さて、大変困ったことになった訳だが、これからどうするべきであろうか。


 現在地は俺が住んでいるマンション。その三階。俺の部屋はこの下の二階なのだが、仕事を終えて帰ってきた以上“上司”に連絡する義務がある。電話でもいいのだが、同じマンションに住んでいる手前、直接報告することが常だ。

 本日も仕事を終えて、俺は報告という形でその上司の元に訪れている次第。

 普段なら一言二言言葉を交わして終わるやり取り。それも当然。長引くほど重要な報告は、そう滅多に無い。そこまで重大な仕事を任せられる事自体、そうあるものではない。

 しかし今夜の報告は長引きそうだった。

 原因は街中で俺に話しかけてきた一人の少女。俺の張った人払いの結界を、平然と無視し話しかけてきた天然の〈詠ウ者〉。才能だけで俺の言霊を破った非常識。それについての報告がとても長引きそうだった。

 しかもこの少女――どうやら記憶喪失らしい。何度聞いても、自分の名前すら思い出せないと言う。おまけに身分を証明する物も、金すら持ってない完全な根無し草だと言う。

 ……信じられない。信じがたい。疑わしき事態だが、疑ってばかりもいられない。重要なのは現状打破だ。その為には報告を。そして俺が師と尊敬する、葉月麻莉菜に今後の指示を仰がなければならない。記憶喪失の少女を保護するとなれば、それはもう俺一人の責任ではない。

 だからこうして、俺は謎の少女を引き連れて、師の部屋を訪ねている。

 そんな訳なのだ師よ。どうすればいい――――



「女連れでご帰宅か。随分とお盛んなんだな、白夜」
「違う。師よ、頼むから話を聞いてくれ」



 聞く耳持たずとは、このことだろう。




星天学園物語

榊原 白夜の場合/第二話






「とりあえず入って待ってろ。準備する」


 そう言い放ち、師は俺達を部屋の中に引き入れる。そして俺達二人をリビングに放置して、師は自分だけ奥の部屋に引き篭もる。準備をするのは解ったが、何の準備をするのかぐらい教えて貰いたい。

 隣を見ると記憶喪失の少女が、えらく珍しげに師の部屋を見回している。


「へー……結構良い所に住んでるんだねー」
「正しくは“住まわせてもらっている”。いや、“住むことを義務付けられている”と言った方が正しいか」
「んん?」


 きょとんとした顔を向ける、自称記憶喪失の女。どうやら俺の言った事が、よく理解できなかったらしい。

 師の部屋を改めて見る。何度か足を運んだことはあるが……確かに珍しげに見回してもおかしくない。師の部屋の内装が珍しいのではなく、師が一人でこのマンションに住んでいることが珍しいのだ。そしてそれは、同じマンションに住んでいる俺にも言えることだ。

 3LDKのマンション。たしかに一人暮らしでこの広さは、良質を超えて稀少だ。けれど此処は所詮、仮住まいに過ぎない。


「俺のような人間は一人ではない。俺の力は、お前も体感しただろう? ああいった異常能力を持った連中を集めた組織がある。俺達はその組織に属し、その組織の中で暮らしている。このマンションは組織の関係者が経営しているだけで――体裁の良い監禁場所だ」
「へ? じゃあ、さっきの美人さんもキミみたいに変な事できるの?」
「変な」
「うん、変な“言霊”とかいうやつ」


 変な、という言葉が気に掛かる。この女の中で、俺の『技』はどんな物になっているのか。……そういえば先程公園で、手品とか呼称していたような覚えが。まあ別にどうでもいいのだが。

 ただ師の力は、コイツが言うような手品などではない。その辺りを教えておかねばなるまい……結局、知らぬ者からすれば我等の技は皆一様にして手品なのかもしれないが。


「いや、師は――ああ、先程の女性のことだが、あの人の力は俺とは別物だ。皆が俺のように“言霊”を扱える訳ではない」
「へー」
「……興味無さそうだな」
「うん。というか、よく解んないし」


 あっけらかんと言われた。俺達の組織の事、俺の言霊、そして師の能力。質問する項目は、何項にも渡って存在するというのに、目の前の自称記憶喪失は興味が無いらしい。

 楽観家なのだろう。思えば、自分の記憶が無いと判明した後もこの女は態度が変わらなかった。「困ったなー」と困って無さそうな様子で言うだけで見た目には悲壮感が無い。内心でどう思っているのかは解らないが。


「まあ、いい……本題に入る方が先決だろうからな」


 目の前の女が現状をどう思っているかは、さほど問題ではない。

 問題なのは、これからどうするか。そして、目の前の女の記憶喪失が、どれ程のものであるかだ。


「お前、何か思い出した事はあるか?」
「だから解んないってさっきから言ってるだろー? ボクは、気が付いたら街を歩いていて、キミを見かけて話しかけたの。他は何も覚えて無いよ」
「痛みとかは無いか? 頭でも身体でも、何処か身体に異常は感じられるか?」
「んー……特には無いかなぁ。いつも通り……って言っても、いつものボクがどうだったのかなんて全然解んないんだけどね」
「成る程」


 俺は記憶喪失について、それ程専門的な知識は無い。だがそれでも多少は知っている。

 記憶喪失。事故や戦争などある特定の出来事、またはその前後の記憶だけを思い出せない状態を指す。聞いた話では、その特定の出来事以外のことは正常に記憶しているものだと記憶している。

 そうなると、目の前の女の記憶喪失はかなり重度と言うことか。何しろ名前も年齢も普段の自分も何一つ思い出せないのだから。


「まあ、詳しくは師が診る。何が原因でお前の記憶が無くなったのか、それとお前の素性に関してもな」
「だから素性なんて解んないってば。ボク自身知らないのに――疑ってるの?」
「信じる方が稀だと思うが? それに何も、お前自身に聞く訳では無い。例えばお前の着ているその服。それだけでも立派な手掛かりだからな」
「服?」


 俺の言葉を聞くなり、女は突然自分の服装を確認し始める。首を曲げて、自分で自分を嘗め回すように『黒い』その服を確認している。

 別にあの服が奇異という訳でも華美という訳でもない。だがあの服ならば、かなりの可能性で身元が探れるのだ。

 女が着ている『黒い服』。つまりそれは、


「わー……セーラー服だ。ボクって学生?」
「……お前、自分の服装にすら関心を持ってなかったのか?」
「だって、いちいち自分の服なんて確かめないよ。名前が思い出せないって解ったのも、ついさっきだしさ」


 言われて見れば確かに。公園で、俺が聞くまで記憶喪失であることに気付けなかった能天気な女だ。そんな女が、自分の服を見直すことは稀だろう。

 いやそもそも、この女の言う通り歩いている最中に自分の服を見ようとはしないか。俺とて今自分が着ている服を、街中で再確認することは無かったのだから。灯台下暗し。近すぎて見えなく、見ようともしないのだろう。


「となると――自分の容姿も解って無いのか?」


 不意に直感。自分の服装すら解ってないこの女の事だ。自分の顔が身体が髪がどんなものか、果たして理解しているのだろうか。

 俺がその事を尋ねると――案の定、真っ青な顔で詰め寄ってくる。予感的中。


「……どゆこと? ボ、ボクってそんなに不細工な訳!? やだよ! そんなのやだからね、ボク!!」
「俺に抗議しても仕方あるまい」
「どうなの!? ボクって変なの!? ねぇねぇ!! 白夜ってばぁ!!」
「騒ぐな。襟首を掴むな。締め上げるな。苦しい……そこを真っ直ぐ行って曲がると洗面所だ。自分で見て来い」


 ぐいぐいぐい。これが女の細腕から生み出された力か。どうにも信じられん。しかしどうやら現実のようだ。目の前の女は、青ざめた顔付きで必死になって、俺の顔色を紫色にしようと奮闘中。このままでは男の絞殺死体が一つ出来上がってしまうのだが。

 目の前で、女の前髪が揺れる。俺の首を絞めるのに夢中になっている所為か、勢いよく揺れる。

 その揺れで――奴にも、自分の髪が少し見えたようだ。


「……なんかボクの髪の色、ちょっと変な気がするんだけど」
「だから洗面所に行けというに。それからいい加減襟首から手を離せ。心底苦しい」


 ようやく首の圧迫感から解放された。女は俺の襟首から手を離すなり、すぐさま洗面所に駆け込んでいく。がちゃがちゃ、ばたん。音だけで、どれだけ慌てているのかが容易に理解できる。

 そして洗面所に消えた記憶喪失女と入れ替わりの形で、師がリビングにやってくる。何故か白衣を着込んで――待て。よもや準備とはその格好のことではあるまいな、我が師よ。


「おい。準備が出来たぞ入って――白夜。あの娘は何処だ?」
「洗面所に行っている。何でも、自分の顔すら思い出せないらしい」
「何? おい、それは――――」

「わーーーーーーー!? 何だよこれーーーーーーーーーー!?」


 師の言葉を遮って、洗面所から言葉通りの絶叫が。

 耳鳴りがする。いくら3LDKとは言え今の絶叫を内包するには、いささか狭い室内であったか。白衣を纏った師も、五月蝿そうに耳を押さえている。ちなみに絶叫は最初の一声だけだが、今現在も洗面所から金切り声が聴こえている。心底喧しい。


「……近所迷惑な」


 迷惑そうな師の一声。それには俺も同意であった。少なくとも隣室の住民には確実に聴こえてしまっただろう。全く人騒がせな女だ。

 とは言え、あの女が絶叫した気持ちは理解できる。女の容姿は決して不細工なものでは無い。むしろ水準より上の容姿であった。短めに切られた髪には艶があり、顔の造形も整っていた――俗な言い方をすれば、美少女という顔。

 それでも、あれは驚いて当然と言える。何しろ滅多にお目に掛かれない『髪と眼』なのだから。





 実際、俺も最初は驚いた――――俺と同じ白髪赤眼、白子(アルビノ)の容姿なのだから。














 名前も知らないマンションのエレベーターに、ボクと白夜は二人きりで乗っている。白夜の話では、ボクは今日白夜の元で寝ることなったらしい。それで白夜の住んでいる二階に向かっている途中なのだ。や、どういう理屈でボクが白夜の所で一夜を過ごさなきゃならないのかさっぱり解らないんだけど。記憶喪失で家なき子の身でなければ声を大にして文句言っているところだよ。

 でも、正直言うと、今は寝床とかそんな事よりも大変な事態で……正直なところ、洗面所の鏡の前で驚愕してから、ずっとボクは茫然自失なのだ。

 いやもうホントにボクは現在とても驚いている。あまりに驚愕すぎたので、さっき美人さんがボクの身体を検査していた事を忘れそうになるくらい。いやまあ、検査と言っても胸部に聴診器当てて心臓の音測ってただけなんだけど。後、何故か服脱がされてボクのたまのお肌を舐め回すように見られた。妙に美人さんの眼つきが危険だったのは、気の所為だと思いたい。

 しかし、美人さんにそっちのケが有ろうが無かろうが、結局じろじろ見られていたような気も。

 何せボク自身、鏡の前で四苦八苦しながら自分の姿を凝視していたのだし。

 白夜とまるっきり同じの、白髪赤眼のこの容姿。


「はー……それにしても、ボクの外見があんなのだったとは」
「あんなの」
「あ、いや違うよ? キミの見た目が変って訳じゃないよ?」
「慰めはいらん。俺の容姿が日本人の水準から逸脱しているのは確かだからな」
「……それだとボクまで変ってことになっちゃうんだけど」


 いやもうホントに、この外見が変だとは思っていない。驚いたのはホントだけど、それ以上の感情は無い。大体、この容姿を変だと言うのなら白夜の容姿まで変と言うことになってしまう。同じ眼の色髪の色なのだから。

 でも自分の事はさて置いて――最初白夜を見たあの瞬間から、こんな日本人離れした髪も悪くない思っていた。だってホントに綺麗だったんだから。街中で視界に入った白髪赤眼のあの容姿は。だから、これは慰めでも何でもなくボクの純粋な感情なのだ。

 だって言うのに、隣の無愛想な美男子は胡散臭そうにボクを見てやがる。


「…………」
「ホントに違うんだって。ちょっと驚いただけだから」
「……まあ、どうでも良い事だ」
「む。キミ、少し悲観的過ぎるぞ。ボクが違うって言っているのに、どうしてそう曲解するんだよ」
「お前の台詞を信じろとでも?」
「なんだよ。信じられないのかよ?」


 失敬な奴だ。ボクのような年頃の女の子を信じることが出来ないとは。嘆かわしいったらありゃしない。

 頭にきたので白夜を睨んでみる――ああもう、全然駄目。眼を合わせただけで解る。この人疑いまくってるよ。


「……今日出会ったばかりの人間の全てを信じろという方が無理だ」
「べー。キミはホントに人付き合いが悪いな。そんなに疑ってばかりじゃ駄目だぞ」
「お前に言われる筋合いは無い」
「……ふんだ」


 ホント無愛想な奴だ。公園で垣間見た笑顔は、あんなにも綺麗だったのに。どうやら白夜の基本形態は今のような無口朴念仁らしい。おまけに気も利かないし、唐変木の素質もあるっぽい。これで見た目が美男子じゃなかったらもう駄目駄目だね。シリーズ人間のクズにノミネートされかねないよ。





 とか何とかやり取りしている間に、気がつくと白夜の部屋に到着。部屋の構造は、さっきの美人さんの所と同じ。それにしても、まあ綺麗で広いマンションですこと。一人暮らしで3LDKって一体どういう了見――美人さんはそうだったけど、白夜はどうなんだろう。


「そういやさ、一応聞くけどキミって一人暮らし?」


 凄く気になって聞いてみる。だって白夜が一人暮らしなのかそうでないのかによって、ボクの気の持ちようが変わる訳で。特に危機感も持たずにホイホイ付いて来ちゃったけど、我ながら迂闊でした。その辺もっと詳しく聞いておくべきだったよ。

 白夜はやけに小奇麗なリビングに立ったまま……いや、ホントに綺麗だねここ。一人暮らしじゃないのかな? こんなに綺麗だって事は誰かが掃除してくれてるって可能性があるからね。親とか、彼女とかが。

 とにかく、白夜はそんな綺麗なリビングに立ったまま、ボクに怪訝な視線を向けてくる。真っ赤な瞳と眼が合った。


「そうだが……何故そんなことを聞く?」
「何故って……あのなぁ、ボクは女の子だぞ? 男と一つ屋根の下で平気に寝泊りできるかい」
「嫌なら外で野宿だ」
「う」


 そう返されると何も言えない。そもそも今のボクは住所不明、年齢不明、おまけに無一文という社会的弱者。いや、弱者どころの騒ぎじゃない気もするけど。白夜は、その弱者に寝床を提供してくれている。この時点で、ボクが白夜に駄々をこねる資格なんて無い。

 でもボクだって花も恥らう乙女な訳だから、今日出会ったばかり男性と同じ場所で寝泊りというのはいささか抵抗感が。


「そ、そうじゃなくて、さっきの女の人の部屋で寝るって選択もあるだろうってこと!!」
「その文句は直接師に言え。俺とて抗議した。だが命令と言われれば仕方あるまい。師は俺の上司だからな」
「不甲斐ない奴だなぁ。男なら気合入れて命令違反の一つもしろってんだ」
「それは捨てる物の無い人間の台詞だ」


 ボクから視線を外して、白夜はそんな冷め切った単語をぶつけてくる。ふん、どうせボクには捨てるもんなんてありませんよーだ。何しろ記憶そのものが無いんだから。取捨選択すらできやしない。

 そんなこと、皮肉言われなくたって解ってるやい。




 でも、何故だが今の白夜の台詞は――皮肉だけとは思えなかった。

 今の台詞だけだったから。白夜が、視線を外して言ったのは。

 公園でも、美人さんの部屋でも、ちゃんと眼を向けて喋っていたのに。




「まあいいや……それでボクの寝るとこって何処?」
「そこの部屋を使え。布団は適当に自分で引っ張り出せ」
「へーい」


 言われるまま、白夜が指し示す部屋に入ってみる。空き部屋は六畳の和室で……おー、此処も綺麗だねぇ。いくら使って無い部屋とは言え、定期的に掃除しなきゃこうはならないと思う。だって埃も何も無いし。白夜は綺麗好きと判明。

 でもそれ以外に眼を惹くものも無いので、早速押入れを開けて布団を引っ張り出す。ずるずる、どさり。ボクの寝床完成。


「何だ、もう寝るのか?」
「寝るよ。疲れてるし……一応言っとくけど、ボクの部屋に入ってくるなよ」
「何時お前の部屋になった。ここは俺の住まいだぞ」
「何言ってるんだい。さっき美人さんの部屋で“住まわせてもらってる”とか言ってたじゃないか。キミの住まいって訳でも無いだろ」


 む、と低く唸るような声を出す白夜。ふふん、さっき自分で言ったんだからな。反論なんて出来やしないだろー。……まあ、だからと言ってボクが威張れる立場って訳でも無いんだけど。少なくとも現在のヒエラルキーでは、こんな家なき子なんて下座の更に下に位置しているだろうし。居候みたいなもんだし。肩身が狭いったらありゃしない。

 でも今はそんな事どうでもいい。低い身分で充分――とりあえず今は寝たい。


「それじゃオヤスミ……ホントに部屋に入ってくるなよ白夜」
「入らん。さっさと寝ろ」
「べー、だ」


 相も変わらず無愛想な白夜の顔を視界から消すため、和室の戸を勢いよく閉める。ぴしゃん、と音が鳴り無口朴念仁はボクの視界から完全にシャットアウト。これでよしと。

 戸の向こうで足音が遠ざかって行くのが解る。白夜も寝るのかな。まあ、もう夜だし白夜が寝たっておかしくないけど。

 ……どうでもいいや。ボクは今疲れているんだ。白夜の事なんてどうでもいい。

 ボクは前のめりに倒れて、ぼふー、っと布団の上に倒れこむ。


「布団だー……懐かしー……」


 ……なんか今、自分でもおかしな台詞を言った気がする。

 懐かしい? 懐かしいってどういうことだよ。ボクは布団を懐かしく感じる程長い間寝てなかったのか? それとも公園とかで野宿でもしていたのだろうか。

 いやいや、そんな筈は――無いと思う。多分ボクは記憶が無くなる前までは、ベッドの上で寝ていたんだろう。うん、きっとそう。

 ……まあ、この辺りは、今のボクの状況下では判断し難いんだけど。


「あー……どうしよ。服、シワになっちゃうかも」


 布団の上で考え事をしていたら、自分の服装がセーラー服だってことを思い出した。このまま寝るのはあんまり良くない。おまけにこのセーラー服黒いし。こんな格好で寝っ転がってちゃシワになるだけじゃなくて、埃までついちゃう。この布団は綺麗っぽいから大丈夫かもしれないけど。

 それにしても――現実感が湧かないなぁ。だって記憶喪失だよ。こんなの在り得ない。漫画やドラマじゃないんだし。ボクみたいな普通の女の子が記憶無くなりましたって、どういう了見だい。

 夢を見ている、そんな気がする。お酒とか呑んじゃって、酔っちゃって、眠っちゃって――それで、夢を見て。今の現実は現実じゃない。きっと夢の中の出来事で、ボクは記憶喪失になる夢を見ているだけで、


 そんな、淡い期待が思い浮かぶ。


 ……まあいいか。寝て起きてみれば分かるでしょ。これが夢なのか現実なのか。

 だから今は


「オヤスミ……名前も解んないボク……」
















「見事なまでの記憶喪失だ。あそこまで綺麗に忘れているのは珍しい。そうそう起きる事態じゃないんだがな」


 記憶喪失の女が寝に入ったのを確認して、俺は師の元へ再び足を運んでいた。あの女が居る前では師の見解を聞くこともできない。何しろ俺達が普段話す内容は――決して人の耳に入れて良い話ではない故に。

 そうして、再び三階に上がり師の部屋に舞い戻った俺にかけられたのは、あの女が記憶喪失なのだと肯定する言葉だった。


「狂言の可能性は無いのか?」
「無い。それは医師免許を持つ医者として言い切る。……まあ、脳は専門外だが」
「それでは駄目だろうが」
「そう言われてもな。ここでは充分な設備も無いから詳しく調べられん。後で〈癒ス者〉に連絡を取ってみるさ」
「それが良い。専門家に任せよう」


 師も俺も、人の容態を診るのは専門外だ。師とて医師免許はあるものの、脳神経外科は専門外だった筈。しかも記憶喪失となれば外科よりも精神科の領分かもしれない。ますます師の専門から離れていく。

 ならば此処は素人の生兵法に頼る場面ではない。我々の組織の医療職である〈癒ス者〉に任せるべきだ。俺達専門外の退魔師は大人しくあの娘を保護観察していればそれで良い――筈だと言うのに、師の顔は悩みに歪んでいた。


「しかし気になる」
「何がだ?」
「まず一つにあのセーラー服。あれはこの近辺の学校の物ではない。そうなると彼女は、遠方から此処に来ていることになる。それも財布も何も持たずに、だ」


 成る程。師の言葉を信じるならば、あの女は近隣の者では無いらしい。師はこの地域管轄の連絡員兼情報員な為、近辺の学校が指定している制服くらい頭に入っているだろう。そんな師が、あの娘の制服に見覚えが無いと言うならば、これはこの地域の学校の制服ではないと言うことだ。ならば遠くからこの街にやって来て、そして記憶を失ったということになる。

 だがそれはおかしい。このご時世、金が無ければ満足に移動も出来ない。バス、タクシー、電車、航空機。手段は多種多様だがそれを利用するには金が必要だ。それは皆同じ。政治家でも、平凡な一市民でも、俺達退魔師でも。

 だがあの女は――無一文だった。俺もマンションまでの道がてら、その事を聞いた。そして師も財布の有無を確かめた。これは疑う余地も無い。あの女は本当に素寒貧なのだ。

 ……どうやって来たのか……それを考えると、嫌な想像ばかりが脳裏に浮かぶ。年頃の女。記憶喪失。記憶喪失な主な原因は特定の出来事を忘れようとする自己防衛。女は此処ではない何処か遠くから来ている。

 碌な想像が思いつかない。


「しかし外傷が無い。もし外傷があれば、拉致誘拐の挙句に乱暴され、その出来事を意識から切り離し結果的に“記憶喪失”になったと説明がつくんだが……服も身体も、無傷だった」


 師の言葉を聞いて、少し安心している自分が居る。事態が好転している訳でも無いのに、俺も存外に楽観的らしい。

 とは言え楽観できる状況ではない。身体的に異常が無いとすれば、後の可能性は、


「ならば心因性のものか」
「かもしれん……いや、自分の容姿に戸惑っていた様子からすると、これは記憶喪失ではなく多重人格の類なのかもな」
「ん? どういうことだ? 記憶を失っているのだから、自分の容姿に驚いたとしても違和感は無いだろう」
「いや、それがあるのさ」


 薄い笑みが師の顔に浮かぶ。嘲りの色は無い。何故か楽しんでいるような――そんな微笑。

 その微笑の意図が解らぬまま、師は語りだす。


「そもそも記憶喪失とは健忘症のことを指す。それは一過性のもので、昔の出来事まではそうそう忘れない。特に肉体運動を伴った記憶の場合はな。あの子の年齢は十五、十六と言ったところだ。今までの人生で一体何回自分の顔を見たと思う?」
「……自分の顔を、そう多く見る機会があるのか?」
「それは男の意見だな。あの年頃の娘なら、毎朝毎晩鏡の前に立って肌の手入れをしているさ。現にあの子の肌は綺麗だった。手入れもせずにあんな肌理細やかな肌にはなれんよ」


 言われてみれば確かに、あの女の肌は綺麗であった気がする。女の容姿をジロジロ眺める性癖は無いので、あまり気に掛けなかったが、それでも整った容姿だったということは一見しただけで解った。

 これは何もあの女に限った事ではない。理屈や感情を抜きにして、美しいものは自然と網膜に焼き付いてしまう。

 それはどんなものでも。自然でも、人工物でも。

 見慣れた師の姿でも、解り合える事が無いと解っている真宮頼子でも。

 そして――――ああ、そうだ。綺麗なものは綺麗だと感じてしまう。例えそれが、持ってはならない感情だとしても。


「そのことから私が推測するに、あの娘は以前までの自分を完全に“剥離”したのだろう。感情、思考、記憶、あらゆるものを封じ込めて別人格を形成したとなれば、名前も容姿も忘れるさ。何せ、全くの別人なのだからな」
「別人? 別の顔という意味ではないのか?」
「別人だ。別の顔というのは、二面性、または分裂症が該当する。多重人格というのは元となった人格が投影した『何か』さ。例えば『父親』を投影して生まれた人格は、父性溢れる包容力のある男性として現れる。また『怒り』や『憎しみ』を投影した場合、それは凶暴で粗暴な男として――まあ、凶暴という単語は女性のイメージからは外れるからな」
「……結局は元の人格が想像したものなのだろう? ならば別人では無いのではないか?」
「いや、想像した時点でそれは別人だ。例えばお前が『私』を想像したら、出てくるものは『私』だけだろう。そこに『榊原白夜』という要素は存在しない……だがまあ確かに、元の人格と無関係と言う訳ではないがな」


 無関係ではない。逆に言えば、関係しているだけの他人と言うことか。Aと言う人物がBと言う人物を思い浮かべ、そのBと言う人物が別の人格として現れる。BはAが思い浮かべただけの他人。想像上の幻想。形の無いもの。無形の人。

 そんなものを思い浮かべる者の気が知れない。自分以外の何かが、自分の中に居座るなど狂気の沙汰だ。

 そんなことをすれば壊れていく。身体ではなく心が。

 ――――否、だからこそだ。だからこそ、


「多重人格症ならば、尚更心因性の可能性が高い。あれは基本的に、人格が形成しきってない幼少期、または情緒が不安定な思春期に起こりやすい障害だからな」


 心が壊れたから、新たな人格を必要とするのだ。元の人格Aが壊れる過程で、その人格の崩壊を食い止めるために新しい人格Bを急造する。一種のプレハブ小屋。Aの人格を休ませておくために、別の人格を表に出す必要がある。

 とんだ思い違いをしていた。自分以外の誰か。別人を据えなければならないほど精神が磨耗して初めて多重人格症が表れる。別の顔では駄目なのだ。別の顔でも、それは結局自分なのだから。自分以外の誰かを想像する必要がある。

 自分は傷付きたくない。自分は苦しみたくない。このままでは自分は壊れてしまう。自分ではこの痛みに耐えられない。



 だから――だから、別の『誰か』と交代しなければならない。



 ……そうして思い浮かべる。自分以外の『誰か』を。現状打破してくれるものを、救ってくれる存在を思い浮かべる。

 思い浮かべるものは人でなくても構わない。感情でも、自然でも、機械でも、刃物でも。それに対応した人格が生成されるだけだ。救いを求めて、思い浮かべたものを体現する人格が新たに生まれる。

 ――これは呪い。己にかける呪い。並みの精神状態では、そこまで思いつめることはできない。ましてや自分と言うものが形成される人間に、そこまでの思考は出来ない。しようと思って出来る事ではない。だからこその幼少期、そして思春期なのか。元々精神が不安定なその時期こそ、最高の温床となる。

 それならば辻褄は合う。あの女の歳は十五前後、まさに思春期の年齢。そして記憶が忘れているのは『何か』から逃げたかったから。元となった人格が崩壊の危機に瀕したため、何も知らない記憶喪失な人格が生まれたと。

 確かに辻褄は合っている。辻褄だけは、合っている。


「だが師よ、そうと決め付けるのは早計ではないのか? 情報が少ない現段階で、あの娘の病状を確定するのは危険だと思うのだが」
「分かっている。だから〈癒ス者〉に診て貰うのさ。今のは単なる推理にすぎない」


 やはりそうなるか。まあ師とて可能性の一つを挙げただけなのだろう。現段階では、それぐらいしか出来ない。


「……こういう時、水峰が居ないのは不運としか言えないな」
「確かに。未耶の『眼』ならば、簡単に解決出来る」


 未耶ならば、未耶がこの場に居たのなら――とうにあの女の素性は判明している。未耶の『眼』は人間が介在することができない、真の絶対的真理を見る瞳。まあ見えるものが真理なだけに、未耶にはそれを理解することは出来ないのだが。

 それでも記憶喪失の人間の身元など一瞬で判明する。もっとも未耶はその能力故、あらゆる地区から引っ張りだこだ。月の三分の一は此処を離れて退魔の仕事に駆り出されている。俺の階位が未耶に抜かれるのもそう遠くないな。


「とは言え、居ないものをねだっても仕方ない。未耶が帰ってくるまでの約二週間、私達があの子を保護するとしよう」
「そうだな。元々、あいつは俺の結界を無効化した程の異常者だ。どの道、保護観察することになる」
「そういえばそうだったな……白夜から見て、どんな感じだ? あの子の才能の程は?」
「まだ何とも言えん。何せ今日会ったばかりだからな……その事を探る意味も込めて、あの娘を俺の部屋に住まわせるのだろう?」
「その通り。餅は餅屋。私は〈詠ウ者〉の事なんて解らないからな」


 師は苦笑しながら、俺にあの娘の保護観察を一任する。こちらの反論など聞く耳持たずであろう。師は元々他人の意見を聞く人種では無いのだし、そもそも俺は師に反論できるような立場で無いのだから。


「ま、あの子の身元に関しては私も調べておく。白夜は様子を見ているだけでいいさ」
「……そうさせてもらう」


 そうするべき。俺は師と違い〈探ル者〉のような情報収集の術は無い。出来る事は、あの女の能力がどれ程の物であるかを、そしてあの女の力が暴走しないように見続けることだけ。


「じゃあ、そろそろ戻って寝ておけ。明日も学校はあるんだから」


 最後の最後に出た教師らしい台詞に見送られて、俺は師の部屋を後にする。ドアを閉めて外へ――視界に見える景色は、夜空以外何も無かった。

 マンションの廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。俺の階はすぐ下の二階。エレベーターは起動してすぐに停止する。既に到着。もう師の居る三階ではなく此処は二階である。

 ……正直な話、少し気が重い。部屋に戻れば、あの女が居る。元々一人暮らしには広すぎた住まいだ。誰かが居ても狭くなる訳ではないが、他人が居るという時点で気が滅入る。

 他人だ。自分以外の誰かが俺の部屋に居るのだ。これは億劫になる。しかも性別の違う女。男なら良いという訳ではないが、違うのなら良いものでもない。むしろ性別が違うと言うことは、一層他人になる訳で、一層自分から離れていく訳で、こちらとしては大変困る。どう扱ったらいいのか、どんな態度を取ればいいのか解らない。

 大体俺は――他人と接する事自体、今まで無縁だった。

 星天学園に通い始めてからだ。俺が誰かと会話するようになったのは。それまでは会話する必要すら無い環境であったし、何より――俺を含めた、俺の環境に居た人間の全てが榊原白夜と関わろうとしなかった。俺自身、自分の事に関心を向けなかったのだから。

 そんな人間が、今更どう人と接すればいいのか見当もつかない。

 こんな人間が、誰かと接して生きる姿なんて想像もつかない。

 俺は――――――



 ……何か、考え事に耽っている場合では無い気がする。現在地は俺の部屋の前。マンションの廊下でドアを開けようとした瞬間なのだが――部屋の内部から、何か匂いが漂ってくる。

 この匂いは、塩と胡椒とコンソメと――何だこの食欲を刺激するような匂いは。何でこんな匂いが俺の部屋から漂うのだ。


「まさか」


 まさかとは思うが、というより可能性は一つしか無いのだが、部屋に入って確かめてみる。

 行き先は一つ。ダイニングキッチン。この匂いが発生しているとなれば、おのずと目的地は其処になる。それ以外は考えられない。

 足を進めて、戸を開けて――辿り着いたその場所で、



「あ、何処行ってたんだよぉ。キミが居なかったから、調味料の場所とか分かんなくて大変だったんだからな」



 記憶喪失の女が、何か作業していた。セーラー服姿のままで。寝入った筈の女がキッチンで、ガスコンロに火を点けて、ジャージャーと音を立てて何かを炒めていた。


「……何をしている」
「何って、料理。お腹空いてたからさ。あ、キミも食べるだろ?」
「…………」


 女は言いながら、フライパンで炒めていた何かを皿の中に移す。炒めていた物は野菜。つまり野菜炒め。どうやら勝手に冷蔵庫の野菜室から拝借したらしい。昨日買ったキャベツも炒められた後であろう。さもありなん。

 本来なら文句の一つも言いたいところだが――あれだ。これだけ腹を空かせる匂いが発生している時は、食欲の方が優先されるらしい。何故だかあまり腹が立たない。

 それ以前に驚きの方が多い。そのもっともなのがキッチンで、使用された形跡はあるものの汚れてる印象は無い。それだけこの女が手際良く料理をしていたのだろう。


「上手いものだ――名前は忘れていても、調理法は覚えているようだな」
「うん。自分でもビックリしたよ。名前も年齢も住んでた場所も、なーんにも思い出せないのに、結構作れるもんなんだねぇ」
「師の話では、肉体運動を伴う記憶は忘れにくいのだそうだ。これだけ手際良く作れるのならば、それも納得いく」
「そういやあの美人さん……ええと……葉月麻莉菜さんだっけ? ずっと師とか言ってるけどキミの師匠さんなの?」
「いや、俺が勝手にそう呼んでいるだけの事。何かを師事してもらった訳ではない」
「ふーん、そうなんだ」


 俺の台詞を聞いているのかいないのか、曖昧な相槌を打ちながら勝手にジャーを開けてご飯をよそっている女が一人。今朝炊いたばかりなのでまだ三合近くの白米がジャーの中にあるから、別に食っても文句は言わないが……勝手知ったる他人の家、を地で行く女は初めて見た。いや、同級生の竜胆辺りも平気でしそうな行為だが。

 そうして女はご飯をよそい終える――何故か二つ。それで気付いた。野菜炒めの量がやけに多い。


「最初から二人前作っていたのか」
「そうだよ。だってキミもボクと同じで、夕方から何も食べてないだろ? 折角だから二人分作っちゃったよ」


 その言葉は正直ありがたい。いかに退魔師、いかな〈詠ウ者〉と言えど空腹は常にやって来るからだ。三大欲求とは人に課せられた試練、あるいは生涯の敵なのかも知れない。妖魔だの魔族だの、俺達組織が敵にしている連中よりも恐ろしい。何せ姿形が無く、人の内部に棲み付いて死ぬまで離れないのだから。


「悪いな。手間をかけさせて」
「い、いいってば。それにほら、今日は此処でお世話になる訳だからさ。その宿泊費みたいなものだよ」
「なるほど、それは然り。無料で寝床の用意してやる義理もないしな」
「……どうしてキミはそうやって、人の神経逆撫でにする事を言うのかなぁ」
「すまんな。これが地だ」


 本当にこの性格をどうにかするのは俺の兼ねてからの目標であったりする。実際、師にも、あの真宮頼子にでさえもう少し擬態できるようになれと言われてるくらいだ。人付き合い――俺にとっての難敵はそれだ。


「――ところでお前のこれからの処遇だが」
「いいよいいよ! ……それは後にして、さきにご飯食べちゃおうよ。ボクはもうお腹が減って、難しい話聞く余裕無いよー」
「あ、ああ……そうだな」


 確かに。話は食事を終えた後でも出来る。それよりも料理が冷めない内に美味しく頂いてしまおう。



 ただ――――女は、明らかに俺の言葉を遮った。

 さきに食事を済ませたいといったのは、ただの方便であっただろう。

 聞きたくないという拒絶の識が、確かに感じられたのだから。














 眠くなった。お腹が減った。それが、ボクにとって残酷な現実だった。


 ボクは楽観視してた。ボクは気楽に考えていた。ボクは記憶喪失の自分を認めていなかった。

 これは全部夢なんだって、そう思っていた。これは現実じゃないって、そう考えていた。

 ……だってボク、自分の事が解らない。名前も、年齢も、住所も、家族の事も――ううん、家族が居るかどうかすら解らない。

 解っているのは、何も解らないってことだけ。自分の事が解らないって事だけが解ってる。

 ……そんなの自分じゃない。自分の事が解らない自分なんて、自分じゃない。


 だから、こんなのは夢なんだって、そう思っていた。

 自分の事が解らないなんて。そんなことある訳無いって、さっきまでずっとそう思っていた。


 ……でも自覚する羽目になった。ボクが眠くなったから。ボクのお腹が減ったから。

 夢ならば、眠くなんてならない。お腹なんて減らない。夢に、そんな現実がある訳ない。

 夢にあるのは都合の良い世界だけで。ボクの記憶が無くなるなんて、そんな事は在り得ない。

 なら、実際に記憶の無い今のボクは一体何なんだろうって。


 これが現実。眠くなって、お腹が減って。そんな身体の機能は変わらず身に付いているのに――記憶だけが無いんだ。


 ……それで気が付いたら料理を作ってた。人様の冷蔵庫勝手に開けて、勝手にキッチン占領して。眠かったけど、無理矢理身体を起こして勢いに任せて野菜炒めてた。

 だって怖かったんだ。眠いっていうこの衝動。お腹が空いたっていうこの欲求。人間誰しもが持っている筈の感情。

 もしかしたら――そんな当たり前の感情すら忘れちゃうんじゃないかって――そう思う自分が居たんだ。

 だから、起きた。眠いって感情が消えないように、眠い体のまま台所に行った。

 だから、作った。食欲って欲求が無くならないように、食欲を刺激する料理を作った。


 料理の仕方を覚えていたことに少し驚いたけど、それすら恐怖の対象になる。

 こんな簡単な野菜炒めの作り方さえ、いつか忘れるんじゃないかって。


 ……今、目の前で、白夜がボクの作った野菜炒めを食べている。

 ……何で彼の分まで作ったのか、よく思い出せない。自分自身、本当に食べたくて作った訳じゃ無いんだから。

 ……それなのに、出来た野菜炒めは何故か二人分で。明らかにボク以外の人の分まで作ってあって。

 ……こうやって、ボクは自分の考えすら解んなくなっていくんだろうか。自分の行動を説明できない、そんな変なボクになっていくのか。

 ……それは、怖い。ホントに怖い。記憶が消えている事より怖い未来だ。

 ……神様に祈る人の気持ちが、ほんの少しだけ解った気がする。だって今のボクは、神様に祈りたくなってるから。

 ……真摯に。それでいて身勝手に。神様に祈る。





 願わくば、明日のボクが、今日のボクでありますように――――――――と。





to be next


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