2004年12月 本文へジャンプ


サルーを楽しむ



彼はいま


 ルター・カスティロ博士は、2005年8月にラテンアメリカ医科大学を卒業してから、ホンジュラスのモスクイティアのシリボヤ・コミュニティ病院の工事や機器を完成させるため、他の卒業生、NGO、労働組合幹部、コミュニティのメンバー、そして国際と地元のボランティアと協力している。このコミュニティに根ざすイニシアチブは、カスティロ博士の故郷であるイロニア・ムニシピオで暮らす1万8000人のために、ガリフナスの特定の医療ニーズに対応する最初の持続可能な医療の源となろう。2006年に博士は、ホンジュラスの自分の住む場所でファミリー医療を始めた。同年11月に、博士は国際ロータリークラブのテグシガルパの部で「その年のホンジュラスの医師」に命名されている。2005年にラテンアメリカ医科大学卒業し、現在、ルターはカスティロ博士となったのだ。博士は、いま、ホンジュラス海岸のガリフナ・コミュニティのための病院を建てている。

幼少期のガリフナ・コミュニティの医療について

 幼い頃には、私の集落にはまったく医療サービスがなく、それは、自然薬品や分娩のことを少しだけ知っている人によって提供されていただけだったのです。弟が生まれたとき、助産婦がすべての面倒をみていたことを覚えています。当時を振り返れば、コミュニティで誰かが病気になれば、別のコミュニティ、サングレラヤかパラシオスのどちらかに運ばなければなりませんでした。パラシオスには、ヘルスケアセンターがあり、ソーシャル・サービスを行う医師や看護士がいたのです。コミュニティで誰かが病気にかかることは、どんな場合であれ、リスクを伴う状態で患者を運ぶこととなりました。

今のホンジュラスの医療サービスについて


 今はどうでしょう。幸いなことに、今は、私の集落にはヘルス・センターがあります。コミュニティ内でフルタイムで働くキューバの医師がいます。それは、コミュニティが手にしている最善の保証の1つです…。ヘルスケアセンターとキューバの医師がいるおかげで、少しはヘルスケアサービスがあるのです。今は、医療は人々のより近くにあり、彼らは、はるばるサンブレラヤまで歩いていく必要はないのです。

医師となりキューバで学ぶことを決めたことについて


 そもそも最初から、どうしたいかの考えはありましたが、医学を学ぼうとは本気で考えませんでした。いつも問いかけていたからです。

「どうやって、医学を学ぼうか。首都にいかなければならない。全国にはたったひとつしか医学校がない」

 コミュニティで暮らしているときに、私は自然医療で働く何人かと一緒にコースを受講しました。私はそれにとても興味がありましたし、そこにいたソーシャル・サービスの医師と、自然医療を使うことに強くこだわるコミュニティ住民との矛盾にもも興味があったのです。限られた資源しか手にしていない人々、つまり、私たちから生じるどんな学ぶ機会も活用しなければならないと思います。私は医学を学ぶ機会、そうした人道的な職業に付ける機会を持てることを、キューバで医学を学び、コミュニティでサービスする医師、貧しい人々にサービスする医師になれたことを神に感謝しています。

医学教育への障壁


 私はホンジュラスで医療を学ぼうとしました。ホンジュラス全国自治大学に入学したのです。ですが、学び続けられませんでした。というのも、書籍代を含めた経費を家族が都合できなかったからです。ですから、私は選択しなければなりませんでした。つまり、夢を捨てるのではなく、学ぶための他の機会を探すという選択をです。そして、キューバで学ぶ機会が現れました。

ラテンアメリカ医科大学の奨学金


 ハリケーン・ミッチの後、キューバの医師との初めての出会いがありました。NGOが食料配布のために人々をトレーニングするプログラムを設けていたのですが、その3日後にキューバに行く奨学金が現れたのです。その集会で、私たちはキューバの医師と出会ったのです…。彼らは私にチャンスについて話してくれ、再考しませんでした。めったにないチャンスなだけではなく、私たちが利用すべきものだと思ったからです。

「もし、入学試験を受けたいならば、文書を手に入れてください」と彼らは言い、私はそうしたのです。

 受験するにはセイバの町まで出かけなければならず、たどり着くには車で6~7時間もかかりました。私の集落には車が通っていませんでしたから、さらに、約8時間半も歩かなければなりませんでした。そこから、セイバまで車に乗ったのです。その距離そのものが入学試験を受けたい若者たちの壁でした。また、集落内で仕事についていれば、村を空けることも困難でした。

「奨学金のような不確実なものを追い求めて仕事を止めることができません」

ホンジュラスにいるキューバの医師について
 

彼らは住民を治療するやり方から、私たちの集落では歓迎されました。それは、人々がいつも口にしていたことなのです。私は、祖母がよく口にしていたことを覚えています。

「私はね、キューバのお医者さんのところにでかけて、嫌気もせずに私を治療してくれたのよ」と。

 それは、私の心に刺さったフレーズでした。どうしたら嫌気もせずに老いた人を治療できるのか。ですが、それはキューバの医師がやって来る前には祖母がどのように感じていたのかということなのです。

ホンジュラスのヘルス・プロジェクトとホンジュラスの医師との協力について


 学生として、私たちは、ホンジュラス・ヘルスと呼ばれるプロジェクトをまとめ、ホンジュラスに働きにでかけました。まず、休暇中に私たちが取り組める課題を特定するため、コミュニティでの健康状況を評価するためヘルス・センターにでかけたのです。デング熱が大発生したとき、厚生省の職員は、私たちがこの流行病との戦いに参加する意志があるのかどうかを尋ね、私たちはキューバの医師とともに働いたのです。

 彼らの指導で、消毒し、教育し、ケアを提供しました。働いていたヘルス・センターにはともに働く2人のホンジュラスの医師がいました。ホンジュラス全国自治大学の学生グループもキャンペーンにも参加し、1週間私たちと協働し、各戸別に消毒と教育をやったのです。本当に印象的でした。キューバにいるホンジュラスの学生とホンジュラス自治大学の学生が一緒にやったのです。それが、いかに前向きで、いかに私たちを国家が必要としているのかを理解する一助になったと思っています。

 Dr. Luther Castillo at the Latin American Medical School, Unpublished Further interview excerpts from ¡SALUD!, December 2004.