監視社会を産みしもの
 
グローバリゼーションは福祉国家の崩壊を招く。それは新たな監視社会の到来を予感させるものだった

2004年5月8日

 コミュニティが崩壊し、個人として取り残され不安にたたずむ人々。グローバリゼーションの拡大とともに広がる貧富の差の拡大。絶望はやがてテロリズムを産む。この不安と治安悪化の社会情勢をバックに台頭するのがポピュリズムである。だが、小さな国家と自由の実現を目指す新自由主義は、皮肉なことに国家主義と治安強化のための監視社会を招いてしまうのだった。

■アトム化、断片化する社会から登場するポピュリズム
 共同体を失った人々は、歴史の中での自分という時代感覚の意識も希薄化させ、認識できる時間範囲は驚くほど狭くなっている。要するに、バラバラとなった個人は、社会という横の関係でも歴史という縦の関係でもつながりを失いつつある(3)。
 こうした状況を背景に、新たに登場してきた政治勢力が「
ポピュリズム」である。もともとポピュリズムは、19世紀末にアメリカで産まれた。南北戦争後にアメリカでは、銀行が発達し、それによって人々の金融支配が進み、同時に道路資本が西部や南部の独立した農民たちを抑圧した。これに対して建国以来アメリカを支えてきた独立自営農民たちは、反対農民運動「人民党」を引き起こす。人民党は、人々のための改革を目指した点では進歩的だった。だが、同時に古きよき地方の共同体の秩序にノスタルジーを持ち、失われた社会階層の復権を理想とした点では、反動的だった。この運動は、カリスマがいなかったことことから、20世紀には急速に力を失った。
 次に歴史的にポピュリズムが登場したのは、20世紀半ばのラテンアメリカである。例えば、アルゼンチンでは
ペロンが登場した。ペロンは、労働運動の支援、反帝国主義、都市労働者と農民との連帯等社会改革派として登場したが、同時にイタリアのムッソリーニに学び、ナショナリズムを強調するという反動生を同居させていた(3)。

■世界各地で台頭する極右勢力
 そして、いま、ヨーロッパや日本、アメリカで新しいポピュリズム運動が起こっている。人は誰にも監視されていないと感じたときに犯罪を犯しやすくなる。このアメリカのフィリップ・ジンバルト教授の『ブロークン・ウィンドウ理論』に基づき、ニューヨークでは、右派のルドルフ・ジュリアーニ市長が「ヒスパニックであれば全員職務質問の対象とせよ」という過激な措置を実行に移し、見事に犯罪の激減と治安回復をしてみせた(2)。ホームレスや少数民族を外部に押しやることで、ニューヨークをクリーンにしたのである(1)。
 この政策を20年遅れで東京都も採用する(2)。2001年5月8日の産経新聞で石原慎太郎知事は「日本よ、内なる防衛を」というコラムで、レイシズム(人種差別)発言をしてみせた。だが、ジュリアーニにしても「民族的DNА」というほどの過激な発言はできない。そして、民族的DNА発言は、「三国人」よりもはるかに悪質ではあるものの、メディアは沈黙し、ほとんど反論していない(1)。
 フランスでは、アルジェリアで解放戦線に拷問を行なった
ル・ペン(1928〜)が1972年にフランス国民戦線(FN)を結成。イスラム移民がフランス人から職を奪っていると主張し、ナショナリズムをあおっている(3)。現職のシラク大統領に敗れはしたものの、2002年に大統領決戦投票に進出した(1)。
 オーストリアでは、
ハイダー(1950〜)がオーストリア自由党を結成(1)。ハイダー率いる自由党は1999年に第二の政党となった。ハイダーは、子育て女性の貧困を救うための育児手当てなどの進歩的な政策を掲げながらも、ヒットラーを尊敬し、移民を過激に排斥した。その結果、EU諸国の反発を招き、オーストリアは外交的に孤立している(3)。
 オーストラリアでは
ハンソン(1954〜)が、97年に極右政党ワンネーション党を結成、党首となっている。そして、オランダでは過激な動物愛護活動家に銃殺されたがフォルタイン(1948〜2002)が、フォルタイン党を結成した。こうした人々は日本のマスコミでは極右と位置づけられている。だが、日本では石原知事は極右とは呼ばれない(1)。

■グローバル化で北の内部でも貧富の差が拡大している
 極右政治家が登場した背景には、90年代以降のグローバリゼーションの影響で、移民が増加し、経済構造が激化したことがある(1)。右翼的なポピュリズムは、グローバリゼーションと多文化主義に対する反動である(3)。
 先進国の福祉国家システムは、一国内での所得が国内で消費される限り成り立つものだったため、グローバル化によって危機に陥る。これを克服するため、レーガンとサッチャーが導入した新自由主義政策は、労働市場の競争を激化させるものだった。グローバル化によって国家間の競争が激化し、片方で徹底的な機械化と合理化が進む一方で、低賃金の労働集約化が進んだ。
 ヨーロッパでも、この危機から脱するために、労使協定を破棄し、イタリアやスペインでは内部で新しい貧困を広げている。イタリアでも南部は北部にたかっているだけだといわれ、分裂を引き起こしかねないほどの格差が拡大している。他方、旧社会主義圏という「労働市場」が出現したため、そのような低賃金労働を安易に搾取しようとしている。この対立が世界情勢を規定している(3)。

■ポピュリズム台頭の背景には、福祉社会のモラルハザードへの怒りがある
 
だが、ネオリベラリズムの動きを理解するには、福祉財政の破綻を背景にして小さな政府政策が取られた理解するだけでは不十分である。60〜70年代にかけ、公民権運動に代表されるリベラルな流れが誕生していた。その結果、同性愛者、宗教的・民族的マイノリティーへの権利が大幅に認められ、社会的弱者への再分配の範囲も広がった。だが、社会が成熟化し、社会的な不透明性が高まると、福祉国家的な社会政策を実行することが困難になってくる(2)。
 リベラル政策の代表ともいえる福祉再分配政策や少数者保護の政策は、怠け者のフリーライダーを産み出し、モラルハザードを引き起こし、最終的には都市や郊外の空洞化による治安の悪化をもたらす。それが、セキュリティ不安につながる。社会の不透明感が高まったことへのある種の情緒的な反応として、こうした論理が、大衆の共感を呼び、イギリスではサッチャー、アメリカではレーガンが登場したのである(2)。

■新自由主義経済は国家主義とレイシズムを産む
 自由な市場経済にまかされた国際的な機関が、世界を再調整していくというイメージがある。だが、これは明らかに間違っている。グローバル化する世界のスタンダードやルールを有利に策定していくには、国家の介入が不可欠だからである。ここに、グローバリゼーションへの対応策として、ネオ・リベラルな改革に乗りだすと、逆にナショナルやレイシズムが勃興するというパラドックスが産まれる。70年代にサッチャーのむき出しのレイシズムもそうだし、石原知事の発言もそうである(1)。
 ポピュリズムの中心には刺激的な言語を操るカリスマがいる。我こそが人民を代表すると主張し、大衆を鼓舞するため、強いリーダーシップの下、断定的で、刺激的な言葉を使う。政策決定はトップダウンであり、その場、その場で大衆の人気を得るためにカメレオン的にコロコロと変る。同時に、ナショナリズムを重視し、インターナショナリズムやコスモポリタンを嫌う。そして、憎悪の対象としてのスケープゴートを設ける。移民流入に反対し、移民をスケープゴートとすることで、ナショナリズムや政治腐敗の排除を主張する。対人関係が薄く、歴史的意識も乏しく、バラバラとなった人々は、これに共鳴し、喝采を送る(3)。人々の高まる不安や不透明感、不安感を「三国人」や「中国人」という少数者に押し付けることによって、目に見れるようにし、安心させる。石原知事の発言にはこうした意図がある(1)。フランスでル・ペンを支持している基盤もフランス社会の低所得者階層である(2)。

■格差の拡大と福祉国家の破壊は、監視社会をもたらす
 実際に格差の拡大は凄まじい。スロヴェニアの理論家、スラヴォイ・ジジュクは、リオ・デ・ジャネイロで講演に招かれた。その時、前を走っていた車がホームレスの子どもをはねた。だが、彼の友人は左翼であったにもかかわらず、こう述べた。
「連中はウサギみたいなものだ。このごろはああいうのをひっかけずに運転もできない。警察はいつになったら死体を片づけにくるんだ」。
 南では、北の金持ちよりも豊かな金持ちがいるという極端な状況が生じている。海側には豊かな市街地があり、路上で子どもがひき殺されても誰の注意も引かない。
 一方、山の手には貧困のスラムがある。警察さえほとんど立ち入れず、常に非常事態下に置かれている。先進国の人々は人権や社会保障等を享受できている。だが、後進国の人々は、最も基本的な生存権すら認められていない。
 以前にアメリカにやってきたメキシコ人たちは、そのうちに成功して豊かになるというアメリカン・ドリームを信じることができた。だが、今は新参者はおろか、以前からアメリカにいた白人たちでさえ、失業し、下手をすればホームレスの境遇に身を落とす危険に直面している。
 つまり、そうした差別は、先進国と発展途上国という国の枠組みを超え、国の内部でも生じている。南の貧しい世界は、北の豊かな世界の内部にも発生している。ニューヨークの少なくとも半分は第三世界といっていい(3)。絶望感が広がれば、合理的な開発などという言葉には騙されず、資本主義を拒否する復古主義や原理主義が出てくる。さらに、伝統も解体し、全くのゼロからやり直そうとするラディカルな動きにもつながる。
 例えば、カンボジアで大量虐殺を引き起こした
クメール・ルージュの指導者、ポル・ポトは、マラルメやランボーを研究するフランス文学の教授だったし、ペルーのセンデロ・ルミノソの指導者のアビマエル・グスマンもカント哲学の教授だった(3)。

■格差の拡大と福祉国家の破壊は、監視社会をもたらす
 福祉国家にはソーシャル・セキュリティという概念があった。だが、80年代にはいると、この中からソーシャルな部分が抜け落ち、国家が保障するセキュリティは公安だけになった。
 福祉国家が破産することは、階層間で格差が広がることを意味する。同時にそれは社会全体が自然状態に近づいていくことも意味する。先進民主主義国ではトップ8%ほどの人が50%ほどの富を独占するという状況が生じてきた。豊かな社会へのキャッチアップの夢を失ったとき、救済されない人々は、テロリズムへと走るであろう(2)。
 福祉国家から切り捨てられたホームレス、外国人等、安全を侵す危険なアイデンティティを持った個人や集団から、どう個人を守るかが重要になる。
 アメリカの一連の行動を理解するキーワードは「セキュリティ」にあると言える。近代的公共空間を支えているのは、不特定多数への信頼である。テロリズムは、それを破壊する目的でなされる。9.11で明らかになったのは、知らない人間への信頼が、きわめて脆弱であるということだった。ドイツの社会学者
ウルリッヒ・ベックは「リスク社会」の問題を提唱しているが、信頼が壊れれば、それを監視で埋め合わせようとする。断固たる措置を法的に主張する立場が有利になる。これが内政において行われたのがネオリベラリズムであり、外交軍事面で行われたのが、ネオコンである。
 日本では1999年に犯罪捜査のため通信を傍受する
盗聴法が衆議院を通過した。憲法第21条の「通信の秘密」を無視したものだが、オウム真理教のサリン事件を起こさないというのが、制定口実となった。全国民に11桁の住民票コードをつける住基ネットも、個人データーが国に提供されることになるが、これはセキュリテイから出てきている。リベラリズムは、セキュリティをキーワードに放棄されたのである(2)。


引用文献
(1)姜 尚中、森巣 博『ナショナリズムの克服』(2002)集英社新書
(2)姜 尚中、宮台 真司『挑発する知』(2003)双風舎
(3)浅田 彰(1994)『世界の終わりと世紀末の世界』小学館
(4)宮台 真司『絶望から出発しよう』(2003)ウェイツ