の役割について、違う理解のしかたをします。食料主権のアドボケーターたちは、食べ物はなによりも栄養源であって、商品は二の次だと主張します。貿易を良いとしながらも、それは社会的な幸せの手段であって、それ自体が目的ではないと言います。彼らは、国内での食料生産、国家政策によって支援・保護された健全な農業コミュニティの維持が、ほとんどの国が購入した輸入食品に依存するグローバル化されたフードシステムよりも、食料安全保障を保証すると主張します(7)。

 食料主権は、オルタナティブな経済パラダイムと同じほどエコロジーのプロジェクトでもあります。提案者は、分権化され、多様で、ローカルに適合させられた農業システムがより環境面で持続可能だと主張します。そこでは、暮らしと家族の目標が、より長期での健康と土地の生産性とむすびつき、農民たちは土壌、景観、水資源を保全・改良することへの多くのインセンティブがあると彼らは言います。これとは対照的に、アグリビジネスに支配されたグローバル化した食品システムは、利潤を極大化する競争力がある命令は、企業がその環境コストを外面化するのを強制し、公共のそして、将来世代にそれらをシフトさせるのです。
食料主権を実行し、食べ物への権利を実現するための提案は

  • 食品ダンピングの除去(生産費以下での穀類販売)。そうした捕食性の価格暴落から我が身をかばうための国家の権利
  • 生産過剰を規制する国家、国際的メカニズム。とりわけ、輸出用の補助金の禁止
  • 国内資源の利用。そして、適切だが、過度でない食料生産とアクセスを確実にするためのグローバルな供給管理メカニズムの使用
  • 国家が国内食料生産者の崩壊を防ぎ、割当て、関税、目標価格帯システムなどで輸入規制手段によって農村を開発させ、優先の農業金融を行う権利
  • 食料生産の個人、または、集合的な権利を認識し、彼らに負債を負わせず、無視された土地を生産用途につける農地改革
  • 水と他の食料を生産する資源にアクセスする権利
  • 市、州、そして、国家政府が公益のために食料と農業規制する権利

 -食べ物と作物の出所と生産方法と述べる必要なラベルへの権利
 -遺伝子組換え食品の輸入、援助を受け入れるかどうか、そして、遺伝子組換え作物の使用をどんな諸 条件で可能とするかのタームについて決める権利
-生物と遺伝情報の私的特許取得を禁止する権利

  • 農民たちが交換、移植、改良するために種子を保存し、特許化された作物品種を完全利用をする権利
  • 農業や食料部門の労働者のための生活賃金と安全な労働環境


 いま、食料主権のアプローチをさらに発展させるための学術研究や政策の支援はほとんどありません。そうした選択肢への関心は、あまりにも長い間疑問視されてこなかった一連の神話によって覆われているのです。貿易そのものが、不平等な世界において開発益と飢餓の減少をもたらし、高投入型の化学的近代農業だけが世界の人々に食料を供給できるという信念。小中規模の農場は、さほど産出力がなくさほど効率的でないという幻想。農民を中心においた農業が科学から遠いとの概念。そして、農民たちは自然環境をわずかしかケアせず、必然的に自然とは不和との考え。

 自由貿易の神話は、20年にわたる貿易自由化の失敗の観点から急速に色褪せています。緑の革命以来の技術中心の農業研究と普及は、より大きな生産性に向けた大躍進を全くもたらしていません。アグリビジネスの補助金というそれ以外の手段によって達成された過剰な生産性、新たな土地への農業の拡大、肥料の大量使用は、飢餓削減につながっていません。工業的農業の環境コストはもう無視できません。アグロエコロジーが豊富な食物を生産できないという神話が持続していたり、農場を中心にした研究やイノベーションが、ロマン的に解釈されて、プレ科学的な過去に回帰することを表すとの神話も、食料主権やアグロエコロジーのための運動の実務へのケアによって、解決できます。まず、良きスタートは、このリポートの内容の研究成果と科学者、政策分析官、農業者の証言を熟読してみられることなのです。



 Kathleen McAfee,Agroecology and the Struggle for Food Sovereignty in the Americas, Yale School of Forestry & Environmental Studies,2006.