第56話「ドラゴン・サン」
二百五階へと赴く前に村長は腰を伸ばし、ぼきぼきと骨を鳴らした。エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンは軽く伸脚をしている。村長を先頭に階段を昇っていく。担々麺の臭いのせいか、村長の腹の虫が聞こえる。エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンもぐびりと唾液を飲み込む。思えば、朝から何も口にしていない。コリン塔のふもとに着いたのが昼頃、さらに、階段を昇り始めてから数時間が経っいるはずだった。
「開けるぞい」
二百五階の入り口にはドアがあった。村長が慎重にドアを押し開けた。
「からんからん」
ドアの上部に付いていた鈴の音が店内に響いた。
「らっしゃい!」
威勢のいい声がカウンターから飛んだ。
「二名様で?」
「そうじゃ」
二人はカウンター席に並んで座った。
「ご注文は?」
「担々麺」
「担々麺」
「へい!担々麺二丁!」
店内には三人以外誰もいないが、店主は声を張り上げている。
注文を受け、店主は麺をヌードルセッターに投げ入れた。これで自動的に茹で上がる。湯切りまでオートメイションである。
エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンはまじまじと店主の顔を見つめた。どこかで見た顔だ。記憶の糸を辿っている。一方、村長は舌なめずりするばかりである。
〈思い出した!内Pだ!内村プロデュースだ!〉
エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンの口が動いた。
「おい、お前パラシュート部隊の斎藤だろ」
「パラシュート部隊・・・?」
突然のエリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンの指摘に村長が聞き返した。
「お笑い芸人がこんなとこで何やってんだよ」
「急にどうしたんです?もうすぐ担々麺できますよ」
店主が平静を装って答える。
「本業はどうした」
「・・・」
「質問に答えられないのか?」
エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンの手が腰の斧に伸びた。
「仕事入らなくて・・・」
店主はいよいよ観念した。
「もともと仕事なんかなかったろう。バイトなんかしてる場合かよ」
「へい、担々麺」
どんぶりを二人の前に置いた。村長は待ってましたとばかりにがっついた。
「うまい!」
「ありがとうございます」
「それで、お笑いはもう辞めたのか?」
「いえ、やってはいますが、収入が足りなくて・・・」
「なら、お笑いをもっと頑張れよ」
「でも、結婚しちゃって子供も産まれるし・・・」
言い終わる前に斎藤は泣き出した。パラシュート部隊が最も売れていた時期のネタである。
「ふん、つまんねぇな!だから売れねぇんだよ!」
エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンは席を立った。村長はそれを見て麺を急いでかきこんだ。エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンはついに担々麺を一つも口にしなかった。
(この担々麺専門店『タツの子』は『春日部ウォーカー別冊(岩波新書 ドサール・ケント著)』に掲載された)
村長は満腹になって満足そうだが、エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンは全くの空腹である。持ってきた食糧といえば、フリスクのみである。如何ともしがたく、エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンはフリスクを頬張った。それでも空腹は収まらない。
「村長、何か食い物ないか?」
「食い物?さっき担々麺食ったばかりじゃろ」
「食ったのは村長だけじゃじゃないか。あたしは食ってない」
「そりゃお主の勝手じゃろう。痩せ我慢せずに食えばいい」
確かに村長の言う通りである。エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンは残りのフリスクを口に入れた。それでも、エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンの腹は満たされない。
「腹減った。何かない?」
「仕方がないのう。これはとっておきじゃ」
そう言うと、村長は小汚い巾着を放って寄越した。
「何だよ、これ」
巾着を引っくり返すと、小さな錠剤みたいのが出てきた。
「これって・・・」
「フリスクじゃ」
それから三百二十五階に到達するまで、二人の会話は途絶えた。
「のう、今日はこれくらいで休まんか」
「そうだな」
二人とも、随分前から疲労の極地にあったのだが、数時間にも及ぶ沈黙で口を開きづらくなっていた。年上の村長が折れた形だ。もっとも、村長が折れない限り、沈黙は永久に続くだろう。
一日に三百階を踏破した六十歳は、すぐに眠りに落ちた。エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンはこの空腹を鎮めない限り眠れない。そこで、先程のフリスクを出した。村長のと自分のを合わせると、結構な量である。
それを斧の柄で砕いて粉にする。酒を混ぜて練る。できたものを十分間寝かせる。斧をフライパンがわりにして狐色になるまで焼く。パン・デ・フリスクの完成である。
エリザベータ・アンゲルトリューテン・ウォンチョンはこれをしこたま食ってから、ぐっすりと寝た。