武蔵野日記 第1回 98.03
JG3HAT 小田 真
先日、本棚を整理していると、JA3YSTアマチュア無線尼崎クラブの創立30周年記念号が見当たり、思わず整理の手を止めて読んだ。現在33歳の私が、同クラブに入会したのは1979年15歳の時である。18年間という私の今までの人生の半分以上をYSTとともに過ごしてきたことになり、記念号に書かれているYSTの歴史の大半は、まさに私の10代のころからの歴史とピタリと重なる。
1985年、私が同クラブの書記長として20周年記念号の編集を担当したが、その際に、尼崎の変貌を振り返り、「十数年の間に尼崎の街はすっかり変わった。そして私自身も変わった。同様に尼崎クラブも20年の間に大きく変化をとげてきたに相違ない。 --中略-- 尼崎クラブが30周年を祝う時、今現在の我々の活動もすべて"歴史上の出来事"となっているであろう。」と書いた。まさに当時はそう思ったのである。
しかし、あれから13年近くが経過した現在、確かにメンバーは大幅に入れ替わったが、クラブの本質は全く変わっていないとの感を深くする。入会以来一度も欠席したことのないフィールドデーは、相変わらずビールと焼肉パーティーでコンテストより盛り上がり、最近回数を多くした飲み会は、十数年前ごろ毎年有馬で行っていた「忘年度会」そのままのノリで行われている。我が姉妹クラブである、アマチュア無線アウグスブルククラブのクノーレ元会長来日を含む1986年度の主な行事をJA3PHZ松谷潤一会長(当時)が撮影されたビデオを見ると、「忘年度会」には、永田夫妻、平目氏ら、市民マラソンには宮崎夫妻、石田氏や屋田現会長、前川現書記長らが今とほとんど変わらぬ姿で写っている。
9年におよぶ東京の生活に疲れてふと郷里--尼崎に思いをはせるとき、立花駅前の喧噪や実家のある、いかにも労働者の街といった雰囲気の水堂町と並んで、尼崎クラブの行事が思い浮かぶ。バブル崩壊や阪神大震災を経て、尼崎の街は大きな変貌をとげた。だが、久しぶりに訪ねても、昔と変わらぬ、張り詰めていた心が溶解するような雰囲気で迎えてくれる尼崎クラブは私にとって、そしてすべての会員諸氏にとってもかけがえのないものなのであろう。
屋田会長が指摘されるように、他のJARL登録クラブが低調な中、YSTは昔と変わらず、いや昔よりも活況を呈しているが、その理由はこんなYST固有の雰囲気にあるのだろう。わがクラブが末永く、我々にとっての「心の故郷」であり続けるよう祈りたい。
(おだ まこと、元副会長)